戦士に慈悲を
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「敵でも味方でも区別なく、戦った者に敬意を表すことは、間違っているのでしょうか?」
私は、自分の少し後ろにいるロイさんに問いかける。私自身、これが果たして正しいのかわからないから。眼前に広がる遺体は本物。映画で画面越しに見たり、本の文章を読み、想像するのとはわけが違う。きっと、触れば血が指に付き、亡骸に触れば、氷のような冷たさを感じるのだろう。
命が尽きた人の姿を目の当たりにして、私は立ち尽くしていた。
「いや、正しい考え方だな」
彼の言葉を聞いて、私は安心した。
「お墓をつくってもいいでしょうか?」
「残念だが、そこまでの時間はない。早くしないと野次馬が集まってくるしな。祈りだけで我慢してくれ」
私は、すでに物となった人たちに目を向ける。彼らにも、帰る家があって、家族や恋人、友達がいたに違いない。それでも、自らの意志と、それを必要とする存在のために、戦いに身を投じた。
私は、必要とされることなんてなかった。
栄光あるアデライード家と、どこにでもいる一般人のあいだに生まれた不義の子。薄められた血統。名家の影。どうして、どうしてこのような生まれ方をしたんだろうと、いつも考えていた。父は、ほかの兄妹と同じように私に接してくれたけど、母のことを訊くと決まって「やむを得ない事情があって、遠くで暮らしている」と答えた。物心がつくころには、父と私のあいだに、決して越えることのできない、とても高い壁ができていた。兄のマークスも、姉のアリシアも、弟のレナルドも、私といっしょに遊ぶことはあったけど、ときおり見せる笑顔からは虚構がにじみ出ていた。
父の期待に応えるため、偽名を使って入学した最初の学校で勉学に励んだ。いい成績を取ると、父は私の側に来て、頭を撫でたり、おやつを出してくれたり、優しい微笑みをかけてくれた。中でも、頭を撫でられるのがいちばん好きだったのを覚えている。ただ少し下に俯くだけで、あの瞳に映る喜び、そこに紛れ込んでいるかもしれない真実や嘘を、考えずに済んだから。礼儀作法も勉強して、社交界での振る舞いも覚えた。それでも、灰色の私に居場所はない。家のことは関係なく、学校にいる自分だけを見てくれる友達が、私が心を開ける唯一の存在でもあった。学校生活を経て、大人になっていくと父から撫でられることもなくなり、いつしか真剣に自分の将来を考えるようになった。
長男のマークスは家督を継ぎ、アリシアやレナルドは、家のコネを使って警察や役所などの職に就いていく手はずだった。父も同様の提案を私にしてきたけど、首を縦に振ることはなかった。
疎ましい目で自分を見つめる異母兄妹たちに一矢報いたかっただからだろうか。
ただレールに沿って進んでいく人生に嫌気が差したからなのだろうか。
アデライード家と決別したかったからなのだろうか。
きっと、どれも正解だ。
カニアの陸軍学校の門を叩いたとき、軍人という新たな自分になれることに対する喜びでいっぱいだった。軍人になれば、寮に入って、家とは関係のない生活が送れる。過去の自分を振り払うように、必死で勉強した。良好な成績を維持し、友達もたくさんできた。私は、軍人として生まれ変わり、肉体が衰え一線から身を退くその日まで、イーリスの繁栄を支える――そのはずだった。
学校を卒業して少し経ったある日。父から連絡が来て、久しぶりに家へ帰った。法律や軍事、あらゆることに関する蔵書が並べられていた書斎で、極秘作戦の知らせを訊いたとき、真相を知らなかった私は浮かれていた。≪五つ子≫がいまもイーリス国内で、活躍のときを待っていること。そして、今回の作戦に、そのリーダーが参加し、私が彼を補助する。
革命戦争は、私にとって字や映像の世界でしかない。だからだろうか。私は、あの大戦争で活躍したロイ・トルステンという男に憧れていた。父から作戦の経緯を訊いても、嬉しさが緊張に勝って、気持ちは完全に上の空。身の安全を保証できないという言葉が耳に引っかかったけれど、実戦ともなれば当たり前のこと。そう自分に言い聞かせた。
その言葉に“もうひとつの意味”があることに気づいたころには、私は、作戦の上司となる、ロイさんについての資料を調べていた。
私だって、誰かに必要とされたい。だから、いまの状況だって受け入れる。偽名も使わない、嘘もつかない、自分を偽らない。信じた道を突き進み、そして戦う。アデライード家のためでなく、国のために。そして、どうしようもないほどわがままな女、セレーヌ・アデライードを必要としてくれた、あなたのために。
「どうした。大丈夫か?」
物思いに耽っていると、動かないのを心配したのか、ロイさんが話しかけてきた。
「いえ、大丈夫です」
そういえば、彼は、殺めた人に対してどのような思いを抱いているのだろう。私が駆けつけたときには、もうほとんど戦闘は終わっていたけれど、遺体の損傷はどれも酷い。ぽっかりと胴体に穴が空いた者、頭がない者、大量の破片で体中を引き裂かれた者。ロイさんは、その両手に持った武器で、彼の意志で、彼の思考から発せられた命令で、正規軍と思しき人たちを過去の存在にした。そのことに対する思いが聞きたい。
「ロイさんは、戦闘で敵を殺めたとき、何を思っているのですか?」
彼は少し驚いたような表情をした後、いつもの低い声で答えた。
「何も」
「何も……?」
それは、人を、私たちと何も変わらない同族を殺め、何も感じないということ。素っ気ない返事は、私にとって大きな衝撃だった。
「人を殺して、何も思わなかったのですか?」
「ああ」
「……どうしてですか?」
「そう訓練されているからだ」
訓練という事は、学校時代からこの思考ということなのだろうか。少なくとも、私が在籍していた頃は、そのようなことは教わっていない。
「私が学生の頃は、そのような事は学びませんでした」
「そうなのか? まあ、今の時代は、戦争のせの字も考えなくていいんだから、人を実際に殺すときのコツなんて教える必要がないのかもしれん。だが、俺の時は状況が状況だった。パークス大陸にばら撒かれた火種が、今にも燃え盛ろうと燻っていたんだ。油断すれば殺される、お人好しから死んでいく。なら、心を殺し、血はオイルで、体力は電気で賄う機械のように、冷徹になるしかなかったんだよ」
「もし私がその時代に現役の軍人として前線で戦っていたら、死んでいたでしょうか?」
「間違いなく、ここにはいないだろうな。君は、平和な世界が育んだ軍人だ」
もう少し早く戦闘現場に向かい、敵と遭遇したら、私は相手を殺せただろうか? 立場は違えど、この世に生を受け、家族とともに食事をし、友達と遊び、学校で勉学を学んで、恋をして、人生を歩んでいる人のすべてを奪い取る覚悟は、私にはあるのだろうか? 私の表情は暗くなっていた。
「……触れてみろ」
「え?」
「そこの死体に触れてみろ」
胴体に穴が空いている死体を指差して、彼は言った。死体が、怖い。さっきまで生きていたのに、今や亡骸となって動かなくなった身体になんて、触れたくない。
ロイさんは私の腕を掴み、眼前の死体の首に無理やり押し当てた。冷たい。真冬の雨に一晩中当たった鉄に触れているかのよう。これが、私たちと同じ人だと思うと寒気がした。
「嫌……!」
私は力を込めて、ロイさんの腕を振り払う。心臓の鼓動が激しい。息も荒くなってきていた。
「何をするんですか!」
「これが俺たちの仕事だ。民を扇動する者の口を引き裂き、機密を漏らそうと走る者の足をへし折り、銃を向けて味方を撃とうする者の腕を切り落とし、密かに他国の要人の動向を観察しようとする者の目をくり抜く。祖国のためという偉大な正義の名の下に、俺たちは刑務所に放り込まれて惨めに冷や飯をかっ食らう連中とまったく同じことをする。そして、それこそがこの世に置いてもっとも正しいことなのだと思い込む」
「そんなこと……」
「銃弾が飛び交い、戦車が闊歩し、怒号や悲鳴が響き渡る場所だけが戦場じゃない。俺たちが戦闘行為に出れば、そこが戦場になる。二十四時間、三百六十五日、いつ、いかなるときでも、例外はないんだ。“ここ”がそうであるように、まさに、常在戦場だ。理由はそれぞれだが、俺たちはそんなイかれた世界に身を置くことを決めた。必要なら、天使の羽を毟り取り、悪魔の槍を奪い取り、神の脳味噌を自分に移植してやるくらいの覚悟でいろ」
矢継ぎ早に飛び出してくる冷酷な言葉の数々を聞き、私はいつの間にか涙を流していた。
「……すまない。こんな事、言うべきじゃなかったな」
「いえ……大丈夫です……」
ロイさんからハンカチを渡され、涙を拭う。今目の前にいるロイさんの顔は、子供をなだめる父親のように優しい。さきほどまでの険しい表情とは雲泥の差だった。この男が、≪五つ子≫のひとりであり、彼らを束ねてきたリーダーなのかと思うと、自然と納得できる。彼の戦士としての矜持の裏には、狂気がチラついてた。
「だが、死者のために悲しめるのは、素晴らしいことだ」
さきほどまで軍人と戦場の現実を語っていた彼から意外な言葉が出た。まさか褒められるとは思わず、どういう反応をすればいいかわからずに困惑してしまう。
「でも、優しい性格は……」
「その性格を無くせとまでは言っていない。要は心の持ちようだ。慈愛の心を忘れず、それでいて軍人として振る舞うことだってできるだろう」
ロイさんは、私を一瞥した後、私の横を通り過ぎていく。
「さあ、ブルクへ行こう。悪いんだけど、ホテルを探しておいてくれないか? 俺は博士に報告しなければいけないからな」




