#第11話:初めての草原と、手入れの洗礼
城門をくぐり、遮るもののない広大な草原へと一歩足を踏み出すと、都会の喧騒が嘘のように静まり返り、代わりに瑞々しい草木の香りと心地よい風が俺たちを迎え入れた。
視界の果てまで続く緑の絨毯。頭上に広がるのは、吸い込まれそうなほどに青い空だ。
かつて伯爵邸の狭い庭園に閉じこもって、毎日毎日同じ敷居の中でハサミを動かしていた俺にとって、この遮るもののない外の世界は、それだけで胸がすくような解放感を与えてくれた。
「すごい……広いです、アルト様! 空がこんなに近くに見えるなんて!」
シアが緑のワンピースの裾をひらひらと揺らしながら、嬉しそうに俺の周りをステップを踏むように歩く。
その漆黒の長い髪が太陽の光を浴びてきらきらと輝き、まるで絵画の一コマのようだ。腰に下げた、ギルドの倉庫から借りてきた錆びついた鉄剣だけが、彼女の持つ圧倒的な美貌に対して酷く不釣り合いで浮いて見えた。
「ああ、いい景色だな。だけどシア、ここはもう街の外だ。いつ魔物が飛び出してくるか分からないから、油断だけはしないでくれよ。依頼にあった『キバウサギ』は、確か草むらに隠れて不意打ちしてくるのが得意なはずだからな」
「はい! 大丈夫です、アルト様。私の五感が、不穏な気配をすべて捉えていますから」
シアはそう言って、すっと表情を引き締めた。
その瞳に宿る真剣な光。昨日、俺が彼女の体内の『歪み』を剪定したことで、彼女の秘められた戦闘本能は完全に開花している。武器が錆びた剣だろうと、彼女の強さが揺らぐことはない。それは分かっているのだが、庭師としての俺の性分が、どうしてもその『錆びついた道具』を見過ごすことを拒んでいた。
歩きながら、俺は『剪定』の目をシアの腰の剣へと向ける。
(……うわぁ、想像以上に酷いな)
俺の視界の中で、シアの持つ錆びた鉄剣は、まるで「病気にかかって枯れかけた、手遅れ寸前の細い枝」のように映し出されていた。
刃の表面を覆う赤錆は、単なる経年劣化ではない。かつてこの剣を使った者が、間違った手入れを施したり、無理な研ぎ方をしたせいで、金属の分子構造そのもの――つまり、剣の体内に流れる『魔力と強度の系譜』が、あちこちでズタズタに引きちぎれ、歪な結び目を作ってしまっているのだ。
これでは、シアの圧倒的な魔力の奔流を流し込んだ瞬間、刃がその負荷に耐えきれず、一撃で粉々に弾け飛んでしまう。
「シア、ちょっとその剣を――」
俺が声をかけようとした、その瞬間だった。
ザザッ……!
前方の、大人の腰ほどまで伸びた背の高い草むらが、不自然に激しく揺れた。
シアの耳がピクリと跳ねる。
「アルト様、下がってください。来ます!」
シアが俺を背中にかばうようにして、一歩前に躍り出ると同時に、草むらを割って『それ』が猛烈な勢いで飛び出してきた。
大きさは大型犬ほどもあるだろうか。
一見すると丸々とした愛嬌のあるウサギだが、その口元からは、名前の通り大蛇の牙を思わせるほどに長く鋭い二本の「黄ばんだ牙」が、禍々しく突き出ている。
Fランクの討伐対象――キバウサギだ。
「グルルルルッ!」
キバウサギは真っ赤な目を爛々と輝かせ、強靭な後ろ足で地を蹴ると、弾丸のような速度でシアの胸元を狙って跳躍した。
その速度は、並の人間であれば悲鳴を上げて逃げ惑うレベルの突進力だ。
だが、今のシアにとって、その動きはあまりにも遅すぎた。
「ふっ!」
シアは慌てる様子もなく、極めて自然な動作で腰の錆びた鉄剣を抜き放った。
そして、迫りくるキバウサギの牙を、剣の腹で受け流すように綺麗に弾く。
キィィィン! と硬質な金属音が響き、軌道を逸らされたキバウサギが不格好に地面へと転がった。
「凄いな……完璧な受け流しだ」
俺が思わず感嘆の声を漏らすほどの、無駄のない洗練された剣技。
だが、シアの表情は晴れなかった。彼女は一度距離を取るようにバックステップを踏み、手元にある錆びた鉄剣を困惑したように見つめたのだ。
「……っ、アルト様、この剣……私の魔力に、ついてきてくれません……!」
シアの言う通りだった。
今の一撃でキバウサギを弾いた際、シアがほんのわずかに無意識に込めた魔力の負荷によって、錆びた鉄剣の刃からミシミシと不穏な亀裂の音が響いていた。刃のあちこちにある『錆びの歪み』が、彼女の純粋で強大すぎる力を受け止めきれず、内側から自壊を始めているのだ。
「グルァッ!」
体勢を立て直したキバウサギが、再び激しく地を蹴る。
今度は先ほどよりもさらに低い姿勢から、シアの足元を狙った、文字通りの必殺の突撃だ。
剣を強く振れば、その瞬間に武器が自壊してシア自身が窮地に陥る。かといって、武器を使わずに素手でその鋭い牙を受け止めるのは危険すぎる。
「シア、剣を俺に投げろ!」
「えっ!? で、ですが……!」
「いいから、信じて投げろ!」
俺の必死の叫びに、シアは一瞬の迷いも見せず、手元にあった錆びた鉄剣を俺の方向へと放り投げた。
くるくると回転しながら空中を舞う、今にも折れそうな鉄の塊。
俺はそれを左手でキャッチすると同時に、右手で腰のポーチから愛用の剪定鋏を抜き放った。
人の持つスキル、衣服、それから職人が鍛え上げた武器。この世の万物が、世界の庭を構成する要素の一部であるならば。
そこに生じた『無駄な歪み』を切り落とし、本来あるべき美しい姿へと整えることこそが、庭師である俺の唯一にして絶対のスキルだ。
(この剣の寿命を縮めている、無駄な錆びの結び目を――間引く!)
俺の視界のなかで、剣の刀身に絡みつく『赤黒い雑草の根元』が、ハッキリと一本の線として浮かび上がった。
俺は空中から振り下ろすように、その『歪みの根元』へ向けて、剪定鋏の刃を迷わず滑らせ――一気に噛み合わせた。
チョキン――!!!
草原に、高く、澄み渡るような金属音が響き渡る。
刃が噛み合った瞬間、信じられない現象が起きた。
剣の表面を覆っていた、あの汚らしい赤錆の塊が、まるで乾いた土の塊のようにパラパラと音を立てて一瞬で剥がれ落ちたのだ。
錆が落ちたその下に現れたのは、まるで鏡のように周囲の緑を映し出す、美しい刀身だった。
引きちぎられていた金属の分子構造が完全に修復され、歪みが整えられたことで、既製品の安物だったはずの鉄剣が、まるで名工が鍛え上げたばかりのような、鋭い切れ味を秘めた「真剣」へと生まれ変わったのだ。
「シア、受け取れ!」
「はい……っ!」
俺が手元で『剪定』し、本来の姿を取り戻した剣をシアへと投げ返す。
シアはそれを右手で完璧にキャッチした。
「……すごい」
シアは手に馴染む剣の感覚、そして淀みなく流れる自分の魔力を感じ取り、感嘆の声を漏らした。
今度は違う。剣が、彼女の強大すぎる魔力を邪魔することなく、刃先まで真っ直ぐに伝えていく。
「グルァァッ!」
牙を剥き出しにしたキバウサギが、シアの眼前まで迫っていた。
「聖剣術・一の型」
シアが剣を水平に構え、スッと息を吸う。
先ほどまでの硬さは、微塵もない。
「【閃】」
シアが溢れる魔力を乗せ、一閃を放つ。
それは、ただの斬撃ではなかった。アルトが剪定した刃から放たれたのは、黄金の魔力を帯びた、神速の「光の線」だった。
閃光が草原を駆け抜けた。
その光の軌道上にいたキバウサギは、自分が斬られたことすら気づかない速さで、その巨体を一撃で真っ二つに両断されていた。
両断された体は、しばらく空中に留まったあと、静かに地面へと崩れ落ちた。完璧な切れ味による、完璧な一撃だ。
「……え?」
自分の放った一撃の、あまりの鋭さと速さに、シア自身がぽかんと口を開けて、手元の剣を見つめている。
錆びた剣では、今の自分の力に耐えきれず、ここまで綺麗に技を出すことは絶対に不可能だったからだ。
「す、凄い切れ味だな……」
俺はハサミをポケットにしまいながら、感心するしかなかった。
安物の錆びた剣をちょっと『手入れ』しただけなのに、まさかこれほどの真剣に変貌させてしまうとは。地形は変わらなくても、その切れ味は間違いなく伝説級だ。
「アルト様……この剣、凄いです。私の魔力が、どこまでも真っ直ぐに通っていきます……! アルト様が、この子を助けてくださったんですね!」
シアが興奮した様子で、目をキラキラと輝かせながら俺の元へと駆け寄ってきた。
その手にある剣は、先ほどの鋭い一撃を放ったというのに、刃こぼれ一つなく、それどころかさらに研ぎ澄まされているようだった。
「役に立ったなら良かったよ。よし、シア。この調子で、今の技を試しながら、今日のノルマ分をサクッと稼いじゃおうか」
「はい! アルト様のためなら、何百匹でも倒して見せます!」
こうして、俺の『剪定』によって「本物の武器」を手に入れたシアによる、初心者エリアでの規格外の「大掃除」が始まろうとしていた。
(第11話 終)




