第24話 躍動する音
足を踏み入れた部屋がどういう部屋なのか、私にはすぐに分かった。
「防音室……」
小学校の時に通っていたピアノ教室の部屋と同じような防音パネルが、おおよそ二十畳くらいの部屋の壁一面に施されていた。
窓があるという所以外、ピアノ教室と同じだと言っていいだろう。
恐らく完全防音を意図したものでは無く、普通の部屋を後から防音仕様に改造した感じだ。
従って、大きな音を立てれば多少の音漏れはするだろう。
「母がピアノをやっていてね」
短い説明をして唄子は私をピアノの前に導いた。
「ピアノ、弾けるでしょ」
一度だけ唄子の前で、と言うか、クラス全員の前で私はピアノを弾いたことがある。
丁度合唱の練習をしていた時期に音楽の先生が病欠で休んでしまい、担任の柴田が代わりを務めたのだが、残念なことに先生の音楽センスはゼロだった。そして結局、生徒たちの中からピアノの伴奏を出来る者を募ったのだ。
勿論目立たないよう生きている私は手を上げたりしない。
しかし、小学校のとき同じクラスだった女の子がサッと手を上げたのだ。
「せんせー、志藤さん、小学校の時ピアノ弾いてましたー」
余計なこと言うんじゃないわよ!
心の中で抗議して眼球の奥で睨んでやったが、彼女はまるで良い行いをしたかのように、私の背中を押してきた。
「おお、志藤、助かる。みんな拍手」
だから注目されたくないんだって。
無責任な担任とクラスメートにもてはやされて、私は仕方なく一年以上も触れていなかった鍵盤に指を置いたのだった。
そうゆう経緯もあって、唄子は私がピアノを弾けることを知っている。
「それで、何をさせたいわけ?」
何だか高そうなグランドピアノの前に座らされ、私は投げやりに質問した。
「聴きたいの。あの学校で彩夏が弾いてたやつを」
「合唱の曲? 『大切なもの』ね」
「できたらピアノを弾きながら、歌ってくれない?」
「ちょっと、ハードル上げないでよ。わたし歌ヘタッピだし」
私は鍵盤に指を掛け、取り敢えずは歌は無しで頭に入っている合唱の曲を弾き始めた。
大して自分が上手くはないのは分かっている。
こんな高級そうなグランドピアノに、なんだか申し訳ないと思いつつ、間違えないよう気を付けながら曲を弾いていく。
唄子は私の肩に手を置いて、ピアノの音を聴いている。
思えば、合唱の練習で唄子は一度も声を出していない。
クラスメートたちが大きく口を開けて合唱の練習をする中、唄子はただ私の隣で静かに前を向いていた。
私と肩が触れていたことで、唄子にはすべてが聴こえていたのにだ。
どんな思いで、君は音楽の時間を過ごしていたのだろうか。
小さな感傷が心に浮かんだ時だった。
「あれから いくつもの季節こえて 時を過ごし それでも あの思いを ずっと忘れることはない」
伸びやかで良く通る美しい声。
それは私の肩に手を置いていた唄子の口から発せられたものだった。
歌い出した唄子に驚きつつ、私は鍵盤を指でなぞり続ける。
「大切なものに 気付かない僕がいた いま 胸の中にある あたたかいこの気持ち」
曲は間奏に入り、私はそのまま指を動かし続ける。
ああ、そうだったのか。
今、唄子の気持ちがようやく分かった。
劣等感でもなく嫉妬でもない。唄子は純粋に声を出して歌いたかったのだ。
伸びやかに、そして自由に、唄子は私の下手くそな伴奏で、その歌声を解放した。
そして、私もピアノを弾きながら共に歌い始める。
くじけそうな時は 涙をこらえて
あの日 歌っていた歌を思い出す
がんばれ 負けないで そんな声が聞こえてくる
ほんとに 強い気持ち やさしさを教えてくれた
いつか会えたなら ありがとうって言いたい
遠く離れてる君に がんばる ぼくがいると
大切なものに 気づかないぼくがいた
ひとりきりじゃないこと 君が教えてくれた
大切なものを
たった二人の合唱は、独特な余韻を残して終わってしまった。
本当の自分を解放した唄子に手を引かれるように、私もピアノを弾き、歌いきった。
音楽の授業では決して味わうことの出来なかった充実感が、私を満たしている。
言葉では言い表せない程の強烈な体験だった。
「唄子……」
振り返ると、唄子は私の肩に手を置いたまま、ポロポロと涙を流していた。
「ありがとう」
ただ一言を言って、唄子は嗚咽を漏らす。
「また、一緒に歌おうよ」
私がそう言うと、唄子は泣き顔のまま笑って見せた。




