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これからと真実

 新しい家での生活は驚くほどあっという間に過ぎていった。私の生活の全てが入った引っ越し業者のマーク付きダンボールの片づけに毎日追われ、新しく購入した家具や家電の設置に立ち会ったり、自分で組み立てたり。もちろん昼間は仕事へ行き、夜の短い時間で可能な限り部屋を片付ける。想像以上の忙しさに、ようやくカーテンを取り付けたのは引っ越してきてから二か月後だった。あたりまえだが自炊する余裕もなく、お菓子やレトルトで食事を済ますことも少なくない。それでも私たちは生きていけるのだ。

 引っ越してきたときには汗が出るほど暑かったのに、気が付けば凍えるような寒さの冬がやってきて、私は部屋に小さなこたつを設置した。シングルサイズの毛布も二枚用意して、冬の準備は万端だ。この頃になると少しだけ余裕がでてきて、久しぶりにかぼちゃの煮物を作って食べた。久しぶりに食べるほくほくのかぼちゃ。その優しくて温かい美味しさに涙が出そうになり、今後はなるべく自炊を心がけようと心に誓う。

 一人暮らしは静かな冬をより一層静かに感じさせ、電気代を気にしてエアコンをあまり使わず、家にいるほとんどの時間を毛布にくるまったままベッドの上で過ごした。

 その静けさもいつの間にか鳥の鳴き声で塗り替えられた春。ちょうど一年前に、私は離婚を決意しあの人に伝えたんだ。長いようであっという間な一年だった。


 そして気が付けばこの家での暮らしも一年が経過し、季節は夏になった。

 あの日以来蒼井さんとも話していない。この一年間、蒼井さんは就活や卒業論文に追われほとんどアルバイトへ出ていなかった。個人的に会うような仲でもないので、蒼井さんがバイトへ来なければ必然的に私たちが会うことはない。蒼井さんの名前がないシフト表を見て少しの寂しさは感じていたが、私も自分の新たな生活に手一杯で気が付けばこんなにも月日が流れていた。

 八月、シフト表に蒼井さんの名前を見つけた。急に訪れた胸が高鳴るような感覚に、息がうまく吸えない。友達ですらないのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。

 けれどいざ当日になってみると、久しぶりに見る蒼井さんの姿になぜか緊張と恥ずかしさが込み上げ、まともに目を合わせることすら精一杯。店内ですれ違いそうになると、私は走って反対方向へと逃げた。どうして逃げているんだろう。やっと話せる日が来たのに。離婚届を出しに行った日の話や新居での生活、話したいことはたくさんある。それなのに、どうして私は。

「なんで逃げるんですか」

 店内の目立たない隅っこで深呼吸をしていたら後ろから声が聞こえた。久しぶりに近くで聞く蒼井さんの声。私の心臓はもう、壊れてしまいそうなほどバクバクと音を立てている。

「逃げてないです」

「逃げてるでしょう、さっきから。完全に不審者ですよ」

「他の人と見間違えたんじゃないですか」

「あんな不審な動きをする人、あなたしかいないって」

 そう言って蒼井さんはくすくすと笑う。

「なんで笑うんですか!」

 ムッとし顔を上げると蒼井さんと目が合った。恥ずかしいのに目が逸らせなくなる。

「久しぶり。元気でしたか」

「……お久しぶりです。蒼井さんこそ、忙しかったんでしょう。元気でしたか?」

「そりゃあね、大学生だからね。忙しかったですよ。でもようやく全部終わりました。これからはまたバイトに出るんで」

「じゃあ、就職先決まったの?」

「はい。自分の誕生日までに終えるって僕の中で決めていましたから。四月中に決まりました。その後は卒業論文をずっと書いていて」

「そうなんだ、おめでとう! 蒼井さんは、卒業したら何屋さんになるんですか?」

「広告会社でエンジニア兼デザイナー」

「なにそれ」

「分からなくていいですよ。とりあえず、いろいろ片付いたってことです」

「お疲れさまでした。じゃあ、コーヒー飲みに行きましょうよ」

 さっきまであれほど緊張し、逃げ回っていたのに、今自分の口から出た言葉に自分で驚いてしまう。

「お断りします。人妻とはコーヒー飲めません」

「いや、私ちゃんと離婚しました。今は一人です」

「そうだった。でもお断りします。他の人と行けばいいじゃないですか」

「そうだけど……」

 やはり淡々と断られてしまう。

「じゃあ、コーヒーはとりあえず諦めるから、ときどきLINEしていい?」

「何話すんですか」

「分からないけど。でもいい?」

「それくらいならいいです。でもほどほどに、節度を持ってね」

「もちろん」


 その日の夜、私はさっそく蒼井さんへLINEを送る。

『お疲れさまです。今日はありがとうございました』

 毎日の疲れが出てきたのか、私は蒼井さんの返事を待たずに眠ってしまい、朝になって返事が来ていることに気づいた。

『お疲れさまです。何もしてないですけどね』

 素っ気ないたった一言、それでも私は十分に満たされる。ほどほどにと言われていたので、一旦返事はせずに会話を終わらせた。また夜になったら何か送ってみよう。

 私がこんなにも積極的に人と関わろうとするのは初めてのことだった。やはりここでも、運命の神様が私の背中を押していたのだろう。

 その後も夜に一言二言のLINEを交わす日々が続いた。

新居での生活もすっかり落ち着き、これまでよりもさらに仕事に力を入れ始めた私は店長から、昇進のための試験を受けてみないかと提案を受けた。この試験に受かれば社員としてのグレードが一段階アップし、これまではやってこなかった新入社員の育成やより専門的な店舗運営などに関われるようになる。もちろん給料も上がるし、なにより蒼井さんに追いつける。

 私の働いている店舗では、社員やアルバイトなどの区分に関係なく頑張れば頑張った分だけ評価される仕組みになっていて、例えアルバイトでも一定以上の成果を出し試験に合格すれば社員同様に店舗運営に関わることができるのだ。

 蒼井さんは大学二年の冬にこの試験を受け、合格している。学生アルバイトとしては異例の早さでの合格に、蒼井さんの優秀さや周りからの期待が見て取れる。私も早く追いつきたいとずっと思っていた。

 次回の試験は十二月に入ってすぐに行われるらしく、それまで残り約四か月。私は試験を受けたいと店長に返事を伝え、少しずつ試験に向けた勉強を始めることにした。

 過去にどんな問いがあったか先輩社員たちに聞くと、毎年内容がかなり変わることや、サービス業の基本知識だけではなくミシンの扱い方や、布の種類、性能などそういった部分までかなり幅広く出題されることを教えてくれた。過去問はどこにも出回っておらず、自力で情報を集め勉強するしかなさそうで、少し不安な気持ちになる。けれど、何かに挑戦するのは嫌いではない。不安とわくわくした気持ちが今は六対四。

 夜、蒼井さんに試験を受けることをLINEで伝えると思わぬ返事が返ってきた。

『試験、がんばって。じゃあ今度、一緒に勉強でもしますか?』

 考えてもみなかった蒼井さんからのお誘いに、心がきゅっと締め付けられるような感覚になる。この感覚はなんだろう。

『いいんですか。じゃあ、ぜひお願いしたいです』

『もちろん。僕にできることなら協力しますよ』

 いつもより多めのやり取りを繰り返し、来週の休みにとある駅で待ち合わせることにした。またコーヒーを飲めたらいいなと思っていたのに、こんな風に待ち合わせて勉強を教えてもらえるなんて。どうしようもなく嬉しい気持ちに私は心の中で自問自答する。

――私、蒼井さんのこと好きなの……?――

 今の答えはノーだった。これが恋愛感情なのかはわからないが、とにかく話したい、それだけで別に手を繋ぎたいだとか触れ合いたいという気持ちは全くない。好きなら相手に触れたくなる、それが私の持論だ。現時点で蒼井さんはその対象ではない。じゃあどうしてこんなにも、私は彼と話したいんだろう。考えても答えは出ない。

 ひとまず来週、ちゃんと会えるといいな。


 あっという間に一週間が経ち、蒼井さんと待ち合わせの当日。前日からそわそわしてあまりよく眠れなかった。仕事のない日に蒼井さんと会うのは初めてだ。何を着ていこうか迷いに迷い、白いブラウスにブラウンのシンプルなジャンパースカートにした。ジャンパースカートを着ることが好きな私は、仕事中も似たような恰好をしている。これなら特に気合を入れたようには見えないだろう。香水をつけるかどうかも迷ったが、何か印象に残るものがあった方がいいかと思い控えめにつけた。シトラス系のさっぱりした、けれど優しいどこか懐かしさのある香りだ。普段は足元中心に香水をつけていたが、背の高い蒼井さんの隣を歩くなら、と今日は首のあたり、比較的高い位置にシュっと吹きかける。

 こんなにも服装に迷ったり、香水をつける位置まで考慮したり。まるで恋する乙女じゃないか。そんなんじゃないのに。

 待ち合わせの三十分前には約束した駅に着き、ひとまずトイレへ向かい鏡をチェックする。でも何をチェックするのか。自分が可愛いかどうか? 髪型が崩れていないかどうか? それとも顔が赤くなっていないかどうか? どれにしたってその行動はデート前の女の子のようだ。

 早めに駅に着いたことをLINEで蒼井さんに知らせる。蒼井さんは予定通りに着くよう電車に乗ったばかりだという。あと三十分後には蒼井さんがここにいるのか。そう考えただけで心臓がバクバクと鳴り始める。こんなんで無事に会えるだろうか。

 蒼井さんが来るまでの間、私は駅ビルの中にある本屋や花屋を見て回った。その間に五回も鏡チェックを挟む。

『着きました』

 蒼井さんからそうLINEがきたとき、私はちょうど鏡の前にいて、一瞬にして自分の顔が熱く、赤くなるのをこの目で見た。

『どうしよう。緊張して。全然気持ちが整ってない』

 ひとまず急いで返信を送る。

『でしょうね(笑)どこにいます?』

『どこでしょう、どこにいますか。そっち行きます』

『今からトイレに行こうとしています』

 改札を抜けたあとにトイレに行くとしたらどのあたりだろう。私が今いるところに来られては困る。だってまだ顔が熱い。私は必死に考える。確か改札から一番近いのは、本屋の奥だ。

『本屋のトイレですか』

『そうします。じゃあ本屋で待ち合わせましょう』

『わかりました。とりあえず本屋の方へ向かいます』

 やりとりを終えもう一度鏡を見る。前髪の長さが左右で違う気がする。でももう直す時間はない。覚悟を決め、顔を手でパタパタと仰ぎながら本屋へ向かう。エスカレーターに乗っている間も、本屋が目に入った瞬間も、私の心臓は壊れそうなくらいバクバクしていた。

 本屋に到着し、入り口付近で蒼井さんを待つ。本屋の奥のトイレに行ったのなら、もうじきここに現れるだろう。けれどどっちの方向から来るかわからない。私はそわそわ、くるくる周りを見回す。

「お待たせしました」

 ふいに後ろから声が降ってきて驚きのあまり、ひゃんっと変な声が出た。緊張して、顔を合わせるのが怖くて、振り向けない。私は蒼井さんに背を向けたまま壁に向かって歩く。もちろんそのまま進めば壁に激突してしまうので、私はその場で足踏みをする。

「RPGでバグ起こしてる村人みたいになってますけど」

 そう言われ私は足を止める。

「何してるんですか、早く行きますよ」

 このままでは置いて行かれてしまうと思い切って振り返る。

 私服の蒼井さんは、綺麗だった。アイボリーの柔らかそうなサマーセーターに、ブラックのバギーデニム。背が高く骨格もしっかりとしているが、線が細く色が白い、そんな蒼井さんの綺麗さをアイボリーのサマーセーターがより引き立たせていた。

 先に歩き出した蒼井さんの背中を小走りで追いかける。職場で見る蒼井さんは真面目そうで冬の朝のような空気を身にまとっているが、今日の蒼井さんは、冬は冬でも昼間の温かい陽だまりのようだ。綺麗で、優しい空気。不思議な感覚。

「それで、どこで勉強しますか」

「え?」

「場所、考えました?」

 今日の蒼井さんが纏っている空気について考えこんでしまっていた。ふいに話しかけられうまく返事ができない。

「あの、今ちょっと緊張していて。緊張が解けるまでどこかベンチにでも座ってコーヒー飲みませんか」

「いいですけど。じゃあ、近くの公園行きましょうか」

 そうして私たちはコンビニであの日と同じコーヒーとカフェラテを買って、近くの公園に向かう。その公園は建物と建物の間にぽつんと現れた。小さなブランコと滑り台、ベンチが一つという小さくシンプルな作りだ。平日の昼間だからか私たちの他には誰もいない。

 私たちはベンチに並んで腰かける。あの日は隣に座ってコーヒーを飲む蒼井さんの姿を何も考えずに見ることができたのに、今日はその姿を視界に入れることすらなかなかできない。

「なんでずっとそっち向いてるんですか」

 いつまで経っても蒼井さんと反対の方向を向いたままの私に蒼井さんが問う。

「だから、緊張してるんですって」

「なんで?」

「そんなの私が聞きたいです。とにかく今はそっち向けないんです」

「……変な人」

 蒼井さんが笑う。その拍子にえいやっと右に体を向ける。

「やっとこっち見た。ハンドクリーム持ってますか?」

 笑いながら蒼井さんが言う。いつもは下から見上げている蒼井さんの顔が同じ高さにある。優しくて穏やかで綺麗な顔。私は鞄からハンドクリームを取り出し、差し出す。

「ありがとう。今日忘れてきちゃって。ハンドクリームしっかり持ち歩いてるの、さすがですね」

 私のハンドクリームを少しだけ絞り、手に塗り込む。蒼井さんの手をこんなに近くで見たのは初めてだが、大きくて白くて綺麗なその手に、視線が吸い込まれそうになる。

 蒼井さんからハンドクリームを受け取り鞄にしまっていると

「舐めたりしないでくださいよ」

「どういうこと?」

「僕が使ったから、ハンドクリームの出し口舐めそう」

「は? 私そんなことしません。それに蒼井さんが使ったハンドクリームはもう尊いものになったので私は使えません」

「ええ……そっちの方がヤバくない?」

 お互い本気で言っているのか冗談で言っているのかよくわからない会話を交わした。

「そろそろ慣れましたか? この近くにファミレスあるんですけど、そこで勉強するのはどうですか」

 蒼井さんからそう提案される。まだ全く慣れてなどいなかったけれど、今日の目的は勉強だ。私たちは近くのファミレスに移動し、ドリンクバーと軽食を注文した。

 私はオレンジジュースを、蒼井さんは烏龍茶をコップに注ぐ。軽食は私がグラタンを頼み、蒼井さんはハンバーグと骨付きチキンというなんとも大学生男子らしいものを注文。勉強の前に腹ごしらえをと、まずは運ばれてきた料理を食べることにした。

 綺麗に食べられているかな、大きな口を開けすぎていないかな、考えれば考えるほど自分の動きが気になり、うまくスプーンを口に運べない。今の私はまるで初めてスプーンを使うロボットのようだ。そんな私をよそに蒼井さんは骨付きチキンを手で持ち、がつがつと食べている。

「一つ食べます?」

 途中でそう聞かれたが、こんな状況で骨付きチキンなんて難易度が高すぎて、一時間経っても食べられそうにないので断った。

 向かい合って座っている私たちだが、私は未だに緊張していてまっすぐ蒼井さんの方を見ることができない。右斜め前を向いたまま少しずつ、少しずつグラタンを食べる。そのとき斜め前に置いてあるメニュー表に白ワインの文字を見つけた。実は私は白ワインが大好きで、このファミレスではワインが格安で提供されているうえに、美味しいと評判なのを思い出した。

少しお酒を入れたら緊張が解けるかもしれない。そう思った私は、勉強がある程度進んだら白ワインを飲んでよいか蒼井さんに聞いてみようと心に決めた。

 蒼井さんの顔は見られないまま食事を終え、そのまま一時間くらい試験勉強を一緒にした。さすが試験経験者だけあり、どんな問いが多く出そうか、押さえておくべきポイントはどこか、端的に分かりやすく教えてくれた。この一時間で、試験までに何をどう勉強すればよいのかかなり理解できたように思う。勉強するべきポイントを知れるだけでも非常に助かる。そう思っていたら蒼井さんが鞄から自作の問題集を取り出し、私に渡してくれた。忙しい中私のために作ってくれたようだ。試験勉強に付き合ってくれるだけではなく、こんなものまで。どれほどお礼を言っても足りなさそうだ。

「今日はこれくらいにしておきますか。一気にやると疲れちゃうでしょう」

「そうですね。問題集、本当に助かります。ありがとう」

「いいえ。僕にできることならなんでも」

 勉強が一段落ついたタイミングで私はそーっと白ワインのことを口にしてみる。

「あの、この白ワイン、ちょっとだけ飲んでも……」

「いいんじゃないですか。頑張ったし」

「ほんとに! じゃあ注文しちゃいます」

 運ばれてきた白ワインはプラスチック製のワイングラスを模した容器に入っていて、いかにもファミレスらしく可愛かった。もう一度いただきますを口にして、白ワインを一口。

「うわ、おいしー!」

「よかったです」

 想像していたよりも、その白ワインはずっと美味しかった。美味しくて一杯目は一気に飲み干した。蒼井さんがいいというのでおかわりを頼む。次はグラスではなくデキャンタで。蒼井さんがデキャンタから白ワインを注いでくれた。自分から注いだくせに、人使いが荒いなと笑っていたのを覚えている。

 その後の私は狙い通り酔いが回ったおかげでしっかりと蒼井さんの方を向けるようになり、聞きたかったことをたくさん聞いた。好きな音楽や普段使っている香水。アルバイトに対する気持ちや、どうして今日誘ってくれたのか。

「頑張っている人のことは応援したいし、僕にできることがあるのなら手伝ってあげたいんです。それが誰であろうとも。じゃあ休憩がてら、僕のお気に入りの曲リスト見ます?」

 そう言って見せてくれたプレイリストを私はその場で写真に収めた。

「写真なんか撮ってどうするんですか」

「家に帰ってから同じ曲で私もプレイリストつくるの」

 使っている香水もあっさりと教えてくれたのでその場で調べ、スクリーンショットに残す。私の行動を見ていた蒼井さんが、ストーカーみたいだと笑う。酔った私も笑う。

 この時間が本当に楽しくて、ずっとここにいたかった。

 酔いすぎたのか気が付くと私は自分の家の最寄り駅にいた。蒼井さんが私の駅まで送ってくれたようだ。

「じゃあ、また」

「嫌です」

 酔った私はつい本音を口にしてしまう。

「嫌だ、帰らないで」

「ダメです、帰ります」

「じゃあ、家の前まで送って」

 わがままを言い、駅から家までのほんの数分を一緒に歩く。

「手を繋ぎませんか」

「繋ぎません」

「どうして」

「僕たちは付き合ってないから」

「ちょっとだけでもダメなの」

「ダメです。帰ります」

 思い出しただけでも顔から火が出そうだが、私は手を繋ぎたいあまり、蒼井さんのグーに握られた手を必死に開こうとしていた。蒼井さんも負けじとよりいっそう力を込めて手を閉じる。

 ここから先は後になって聞いた話だが、帰る直前私は蒼井さんに好きだと言っていたらしい。好きなのに、どうして手を繋いでくれないの、と。こんなに酔っぱらうつもりはなかったのだ。少しだけほろ酔いになって、緊張を解きたかっただけなのに、完全に酔っぱらった私は理性が飛び、心に浮かぶ言葉を次から次へと蒼井さんにぶつけていた。

 もちろん、どれも本心であったことに違いはないのだが。

――好き、好きだよ。もっと話したい。どうしてだかわからないけど、蒼井さんが好きなの――

 酔いがさめたとき私は自宅のベッドでコンタクトも外さずに眠っていた。蒼井さんからLINEが入っている。実家であろう場所で撮られた夕飯の写真とそれじゃあまた職場でというメッセージ。そういえば、酔っている最中に今日の夕飯の話をしていた気がする。時計は深夜0時を指している。今日は返信するのをやめて、明日の朝一で謝ろう。自分がしたことをほんのりと思い出し、恥ずかしさと後悔に包まれながらも、幸せで満たされた気持ちで私はもう一度眠りについた。


 翌朝は久しぶりの早番出勤だったため、朝六時には家を出た。電車の中で蒼井さんへLINEを送る。

『昨日はありがとうございました。酔いはすっかり冷めました。いろいろとごめんなさい、手とか触っちゃったみたいで。でも後悔はしてないです。あれが本音なので仕方ないですね(怒)』

 昨日を経て、少し距離が縮まった気がする。そして私は蒼井さんが好きなのだ。昨日酔ったまましっかりと自覚してしまった。

――触れたい、一度でもそう思ってしまえばそれは間違いなく恋だ――

 好きだと自覚してしまえば、話したい、会いたいという感情に言い訳が付く。だって好きなんだもの。今まで以上に蒼井さんに会いたい気持ちを抱え電車の窓から外を見る。夏の日の出は早く、まだ六時を過ぎたばかりなのに外はすっかり明るい。

 スマートフォンが振動する。蒼井さんから返事が来た。今日は遅番シフトになっていたのでまだ寝ているだろうと思っていたのに。ずいぶん早起きだ。そう思いながらも少し緊張して画面を開く。

『なんで怒ってるんですか(笑) 流石にだいぶ動揺したよ。でも、分かりました!』

 なになに、何が分かったの。酔っぱらったらああなってしまう私の本性が? それとも私の本音が分かったってこと?

『早起きですね。何が分かったんですか? ちなみにですが、昨日の私の言動でさすがに引いて嫌いになった! とかはないですかね……』

 好きだと自覚したばかりなのに、ここで終わってほしくない。けれど引かれてあたりまえの言動を取ってしまった。不安になりながら返信を送る。

『大学があるので、もう電車に乗ってます。本音なんて分からないけど、なんか感覚的なやつですよ。嫌いになったとかはないです』

 ??? ますます分からなくなる。けれど嫌われたわけではないならまあいいか。蒼井さんの言葉遊びはなかなか高度だ。それにしても、遅番シフトの前にこんな早朝から大学へ行くなんてえらい、私も頑張らなくちゃ。

『なにそれ、全然わかんない』

 そう返信したあと、思い立ちもう一つメッセージを送る。

『じゃあこれからは、思ったときに思ったこと伝えちゃってもいいですか? さすがにあれの後ではもう驚かないでしょう。私が伝えたいだけのことなので、全然スルーで大丈夫なやつなんですけど』

 変な日本語で変なことを言っている自覚はあるが、今心の中にあるものをそのまま言語化し送った。私は誰かを好きになるとその気持ちを自分の中にとどめておけないタイプで、返事がほしいとかではなくその都度好きだと言いたくなってしまうのだ。特に一度でもその気持ちを知られている相手に対しては。

『詳細は内緒です、僕が分かっていればいいやつだからいいの』

 一つ目はなにそれに対する返信。そしてもう一つ立て続けにメッセージがくる。

『うん、いいよ。バイト中は抑えて欲しいけれども!、』

 慌てて打ったのか、何かに動揺したのか末尾に不自然な句点がついていた。

 うん、いいよ。その言葉を何度も読み返した。好きに対する返事ではないが、私の好きを肯定してくれている。嬉しかった。自分の好きを肯定してもらえることがこんなに嬉しいなんて今まで知らなかった。しかも好きな人に私の好きを認めてもらえている。

 もっと話したい、また一緒にご飯が食べたい。手を、繋いでみたい。

 そんな風に蒼井さんへの気持ちは次から次へと溢れ出してくるが、不思議と先を急ごうと言う気持ちにはならなかった。今はこの肯定された好きをたくさん蒼井さんに伝えたい。そしてもっと蒼井さんのことを知りたい、私のことを知ってほしい。生きる活力がどんどん湧いてくる。

 ふと思い出し、昨日写真に残した蒼井さんのプレイリストを見ながら自分のスマートフォンにも同じ曲のプレイリストを作る。音楽に疎い私には知らない曲ばかりだったが、これからこのプレイリストをたくさん聴こうと思った。好きな人の好きな曲、なんだかこそばゆい気持ちでイヤホンを耳に差し込んだ。


 その日の仕事はいつも以上に頑張れた。三連休初日でお客さんも多く、かなり忙しい一日だったが私はやる気に満ちていた。店頭に立ちいつも行っている活気だしのフレーズを少し工夫してみたり、声をかけてくれたお客さんには自分のおすすめ商品を紹介したり。休憩時間には昨日蒼井さんから教えてもらった試験のポイント復習し、残り四か月を切っている試験に備える。

「今日、いつもより頑張っているね」

 店長からそう声をかけてもらえたときは、心の中で「蒼井さんのおかげです」とつぶやいた。

 夕方が近づき、遅番シフトの大学生たちが出勤してくる。昨日の出来事をふいに思い出し、顔が熱くなりそうだ。一旦落ち着こうと私は店頭からバックヤードへ引き上げ、洋服の品出しに集中する。もうすぐ蒼井さんが出勤してくる。そう思うだけで鼓動が速くなる。昨日会ったばかりだが、きちんと好きだと自覚し会うのはこれが初めてだ。

「おはようございます」

 目の端に蒼井さんをとらえつつも、気づかないふりをして品出しを続けていると上から声が降ってくる。蒼井さんだ。

「お、おはようございます」

「緊張してるの?」

「いえ」

 緊張でうまく喋れないし、今日も顔が見られそうにない。

「……変な人」

 蒼井さんがくすっと笑う。

「変じゃないです!」

 ムッとし言い返すがすぐに

「壁に向かって歩いていた人がよく言いますね」

 と返されてしまった。このまま蒼井さんの顔を見ずに会話が終わってしまうのは嫌だ。今蒼井さんはどんな表情で私と話しているのだろう。思い切って顔を上げてみる。

 蒼井さんは穏やかに笑っていた。優しい目、そしてやっぱり蒼井さんは綺麗だ。昨日のように真正面から見る彼も好きだが、こうして下から見上げる蒼井さんがやっぱり一番好きだ。伸びた前髪が少しだけ顔にかかり、蒼井さんの綺麗さを底上げしている。

「何ぼーっとしてるんですか、働いてください」

 そう言われ我に返る。

「ね、好きだよ」

「ありがとうございます。じゃあ働きましょう」

「はい!」

 今朝許可をもらっていたので、心に浮かんだ言葉を他の人には聞こえない小さな声で蒼井さんに渡す。

「また夜、LINEしていい?」

「もちろん」

 今はこの関係性が心地よい。

蒼井さんが去った後、私は残り少ない勤務時間内で品出しを終えられるよういつもよりハイペースで洋服を畳んだ。

 結局その日は忙しく、蒼井さんとは出勤時以外会話をすることができなかった。けれどいつもはやらない高いところの商品を入れ替えている蒼井さんの姿を見ることができたので今日は満足だ。脚立に乗り、上へ手を伸ばす蒼井さんはモデルのようだった。捲られた袖から見える手は白く、しっかりとして大きいが線が細くとても綺麗だった。昨日あの手に触れたのだと思うと胸のあたりがむずむずし、心がきゅっと締め付けられるような感覚になる。

 またいつかあの手に触れることができるだろうか。もっと近くであの手を見ていたい。そんな気持ちが溢れ出しそうになる。

 退勤後帰宅しすぐお風呂とご飯を済ませ、ベッドの中で蒼井さんにLINEを送る。

『手、綺麗でした。触れたいなって思ってしまうくらい』

 我ながら気持ち悪い文章だが、今心にある言葉がこれなので仕方がない。

『変態か!』

 三十分ほど経ち、蒼井さんから返信が来る。その内容に思わず笑ってしまう。

『いや、だって綺麗だし。ほら、雪とか見たら綺麗って口にしちゃうし、触りたくなるじゃないですか。それと同じです』

 ずいぶんと砕けた喋り方になったなと自分でも思う。

『雪=手って、哲学者でもこんなこと言わないって!』

 蒼井さんのツッコミは今日も冴えている。またしても私は笑ってしまった。

『楽しいなあ』

 そう返信し、口にも出してみる。本当に楽しい。すごく、生きていることを実感できる。蒼井さんはやっぱり凄い人だ。

もう時間が遅かったのでその後私からおやすみを送り、会話を終わらせ眠りについた。


 翌日は遅番シフトで蒼井さんと同じ退勤時間だった。退勤間際に店長がケーキを差し入れてくれた。一口サイズのミニケーキが箱にたくさん詰まっている。私はティラミスを選び、蒼井さんはモンブランを選んだ。

「どうしてそれにしたんですか?」

「僕モンブラン大好きだから」

「そうなんだ」

 なるほど、蒼井さんはモンブランが好きなのか。いい情報を手に入れた。

 帰り際途中まで同じ電車に乗る。他の学生たちは手前の駅でみんな降りてしまい、残っているのは私と蒼井さんだけ。

「うち、寄っていきます?」

「寄りません、まっすぐ帰ります」

「新居気になりませんか」

「気になりません」

「ちょっとだけでも?」

「ちょっとだけでも寄りません」

 やはりダメか。分かってはいたが、こう何度も断られるとさすがにへこむ。でもまあ仕方がないか。遅番後なので時刻は二十二時を過ぎているし、突然家に来いなんてあんまりだ。今日は諦めて、また今度誘ってみよう。

 数日後、私は早番シフトで夕方には退勤した。家の最寄り駅降りてすぐのコンビニに入る。スイーツの棚をまで歩き、そこに並んだ魅力的なスイーツたちを眺める。

「あった!」

 私はその中の一つを手に取りレジへ向かう。

 コンビニを出た後急いで家に帰り、念入りに掃除をし、お風呂とご飯をさくっと済ませた。時刻は二十一時半、そろそろ蒼井さんが退勤する時刻だ。スマートフォンを手に取りLINEを送る。

『モンブラン食べに寄りませんか?』

 そして乾かしたばかりの髪に軽くアイロンを通す。蒼井さんが家に来る可能性は限りなくゼロに近いだろう。でもこうして身だしなみを整えることや、ダメ元だとしても返事を待っている時間が楽しいのだ。

 二十二時を少し過ぎた頃返信が来る。

『コーヒー付き?』

 予想していなかった返信に心臓がドクンと跳ねる。

『コーヒー付き。なんならアイスもあります』

『あと二十分で着きます』

 本当に来るのか、本当に? ダメ元だったのに本当に蒼井さんが家に来るのか。そうなればパジャマのままではいられない。あと二十分? 急がないと!

 パジャマには見えずともすっぴんでおかしくない部屋着に着替え、部屋中に消臭スプレーを吹きかけた。

 駅まで迎えに行こうかと聞いたが、地図を送ってくれたら一人で歩いて来るというので私はじっと家の中で待っていた。そろそろ電車が着いた頃だろう。私の家は駅から徒歩四分。蒼井さんの長い足で歩いたなら二分くらいで着いてしまうのではないか。

『あ、あの。もうすっぴんでして。髪もぼさぼさで……。驚かないでね。もう二十七歳だからさ、私』

 急に自信がなくなり言い訳のようなLINEを送ってしまう。

『任せといてください。着きました』

 返信が来たと同時にチャイムが鳴る。玄関の向こうに蒼井さんが……。今日はきちんと顔を見られるだろうか。そういえば、部屋の中のどの位置に座ればいいだろうか。考えている暇はない、早く鍵を開けなければ。

 心を決め、私は玄関の鍵を開け、ドアを開く。

「こんばんは」

「こんばんは、いらっしゃい」

「お邪魔します」

 蒼井さんは遠慮なく家に上がってくれた。私の家にはソファがないのでカーペットの上に置いてあるクッションの上に座ってもらう。四角い机にL字になるよう二人で座る。

「そうだ、モンブランね。もう食べられる?」

「僕おなかぺこぺこです」

 冷蔵庫から今日コンビニで買ったモンブランを取り出し、蒼井さんの前に置く。要望通りコーヒーも淹れる。

「ありがとうございます!」

 そう言ってすぐに食べ始める蒼井さんを横から眺める。まつげが長くて色が白い。正面から見るのも下から見上げるのも好きだが、横顔もとてもよい。鼻の高い蒼井さんの横顔はとても綺麗だ。

「ごちそうさまでした。全然、変じゃないですよ」

「へ?」

「すっぴん。むしろかなり可愛いと思います」

 突然言われた言葉に頭が追い付かない。

「終電が一時間後なのでそれで帰りますね」

「は、はい」

「大学の課題やってもいいですか」

「どうぞ」

 そう言うと蒼井さんは鞄の中からパソコンを取り出し、何やらカタカタとキーボードを打ち始めた。

 年上の女性の家に初めて来た大学生男子は、普通こんなにもくつろげるものだろうか。いや、絶対そんなことはない。課題を続ける蒼井さんを眺める。ふいにこっちを向いた蒼井さんと目が合い、私だけが赤くなる。蒼井さんは私のことをなんとも思っていないのだろうか。なんとも思っていないのなら、どうして私の好きを肯定したり、家に寄ったりしてくれるのだろうか。分からない。

 蒼井さんが課題をやっている間、私も試験に向けて勉強をすることにした。こうして家でお互いのやるべきことをやっている感じは、けっこう悪くなかった。なんだか、青春?

 終電の時間が近づき、私は玄関で蒼井さんを見送った。

何も起こらなかった。蒼井さんはただ家に来て、モンブランを食べコーヒーを飲み、課題をやっただけ。あまりの健全さに思わず、クスッと笑ってしまった。

でも、幸せだった。

 部屋に誰もいないことを確認し、蒼井さんの使っていたクッションを抱きしめてみる。ほんのり蒼井さんの使っている香水の香りがした。

 その夜私はクッションを胸に抱き、蒼井さんの香水を感じながら眠りについた。あまりにも幸せな眠りだった。


 その日からはときどき、週に一回くらい蒼井さんが家に来るようになった。それは決まって私が早番で蒼井さんが遅番の日、終電までの数時間だけ。ほとんどはコーヒーとデザート、ときにはお腹がぺこぺこだという蒼井さんにレトルトのカレーを出した。

 熱々のカレーを食べる時、蒼井さんは独特な冷まし方をする。大体の人はふーふー、けれど蒼井さんはふっふっふっと小分けに息を吹きかけて冷まそうとする。そんな姿を見ているだけで幸せだった。食べ終わった後はお互いに課題や試験勉強をして、時間が近づくと玄関で見送る。

触れたい気持ちは日々高まったが、今はこの関係で満足だ。そう思いつつも、つい蒼井さんの髪に触れ頭を撫でてしまった日があった。蒼井さんは何も言わずただじっとこちらを見ていた。心を許していいのか、警戒すべきか迷っているような、まるで初めて知らない人間に会った子猫のような眼差しで。けれど撫で続けていると、次第に蒼井さんは目を閉じた。撫でられていることを許容したのだろう。私はそのまま数分間、優しく蒼井さんの頭を撫で続けた。少しだけ固い蒼井さんの髪。長い前髪が顔にかかりその横顔を半分隠した、

 そのとき私ははっきりと、この人を守りたいと思った。

 誰にも言わず、本人さえも自覚していないままに抱えているストレスや恐怖、不安や寂しさからこの人を守りたい。この家でコーヒーを飲んでいる時間だけは全てから守られ、解放され、安心できる、そんな風に思ってほしい。ここが蒼井さんにとっての守られる場所であってほしい。

 誰かに対してこんな気持ちを抱いたのは生まれて初めてだった。付き合ってさえもいないのに。けれどはっきりと思う。何も見返りはいらない、私は何も求めないから、どうかこの人が守られ、幸せであってほしいと。

 愛情と呼ぶにはまだ早いこの気持ちを抱えたまま、私の日々は過ぎていく。


 いつの間にか夏が終わり、季節はすっかり秋になった十一月初旬。

 職場で、ある大学生アルバイトの子から声をかけられた。彼は確か白崎くん。この職場で一番背が高く、百九十㎝くらいあるのではないかとある種有名人だ。白崎くんも学生アルバイトにしては落ち着いていて、蒼井さんとよく話しているのを見かける。

「最近蒼井くんと仲いいですね」

 突然そう言われドキッとしたが、何も悪いことはしていない。それに蒼井さんの友達ならとその問いに答える。

「そうですね、そうだといいんですが」

「雪さんは蒼井くんのこと好きなんですか?」

 ド直球な聞き方だ。けれど嘘はつきたくない。

「はい、私はもう大好きです。けれど蒼井さんがどう思っているのかはわかりません」

「告白しないの?」

「好きって気持ちはもう伝えています。だから後は蒼井さん次第かな」

「付き合いたい?」

「どうだろう。今でも十分幸せなので」

「ふーん。でも蒼井くんは真面目だから同じ職場にいるうちは付き合わなさそうな気がする。あと半年で卒業だし、それまでは我慢するんじゃないかな」

 確かに一理ある。それに、もし白崎くんのいうとおりこのまま時が過ぎて卒業してしまったら、今みたいに退勤後蒼井さんに会う機会はなくなってしまう。あと半年、か。ほんの少し不安がよぎる。けれど私は

「うーん、でもきっとそろそろ答えが出そうな気がするんです。卒業まで待たずとも」

 そう答えていた。根拠はない。なんとなく、最近の蒼井さんから感じるものを私が勝手に読み取り解釈しているだけだ。

「そっかあ。でも二人にはうまくいってほしいなあ。僕も蒼井くんのことけっこう好きだから応援したい。あ、好きっていうのは友達として、ね」

「うん、ありがとう。これからも蒼井さんのことよろしく」

「すっかり彼女みたいですね」

 いろんなことが、うまくいくといい。付き合うにしても、振られるにしても。


 十二月に入り寒さがぐっとました日。その日も私が早番で蒼井さんが遅番。いつものように帰宅後蒼井さんを迎えるため、早めにお風呂とご飯を済ませる。

 今日は、なんだかすごく会いたかった。職場で見かけたときから胸がそわそわした。早く夜になって早く蒼井さんとの時間を過ごしたいと仕事中何度も考えていた。

  蒼井さんの退勤時間が近づきLINEを送る。

『今日も来ますか? 今日は、なんだかすごく会いたい気分です』

 いつもなら二十二時を過ぎてすぐに来る返信が今日はなかなか来ない。残業をしているのだろうか。こたつに入り横になったままスマートフォンをじっとみつめる。蒼井さんがいつも使っているクッションは今、私の腕に抱かれている。

 二十三時が近づいたころようやく返信が来た。

『んー』

 そこから三分後二通目が届く。

『いや、やめておきます。色々考えなきゃいけないから』

 今日はすごく、すごく会いたかった。どうしてだかわからないけれど、今日は特別会いたい気持ちが強かった。けれど断られてしまった。心がじんわりと冷えていく。少しわがままを言いすぎただろうか。終電まで二人で過ごす、この関係をあたりまえに感じてしまっていた私がいた。けれど私たちは付き合っていない。脆い、名前のない関係性だ。

『そう、か。そうだよね。ごめんね』

 返信した後クッションに顔を埋める。泣いてしまいそうだ。勝手に期待して勝手に傷ついて、馬鹿みたいだ。今日はもう寝てしまおう。そう思いこたつの電源を切る。そのとき新たなLINEが届く。

『あれ、間違えて○○駅で降りました』

 そこには私の家の最寄り駅の名前。えっ、どういうこと。

数分後、私の家に蒼井さんがやってきた。

 いつものように二人でコーヒーを飲む。一息ついたあと、蒼井さんが小さな声で喋り出す。私に向けて言っているのか、ひとりごとなのかは分からない。

「僕ここ数週間よく考えてみたんです。今の自分の気持ち、状況、しっかり自分と向き合ったんです。状況に流されているだけじゃないのかきちんと確かめるために。でもやっぱり雪さんを見たとき嬉しくなっちゃって。一人でちゃんと考えなきゃって分かっているのに。今日も会いに来てしまった」

 今日一度断ったのは、蒼井さんなりにいろいろと考えた末だったのか。私がただ一方的に好きを伝え続けた結果、蒼井さんはそれにどう応えるべきかずっと悩んでいたのか。

 嬉しさや愛おしさが溢れ出しそうになる。真面目で、優しくて、たくさん考えて、たくさん頑張っている蒼井さん。私は蒼井さんが好き。

「ねえ、好きだよ」

「ありがとう」

「もっとたくさん蒼井さんと一緒にいたいし、もっと一緒にいろんなことがしたいよ」

「そうですね」

「ねえ」

「はい」

 しばらくそのまま見つめ合った。今日は答えを出してくれないのかな。

「そろそろ終電なので帰ります」

「やだ」

「帰ります」

 蒼井さんが立ち上がる。けれど私はこのまま帰ってほしくなかった。どうにかなりたいわけではないが、このまま今日が終わるのは嫌だった。こんなに好きなのに、まだまだ遠い。少しでも蒼井さんに近づきたい。

 玄関に立った蒼井さんの手を取る。

「本当に帰っちゃうの?」

「帰ります」

「本当に?」

「本当に」

「嫌です」

 今日は以前のように手を剥がされることはなかったが、蒼井さんからは握り返してくれない。私たちは恋人ではないから。

「……はあ」

 蒼井さんがため息をつく。

「じゃあ、キスしたら帰してくれますか」

「へ?」

 その瞬間上から蒼井さんが降ってきた。実際には少しかがんだだけなのだが、背の高い蒼井さんが突然かがむと、下で見ている私には降ってきたように見えるのだ。

 優しく、二回軽いキスをした。

「じゃあ、また」

 驚いて固まっている私をそのままにして、蒼井さんは終電へと走って行く。

 あまりにも優しく触れられたその唇はまだ感覚が残り、身体の感覚に頭が追い付かない。

 電車に乗ったであろう蒼井さんからLINEが届く。

『わがままでごめん。自分の中でちゃんと思っていることを整理する時間をください。おやすみなさい』

 そのLINEに私もきちんと返信をする。

『ううん、全然わがままじゃない。来てくれてありがとうだし、流されずにちゃんと帰ってくれてありがとう。そういうところが好きだよ』

 追加でもう一通。

『大丈夫だよ、ちゃんと待っているから。おやすみなさい』

 今夜はきっと、二人ともいつもより気持ちが強かったんだ。その気持ちの正体を蒼井さんはきちんと整理して確かめようとしている。私にできることは待つことだけ。

 運命の赤い糸があるのなら、私たちはそれぞれその糸を辿ってここまで歩いてきた。そして二人の糸はまもなく交差し、二人は出逢う。運命の神様に導かれて。

 

 その翌々日、いよいよ昇進試験の日が来た。試験は店舗のパソコンで受験する。普段通り勤務し、午後一番で試験に臨む。蒼井さんから聞いた話だと、試験終了後すぐに結果が出るらしい。

 用意された部屋の固い椅子に座る。たくさん勉強してきたけど、それでもやっぱり緊張と不安が自信に勝る。大丈夫、大丈夫。これまで蒼井さんと一緒にたくさん勉強してきたじゃない。蒼井さんがくれた問題集だって紙の端がぼろぼろになるまでずっと持ち歩き、何度も解いた。だから、大丈夫。試験に合格して蒼井さんに追いつくんだ。

 十三時ちょうど、試験が始まる。

 十四時になり、試験の終了を告げに店長が部屋に入ってきた。問題数は思ったよりも多く、五十問くらいあった気がする。先輩たちから聞いていたように、とても幅広い知識が求められた。一時間以内に全ての問題を解くことに必死で、正直見直す時間はなかった。けれど、うん、きっと大丈夫。

「じゃあ、パソコンのここのボタンを押して。そしたら合否が分かるよ」

「そんな簡単に?」

「そう。じゃあ、どうぞ」

 少しだけ鼓動を速めつつ、私は合否の出るボタンをクリックした。

【合格】

 画面には赤色の大きな合格の文字が表示される。本当に? 合格したの?

「おめでとう! じゃあ明日からは新たな業務に挑戦してもらおうかな」

「ありがとうございます!」

 素直に嬉しかったし、なにより安心した。勉強をした私自身よりも勉強に付き合ってくれた蒼井さんが報われたように思えたから。私はすぐさま蒼井さんに合格したことをLINEで伝え、退勤までの時間をいつも以上に一生懸命働いた。

 退勤し、スマートフォンを見ると蒼井さんからの返信が。

『おめでとう! 頑張っていましたもんね。お疲れ様でした。来週の月曜、雪さんが退勤したあと家に行ってもいいですか?』

 来週の月曜は確か蒼井さんのシフトは入っていなかった。

『いいですけど、バイトないですよね』

『大学があるので、終わったらそのまま行きます』

『じゃあ私のシフトが夕方までだから一緒に夕飯食べる?』

『食べましょう!』

 その後も何通かやりとりをし、来週の月曜に夜ご飯を食べる約束を取り付けた。蒼井さんの退勤後から終電までの短い時間はもう何度も一緒に過ごしているが、こうして夜ご飯を一緒に食べるのは初めてだ。何を食べようか話し合った結果、私の家の近くにあるハンバーガーショップで冬限定の商品が出ているとのことで、二人でテイクアウトし家で食べることに決まった。

 予感がした。この数日で蒼井さんは私との関係について自分の感情を整理し、改めていろいろと考えている。来週の月曜日、十二月十一日、きっとその日に答えが出る。振られてしまう可能性もなくはない。けれど、そう悪い未来は想像できない。もし振られたとしたら、あの日のキスに説明がつかない。

 ふいに唇に柔らかい感触がよみがえり、誰も見ていないのに両手で顔を覆ってしまう。

 恥ずかしい気持ちをごまかすように、蒼井さんにその日最後のLINEを送る。

『いつもありがとう、好きだよ。おやすみ、また明日』

 そして今日も、もう一通。

『しつこいけれど、本当に好きだなあ。多分ね、大好きなんだと思う。それだけ、おやすみ!』

 すぐさま返信が来た。

『しあわせものだな、僕は。おやすみ、また明日』

 蒼井さんと関わるようになってから私は、眠りにつく瞬間にいつも幸せな気持ちに包まれている。やっぱり蒼井さんはすごい人だ。生きる気力をくれるだけではなく、こんなにも幸せな気持ちを、こんなにも愛おしい気持ちを私に教えてくれるのだから。これからも先もずっと、眠りにつく瞬間が幸せだといい。


 十二月十一日。

 待ち遠しく長いようであっという間な一週間が終わり、約束の日が来た。定時ぴったりで退勤の打刻をし、走って駅のホームへ向かう。ギリギリ乗れた電車で家へと急いで帰る。蒼井さんが来る前に一度髪型や化粧を直したい。一日働いてくたびれた姿ではなく、きらきらと可愛い私で会いたい。その気持ちが私の足を急がせる。

 なんとか約束の三十分前に家に着き、私は大慌てで身だしなみを整えた。やっぱり前髪の調子が悪い気がする。今日よりも昨日の方が可愛かった気がする。気にしだすとキリがない。

 今日は駅まで蒼井さんを迎えに行き、その足でハンバーガーショップへ向かう予定だ。家を出る前になんとなく気になり、コートに消臭スプレーを吹きかけた。変なにおいがしたらどうしようと気にしすぎたのか、いつもよりたくさん吹きかけてしまい、羽織ったコートは逆に寒いくらい湿っていた。

 私が駅に着いた頃、蒼井さんからも着いたと連絡が入り、改札の出口で蒼井さんを待つ。

電車から降りてきた人の波が一気に押し寄せる。この中に蒼井さんがいる。緊張と早く会いたい気持ちを抱え、人の波をじっと見るがなかなか現れない。数分経ち、改札を通る人もほとんどいなくなった頃ようやく蒼井さんが現れた。もしかすると、蒼井さんも駅のトイレで髪型を気にしていたのかな、そんなわけないか。

「お待たせしました」

「いえ、ようこそ」

「行きましょうか。僕お腹ぺこぺこです」

 二人並んでハンバーガーショップまでの道を歩く。正直このときの記憶はほとんど残っていない。きっと何かしらの話をしたのだろう。けれど緊張と高鳴る鼓動にかき消され、自分が何を話したのかすら思い出せない。

 ハンバーガーショップで冬限定のバーガーを二つと、チョコレートのパイを二つ、コーヒーとカフェラテを購入し家へ帰る。

 家に着いた私たちは、ハンバーガーが冷めないうちに食べようと二人でこたつに入り、テーブルの上に購入した食べ物たちを並べていく。

「いただきます!」

 二人で手を合わせ、まだ熱々のハンバーガーを口にする。冬限定のバーガーは中にクリームのコロッケが挟まれていて分厚く、大きな口を開けないとうまく食べられそうにない。横を見ると蒼井さんが大きく口を開け、美味しそうに頬張っている。よし、私も。そう思うが蒼井さんの前で大きな口を開けることが今の私にはどうしてもできない。少しずつバンズの端をかじる。

「ちょっとずつ食べるんですね」

「いや、恥ずかしくて」

「そういうところ、可愛いと思います」

 可愛い、初めて言われた気がする。まさかバンズをかじっているところを可愛いと言われるなんて。嬉しいが、本当は私だって大きな口でがぶっと食べたいのだ。

「あ、見てください。窓の向こうになんか飛んでます」

「えっ?」

 蒼井さんが窓の方を向いた隙に、えいやっとバーガーにかぶりつく。やっぱり大きな口で食べた方が美味しい! 口の中に広がるクリームコロッケの甘さと塩味を味わっていると

「カーテン閉まってますよ」

 とこちらに向き直る。しまった、頬一杯にバーガーを詰め込んで食べているところを見られてしまった。

「そういうことか。別に気にしないでいいですよ。逆に雪さんが食べ物をむしゃむしゃ食べているところ見てみたいです」

「@@@@@@@」

 今は喋れず、必死に咀嚼し飲み込んだ。

「そんなの無理です。恥ずかしすぎる」

「じゃあ、いつか僕の目の前ででかい口開けてハンバーガー食べてくれるのを楽しみにしてます」

「そんなのいつまで経っても無理だよ」

 その後も蒼井さんがこちらを向いている間は小さく少しずつかじり、ときおり窓の外に何かいると口にし、蒼井さんが向こうを向いた隙にがぶりと頬張った。蒼井さんは分かっていても毎回窓の方を向いてくれ、もうそっち見ていいですかとわざわざ聞いてくれた。おかげでなんとか食べ終え、パイに手を伸ばす。

「僕、このパイを綺麗に食べられている人見たことない」

 その通り。このパイはどう食べても手や口の周りがチョコレートで汚くなってしまうことで有名なパイ。どうしてこんなハードル高いものを今日選んでしまったのか。自分を恨みながらも、蒼井さんの食べ方を真似して少しずつ食べ進める。最後の方はもう蒼井さんが窓の方を向いてくれなくなったので、仕方なく私がテーブルと反対方向を向いて口にパイを放り込んだ。

「無事食べ終わってよかったですね」

「本当です。どうなることかと思いました」

 そんな私の姿を見て、蒼井さんが笑っている。食べきるのは大変だったが、すごく、幸せな時間だった。

 食べ終えたところで蒼井さんが突然、

「考えることって、すごく大切なことだと思うんです」

 そう口にする。

「僕たちは人間なので、自分の頭でしっかり考えることが出来ます。考えることを放棄したらそれはもう他の動物と同じです。ちゃんと頭を使ってしっかり考えて、自分の言動にきちんと責任を持つべきだと僕は思うんですよね」

「うん」

 突然始まった話に戸惑いながらも、何か大切な話をしているのだと感じ、私は姿勢を正した。

 続きを待ったが、なかなか話し出さない。

「……それで」

 続きを促してみる。蒼井さんはしばらくじっと何かを考え、ようやく口を開く。

「僕は何を言っているんだろう。でもね、そういうことなんです」

「はあ、」

「つまり、雪さん。僕と付き合ってくれますか?」

 突然の告白に、予感はしていたものの驚きを隠せない。けれどそれ以上に嬉しさと愛おしさが全身から溢れ出し、気づけば私は満面の笑みになっていたように思う。

「はい、もちろん」

「よかった、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。じゃあ、今日が記念日ですね」

「十二月十一日、記念日です」


 十二月十一日、名前がなく脆かった私たちの関係に、恋人という強く結ばれた名前がついた日。

 十二月十一日、伝え続けた私の気持ちが蒼井さんからも返ってきて、二人の気持ちが一つになった日。

 あの雨の中、ベンチで蒼井さんに話を聞いてもらって私は、自分の消えかけていた生きたいという気持ちを取り戻した。あの日から二年と一か月。私たちは恋人となった。


 その夜蒼井さんは私の家に泊まった。歯ブラシと下着は蒼井さんが走ってコンビニで調達し、パジャマは私のオーバーサイズTシャツを貸した。好きな人と並んで歯を磨くことがこんなにも幸せだなんて今まで知らなかった。好きな人と同じ布団をかぶり、隣に並んで眠ることがこんなにも温かく優しい時間をもたらすなんて今まで知らなかった。肌を寄せ合う以上の触れ合いはなく、ただただ並んで眠りについただけだったが、これまで経験したどんな夜にも超えられない幸福がそこにはあった。


 私たちの関係に恋人という名前がついたのともう一つ、この夜を境に私たちの間で変化したことがある。それはお互いの呼び名だ。

「蒼井さんは、なんて呼ばれるのが好きですか。下の名前倫太朗さんですよね」

「敬語は使わなくて大丈夫です。恋人なので」

「そう。じゃあ改めて。何て呼ばれたい? 例えば、りん、とか」

「りんたろう」

「りんたろう?」

「それがいいな」

「じゃあ、これからは倫太朗って呼ぶ」

「僕はなんて呼んだらいいかな」

「なんでもいいよ、好きに呼んでほしい」

「じゃあ……雪」

「うん! 嬉しい」

 私たちはお互いを下の名前で呼び合うことになった。ときどき癖で敬語になってしまうが、敬語を使うのもやめた。私たちは恋人同士だから。

 朝が来て、部屋の明るさに目を覚ますと倫太朗はまだ隣で眠っていた。穏やかで綺麗なその寝顔を少しの間みつめる。

本当にここまできたんだ。初めて休憩に誘ってもらった時の私はこんな日が来るとは想像もしていなかった。だってあの日の私は半分死にかけていたのだから。もしあの日がなければ、今日の私はいない。もしあの日がなければ……。運命の神様はきっといる。

んん、と声がして倫太朗が目を覚ます。ゆっくりと開かれた目には今、私の姿が映っている。

「おはよう」

「おはよう」

「倫太朗」

 意味もなくその名前を呼んでみた。突然名前を呼ばれ恥ずかしかったのか、倫太朗は布団を頭まですっぽりかぶってしまった。

 これまでに続けばいいと願ったどの幸せよりも大きな幸せが今ここにあり、これからも続いていくのだと改めて実感する。こんなにも愛おしい気持ちで胸をいっぱいにできるなんて。こんなにも愛おしい存在が目の前にいて、その髪や頬に触れることができるなんて。

 私は手を伸ばしそっと倫太朗の髪に触れ、優しく撫でた。

「こんなに眠れると思わなかった」

 布団の中から声がする。

「どうして?」

「僕、いつも眠れないから」

「自分の家でも?」

「そう。いつもあまり眠れないのに、昨日はぐっすりだった。すごいや」

 私はそのまま倫太朗の頭を撫で続ける。

「これからも、よく眠れるといいね」

 私はそっと心に誓う。この人を大切にしよう。何があってもこの人の味方でいよう。この人がこれからもよく眠れるように。この人がずっと守られるように。どうか、これから先もずっとずっとこの人が幸せでありますように。私にできることはなんでもする。無理なことでも可能な限り力を尽くす。この人が守られ、幸せであるのなら、それだけで私が生きる意味になる。この人がいる限り、私はこの人のために一生懸命毎日を生きよう、と。


 私たちが恋人になって初めての出勤日。

 隠すつもりはないが、公にするつもりもない。職場ではいつも通りでいようと付き合った日に話し合った。

 出勤し、今日の予定を確認すると偶然にも休憩にあてられた時間が倫太朗とかぶっている。私は後から出勤してくる倫太朗にLINEを送る。

『休憩、かぶってるみたい。珍しいね、しかもこんなタイミングで。一緒に行く……?嫌なら全然いいんだけど』

 今までぐいぐいいっていたのが嘘のように、恋人になった途端自分の言動に自信がなくなる。もし嫌がられたらどうしよう、積極的すぎると思われたらどうしよう。そんな不安がつい頭をよぎってしまうのだ。

『一緒に行くに決まってるじゃん』

 倫太朗からの返信は一瞬で私を笑顔にさせ、安心させるものだった。

 今日はまた一つ新しい仕事に挑戦する日だ。休憩を楽しみに頑張ろう! 私は自分に気合を入れる。

 休憩は店舗の外のベンチで取ることにした。二人で並んで腰かける。以前ここに二人で並んだ日のことを思い出す。あれから今日までの間に様々なことが変わった。あの日はまだほとんど会話したことがなかった蒼井さんは、今や私の恋人になって呼び名も倫太朗になった。

「考え事?」

 倫太朗が横から覗き込む。長いまつげにきらきらとした瞳、愛おしい私の大好きな顔。

「ううん。前にここで一緒に休憩取った日のこと思い出してたの」

「ああ、懐かしいね。まさかこんなことになるとはね」

 倫太朗が鞄から大きなおにぎりを取り出した。

「あの日もおにぎり食べてたよね」

「そうだっけ」

「お母さんの手作り?」

「ううん、僕が今朝握ったんだよ」

「えっ、いつも自分で?」

「最近はずっと僕が作っているよ。よかったら食べる?」

「食べたい!」

 少しだけ分けてもらった倫太朗の手作りおにぎりは、すごく、すごく美味しかった。中身は鮭のほぐし身で、なんと自分で鮭を焼いてほぐしたのだという。自分用のおにぎりにこんなにも手間をかけられる倫太朗をすごいと思ったし、朝から鮭をほぐしおにぎりを握っている姿を想像すると、とてもかわいくて愛おしいと思った。

「美味しいね」

 分けてもらったおにぎりを頬張りながら倫太朗の方を見る。ふいに目が合い、倫太朗は驚いたように目を丸くし、かわいい……とつぶやいた。倫太朗の方がかわいいと伝えたかったが、口の中にはおにぎりが入っているので何も言い返せない。しっかり咀嚼し終えた頃にはそのことをすっかり忘れていた。

「今日はね、新しい仕事に挑戦してるの」

「ね、見ていて思ったよ。頑張ってるね」

「難しいけど、新しいことをやるのってすごく楽しい」

「やれるだけやったらいいよ。楽しいなら尚更」

「うん!」

 幸せな休憩時間はあっという間に過ぎていき、私たちはそれぞれの持ち場に戻る。

 これから先も休憩がかぶれば、また倫太朗のおにぎりを食べられるかもしれない。そう思い、夜にLINEでそのことを伝えると

『簡単なのでよければ、いつでも家に作りに行くよ』

 と想像していなかった返信が来て、改めて私たちは恋人なのだと思い知らされる。

 そしてもう一通。

『なんか今日思ったんですけど、思っていたより雪のことが好きですね』

 照れ隠しか動揺か、敬語になっている。けれどその言葉が私は心から嬉しかった。私が一方的に好きになり、ぐいぐいと押して始まったこの恋で、倫太朗が自分から好きと言ってくれるととても安心する。そしてさらに倫太朗のことが好きになる。

 そしてふと思い出す。おにぎりを食べながら倫太朗とふいに目が合ったあの瞬間、きっとあのときにそう思ってくれたのではないだろうか。食べるのに夢中で倫太朗からのかわいいをスルーしてしまったのが惜しい。もう一度言われたい、そんな思いが沸き上がる。

 恋をすると人は可愛くなるというのはあながち嘘ではないだろう。きっと好きな人に可愛いと思ってほしくて、言ってほしくて、みんな自分なりに努力をする。その結果やはり可愛くなるのだ。


 十二月十九日。

 私の平日休みと倫太朗の休講が重なったので、私たちはデートをすることにした。行き先は、横浜の赤レンガ倉庫で開催されているクリスマスマーケットだ。私は昔からクリスマスが大好きだったが、これまでクリスマスマーケットへは行ったことがなかった。その話をすると倫太朗が行こう! とすぐに予定を決めてくれた。

 これまで行きたい場所があっても、交通費やその場でかかるお金のことを考えるとなかなか行こうと言い出せなかった。元夫はそういったイベント目的の外出が嫌いだった。

 なので倫太朗が行こうと言ったとき、私はなんどもいいの? と確認した。

「クリスマスマーケットって、けっこうお金かかるよ」

「特別なイベントだからあたりまえだよ」

「それに横浜まで行くの大変じゃない?」

「雪さんが大変じゃなければ、僕は全然」

「あ、雪さんって言った」

「雪」

「そう、雪って呼んで。本当に一緒に行ってくれるの?」

「僕が行きたいから」

 そして今、二人で電車に乗って横浜へ向かっている。倫太朗はもこもことした温かそうなダウンを着ていてかなり着膨れしている。普段はシュッとしているのに冬の上着でまんまるになった倫太朗を見ると、かわいくて思わず抱きしめたくなる。首にはブルーグリーンのマフラーが巻かれている。案外寒がりさんなんだ。私は電車の中に効いた暖房が暑いくらいで、上着は脱いで手に持っている。寒がりでまんまるな倫太朗は窓からの陽射しに照らされ、眩しそうに眼を閉じている。

 相変わらず綺麗な横顔だ。なんだか嬉しくなって、思わず笑顔になる。電車の窓から見える外の景色、同じ電車に乗っている人達、全てが輝いて見えた。目に映る全てが幸福で、穏やかで。

 今の私は誰が見ても幸せそうな顔をしていると自分で分かる。

 私の手には自分の上着と、倫太朗の鞄。アルバイトのときはリュックを背負っている倫太朗が今日は四角くて薄い黒色の鞄を持ってきた。いつもと違うと私が言うと、デートだからと答えた。それが嬉しくて、電車に座ったときに倫太朗から鞄を奪い、ずっと抱きしめている。大好きな人の大切な鞄。デート用の鞄。

 あまりにも穏やかな幸せに包まれ、いつの間にか居眠りをしていた。倫太朗に起こされた時にはもう横浜へ到着していた。

 寝起きの頭で電車から降りて、倫太朗の後をついて行く。

「手、繋ぎましょうか」

 敬語になった倫太朗から手が差し伸べられる。

「うん!」

 私たちは手を繋いでクリスマスマーケットの会場である赤レンガ倉庫へ向かう。

 会場に到着し、あらかじめインターネットで購入しておいたチケットを掲示し会場の中へ入る。平日を選んだおかげか、人はまばらで並ばずすぐに入場することができた。

 入場口で渡された紙のリストバンドをお互いの手首に巻き付ける。

「おそろいだ!」

「だね」

 それだけのことでも嬉しくなってしまう。

 入口から少し歩くとメイン会場があり、大きなクリスマスツリーとそれを囲むように設置された様々なお店。それぞれのお店では飲み物や食べ物、雑貨などが売られている。一つのお店だけでも種類がたくさんあるのに、何店舗もあるなんて、ついつい目移りしてしまう。

「とりあえず、ぐるっと周って飲み物買おうか」

 私たちはクリスマスツリーを囲むお店を一度見て周ることにした。

「あっ、ウインナー! こっちはチーズポテトだって!」

 初めて来たクリスマスマーケットは夢の国のようで、わくわくが止まらない。

「こっちにはワイン売ってる! オリジナルマグカップもあるよ! 牛タンシチューなんてのもある。すごいね、どれにしよう」

 テンションが上がり、倫太朗の手を引いてどんどん歩き進む私を倫太朗は優しい目で見守りながらずっとついてきてくれた。

「けっこう寒いから温かいの飲もうか。雪はワイン?」

「なんで飲みたいもの分かったの」

「そりゃあね」

 私たちはそれぞれホットのワインとホットのアップルティーを購入した。倫太朗はあまりアルコールに強くないらしくノンアルコールだ。ついでに山盛りのポテトとウインナーの盛り合わせも購入する。

 空いている席を探し、テーブルに購入したものたちを並べる。

 遠くでカーンカーンと鐘の音がする。誰でも自由に鳴らせる鐘が入り口の方にあった。きっと誰かがあの鐘を鳴らしているのだろう。

「じゃあ、いただきます!」

 二人で手を合わせ、まずはワインから。冷えた体に温かいワインが染み渡る。

「うーん、美味しい」

「そりゃよかった。酔いすぎない程度にね」

「はーい」

 山盛りのポテトは冷たい外気にさらされ、すでにひんやり冷め始めていた。購入したときには湯気が出ていたのに。冬の力、恐るべし。けれど、好きな人と食べるポテトはたとえ冷めていても美味しかった。本当は次から次へとポテトを頬張りたかったけれど、まだ恥ずかしさに勝てなくて、私は一本ずつゆっくりとポテトを口に運ぶ。ゆっくり食べるからどんどん冷めていくポテト。そのどうしようもなさが面白くてつい笑ってしまった。

「どうしたんですか」

「あ、また敬語になってるよ。いやね、なんか幸せだなと思って」

「僕も幸せだよ」

 倫太朗はすぐに私が喜ぶことを言う。しかもそれがきちんと本音だと分かる声で。

「冷めてきたから急いで食べちゃうよ」

 そう言って冷え冷えのポテトを倫太朗は凄い早さで食べ進める。私もいつかこんな風にがつがつ食べられるようになるといい。そんな日なんてくるのかな。

「食べ終わったら、ちょっと雑貨のお店見て周ろうか」

 冷え冷えのポテトとウインナーで一旦満たされたお腹を抱え、雑貨を売っているお店をゆっくりと見て周る。

 王道にクリスマスツリーを売っているお店、クリスマスモチーフのアクセサリーを売っているお店、ぬいぐるみやあったかグッズを売っているお店。全てのお店がクリスマス一色で、店員さんもお客さんもみんな幸せそうに見えた。

 私たちは紙ものを売っているお店で紙を切り抜いて小さなクリスマスツリーを作れるキットを購入した。紙は薄い木のような素材で、机の上に飾ったら可愛いだろう。

 それともう一つ。皮ものを扱っているお店で、お互いのクリスマスプレゼントを買い合った。私から倫太朗へ贈るのは皮素材で濃いネイビーカラーのキーケース、倫太朗から私へ贈ってくれるのは同じ皮素材に同じネイビーカラーのブレスレットだ。一緒に選んで同じ色にした。

 皮は使えば使うほどにその人の色に染まっていく。今は同じ色でも二人で年月を重ねればそれぞれが全く違った色味に変化していくだろう。これから二人でたくさんの時間を過ごそう、そんな意味を込めてお互いに購入した。その場では渡さず、クリスマス当日に贈りあうことにした。

 店員さんが紙袋に赤いリボンを結んでくれた。お互いへのプレゼントを手に、私たちは再び飲み物を求め店を周る。

「あ、チュロスあるよ! 私チュロス食べたい」

「シナモンとチョコレート、どっちがいいですか」

「どっちも! どっちも食べたい!」

「食いしん坊だなあ」

 そんな会話をしながら私たちは二本のチュロスと、温かいチョコレートドリンクを購入した。

 少しずつ日が暮れて辺りが暗くなり、会場に装飾されたイルミネーションがきらきらと光り始める。冬の空気はすごく寒い、けれど心の中はなんだかすごく温かい。

 ストーブの近くの席に座り、ホットチョコレートを飲む。私のだけラム酒入りだ。チュロスは二本を半分こして食べた。最初に私がシナモンを食べて、あとからチョコレート。周りについたグラニュー糖がじゃりじゃりして、甘くて、美味しかった。

 一度暮れ始めた日はあっという間に夜を連れてきて、そこら中にきらきらとイルミネーションが光っている。会場の真ん中にある大きなクリスマスツリーにもいつの間にか灯りがともり、幻想的だ。

 イルミネーションの写真を撮っていると

「レシート、まだ入れているんだね」

 と、倫太朗に言われた。初めて一緒に飲んだコーヒーのレシート。それを私はスマートフォンのカバーに挟んでいた。あの日のことをいつでも思い出せるように。

「そうだよ。だってこれは私にとっての宝物だもの」

「これからたくさん増えるよ、宝物」

「そうだね、一緒にたくさん作ろう」

「ね、あれ乗ろうか」

 そう言って倫太朗が指さしたのは、大きな観覧車。この会場から歩いて行ける距離にある。

「えっ、いいの?」

「乗りたいでしょ」

「うん」

「じゃあ乗ろうよ。せっかくだし」

「やったー!」

 クリスマスマーケットを十分に楽しんだ後、私たちは歩いて観覧車へと向かった。夜の観覧車は虹色に光っている。

 倫太朗と乗る虹色の観覧車は夢のようで、わくわくドキドキして。なのに、なぜだかあまり記憶に残っていない。本当に夢の出来事だったのではないかと思ってしまうくらいに幸せで、夢のような時間だった。

 帰り際、もう一度クリスマスマーケットの会場へ行き、チュロスをリピート購入した。今度は私が手に二本持ち、シナモン、チョコレート、シナモン、チョコレートと一口ずつ食べた。

「ねえ、このチュロス、シナモンとチョコレートで一口ずつ食べるとすっごく美味しいよ。倫太朗も食べてみて!」

 二本のチュロスを倫太朗に差し出す。

「雪、やんちゃだなあ。どれどれ……ほんとだ! うまい!」

 私はとても幸せだ。イルミネーションで彩られた街も、冷たい空気に冷やされた頬も、倫太朗が貸してくれたマフラーも、すれ違う楽しそうな人達も。全てが私の中で幸福の素になる。隣に倫太朗がいてくれる限り、倫太朗と生きている限り、私はきっと幸せだ。

 隣を歩く倫太朗を見上げ言う。

「倫太朗、ありがとう」

「どういたしまして、こちらこそ」

 大きな手で私の頭を撫でながら倫太朗が言う。


 私たちの幸せな十二月はこうしてあっという間に過ぎていった。

 仕事上年末年始は繁忙期で忙しく、なかなか倫太朗との時間が取れなかった。けれど毎日のようにLINEや電話で欠かさず話をしてくれて、少しでも時間があれば帰る途中で家へ寄ってくれた。


 十二月三十一日。

 倫太朗は大晦日も遅番のシフトが入っていたが、

『今夜さ、年一緒に越そうか。帰らなきゃではあるんだけど、少しだけ会いたいな』

 そうLINEをくれ、ほんの少しの時間だが一緒に年を越せることになった。

 年末で忙しかったのかいつもより遅めの二十三時半、

『もうすぐ着くよ』

 そうLINEが来た。

『じゃあ駅までお迎え行くよ! すっぴんだけども』

『えっ、いいの?』

『少しでも早く会えたら嬉しいし!』

『ありがとう。ゆっくり走らずにね』

 そう伝えたものの、着替えに手間取ってしまい、結局倫太朗を駅で少し待たせてしまった。

 慌てて家を飛び出し、遅れたことを謝る私に倫太朗は、

「迎えに来てくれるってことに意味があるんだよ」

 そう優しく言ってくれた。

恋人になって初めての年越しを、私たちはほんの短い時間だったが一緒に過ごした。


 一月十一日。

 私たちが恋人になって一か月。私は自分の中にある倫太朗への気持ちをどうしたらうまく伝えられるかと悩み、手紙を書こうと思った。そして、一か月前のあの日心に誓ったことを、倫太朗の味方であるということを伝えようと思った。

 しかし、たった一ヶ月で手紙を書くというのは人によっては重たく取られてしまうかもしれない。それに味方という言葉を簡単に伝えてしまうことにも抵抗があった。過去に君の味方だと言ってくれた人に裏切られたことがあったから。だから、味方と軽々しく口にしてはいけないように思っていた。例え本当に味方であったとしても。

 いろいろと悩んだ末、手紙は書かなかった。レターセットまで用意したが重たいと思われてしまうのが怖かった。

 けれど、その日倫太朗は私に手紙とルームスプレーをプレゼントしてくれた。




――雪へ

今日で付き合って一か月が経ちました。

やっぱり僕たちはなんだか似ていると思います。どこが似ているのかと言われるとまあ、キリがないし、言葉にできない部分もあるので難しいところではあるけれど。でも、それでもなんだか似ていると思いました。

僕は最近、雪の嬉しそうな顔に嬉しいと感じるようになりました。悲しそうにしていると、僕まで悲しい気持ちになります。会えないのが寂しいと思うようになりました。

助けになりたい、幸せでいてほしいと願うようになりました。すごいことです。ありがとう。

 僕らは似ています。賢くて優しくて、不安で、いつもなにかを、誰かのことを考えています。

頼ってほしいです。話してほしいし、相談してほしいです。ただそれはきっと僕らには難しいことです。

独りでどうにかできるかもしれない。迷惑をかけてしまうかもしれない。頼って解決するかも分からない。

僕らは器用だから。賢くて優しいから。

でも同時に僕らは、頼れる人がいることがどんなに素晴らしいことかを知っています。頼ることは、迷惑をかけるということかも。でも大切な人に迷惑をかけ頼るということは、素敵な、幸せなことだと僕は思います。

だから僕は、雪に頼ります。寄りかかって休みます、隣で眠ります。まさか僕にこんな風に誰かと笑い、誰かと一緒に眠りにつける日々が来るなんて。幸せです。ありがとう。

雪にとっても、僕がそんな存在であってほしいと思います。いつどんな時でも、僕は味方でいます。これからも雪の話を聞かせてください。たくさん迷惑をかけてください。寄り添わせてください。手を繋いでどこへでも行きましょう。

 二人なら、どんな場所でも楽しいと思います。

 今日もすごく好きです。

            一月十一日、倫太朗――




 倫太朗からの手紙を読んで、私はこっそり泣いた。嬉しかった。そして自分も手紙を書きたかったが、重いと思われるのが怖くて書けなかったことを伝えた。すると

「知ってるよ。雪は怖がりだから、きっとそんなことだろうと思ってた。だから僕が最初に手紙を書いたんだよ」

「じゃあ、私も手紙書いていい?」

「もちろん」

「長くて重たい手紙になっちゃうかもよ」

「いいよ。雪の気持ちを伝えてくれるのに、僕は重いなんて思わないから大丈夫。それに、安定するためにはある程度の重さが必要なんだ」

「ありがとう」

 倫太朗は優しい。そして温かい。

 こたつにごろんと横になった倫太朗が、小さい声で何かをつぶやく。うまく聞き取れなくて聞き返すと、私と反対方向へ寝返りを打ってもう一度

「雪が好きだよ。僕をみつけてくれてありがとう」

 倫太朗の耳は赤かった。

 明日は二人で遅めの初詣へ行く予定だ。こたつを消して、二人でベッドへ入る。


一月十二日。

 お昼前に二人で家を出た。今日の倫太朗はダウンではなく黒いコートだ。着膨れしたまんまるな倫太朗を見られないのは少し寂しいが、今日のコートもよく似合っている。倫太朗は白と黒のチェックマフラーを、私は水色のマフラーをして寒さ対策もばっちりだ。

 初詣の場所は倫太朗の提案で鎌倉の鶴岡八幡宮に決まった。

 正直、倫太朗と初詣に行けるとは思っていなかったので、一緒に行こうと誘われたとき私は驚きと嬉しさが半分半分だった。初詣は家族と行くかもしれない、そうでなくても大学やアルバイトの仲間と行くかもしれない。きっと私は一緒に行けない、勝手にそう思い込んでいた私に倫太朗は、

「雪は僕の彼女だよ。雪と行くに決まってるじゃん」

 そう言ってくれた。僕は優先順位がはっきりしているんだよ、とも。今一番大切なのは雪との時間だから、何よりも優先するよ、と。

 そんな倫太朗の言葉に、なんだか申し訳なさを感じていると

「あ、申し訳ないと思ってるでしょう」

 すぐに心を読まれてしまう。

「僕がやりたくてやっているんだよ。僕が雪を好きだから」

 倫太朗には敵わない。この人は私をどこまで幸せにするつもりだろう。私は倫太朗に何をしてあげられるだろう。

 鎌倉までは電車で二時間と少し。行きの電車で倫太朗に尋ねる。

「鶴岡八幡宮、行ったことあるの?」

「あるよ、去年」

「家族と行ったの?」

「ううん、一人で」

「初詣に?」

「初詣ってわけじゃないけど、去年の今頃僕はけっこう鬱々としていて。就活とかいろんなことが重なっていたから。それでこのまま家にいたらよくないなって、どこか遠くへ行きたいなって」

「それで鎌倉に」

「うん。鎌倉で電車を降りて、まずは今日行く鶴岡八幡宮に行ったんだ。そこでおみくじを引いたんだけどね、なんと大凶。鬱々としている時期だったからさ、とことんついていないんだなって、わりとへこんだよ」

 倫太朗は穏やかに笑いながら話してくれる。

「その後は一人で鎌倉をたくさん歩いたんだ。人がたくさんいるところは気が滅入るから、なるべく人のいない方へって。竹林や海へ行った。寒かったけど、海が見える丘で昼寝をしたんだ。目が覚めたらちょうど夕日が沈むところでさ」

 そう言ってスマートフォンの写真を見せてくれた。その写真には海に沈もうとしている夕日と倫太朗の足元が映っていた。

「なんとなく写真を撮って、一人で温泉に入って帰ったよ」

「なんか、いいなあ。私は一人ではあまり遠くへ行けないから。そうやって自分で決めて、一人で遠くまで歩いて行ける倫太朗が羨ましい」

「慣れない靴でたくさん歩いたもんだから、帰る頃には靴擦れして血まみれだったよ」

 倫太朗が笑う。

「ねえ、この海が見える丘に私も行ってみたい」

「疲れていなかったら、初詣のあと行ってみよう。歩くと遠いから今日は江ノ電に乗ろう」

「やった! 楽しみ」

 話していると二時間はあっという間で、私たちは共に鎌倉駅へ降り立った。駅から鶴岡八幡宮の入り口まではすぐで、道中にある小町通りで食べ歩きをしつつ向かうことにした。平日とはいえ、小町通りは人で賑わっている。

「人がたくさんいるね」

「去年はこの人が大勢いる通りを通るのが怖くて、一つ外れた道を歩いたんだ」

「今年は大丈夫?」

「雪と一緒なら大丈夫」

 クレープ屋さんに焼き立てせんべい、からあげやお饅頭、美味しそうな食べ物たちの看板が次々と目に入る。

「何か食べたいな」

「じゃあ、お団子にしよう」

 私たちは曲がり角に店を構えた和菓子さんでお団子を買うことにした。みたらしやあんこだけではなく、抹茶やさくら、ずんだにいちご、選べないくらい種類豊富だ。

「雪はどれがいい?」

 私は悩みながらも、さくらを食べてみたいと思った。けれど、倫太朗が嫌だったらどうしよう、変な選択だと思われたらどうしよう、そう考えると自分の意見をなかなか口に出せない。

「倫太朗はどれがいいの」

「僕は、あんこかな。もう一つは雪が選んで」

「うん……。どうしよう、倫太朗、食べたいのある?」

「雪」

 倫太朗に名前を呼ばれ、視線をメニュー表から倫太朗へ移す。

「雪、自分で決めていいんだよ。本当は食べたいのあるでしょ。僕の反応が怖くて言い出せない、違う?」

「そうです」

「それなら心配いらないよ。雪が選びたいものを選べばいい。僕はそれに対して意見したり否定したりしないよ。何が食べたい?」

 倫太朗には敵わない。

「……さくら」

「さくら! いいじゃん! そうしよう。僕もさくら気になっていたんだよね」

 倫太朗はあんことさくらのお団子を注文してくれた。

「雪はやんちゃで食いしん坊なのに、こういうところで消極的になるよね。いつか雪が僕の手を引っ張って、あれがいい、これがいいって振り回してくれるようになるといいな。僕の頑張りどころかな」

 自分の意見が肯定される世界で生きていなかったから。自分が正しいと思える世界はこれまでどこにも存在していなかったから。自分の意見を伝えるのは怖い。相手を不快に、不機嫌にさせるのが怖い。それなら相手に従って自分の意見を殺した方がいい。そんな世界で生きていた。

 けれど、倫太朗と出会ってから私の世界は少しずつ変わり始めている。

 暗く、苦しく、死んでいるように生きてきたこの世界は今、明るく、きらきらと輝く、穏やかな幸福に包まれた世界へと変わろうとしている。倫太朗が私の世界を変えてくれた。

 自分で選んだお団子はとても美味しかった。少しお腹が満たされて、いよいよ鶴岡八幡宮へ向かう。

 大きな鳥居をくぐると、一気に空気が変わった気がした。特別な場所へ来た、そんな空気感に包まれている。長い階段を上り、本堂へ入る。お参りの礼儀は昨日の夜に二人で予習した。せーので小銭を投げ、礼と拍手をして手を合わせ、目を瞑る。

 私は心の中で神様に伝える。

(今日は大好きな倫太朗とここへ来ることができました。私は今、こんなにも幸せな気持ちでここにいます。幸せを幸せだと気づかせてくれてありがとう。これからも一生懸命生きます。一生懸命生きるので、どうか隣にいる倫太朗にたくさんの幸せが訪れますように。倫太朗がずっとずっと穏やかで幸せな気持ちでいられますように。倫太朗のことを守れますように。一生懸命生きるので、どうかよろしくお願いします)

 目を開けると、先に終えていた倫太朗がこちらをみていた。

「ずいぶんと長く祈っていたね。何をお願いしたの?」

「内緒。さあ、おみくじ引きに行くよ!」

 たくさんあるおみくじの中から、去年倫太朗が引いたものと同じ鳩みくじを引く。鳩の形をしたおまもりが同封されている小さくて可愛いおみくじだ。倫太朗が先に選び、次に私が一つ選ぶ。

 二人揃って、おみくじを開封する。去年の大凶がよみがえるのか、倫太朗は少し怖そうな表情だ。神様、おねがい。倫太朗によい結果を。

 結果は倫太朗が吉、私が末吉。

「よかったー!」

 嬉しそうな倫太朗を見ていると私まで嬉しくなる。倫太朗は雪のおかげだと言ったが、私は何もしていない。倫太朗が自分で吉を選び取ったのだ。

 その後二人でお揃いの幸守りを手にし、本堂を後にする。

「楽しかったね」

 さっきとは違う木に囲まれた静かな道を通って駅まで戻る。

「あっ!」

 私は目の前に折れた枝が落ちているのをみつけて、思わず手に取ってしまう。昔からこういった枝や、花びらが落ちているのをみつけると、つい手に取ってみたくなるのだ。けれどそれを元夫は良しとはしておらず、いつも子供っぽいからやめろと叱られていたことを思い出す。

「なんでもない、ごめん」

 私は急いで枝を地面に戻す。

「どうして。枝に惹きつけられちゃう雪、面白い」

「えっ、いいの」

 倫太朗が頷く。

 私はもう一度枝を手に取った。振り回すわけでもないし、絵を描くわけでもない。なんとなく手に取りたいのだ。

「じゃーん」

 手に取った枝を、空に掲げる。その様子を倫太朗はスマートフォンのカメラにバッチリ収めてくれた。

「本当にやんちゃだなあ。雪っていうより雪ちゃんの方がしっくりくるや」

「年上だから雪ちゃんってこと?」

「ううん、子供みたいでかわいいから雪ちゃん」

 その日から私の呼び名は雪ちゃんになった。けっこう気に入っている。

 枝に満足した私はそっと道の端に枝を戻す。

「倫太朗、どうもありがとう」

「いいえ」

 その後私たちは江ノ電に乗って、海の方へ向かった。途中にある海の見えるカフェで食事を取り、身体が温まったところで近くを散策することにした。

 海の近くは風が強く、髪がぼさぼさになってしまう。倫太朗の髪もおばけのようにぼさぼさだ。私たちはお互いにそのぼさぼさな姿を写真に収めた。海の波は激しく、日々の不安や憂鬱を連れ去ってくれそうだ。倫太朗が鬱々としていたというあの日に一人でここへ来た理由が分かるような気がした。

 海沿いの道をずっと歩いていくと、ふいに目の前に丘が現れた。

「もしかしてここ?」

「そうだよ、行こう」

 倫太朗があの日一人で来た海の見える丘。今日は二人で来ることができた。

 丘へ登り、海の方を見る。

「えっ!」

 ちょうど夕日が沈もうとしているところだった。見せてもらったあの日の写真と同じように。この時間にここへ来るよう計算している様子は全くなかった。鶴岡八幡宮を出たときも私が枝に夢中で時間をずいぶん費やしたし、ぼさぼさになったお互いを撮りあい、そろそろ行こうと言い出したのも私だったはずだ。

「このタイミングでここに来るって決めていたの?」

「ううん。もしかしたらって少しは考えたけど、こんなちょうどいいタイミングで来られるなんて思わなかった」

「あの写真と同じだね」

 私たちは並んで丘に腰掛け、あの日の写真を再現し、カメラに収めた。同じ場所で同じ夕日と同じ海。違っているのはそこに移りこんでいる靴が一人分から二人分になったということ。

――後になり倫太朗から、この瞬間に僕の世界が変わったんだよと教えてもらった。僕はもうひとりぼっちじゃないんだ。そう思ったと。そして、雪ちゃんのためならなんでもしよう、雪ちゃんとこれからもずっと一緒にいようと心に誓ったのもこのときだったという。私たちはよく似ているね。同じ日に同じことを考えて、同じように相手を想う――


 あっという間に沈んだ夕日を名残惜しみながらも、私たちは帰路に着いた。日が暮れた後の海沿いは想像以上に寒い。二人でマフラーをずきんのように頭からすっぽりとかぶり、並んで歩く。私たちはもう一人じゃない。


 二月に入ると倫太朗の大学での講義はほとんどが終わりを迎え、アルバイトの日以外のほとんどの時間を私の家で過ごすようになった。週に三日ほどは私の家に泊まり、私の家からアルバイトへ向かう。

 私の家で眠ると、よく眠れる。泊まるたびに倫太朗が言う。私の家のベッドが心地よいのか、それとも私が眠りにつくまで倫太朗の頭を撫でているからか。最初の頃は頭を撫でられると恥ずかしそうにしていた倫太朗だが、最近は自ら頭をこちらへ寄せてくるようになった。ときには撫でながら私が先に眠ってしまう日もあったが、この時間は何にも代えられない幸福な時間だ。

 私も休みの日には一緒にパンを焼いたり、近所のスーパーへ食材を買いに行き、夜ご飯を一緒に作ったりした。

 今日は一緒にハンバーグとプリンを作る。ひき肉と玉ねぎを合わせたタネをこねながら、ふと気になったことを聞いてみる。

「倫太朗って、自分のこと僕っていうでしょう。俺じゃなくて僕なのは理由があるの?」

「あるよ。僕って言った方が言葉に重みがでるというか……」

 頭の中にある気持ちをうまく言葉にできないのか、しばし考えこむ。

「俺って言うと、なんでもさらっと言えてしまう気がするんだ。でも、僕はって言おうとするとさ、自分が今発言しているってことをちゃんと自覚できて、責任ある言動ができる気がする、みたいな」

 倫太朗がこねたタネを二人でハンバーグの形に形成する。

「昔からずっと僕なの?」

「うん。でも、ときどきあえて俺って言うときもあるよ」

「例えば?」

「例えば……ずっと僕なのにさ、ふとしたときに俺って使うと、相手は心を開いたって思うみたいなんだよね。だから、男友達との間で信用してほしい話をするときなんかはあえて、俺って出すことがある」

「うっかり風に見せかけるってこと?」

「そうだね。あとは、親の前で使うこともある」

「聞かせて」

 形成したハンバーグは一旦冷蔵庫で冷やし固める。冷えるのを待つ間にコーヒーを淹れて、こたつでくつろぎながら倫太朗の話の続きを聞く。プリンは昼間のうちに作り、すでに冷蔵庫の中だ。

「親は僕があまり本音を話さないって思っているみたいで。だから信じてほしい大事な話をするときにあえて俺を使うんだ。いつもより砕けた感じになって、距離が縮まる」

「へえ、面白いね。よく考えて喋っているんだ。でも私は、僕が好きだな。なんかさ、特に理由はないけど、自分のことを僕っていうの、すごくいいよね。私、好きだな」

「僕もね、僕って一人称が好きだよ」

「そういえば私の前で俺って言ったことないよね」

「うん。だって雪ちゃんの前では素の僕でいられるからね。僕自身も不思議だけど、雪ちゃんと話すと肩の力が抜けるんだ。人と話すのは苦手な癖に、雪ちゃんと話すのは苦じゃない」

「私も倫太朗と話すのが大好き。話を否定せずに聞いてくれるのもそうだし、倫太朗の考えていることを聞くのも大好き。だって倫太朗が大好きだから。これからもさ、いろいろ話聞かせてよ。倫太朗のことをもっと知りたい」

「もちろん」

 ハンバーグは焼いている途中に形が崩れてしまったり、少し焦げてしまったり。だけど、倫太朗と一緒に作ったそれは今まで食べたどんなハンバーグよりも美味しかった。

 ハンバーグを食べ終え、楽しみにしていたプリンを持ってくる。

「僕ね、プリン大好き!」

「モンブランだけじゃなくて、プリンも好きなの?」

「うん。ハンバーグも大好き!」

 普段は大人っぽいのに、食べ物を好きと言う倫太朗はいつも子供みたいだ。かわいい、愛おしいとつい頭を撫でてしまう。

 私に頭を撫でられながらも倫太朗はプリンを口にすると

「おいしい!」

 と大きな声で言った。

 その日は泊まりの日で、お風呂に入った後二人で布団に潜る。

 間接照明だけの薄暗い部屋で、倫太朗が天井を向いたまま話し始めた。

「さっきさ、一人称が僕な理由について話したでしょう」

「うん」

 倫太朗が自分から何かを話し始めるのは珍しい。私も天井を向いたまま倫太朗の話を聞く。

「あのとき、雪ちゃんが理由なくいいねって言ってくれたこと、実はすごく嬉しかったんだ。みんなさ、大変だねとか考えすぎだとか言うんだ。別に嫌じゃないけれど、でも初めて雪ちゃんにいいねって言われて。僕が僕であることを認めてもらえた気がしたんだ」

「だって、倫太朗は倫太朗でしょ。私は倫太朗が好きなんだよ」

「うん、ありがとう。僕はね、雪ちゃんにそうやって心を掬われる度に、なんだか報われた気分になるんだ。雪ちゃんと出会う前の自分までも。これまで生きてきた全てが報われるような、そんな気持ちになるんだ」

「私だって、倫太朗に掬われて、救われているんだよ。倫太朗が肯定してくれたおかげで今を生きていられる」

「僕は全のことに意味をつけないと生きられない人間だった。小さい頃から自分が今やっていることや、これまでやったこと、その全てに何か意味をつけないと虚しくて生きていられないんだ。だから無理やり一つひとつの事柄に意味をつけながら生きてきた。それでもときどき自分が何のために生きているのか分からなくなるときがあるんだ。これまでやってきたことに何の意味があるんだろうって。でも雪ちゃんと出会って全てが掬われて、報われた。別に神様を信じているわけじゃないけれど、運命とか神様とかそういうのに導かれた感じというか、ありがとうっていうか……。雪ちゃんにすごく感謝しているよ」

 倫太朗からときおり感じる儚さはきっとここにあったんだ。やろうと思えばなんでもできて、周りからの信頼も厚い、一見完璧な人間に見える倫太朗。けれどその体の周りには透明のバリアが張られていて、簡単には人に触れさせない。いつもここにいるのに、ある日突然消えてしまいそうな、そんな儚さを感じていた。

 倫太朗は倫太朗なりに必死に生きていたのだ。以前の私が死に急いでいたように、倫太朗はいつも生き急いでいた。

 倫太朗の話を聞き、私も自分の気持ちを語る。

「私はね、倫太朗と逆なの。意味を求めると何もできなくなっちゃう。これをやる意味ってなんだろうって考えると、どうせ死ぬんだからやったって意味ないって。だからいつも諦めて、切り捨てて。まだ生きているのに死んだように、死ぬ日を待ち望んでいるように生きてきた。でも倫太朗と出会って変わった。意味なんて今すぐみつけられなくてもいい、後からいくらでもみつけられる。やりたいことをやればいい。生きるって、実はすごく面白くて楽しくて幸せなことなんだって、倫太朗に教えてもらったんだよ。だから、ありがとう」

 意味を求める倫太朗と意味を怖がる私。意味を持たせないと生きていけない倫太朗と意味を考えると生きていけない私。二人が真ん中で出会って、お互いの心を掬い合い、倫太朗は報われ私は救われた。

 私たちはすごいんだよ。

 二人でいる限り、きっと最強だよ。そんなことを話しながら眠りについた。




――雪ちゃんへ

 この二か月もあっという間でした。

 去年は一人で見た夕日を今年は二人で見て、はじめて誰かと一緒にご飯を作って、食べて。いろいろな話をした気がします。不思議な気持ちです。たくさんのはじめての気持ちを、貰ってばかりです。

 倫太朗のことが好き、と言ってくれたこと、嬉しかったです。なぜか目から涙が出ました。雪ちゃんの一言で僕は報われて、自分を好きでいることができています。いつも隣で、一緒にいてくれてありがとう。

 雪ちゃんと眠り、頭を撫でられるとき、僕は嬉しくて、照れ臭くて、「大好き」という言葉じゃ足りない気すらして、そんな自分に驚いています。僕は雪ちゃんのことが大好きで、大切にしたくて。僕にできることは、なんでもしたいと思っています。この気持ちは変わりません。お互いが助け合って、助けられ合って、一緒に生きるんだと今は思えます。ありがとう、すごいや。

 前回は頼ってくださいという手紙。今回は頼らせてくださいという手紙です。これで僕らは無敵か! ありがとう。好きです。

                   二月十一日 倫太朗――




 三月に入り、私は風邪をひいた。寒気がすると思いきやみるみる高熱が出て、頭痛とめまいで動けなくなってしまった。今日は倫太朗が私の家へ来る日なのに、部屋は散らかったまま。あらかじめ作っておこうと思ったケーキも途中までしか作ることができなかった。

 風邪をひいたことはまだ倫太朗に伝えていない。早めに伝えるべきなのは分かっていたが、もしかしたら気のせいで時間が立てば治るかもしれない、余計な心配をかけたくないと考えているうちに、倫太朗との約束まであと数時間後というところまで来てしまった。

 とりあえず部屋を片付けなくては。今の状態ではとても人を呼べない。

 これまで倫太朗と撮った写真をコンビニでたくさん印刷し、思い出のアルバムを作ろうとしていたのだ。それなのに、写真は今、机や床の上に乱雑に散らばっている。

 こんなんじゃ、呆れられちゃうよ。

 無理に体を動かそうとするが、体中が痛くて動けない。悔しくて、悲しくて涙が出てくる。ひとまず倫太朗に連絡を取らなければとLINEを送る。今更予定をキャンセルしたら怒られちゃうかな……。

『実は風邪をひいてしまったみたいで。まだ自分の用意すらできていないの。部屋も散らかっていて、いろいろ無理になりそう。倫太朗にもらったものとか、二人の写真とかきちんと整理したいのに体が動かないの。部屋も散らかったままで』

 悔しい思いから、つい気持ちが溢れ長文になってしまう。

『体調に負けてきちんとできていない自分が悔しくて、大切なものたちがいろいろとそのまま置きっぱなしになっている部屋が悲しくて、嫌で、嫌で、泣いちゃいそう』

 するとすぐに返信が来る。まずは体調を心配する内容。そして

『大丈夫だよ。写真は一緒に整理しよう。体調がよくないときは、休んでいいんだよ。上手くできなくてもいいよ。そういうときこそ僕の出番だから。今はしっかり休んで、元気になったら一緒にやろう、手伝うから。大切なものだからこそ、落ち着いて、嬉しい気持ちで一緒にしまってあげようよ』

 倫太朗らしい優しく温かいその内容に今度は嬉しくて涙が出た。ごめんね、迷惑かけてごめんなさい。うまくできなくてごめんなさい。そして、ありがとう。やっぱり私は倫太朗の言葉に何度も救われているよ。今日もまた。やっぱり倫太朗には敵わないや。

 その後家にやってきた倫太朗は、私の代わりに部屋の掃除をして、私の食べられそうなものを聞き出し、食事を作ってくれた。私のリクエストは、倫太朗のおにぎり。熱があるからおかゆがいいのではと言われたが、私は倫太朗のおにぎりが食べたかった。

 それを伝えると倫太朗は大きな大きなツナマヨおにぎりを握ってくれた。美味しくて、嬉しくて、またしても涙がこぼれる。

「雪ちゃんは泣き虫だ」

 倫太朗が笑う。

「食べたら少し眠るんだよ。お腹空いたらいつでもおにぎり作るよ。他に食べたいものがあれば買ってくるからなんでも言って」

「ごめんね。せっかく来てくれたのに私の世話なんて」

「何言ってるの。そのために僕がいるんでしょ」

 今日は私が倫太朗に頭を撫でられながら眠りについた。熱にうなされた体はしんどかったが、倫太朗のおにぎりを食べてこの優しい手に撫でられるなんて、風邪も悪くない。そんなことを口にしたらまた、いつでも作るし、いつでも撫でると言ってくれるのだろう。

風邪をひいていても、倫太朗といると私はこんなにも幸せだなんて。私は倫太朗が大好きだ。


 三月二十日。

 今日は倫太朗の大学の卒業式だ。付き合い始めた頃から倫太朗は、卒業式には参加しないと言っていた。行っても意味がない、と。けれど私が見に行きたいとねだると、倫太朗はそれならと参加することに決めたようだ。

 大学まで一緒に行こうと約束をしており、朝早い時間に倫太朗が一度私の家へやってくる。私は今日のために花束を用意した。倫太朗が好きな青色の花を中心にオーダーした花束。

 玄関のチャイムが鳴りドアを開けると、そこにはスーツ姿の倫太朗が立っていた。何を着ても似合うと思っていたが、スーツ姿の倫太朗は想像をはるかに超えてかっこよかった。背が高くすらっとしている倫太朗は、スーツをバッチリと着こなしている。けれどまだ学生感の残るそのあどけない顔とスーツのアンバランスさが、倫太朗のかわいさを存分に引き出していて、私は愛おしさで胸がいっぱいになる。

「似合うね、スーツ。かっこいい」

 そういうと倫太朗は照れ臭そうに笑った。卒業式に向けて少し緊張しているのか、表情はちょっぴり硬い。

「りんたろう、本当は大学で渡そうと思ったけど一緒に行くから先に渡しちゃう。卒業おめでとう」

 そう言って私は部屋の中で倫太朗に花束を渡した。

予想していなかったのか、倫太朗は目を丸くし、その後パッと笑顔になった。

「ありがとう! 花束をもらうなんて初めてだ。嬉しいよ」

「倫太朗が好きな青色にしたんだよ」

「やっぱり! 嬉しいなあ」

 そう言って倫太朗は花束の写真をたくさん撮ってくれた。

「じゃあ、僕からもこれを」

 そう言って倫太朗が鞄から取り出したのは、一通の手紙だった。このタイミングで手紙をもらえるとは思っておらず、私の目も丸くなる。そしてさっきの倫太朗と同じようにパッと笑顔に。

「雪ちゃん、いつもありがとう。雪ちゃんのおかげで卒業式に参加するって決めることができたんだ。雪ちゃんと出会ってからの数か月、本当にあっという間で本当に楽しかった。僕は今日で大学生じゃなくなっちゃうけど、社会人になっても雪ちゃんとたくさんの時間を過ごしたいと思っているから。だからこれからもよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 私たちはそう言葉を交わし、大学へ向かう。

 大学には同じく卒業式を控えた学生がたくさんいて、皆それぞれに袴やスーツ、ドレスなどで着飾っていた。ここからしばらくは倫太朗と別行動だ。卒業式が終わったらまた合流して、ご飯を食べて帰る約束をしている。

 卒業式が始まり、卒業証書を受け取る倫太朗を保護者席から見守る。そんな私の目は少し赤く腫れている。なぜなら、卒業式が始まる前、少しの待ち時間に倫太朗から今朝もらった手紙を読んでしまったから。一度読んで泣き、もう一度読み返して泣いた。

 倫太朗はやっぱりすごいや。




――雪ちゃんへ

 もうすぐ春ですね。僕は春が好きなんです。美しくも厳しくて長い冬の後、ほんのひと時、穏やかで鮮やかで、心地のいい賑やかさを感じる季節。花粉は辛いですけどね。

 春は二人で何をしよう、そういって自然と考えている自分に気づいて、嬉しくて泣きそうになります。

 僕は、僕らは、ちゃんと生きているんだと。幸せであると。付き合って百日が経つらしいですよ。ありがとう。毎日幸せです。

 僕はこの人が好きなんだと気づいてからしばらく経った頃、この人はなんて優しくて繊細で、なのにこんなにも激しくて、何か一つでも間違えたら壊れてしまいそうで、怖い、と思いました。生きることを怖がっているのだと。なにかに影響を与えて、変化を起こすのが怖いのだと。少し前の僕と同じだと思いました。だから春休みが終わるまでの期間、やれること全部やってやろうと思いました。雪ちゃんがやりたいことをみつけられるように二人でやりたいことリストを作って、二人でいろんな場所へ行って、いろいろなことを経験して、僕にできることならなんだって全力でやろうと思いました。

 二人でいろいろなところへ行きましたね。どうでしたか? 世界は思っている以上に広くて、知らないことだらけで、それは怖いことだけれど、だけど、それはすごく面白いんだと。美しく愉快で、意外と悪くないんじゃないかと。そういうことを、雪ちゃん自身の身体で、心で、直接感じてほしかった。そして考えてほしかった。今日なにしようって。明日はなにしよう、楽しみだなって。

 雪ちゃんと出会って僕は、今まで生きてきてよかった、と思いました。すごいことなんですよ、本当に。僕はずっと自分のことが嫌いで。なんだってできる。けど、本当の意味では何もできない。自分が今どこにいて、何をしているのか。自分は生きているのか、死んでいるのか。分からなくなる。だけど、だけど雪ちゃんと出会って、抱きしめられて、頭を撫でられて。それでも僕は生きているんだと、そう思いました。

 僕は僕でいいんだと。「僕」でいいんだって。

 すごいよね。こんなにも嬉しい気持ちがあるんだ。ありがとう。大好きです。

 僕はずっと、「僕」でいるよ。すごくいいな。

 大学生活も終わり。ありがとう、雪ちゃんのおかげで楽しかったです。最近はなんだか二人で一緒にいることが当たり前に、生活の一部になっているのを感じています。

僕は雪ちゃんと手を繋ぐことが好きで、頭を撫でられるのも、名前を呼ばれるのも好きです。雪ちゃんの笑った顔、ムスっとした顔も可愛くて好きです。

 四月、社会人になります。休みの日は散歩したり、何か作ったり、デートもしましょう。

 雪ちゃんに出会えてよかった。

 好きなことをしましょう。一生懸命に、適当に、一緒に。

 今日も、明日も、大好きです。

                三月十一日 倫太朗――




 三か月記念日に書いて、今日まで温めていたのか。

 手紙には倫太朗の今の気持ちが精一杯込められていた。そして私が倫太朗に伝えたいと思っていたことと同じことが書いてあった。

 私は今、倫太朗にこう伝えたい。

 倫太朗と出会って、いろいろなところへ行って。世界は私が思っているよりも広くて、面白くて、まだまだ行ってみたい場所がたくさんある。もちろん怖くて、不安なこともあるけれど、倫太朗と一緒にいればそれさえも楽しいと思えてしまう。だから今の私はもう死にたいなんて考えないよ。だってこれからも倫太朗と一緒にいろんな場所へ行ったり、いろんなことをしたりしたいから。倫太朗と出会って、もっと生きたいってそう思えたんだ。

 だからこれからも倫太朗をいっぱい抱きしめるよ。倫太朗が眠れるまで頭を撫でるよ。名前をたくさん呼ぶよ。倫太朗がもういいよって言っても、私はまだまだ倫太朗のことを好きになるよ。

 倫太朗が好きだよ。今までの倫太朗も、私の知らない倫太朗も、これからの倫太朗も私が愛すよ。倫太朗が大好きだよ。


 卒業証書を受け取った倫太朗と共に大学を後にする。

 倫太朗、これからも一緒にいよう。ずっと、ずっと。

 私たちの想いはきっと今全く同じだと、そう確信した。



 四月に入り、倫太朗は社会人になった。

 そしてそのタイミングで私たちは同棲を始めた。私が一人暮らしをしていた家に、倫太朗が引っ越してきて、二人の暮らしが始まった。




――雪ちゃんへ

 僕は、雪ちゃんを愛しています。愛しているのだと、そう思います。

 いつもありがとう。

 大好きです。今日も、明日だって。

                  四月十一日 倫太朗――




 以前、まだ蒼井くんだった倫太朗から聞いた通り、広告会社でエンジニア兼デザイナーとして働く倫太朗は、週の半分が在宅勤務で家にいる日が多かった。倫太朗が出社する日は私が、在宅勤務の日は倫太朗が夕飯や掃除を担当し、私たちの同棲生活は順調だ。

 一緒に暮らし始め毎日一緒にご飯を食べていると、さすがの私も倫太朗の前で大きな口を開けて食べられるようになった。そして満面の笑みで言う。

「美味しい!」

「付き合いたての雪ちゃんはさ、僕があっち向いていないと全然食べられなかったよね。特に最初のハンバーガー。何時間かかるんだろうって心配になっちゃったよ。まあでも、恥ずかしがっている雪ちゃんも可愛かったんだけどさ」

 倫太朗があの頃を懐かしむように目を瞑る。

 付き合いたてと今。たった数か月前でも、今とは違うことがたくさんある。一緒に時を重ねたんだなと嬉しい反面、懐かしさとほんの少しの寂しさもある。

 けれどこうして、これからも生きていくのだ。様々なものが少しずつ変化していく毎日で、変わらない気持ちを抱えて。

「あの頃と今、どっちの私が好き?」

「そりゃあもちろん、どっちも大好きだよ」

「私も!」


 この頃から私は、猫に、倫太朗の猫になりたいと思うようになった。特に仕事へ行く前は、私もずっと家にいたい、在宅勤務をしている倫太朗の膝の上で眠っていたい、そう強く思う。

「ねえ、もし来世があったらさ」

「なになに」

「私は猫になるから、倫太朗は私を見つけ出して飼ってくれる?」

「雪ちゃん、猫になるの」

「そう。猫になって、ずっと倫太朗と一緒にいるの」

「でも猫になったら、一緒にいろんなところ行けないよ」

「大人しくゲージに入るから、一緒に旅行しようよ。今は犬だけじゃなくて猫とも旅行に行く時代だよ」

「そうなんだ。じゃあ安心だ。でもどうやって雪ちゃんをみつけようかな」

「私、運命の神様にお願いするからさ。倫太朗の猫にしてください! って。そしたら今の私たちみたいにきっと出会えるよ」

「なるほどねえ。僕らもかなり珍しい道を通って恋人になったし、運命の神様って本当にいるのかもね」

 よくそんな話をした。また二人で人間として出会いたいでもなく、一緒に猫になろうでもなく、私は倫太朗の猫になりたい。なぜだかそう強く思った。


 倫太朗の会社が土日休みだったこともあり、私も無理を言って土日を休みに変えてもらった。アパレルの仕事で土日休みはかなり厳しいが、今まで頑張って働いてくれていたからと店長が認めてくれた。その代わり祝日は必ず出勤する。

 倫太朗と、生活と、仕事と。全てが充実していて、忙しいながらも充実した日々を送った。

 春はいろんな場所へいろんなものを見に行った。桜に始まり、チューリップ畑やネモフィラ畑。気温が上がってくると、涼しさを求めて山奥の滝を見に行ったり、階段を何百段も登った先にある高原で日の出を見たりした。

 夏は私も倫太朗も苦手で、外へ出かける機会は減ったが、水族館でデートをすることは私たちのお気に入りだった。暗く、ひんやりと青い空間で優雅に泳ぐ魚たちを眺める。泳いでいる魚たちを見ると、つい目で追ってしまうし、なんだか美味しそうに思えた。りんたろうはペンギンの赤ちゃんが気に入ったようで、三十分近くペンギンエリアに立ち止まっていた。

 青くて、涼しくて、綺麗で穏やか。水族館はまるで倫太朗のようだ。水族館へ行くたびに、なんだか倫太朗の心の中を覗いているような気持ちになった。

いつか沖縄へ行き、ジンベエザメを見ようと約束をした。――けれど、この約束が果たされることはなかった――


二人同時に一週間の夏休みに入ると共にテレビの甲子園に熱中したり、手作りピザに挑戦したり、家の中だけでも十分に楽しめた。日が暮れたあとには思い付きでコンビニまで散歩をしてアイスを買ったり、朝早く目が覚めてしまった私が倫太朗を叩き起こして早朝散歩をしたり。

二人でいると全てが楽しかった。秋が来たら一緒にピクニックへ行こうと話し合った。こんな幸せな日々がずっと続けばいいと願った。

楽しい夏休みはあっという間に過ぎ去り、またいつもの日常が戻ってくる。朝、玄関で倫太朗とバイバイをするのが寂しかった。ずっと一緒にいたい、日に日に思いは強くなっていく。

もしも私が倫太朗の猫なら。


そんなある日、私はまた高熱を出した。幸い熱はすぐに下がったものの、その頃から体のだるさが気になる日が多くなり、仕事へ出かけても半日で体力がもたなくなり早退してしまうようになった。休みの日などはほとんどを寝て過ごしてしまう。心配した倫太朗が病院を何件も回ってくれたが、原因は不明だった。


 九月。

体調がなかなか元に戻らず、体力がどんどん落ちていく気がする。倫太朗と話し合った末、私は仕事を休職した。

 眠っている時間が多くなった分、家事もできることが少なくなった。料理や洗濯、掃除までそのほとんどを倫太朗が担ってくれた。私に罪悪感を覚えさせないためか、笑ってしまうほどの笑顔でいつも家事をしてくれていた。また、収入がなくなった私の分まで倫太朗が支払いをしてくれた。仕事の合間に家事をして、私の面倒を見て、なにやらパソコンで副業もしているみたいだ。倫太朗にすごく負担がかかっている。分かってはいても、どうにもできなかった。

「私が猫になってずっと家にいたいなんて願ったから、こうなっちゃったのかな」

「そんなことないよ。そうだとしたら神様はいじわるすぎる」

「でも……」

「雪ちゃん、来週大きな病院に行こうね。それでちゃんと検査してもらおう」

「うん」

 私はベッドに横になったまま、看病をしてくれている倫太朗と話す。

「ねえ、もしも私が本当に猫になっちゃったらどうする?」

「雪ちゃんが猫に?」

「そう」

「うーん。猫になった雪ちゃんも可愛いだろうけど、猫になったら会話できないよ」

「大丈夫、目で一生懸命伝えるから」

「それを読み取るのが僕の役目ってわけね」

「そう」

「それならちょっと頑張ってみようかな」

「もし私が猫になったら、たくさん撫でてくれる?」

「もちろん。今でもたくさん撫でるよ。早くよくなるといいね」

「もし私が猫になっても、キスをしてくれる?」

「もちろん」

「でも、もし私が猫になったら倫太朗より先に死んじゃうね」

「そうだね。でも雪ちゃんが世界初の八十年生きる猫になれば解決だよ」

「そんな絵本昔あったね」

 だんだん眠くなってきて目を閉じる。倫太朗はさっきからずっと私の頭を撫でてくれている。本当は私が倫太朗の頭を撫でたいのに、もうしばらくできていない。

――もし私が猫だったら、人間になりたいって願うのかな――

 眠りに落ちる瞬間、そんな疑問が浮かんだがすぐに忘れてしまった。




――雪ちゃんへ

 もう秋だね。まだ暑い日はあるけれど、朝晩の風に秋を感じて最近すごくワクワクする。

 九か月、ありがとう。今月もまたいろいろあったなあ。大変だった。でも大変だったけど、楽しかったね。なんだかんだ、笑っていたね。

 最近思うのだけれど。僕の気持ちを正面から受け止めてくれるとか、「僕」のことを見てくれるとか、そんなところが好きなんだって思うのだけれどね。でも、ただ笑っているところとか、可笑しなところとか、あと穏やかで優しい顔とか。そんな顔やしぐさや、全部を見ていることが好きなんだ。

 僕にどうしてくれるかだけじゃなくて、こんな雪ちゃんがやっぱり好きなんだ。大変だけど、見ていると僕まで嬉しくなって、優しくなって、動かされるんだ。

 だから、すごく幸せだよ。ありがとう。

 僕も雪ちゃんのことが愛おしくて好きなんだよ。

秋も、二人でいようね。

            九月十一日 倫太朗――




 とろとろと眠り続ける私は、夢を見る。

 私は猫で、知らない誰かに飼われている。そこは常に暗く湿っていて、不衛生な場所だった。ご飯だって、飼い主の気が向いたときにしかもらえない。私はこの劣悪な環境から逃げ出したがっていた。

ある日この部屋の窓には鍵がかかっていないことに気が付いた私は、前足をうまく使えば窓から逃げ出せるかもしれない、そう考えて必死にガラスをちょいちょいと前足で押す。重たいガラスの窓はびくともしない。けれど、毎日少しずつ必死に窓を押した。

 何日か続け、ようやくほんの少し窓が左へずれた。生まれた隙間に前足を差し込み、力を込める。すると今までの重さが嘘のように窓が開き、温かくて気持ちのいい風が部屋へ入り込んできた。

――ここから逃げ出せる――

 私は窓から思い切りジャンプして外へ飛び出した。

 外の世界はカラフルに色づき、花や草は風に揺れ、空気は気持ちよく乾いていた。遠くに飼い主とは違う人間の姿を見つけ、近寄ってみる。

「あれ、猫だ。かわいいね」

 人間は私の頭を撫でる。こんな風に人間から撫でられるのは初めてだ。飼い主は私を撫でてはくれない。

「ずいぶん痩せてる。何か……」

 人間は鞄をごそごそ。そして取り出したそれを袋から出し、小さくちぎって私の前に置いてくれた。くんくんと匂いを嗅ぐと、なにやら美味しそう。

「パンしか持ってなくて。こんなものでごめんよ」

 私はその、パン、というものをかじる。今まで味わったことのない複雑な味が舌に広がる。悪くない。私のぺこぺこなお腹が少しずつ満たされる。

「今度は猫用の餌を鞄に入れておくよ」

 人間は再び私の頭を撫でてくれた。



 目が覚めると、現実でもパンを焼いたような香りが部屋中に漂っていた。重たい体を無理やり起こし、台所へ歩いて行く。

「雪ちゃん、起きたの。体調はどう」

「倫太朗、何してるの」

「パンを手作りしたんだよ。ちょうど焼けたところだけど食べる?」

「うん。倫太朗が一人で作ったの?」

「そうだよ。いつも雪ちゃんが作ってくれるのを見てたから、見よう見まねでやってみたんだ」

 私は手を洗い、席に着く。倫太朗が焼いてくれたのは、真っ白で柔らかい丸パン。私が元気な頃によく作っていたパンだ。私が休みで倫太朗が在宅勤務の日には、いつも朝からパンを仕込み、倫太朗のお昼休みに焼き立てのパンを二人で食べた。

「焼き立てだから、気を付けて」

 コーヒーまで淹れてくれた。

「いただきます」

 パンは熱々でふかふかで美味しかった。自分で作るパンよりも、倫太朗が作ってくれたパンの方が美味しい。例え同じレシピであったとしても。


 その日の夜、私は夢の続きを見た。

 猫の私は飼われていた劣悪な環境を逃げ出し、野良猫になった。逃げ出した日にパンを分けてくれたその人は、数日に一度この道を通る。私はお腹がぺこぺこなのを我慢して、あの人がここを通る日をじっとここで待っている。

「あ、またいた」

 二日ぶりにその人の姿を見た。その人は鞄から缶のようなものを取り出し、私の前に置く。

「今日は猫用の缶詰を持ってきたんだ。これなら喜んでもらえるかな」

 缶からはとてもいい匂いがした。食欲を刺激され、警戒する間もなく私は缶の中身に飛びつく。とても美味しい。こんな美味しいものは食べたことがない。がつがつと食べ進め、あっという間に缶は空になり、私のお腹は満たされた。

「よかった、食べてもらえて。きみは野良猫なの?」

 人間の言葉は分からないけれど、この人が悪い人でないことは分かる。だって私にこんなにも美味しいものをくれるのだから。

「飼ってはあげられないけれど、名前くらいつけてもいいかな」

 その人は私をじっと観察しているようだ。

「きみは雪のように真っ白だから、雪ちゃんっていうのはどうかな」

 おかわりがほしくなり、私はミャーと鳴いてみる。

「あ、鳴いた! 名前気に入ってくれたのかな。かわいいね」

 その人が私の頭を撫でる。勝手に喉がごろごろと鳴り始める。そんなに撫でられたら眠くなってしまうよ。

「あれ、寝ちゃったのかな」

 意識が遠のき、声も遠くなっていく。



「雪ちゃん、朝だよ」

 倫太朗に起こされ、目を覚ます。今日は大きい病院で検査をする日だ。近くの病院であらかじめ紹介状はもらっている。

 倫太朗が作ってくれた朝ごはんを食べ、楽なワンピースに着替えて、病院へと向かう。

 病院までは車で一時間ほど。電車で行く体力がないので、レンタカーを借りてここまで来た。受付で紹介状を見せ、該当の科へ案内される。大きな病院なだけあり、人がたくさんいる。皆それぞれに何かの病気や不安を抱えてここに来たのだろう。私の病名は今日分かるのだろうか。まだまだ倫太朗と生きていたい。早く元気になって倫太朗といろんなところへ行きたい。

 三十分ほど待ち、診察室へ入る。倫太朗も一緒に部屋へ入り、先生に最近の私の様子を伝えてくれた。倫太朗と先生が何やら難しい言葉を交わしていたが、私にはよく分からない。

「雪ちゃん、この後MRIを取るんだって」

「MRI?」

「そう。特別な機械でね、雪ちゃんの体の中に隠れている何かを見つけ出すんだ」

「怖い?」

「怖くないよ。少し狭いところでじっとしていなきゃいけないけれど、雪ちゃんなら大丈夫」

 初めてのMRIは想像以上に怖いものだった。検査用の服に着替えて機会のある部屋に入り、横になる。腕には造影剤というのを体に入れるための針が刺された。担当の人がやってきて、私の体の上に重たくて固い板を乗せたかと思うと機会が動き出し、私は暗く狭い空間へと横になったまま移動させられる。

 暗くて狭い。私は最近夢でよく見る猫のことを考えていた。あの猫は私だ。夢の中で猫の私が元々飼われていた場所も、こんな風に暗くて狭かった。

 耳につけられたヘッドホンから音声案内が流れ、ゴーゴーガンガンという工事のような音が鳴り始める。私はその大きな音と狭い空間が怖くなってきて、意識を別のところへ向けようと努力する。そうだ、眠ってしまおう。そう考え、必死に羊を数えた。


 見た夢はまたしても猫になった私の夢だった。

 私は数日に一度あの人から餌をもらい、その他の日は自力で虫や鳥を捕まえてお腹を膨らませていた。

 最近なんだか雨続きで、狩りがうまくできない。雨だからか、あの人もなかなか現れない。お腹が空いた、寒い、眠い。雨の中ずぶ濡れになりながらあの人を待つ。

 何日待っただろう、ようやく晴れたある日、あの人が私をみつけてくれた。

「雪ちゃん! こんなに弱ってどうしたの」

 その人が私を抱き上げる。雨の中何も食べずに何日も待っていたものだから、私はすっかり弱ってしまったようだ。

「病院行こう! 今日は会社休むから」

 そう言ってその人は私を抱いたままどこかへ連れていく。もしかしてお家に連れて行ってくれるの? これからはずっと一緒にいられるの?

「風邪ですね」

 連れていかれた先はなんだかひんやりとしていて、他の動物たちの怖がる声や濃い匂いに満ちたおぞましい場所だった。そこで私は抵抗する間もなく針を刺され、何かを体に入れられた。点滴、というらしい。その人が私に向かって教えてくれたが、よくわからない。けれど、針を刺して少し経つと、なんだか体が楽になってきた。何も食べてないはずなのに、なんだか体が満たされていく。不思議な感覚だ。

「雪ちゃん、大人しく点滴できてえらかったね」

 針が抜かれ、ようやくあのおぞましい場所から出ることができた。腕に抱かれたまま、私はその人を見上げて鳴く。

「ミャー」

「元気になったんだ。僕はね、雨の日は在宅勤務してるから外へ出ないんだ。雪ちゃんのこと心配してたけど、少し会わない間にこんなに弱っちゃうなんて」

「ミャー」

「雪ちゃん、うちに来るかい。本当は動物を飼うつもりはなかったんだ。動物は必ず先に死んじゃうから、僕はきっとそれに耐えられない。でも、またあんな風に弱った雪ちゃんを見るくらいなら……。雪ちゃん、一緒に住もう」

「ミャー」

 何を言っているかは全く分からないが、その人は一人で頷いで私を抱いたまま早足でどこかへ向かう。



 急に視界が明るくなり、目を覚ますとそこは病院のMRI検査室だった。どうやら検査が無事に終わり、狭く暗い空間から出されたようだ。

 また猫の夢を見ていた。猫になった私が見ているものがあまりにもリアルに夢に出てくるので、私は最近猫と人間のどちらが夢でどちらが現実なのかときどき分からなくなりそうになる。

 自分のワンピースに着替えて、倫太朗が待つ待合室へと向かう。

「終わったよ。お待たせしました」

「お疲れ様。よく頑張ったね。今日は外で何か食べて帰ろうか。それとも早く家に帰った方が楽かな」

「ううん、何か食べて帰ろう。いつも倫太朗に作ってもらっているし、今日くらいは家事を休んでほしい」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 MRIの結果が出るまで少し待ち、今度は倫太朗だけが診察室に呼ばれた。私は待合室でぽつんと一人、倫太朗を待つ。

 十五分くらい経っただろうか、それとももっと長い時間だろうか。倫太朗が診察室から出てきた。袖で目を拭くような仕草が見えたが、泣いているのだろうか。

「倫太朗」

 隣に座った倫太朗に声をかける。

「先生、何か言ってた?」

「ううん、まだよくわからないんだって。でもね、雪ちゃんはこれからすごく眠い日が増えるから、たくさん眠って体力を回復させなさいって」

「なにそれ。本当に先生がそう言ったの?」

「そうだよ」

「私の原因不明の病気は、治らないってこと?」

「ううん、よく眠ったらきっと治るよ」

 そう言って微笑む倫太朗の目は赤かった。きっと診察室で泣いたのだろう。何かを隠しているのは察したが、私はそれ以上追求しなかった。ごまかしも倫太朗の優しさだ。

「雪ちゃん、今日何食べたいか考えた?」

「うーん、お寿司にしようかな。なんだかお魚を食べたい気分なんだよね」

 猫の夢を見るせいか、体が魚を欲している気がした。

「よし、じゃあお寿司で決まり!」


 診察室から出てきた倫太朗が言ったように、私は日を追うごとに眠気が増して、一日中眠っている日がかなり増えた。夢は見たり見なかったり。けれど見る夢は決まって猫の夢。今日も私は猫の夢を見ている。


 人間の腕に抱かれて、私は見知らぬ家にやってきた。あまり広くはないが、物が少なく清潔な場所だ。その人は私をそっとベッドの上に下ろし、ふかふかの毛布を体にかけてくれた。

「今日からここで一緒に暮らそう」

 いつもは見上げているその人の顔が、今は同じ高さにある。私と同じでこの人も色が白い。思わず触れてみたくなり、前足を目一杯その人の顔に向かって伸ばす。

「ミャー」

「おっと。挨拶してくれたのかな。そうだ、名前言ってなかったね。僕は倫太朗」

「ミャー」

「り、ん、た、ろ、う」

「ミャー」

「倫太朗って呼んでください、って名前を覚えてもらうなんて無理かなあ」

 言葉の意味は分からないが、その人がゆっくりと口にした倫太朗という響きが気に入った。猫の私はその名前を口にすることはできないが、心の中でこの人間を倫太朗と呼ぶことに決めた。

「雪ちゃん、今日は疲れたでしょう。ゆっくり眠っていいよ。僕はその間に猫用の餌とかトイレとかいろいろ買ってくるから。元気になったらさ、一緒に散歩しようね」

 倫太朗が優しく頭を撫でてくれる。ふかふかの毛布をかぶって、頭を撫でられていると、眠くなってしまう。私はまたとろとろと眠りにつく。



「雪ちゃん、雪ちゃん起きて」

 私を呼ぶ声がして、意識が少しずつ現実世界へと戻ってくる。ああそうか、私はいつの間にか眠ってしまったんだ。

「雪ちゃん、もうお昼だよ」

 愛しい声に耳を傾け、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

「あ、起きた。お昼ご飯作ったけど、雪ちゃんも食べるよね」

 美味しい匂いと愛しい存在。これ以上幸福な目覚めなんてこの世に存在するのだろうか。自身に降りかかるあまりにも大きな幸福をしっかりと噛みしめながら、私は体を起こした。

 いつかと同じ目覚め。あのときは確か、二人の休みが揃った日曜日。毎日がこんな風ならいいのにと、私は確か、あの日に初めて倫太朗の猫になりたいと思ったんだ。

 今の私は原因不明の病気で体力がほとんどない。一日のうちほとんどを眠って過ごしてしまう。もう以前のように、倫太朗とどこかへ出かけることも、倫太朗が眠るまで頭を撫でてあげることもできない。けれど、それでも私は倫太朗と一緒にいる限り幸福であることに違いはない。

 それに最近の私は夢の中で倫太朗の猫になった。なんだ、もう叶っているではないか。あの日に望んだ私になっているではないか。そうか、私は倫太朗の猫になったんだ。

 倫太朗が作ってくれたお昼ご飯を食べ、お風呂にお湯を溜めて、二人でお風呂に入った。倫太朗はとびっきり私を甘やかしたい気分のようで、髪も体も私の分まで洗ってくれた。いつもより大きな手で頭を洗われるのは、なんだか安心感があって気持ちよかった。

 湯船に浸かり、向かい合う。まっすぐに倫太朗の目を見たのはいつぶりだろう。最近の私は下を向いてばかりだった。優しい目。優しくて温かくて穏やかな倫太朗の目に見つめられると、なぜか涙が出てきた。

「倫太朗、ごめんね」

「ん? 何が」

「いっぱい迷惑かけてごめんね」

「何も迷惑じゃないよ」

「元気でいられなくてごめんね」

「それは仕方ない」

「私がもっと普通の女の子なら」

「雪ちゃん」

「それなら倫太朗はこんな大変な思いしなくてよかったのに」

「雪ちゃん」

 倫太朗が手を伸ばし、私の頬を左右からきゅっと優しくはさむ。

「雪ちゃん、いいんだよ。僕は雪ちゃんが好きなんだよ。いつだったか雪ちゃんが言ってくれたでしょう、倫太朗が好きなんだって。それと同じで僕は雪ちゃんが好きで、雪ちゃんと一緒にいたいんだよ」

「……倫太朗」

「だから、元気な雪ちゃんでもそうじゃない雪ちゃんでも、笑っていても怒っていても、僕が雪ちゃんのそばにいたいんだよ。それが僕の望みなんだよ」

「ありがとう」

 次から次へと溢れてくる涙が、私の頬を伝わり、湯船に波紋をつくる。

「雪ちゃんが好きだよ」

「私も、倫太朗が好きだよ」

 どちらからともなくゆっくりと近づき、私たちはキスをした。



――そのとき、お風呂場の窓から眩い光が差し込み、私はぎゅっと目を瞑った。

 目を瞑っているはずなのに、目の前には眩い光と共にこれまでの私の記憶たちが次々と映し出される。倫太朗と過ごした記憶。けれどそこに映っているのは人間の私ではなく、猫の私だ――



 そうか、ようやく思い出した。私は元々猫だったのだ。人間になりたいと願い、いつの間にか人間になった自分の夢を見るようになっていた。本当の私は劣悪な環境から逃げ出し、倫太朗と出会い、拾われた猫。それから倫太朗と一緒にいろんな場所へでかけたんだ。言葉は通じなかったけれど、心は通じていた。けれど私は病気にかかってしまい、長く眠り、人間として生活する自分の夢をたくさん見るうちに、すっかり自分が人間にであると思い込んでいた。


 十二月のクリスマスマーケットが私たち二人での初めての外出だった。私は倫太朗が用意してくれた猫用の丸くて可愛いゲージに入り、寒い外気から守られ、初めて倫太朗とデートをしたのだ。

 倫太朗が山盛りポテトを一人で食べている様子をゲージの中から見ていた。一人で食べるにはあまりにも多くて、最後の方はすっかり冷えたポテトを倫太朗は口に詰め込んでいた。顔がちょっぴり間抜けで笑ってしまったのは内緒だよ。ポテトを食べながら倫太朗は私のゲージを開けて、いつもより高級そうでスペシャルな缶詰を開けてくれたんだ。あれは本当に美味しかった。毎日あれならいいのに。

 あの日倫太朗がプレゼントしてくれたネイビーカラーの首輪は今でも私の宝物。あの日からずっと私の首にその首輪が付いている。これは私が倫太朗の猫である証だ。

 夜空に輝く虹色の観覧車に猫は乗れないんだって。倫太朗が乗りたそうにしていたから、私を置いて乗って来てもいいよと必死に目で伝えたけれど、優しい倫太朗はそんなことはせずに、私の入ったゲージを抱いたまま、長い時間虹色の観覧車を眺めていた。七色の光が倫太朗の目に映って綺麗だった。私はそれで十分幸せだ。

 倫太朗に拾われて一か月記念日には猫の大好きなマタタビの香りがするスプレーを買ってくれて、食欲がない日や喧嘩をした日に倫太朗は餌や自分の衣類にシュッとスプレーする。するとどうだろう。魔法のように私はそれに惹かれて、倫太朗の思うままになってしまうのだ。

 まさか猫が初詣に行くなんて、誰も考えないよね。でも私は倫太朗と初詣に行ったんだ。あの丸くて可愛いゲージに入って。そしてこの日はなんとお散歩用のリードまで準備されていて、お参りを済ませた後、人が少ない脇道で私は地面を踏んで歩いた。猫だからそこら中の葉っぱや枝が気になって仕方がない。落ちている枝に近づいて、前足でちょいちょいと触ってみる。乾いた細い枝がゆらゆら揺れて楽しかったなあ。倫太朗が言うには、こういうことをやっちゃう私は「やんちゃ」らしい。人間の言葉は難しいね。

 あの夕日は猫の私でも感動した。風が強くて少し寒かったけど、ゲージから出してもらって倫太朗のマフラーに包まれて眺めたんだ。倫太朗はバレてないと思ってるみたいだけれど、私は知ってる。夕日を眺めながら倫太朗は泣いていた。だから「大丈夫、私はずっとここにいるよ」って喉をゴロゴロ鳴らしてあげたんだ。

 寒い夜も暑くて眠れない夜も、倫太朗とベッドの上でごろごろ過ごして最高だったなあ。ふかふかの毛布と倫太朗の温かい手に包まれて、私はすぐ眠っちゃうんだけど、倫太朗も私を撫でているとすぐに眠くなるみたい。ふと目を覚ますと、いつも電気を付けたまま隣ですやすやと倫太朗が眠っているから、私はその度に前足を力いっぱい伸ばして電気を消してあげてたんだよ。知ってた? 

 私たちが一番よく話したのもベッドの上かもしれないね。いつもは無口な倫太朗も、眠れない夜だけはよく喋った。言葉の意味は分からないけれど、倫太朗を見ていればどんな話をしているかなんて大体想像がつく。倫太朗はよく「僕は表情が乏しい」なんて悩んでいたけれど、実はすごく顔に出るタイプだ。今度教えてあげなくちゃ。

 倫太朗が話してくれるとき、私はいつも喉をごろごろ鳴らしていた。だって倫太朗の声が心地いいんだもの。いつまでだって聞いていたい。

 倫太朗がいつもと違う服を着ていたこともあった。確か、卒業式って言ってたかなあ。本当は猫は卒業式に参加できないのに、偉い人に頭を下げて私を連れて行ってくれたんだ。だから私はそのお礼に、道端に咲いていた青色の花を倫太朗にプレゼントしたんだ。勝手に部屋を抜け出して花を探しに行ったから、後でたくさん叱られちゃったけどね。でも倫太朗は喜んでくれたと思う。


 本当にいろんなところへ行ったね。どれも大切な思い出で、絶対に忘れたくない。

 そして私は猫特有の病気にかかってしまったんだ。猫である以上、仕方がないんだって。こっそり抜け出したときに近所の猫友達に聞いた。

 少しずつ体力が落ちて、眠る時間が増えていく。

 倫太朗は必死に何件も病院へ連れて行ってくれた。けれど病院のあのおぞましい空気感だけは何度行っても好きになれない。病院へ行く度に倫太朗は泣いていた。そんなに泣かないで。私はまだここにいるよ。そう伝えたかったけれど、私は猫で倫太朗は人間だ。こんなとき私が人間ならば、言葉で思いを伝えられるのに。

 私は人間になりたかった。

 人間になって、倫太朗とおしゃべりがしたかった。お互いの思いを言葉で伝え合いたかった。

 人間になったら、倫太朗と虹色の観覧車に乗るんだ。そして倫太朗の目がきらきら輝くところをこの目に焼き付ける。綺麗だねって、言葉で伝える。

 人間になったら、私も倫太朗にプレゼントをたくさん贈りたい。道端に咲いている花ではなくて、何か素敵な倫太朗が好きなものを渡したい。いつもありがとう、大好きだよって言葉も一緒に。

 人間になったら、倫太朗にぎゅっと抱きしめてもらったまま眠りにつくんだ。私がつぶれてしまうのを恐れているのか、倫太朗は私を強くは抱きしめてはくれない。だから人間になったら、もうつぶれちゃうよって言いたくなるくらい強く抱きしめてほしい。そしたら私も倫太朗を強く、強く抱きしめ返すんだ。そしてそのまま眠りにつこう。

 私は人間になりたい。

 あまりにも強く願ったせいか、私は不思議な夢を見るようになった。なんと私が人間として倫太朗に出会う夢だ。夢の中でも倫太朗は優しかった。私のことを雪ちゃんと呼んでくれた。だから私もたくさん倫太朗の名前を呼んだ。猫の言葉ではなく、人間の言葉で。夢の中でなら、私は倫太朗に思いを言葉で伝えることができた。

 夢が現実ならいいのに。何度もそう思いかけたが、それは違う。

 私は猫で、倫太朗は人間だ。倫太朗は猫である私を拾い、愛情をたくさん注いでくれた。私をいろんな場所へ連れて行ってくれた。倫太朗と出会わなければ絶対に見ることのなかった景色をたくさん見せてくれた。倫太朗と出会わなければ絶対に知ることのなかった感情をたくさん教えてくれた。

「ねえ倫太朗、好きだよ」

 そう伝えたくても、私の口から出るのは

「ミャー」

 それでも倫太朗は私の思いを分かってくれる。

「雪ちゃん、今僕のこと好きって言ったでしょ」

 ほらね。倫太朗と私は心で通じ合っているのだ。

 ねえ、倫太朗。私はもうすぐ遠い所へ行く予定なんだ。次に目を閉じたら、もうこの目が開くことはない気がするんだ。倫太朗の声がだんだん聞こえなくなる気がするんだ。怖いよ、すごく怖い。でもね、なぜだか全く嫌じゃないんだ。

 私は猫として十分倫太朗に愛された。そして十分倫太朗を愛したよ。

 倫太朗はきっと悲しむだろうな。たくさん泣くに決まっている。そんな倫太朗に元気を出してって喉をごろごろ鳴らしてあげることはきっともうできない。でもね、倫太朗。泣き止んだらさ、最後に私をぎゅって強く抱きしめてよ。抱きしめ返すことはできないけれど、私はそれを待っているよ。

 倫太朗が私を覚えていてくれるのなら、私はまた生まれ変わって倫太朗の前に現れるよ。猫なのか人間なのかは分からないけれど、必ず生まれ変わって倫太朗を探し出す。だから倫太朗も悲しんでばかりいないで、私を探してね。それで出会えたらまた一緒に暮らそうよ。またいろんなところへ出かけよう。好きだよってたくさん伝え合おうよ。

「ミャー(倫太朗、ありがとう)」

「雪ちゃん? ねえ、雪ちゃん!」

「ミャー(倫太朗、大好きだよ)」

「雪ちゃん、目を開けてよ」

「ミャー(それじゃあ、またどこかで会おうね)」

「雪ちゃん!」

意識を失う直前に、私は大好きな倫太朗の腕にぎゅっと抱かれた。倫太朗の泣き声が近くで聞こえ、だんだんと遠のいていく。

倫太朗、ずっと一緒だよ。





























――雪ちゃんへ

 雪ちゃん、雪ちゃんがこの世界からいなくなってしまってから、もう三か月が経とうとしているよ。どれだけ辛く悲しいことがあっても、季節は進んでゆくね。

 最初の一か月はずっと泣いて、途方に暮れていた僕だけれど、ずっとうずくまっていたわけじゃないんだ。

 このままじゃダメだ、何かしなくてはと思い、一年間撮ってきた雪ちゃんとの写真を整理していたら、いつの間にか雪ちゃんとの思い出を振り返っていた。

 思い返せば、初めて出会ったときから雪ちゃんは不思議な猫だった。

 雪ちゃんと出会うまで、僕の世界は「灰色」だった。毎日ちゃんと生きていた。大学の授業もアルバイトも、人間関係だって真面目に、人並み以上にこなしていたと思う。

 けれど、毎日が退屈で「ただ生きている」だけだったんだ。本当の意味では僕はひとりぼっちだった。

 そんなとき、雪ちゃんに出会ったんだ。

 雪ちゃんにだけはなぜか僕は、自分のこと、自分の気持ちを話せたんだ。

 猫の雪ちゃんは、「ミャー」と鳴くだけだけれど、なぜだか僕の心を分かってくれている気がした。

 雪ちゃんと一緒に暮らすようになってからも、なんだか寂しい夜には、ごろごろと喉を鳴らしてずっと僕の胸に寄り添ってくれていたね。

 雪ちゃんと一緒に眠ると、安心して本当によく眠れたんだよ。

 雪ちゃんも、僕が撫でてあげるととても気持ちよさそうに眠っていたね。可愛かったな。

 二人でいろいろなところへ行ったよね。楽しかったね。

 最初は僕のそばにピッタリとくっついて外の世界に警戒していた雪ちゃんが、いつの間にかお気に入りのネイビー色の首輪につけたリードで僕を引っ張り、てくてくと前へ歩いていく。

 面白そうなものを見つけると走り寄って、クンクンと匂いを確かめたり、ツンツンと前足で触ってみたり。

 そんな雪ちゃんを見て、僕はいつも笑っていた。

 ああ、本当に幸せだった。

 雪ちゃん、僕は本当に幸せだったよ。

 雪ちゃんと出会い、灰色だった僕の世界は、いつの間にかカラフルで光り輝く世界に変わっていた。

 ありのままの僕で、この広く面白い世界を全力で生きていた。僕はひとりぼっちじゃなかったんだ。

 雪ちゃん、大好きだよ。

 雪ちゃんが隣にいないことが、今も寂しい。すごく寂しいよ。

 けれどね、今この手紙を書いていて、やっと思い出したんだ。

 雪ちゃんは僕のことをずっと大切に想ってくれていたね。

 ずっと僕のそばにいてくれた。僕にたくさんの愛情を注いでくれた。

 だから、僕はもう大丈夫。

 これからも僕はこの世界で生きていくよ。

 僕はもうひとりぼっちじゃないのだから。

 この世界には、雪ちゃんとの思い出が溢れているのだから。

 雪ちゃんのことだから、この三か月の間ももしかしたらどこかから僕のことを見ていてくれたかもしれないね。心配をかけてごめんね。

 ありがとう。

 この世界はもう春になって、もうすぐ雪ちゃんの大好きなお花がたくさん咲きそうだよ。

 雪ちゃん、あの日僕の猫になってくれてありがとう。

 これからもずっと大好きだよ。またね。

    倫太朗



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