第70話 「精霊の泉に咲く花、私これ食べたことあります。」
第70話 精霊の泉に咲く花、私これ食べたことあります。
甘い香りを追って、夜の森を進む。
クンクン。こっち。
間違いない。
ファル:「唯さん、待ってください!」
後ろからファルが追いかけてくる。
ファル:「本当にこちらなんですか?」
唯:「うん。匂いがどんどん強くなってる」
ファル:「私には何も……」
唯:「え?」
立ち止まって振り返る。
ファルも鼻を動かしてみるけど、首を傾げるだけ。
ファル:「森の匂いしかしません」
唯:「こんなに甘いのに?」
ファル:「……まったく分かりません」
変なの。でも、私の鼻にははっきり届いている。
甘くて、懐かしい香り。
もっと奥から――私を呼んでいるみたいに。
唯:「こっち!」
ファル:「あっ、唯さん!」
再び走り出す。月明かりも届かないほど木々が密集した森。
枝をかき分け、木の根を越える。
やがて――。
ファル:「……ここ?」
ファルが困惑した声を漏らした。
目の前にあるのは、何の変哲もない森だった。
太い木が一本。
その周りを低い茂みが囲んでいる。
ファル:「ここなら今日も調べました」
唯:「今日?」
ファル:「はい。何度も通っています」
私も見覚えがある。
確かに昼間、ここを通った。
でも。クンクン。
(……この先だ)
どう見ても木と茂みしかないのに、香りは真正面から漂ってくる。
唯:「ちょっと行ってみる」
ファル:「え? ですが、その先は――」
一歩。踏み込んだ。
その瞬間――。
景色が、揺れた。
唯:「……え?」
水面に指を入れたみたいに、目の前の森がゆらりと歪む。
もう一歩。世界が変わった。
◇
唯:「……わぁ」
思わず声が漏れた。
そこに広がっていたのは――泉だった。
森にぽっかりと開いた、小さな空間。
頭上だけ木々が途切れ、夜空に浮かぶ大きな月が見えている。
その月明かりが、真っ直ぐ泉へ降り注いでいた。
水は驚くほど澄んでいる。
岸辺からでも底の白い石が一つ一つ見えるほどで、水面には夜空と丸い月がそのまま映り込んでいた。
どっちが空で、どっちが水なのか。
一瞬、分からなくなる。
風はほとんどない。
静かな水面の上を、青や緑、白の小さな光がふわふわと漂っている。
(……なに、あれ?)
一つが私の前まで飛んできた。
光の中に、小さな人みたいな姿が見える。
背中には透き通った羽。
(精霊……?)
一つ。二つ。
気づけば何十もの光が泉の周りを舞っていた。
その光が水面に映るたび、星が泉の中へ落ちていく。
ファル:「…………」
隣を見る。ファルは目を大きく見開いたまま、動かなかった。
ファル:「ここ……」
震える声が落ちる。
ファル:「まさか……《精霊の泉》……?」
何日も探した場所。
今日だって朝から日が沈むまで探し回った。
それなのに見つけられなかった場所が――。
ずっとそこにあった。
唯:「なんで今まで見つからなかったんだろ?」
ファル:「分かりません……。私も、この辺りは何度も……」
ファルにも分からないらしい。
だけど。今は、それより――。
唯:「……あ」
甘い。さっきまでとは比べものにならないほど、濃い香り。
泉の中央を見る。
月を映した水面に、小さな島が浮かんでいた。
人が数人立てるくらいの、本当に小さな島。
柔らかな草に覆われたその中央に――。
一輪だけ。花が咲いている。
白い花弁。月明かりを受けた縁が、淡い銀色に輝いている。
花の中心には、透明な蜜が溜まっていた。
風もないのに花弁がわずかに揺れ、そのたびに甘い香りが漂ってくる。
初めて来た場所。初めて見る泉。
なのに。**あの花だけは、知っている。**
まだ私が小さなコウモリだったころ。
暗い洞窟の中。
お腹を空かせて、何が食べられるのかも分からなかった私が見つけた花。
唯:「……《月蜜華》」
ファル:「ご存じなんですか?」
唯:「うん。昔、食べたことある」
ファル:「食べた!?」
ファルがすごい勢いでこっちを見た。
唯:「蜜だよ!? 花は食べてないよ!」
ファル:「そ、そういう問題でしょうか……?」
そういう問題だよ!……たぶん。
でも。懐かしいなぁ。
あれ、美味しかったんだよね。
私は泉へ足を踏み入れた。
ファル:「唯さん!?」
唯:「ちょっと行ってくる」
水は冷たい。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
一歩進むたび、周りの小さな精霊たちが集まってくる。
足元。肩。頭の上。
唯:「キャピ?」
なんでこんなに寄ってくるの?
やがて小島へ辿り着く。
目の前に《月蜜華》。
近づくほど、甘い香りが強くなる。
花の中央には、月明かりを閉じ込めたみたいな蜜。
(……一口くらい、いいよね?)
ファル:「唯さん、待ってください! 何が起こるか分かりません!」
唯:「大丈夫、大丈夫。前にも飲んでるから」
ファル:「それは大丈夫の根拠になりません!」
私は花へ顔を近づけた。
唯:「この蜜、おいしいんだよね」
ぺろっ。蜜を舐め取る。
甘い。これこれ!
懐かしい味が口いっぱいに広がった――。
その瞬間。ドクンッ。
唯:「……え?」
心臓が大きく跳ねた。
月蜜華が光る。
泉が光る。
私の身体まで――白銀の光に包まれた。
ファル:「唯!」
頭の中に、聞き慣れた声が響く。
《特殊因子の活性化を確認》
《月因子との高い親和性を確認》
唯:「えっ、ちょっ――」
ドクンッ!身体の奥から、何かが溢れてくる。
熱くない。痛くもない。
むしろ――懐かしい。
ずっと遠くにあった何かが、私を見つけたような。
《月因子が急速に活性化しています》
《月因子:27%》
《28%……31%……35%……》
唯:「上がってる!?」
止まらない。
《39%……43%……》
月明かりが私へ集まってくる。
泉に映っていた月さえ、私の足元から身体へ吸い込まれていくように見えた。
《月因子:47%》
《活性化が安定しました》
――光が弾けた。その直後。
精霊王:「なんの騒ぎだ!」
泉の奥から声が響いた。
精霊たちが一斉に道を開く。
現れた何者かが、光に包まれた私を見て――。
精霊王:「…………」 固まった。
精霊王:「……おぉ」
唯:「え?」
その視線が、私ではなく。
私を包む月の光へ向けられる。
精霊王:「この気配……」
驚愕に見開かれた瞳が、ゆっくり私へ戻った。
精霊王:「まさか……地上に――」
そこで言葉が途切れた。
私は自分の身体を見る。
特に変わってない。
でも。
唯:「……私、また何かやっちゃった?」
ファル:「たぶん……ものすごく」
唯:「キャピ……」
第70話 精霊の泉に咲く花、私これ食べたことあります。 完




