始動 前編
ヴィンセントとの狙撃戦はもっとも避けるべき手段だったが、こうなっては仕方がない。俺は手鏡をしまい、深呼吸した。距離は五百メートルほど。だが、あの屋上にはテーブルや棚などの障害物が多い。一撃で確実に決めるには、対象と直線に近い地点へ移動しなくては。
ヴィンセントにこちらの位置が知られていないのは大きかった。すでに発見されていると思っていたが、彼は東にいた伏兵を俺だと思い込んでいた。この優位な状況を活かすには、とにかく位置を悟られてはならない、気配でさえも。耳に音が届くほど、心臓の鼓動は早鐘を打っていた。
俺は内部構造に影響しないよう注意しながら、銃に雪を可能な限りかけた。すでに白い塗装は施されているが、少しでも自然に見えなければ意味はない。一部に張っていた雪解け水が俺の顔を反射し、真っ白なフェイスペイントを映し出していた。これが死に化粧になって欲しくはないものだ。銃を背負い、俺はこの安全地帯を出るため、窪地の縁にそっと右手をかける。もし位置を割り出されていたら、この手はいまに吹き飛ばされるだろう。
しかし、右手は俺の身体から離れなかった。雪でくるんだ手鏡を窪地の反対の縁に置いた後、焦らず、確実に外へと出ていく。あれほど大声をあげていたヴィンセントは黙りこくっていた。窪地から出たところで、顔を動かさずに目線だけを上にやるが、スコープの反射光も、死を告げるマズルフラッシュも見えない。俺は針葉樹林のあいだを、亀よりも遅く南下していく。
ヴィンセントも、スコープという丸く抜き取られた孤独の世界で俺を待っていた。過去にどれほどの戦果をあげたのか、と一度だけ訊いたことがあったが、適当にはぐらかされてしまったのを覚えている。戦いに生き甲斐を見出し、俺よりもずっと長く戦場に身を置いている男の心情を察するには、俺はいまもなお幼い。これまでに、どれほどの屍を見てきたのだろうか。どれほどの血と鉄の臭いを嗅いできたのだろう。
孤児院を経営しているという彼の行動は、理解できないわけではなかった。戦っている時間の長さに比例して、兵士は精神を病んでいく。昔ながらの肉弾戦と、兵器を使った現在戦が入り混じった革命戦争だけをとっても、多くの患者が生まれていた。だからこそ、ヴィンセントが自身の心の拠り所として孤児の世話をし始めたというのは、現実味を帯びていた。
一段と強い風が吹き、近くに生えていた針葉樹の枝から雪が落ちた。ヴィンセントは間違いなくこちらを観察している。彼は標的ではなく、自然の変化を読み取ることをなにより重視している。風向き、地面を舞う砂塵、雨音、この世において不変の現象と照らし合わせれば、人間ごときの偽装など、たちまち浮かび上がってきてしまう。自然の一部となれ。俺は自分に言い訊かせた。いま動けば、確実に殺される。
木々の擦れる音と、風が吹き抜ける音が辺りを駆け抜けた。吐息も訊かれない気持ちで、じっと息を潜める。
北で銃撃音がしたかと思うと、さきほど雪が落ちた針葉樹に当たった。被弾した細い針葉樹は、乾いた軋む音を一瞬だけ立てたかと思うと、後方に吹き飛ばされた。いまので照準を調整したのだろう。
轟音を訊いて動きそうになる身体を、本能が必死で押さえつけた。精神の波は、肉体にも波及する。その仕草を悟られてはいけない。
相変わらず、ヴィンセントの声は訊こえてこない。つぎに声が訊けるのは、俺か、あいつが死ぬときだ。
射角を確保するため、俺はヴィンセントから八百メートルほどの地点まで遠ざかっていた。かれこれ二時間以上は経っているだろう。迷彩の偽装効果に、俺は心から感謝した。遠くなれば、弾の命中率は下がるが、発見される可能性も低くなる。
周囲は相変わらず雪と土が入り乱れていて、その複雑さが天然の迷彩となって俺を助けてくれた。ここに入ったばかりのときと違って、いまは居心地がよかった。生きている人間よりもずっとこの世界を、戦争を見続けてきた母なる自然は、俺を受け入れてくれたのだろうか。もしそうなら、頼むからあと少しだけ、機嫌を損ねないでくれ。これは、この周囲に生えた針葉樹林よりもはるか昔から存在する“弱肉強食”というルールを体現しているのだから。
整備された道が四メートルほどさきにあった。これ以上進めば、即座に発見され、奴の銃弾が俺の頭を吹き飛ばすだろう。俺は止まり、ヴィンセントから見て北北西に陣取った。気が遠くなるような遅い手つきで、脇にぶら下げていた対物ライフルまで右手を持っていく。奴を殺せる位置にいるが、それはあいつも同じだ。一発。もしくは二発で勝負が決まる。
肉眼で見るヴィンセントは、銃身を左右に動かしながら、まだ周囲を捜索していた。銃を取り出せば、それが大きな目印になってしまう。一瞬でも気を逸らさせるための囮が必要となる。
それが手鏡だ。
ヴィンセントのスコープが一瞬反射したかと思うと、俺から西の方を向いた。手鏡を覆っていた雪が日光によって溶け、鏡の部分が光を反射したのだ。
俺は隠密性などお構いなしに、銃を素早い動作で正面に構えた。俺の銃のスコープの反射光に気づいたのか、ヴィンセントの銃がすぐにこちらを向いた。だが、これで状況は五分だ。
スコープ越しに、俺たちは互いの顔を見る。十年ぶりに、俺たちは正面から向かい合った。口角の側には多くの皺が刻まれていていた。肝心の口は、笑っていた。
銃声は一度しかならなかった。俺の銃のさきにつけた消音器のせいではない。発砲は同時だった。左耳に、弾丸が空を裂く音が訊こえる。顔の左の頬に痛みが走ったので指で触れると、血が付いており、俺の全身を覆っていた迷彩服の一部が派手にちぎれていたことに気づく。
俺の放った五十口径は、ヴィンセントの左腕を吹き飛ばした。椅子とともに、地面へと落ちていく彼の姿を、スコープ越しに見ていた。互いに撃ち合った回数は一回だけ。だが、そこに至るまでの時間が、まるで数十時間のように感じる。俺は大きく息を吸い込み、身体に蓄積していた疲労を発散するような勢いではき出した。
狙撃銃を背中に戻すと、窪地に置いてきた手鏡を回収し、慎重に孤児院へと向かった。まだヴィンセントは死んでいない。それに、訊きたいこともある。
リボルバーを手にする俺の姿を見ても、黒服の男たちは攻撃する意思を見せなかった。それが投降を意味しているのか、ヴィンセントの指示を忠実に守っていることの表れなのかはわからない。再び車椅子に座っていたヴィンセントは、虚ろな目で俺を見つめていた。左の肩には応急処置が施されている。
「いい迷彩服だ」
開口一番、彼は俺のまとっている迷彩服を褒めた。
「俺たちの世代にはなかったものだ」
「ああ。私も欲しいな」
ヴィンセントは笑う。
「距離、風向きの観測、撃ち下ろしの角度、必要なものはどれも正確に計算したつもりだったが……コリオリにでも見捨てられたか。私に訊きたいことがあるのだろう?」
俺はリボルバーをホルスターにしまった。
「あの伏兵は、お前の味方ではないのか?」
「違う。むしろ、お前の部下だと思っていたくらいだ」
「ミレイユという女性に心当たりは?」
「ない。あの伏兵の名か?」
「まだわからないが、その可能性がある」
つまり、あの伏兵は、政府側でも、反政府勢力側でもない、まったく別の勢力ということか。俺は、厳重なプロテクターを装着したヴィンセントの左足を見た。
「金曜日、お前は俺の狙撃を受けた。そして、停電の最中、反撃してきた」
ヴィンセントは怪訝そうな表情で
「反撃などしていない。左のふくらはぎを吹き飛ばされた時点で、私は一時、移動も困難だった。銃は緊急時に備えて隠してあったが、あの暗闇ではたどり着けない。パニックになった客もいたことだしな」
停電させたのは、ヴィンセントの策略ではないというのか。
「あの停電は、俺が狙撃しようとした直前に発生した。あれは計画になかった」
「私たちでもない」
では、誰がなんのために停電を起こしたのだろう。
もしかすると、ヴィンセントの身を守ることを目的としていたのかもしれない。それなら攻撃されたのもうなづける。ヴィンセントが伏兵の存在を知らなかったのなら、誰かが密かに彼に護衛をつけたのだ。ヴィンセントを五つ子だと知っている者は限られる。
「お前がいちばん訊きたいことは、ほかにあるだろう?」
彼は俺の思考を見透かしているかのように、つぎに問いたかった質問を促した。
「今回のラスト・コート作戦。お前はなにを知っている」
「すべてだ。お前が金曜日の十六時に、私の家から南にある丘に陣取って、狙撃しようとしたこと。失敗すれば、孤児院で待ち伏せ。それもダメだったら、私の家を直接狙うんだったか?」
俺はその場に立ち尽くしていた。
「お前が営倉にぶち込んだセレーヌ・アデライードは、スパイではない。だからこそ、フスレでお前が博士と通信で話した内容が、こちらにも筒抜けなのだ」
こうなれば、ヴィンセントから情報を訊けるだけ訊きだすしかない。
「では、いったい誰がスパイだと?」
「走っている最中、人は前を見ている。足元には目もくれない。木の葉を隠すなら森の中とは、よく言ったものだ。確かに、その通りだ……」
「誰なんだ!」
ヴィンセントは、俺を指差した。
「お前だよ」
想像だにしなかった結果を目の当たりにした途端、全身から血の気が抜けていくような感覚が俺を襲った。頭の思考が、音を立てて崩れ落ちていく。
「ラスト・コート作戦で反政府勢力に情報を送っていたのは、ほかの誰でもない。ロイ・トルステン少佐、お前なんだ」
「……わかるように説明してくれ」
「正確には、スパイにさせられていた。ということだ」
ヴィンセントの身体がふらついた。失血による失神までの時間は、もうあまり残されていない。俺はとっさに彼の肩をつかんだ。
「お前の胸についているバッジを貸してくれ」
俺はバッジを胸から外し、彼の右手に載せた。ヴィンセントは手すりにバッジを載せたかと思うと、懐にあった拳銃を取り出すと、銃身をつかみ、銃床を振り下ろして思い切り叩き割った。突然の行動に困惑している俺に、ヴィンセントは破片の一部をつまんで見せる。
「これが証拠だ」
小さな赤いランプが点灯している――それは録音機だった。




