これまでと決断
「雪ちゃん、雪ちゃん起きて」
私を呼ぶ声がして、意識が少しずつ現実世界へと戻ってくる。ああそうか、私はいつの間にか眠ってしまったんだ。
「雪ちゃん、もうお昼だよ」
愛しい声に耳を傾け、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「あ、起きた。お昼ご飯作ったけど、雪ちゃんも食べるよね」
美味しい匂いと愛しい存在。これ以上幸福な目覚めなんてこの世に存在するのだろうか。自身の身体に溢れるほどの大きな幸福をしっかりと噛みしめながら、私は体を起こした。
「倫太朗、いつもご飯作ってくれてどうもありがとう」
――倫太朗――
その愛しい名前の持ち主であるこの青年と共に、私は毎日を生きている。いろいろあった。いろいろあってここまで辿り着いたのだ。ようやく。
「今日は特別に……雪ちゃんの好きな味付けにしてみました!」
「うん、やっぱりね。そうだと思ったよ。すごく、美味しいね」
こんな幸福なお昼ご飯が毎日食べられたらいいのに。日曜日の昼はいつもそう思う。
ああ、猫になりたい。
倫太朗の猫になりたいよ。倫太朗の猫になって、ずっとお家で眠っていたい。倫太朗がリモートワークをしている間は膝の上で眠って、休憩時間にはたくさん撫でてもらうんだ。大好きな秋が来たら一緒に外へ散歩に出よう。猫になった私は落ち葉の上をしゃくしゃく音立てて歩くんだ。それを見て倫太朗が幸せそうに笑う。
想像しただけで胸がいっぱいになる。
生まれ変わったら私は、倫太朗の猫になりたい。
私は今とても悩んでいる。どうしたらこの青年と仲良くなれるのか。もうここ一週間ずっと悩んでいる。
きっかけは私生活や仕事のことで多くのことがあり、もう仕事を辞めてしまおうか、いっそ死んでしまおうかとぼんやり考えていたときに、ふと声をかけてくれたこと。以前から彼の存在は知っていたが年齢が離れていることもあり、ほとんど話したことはなかった。彼は仕事上の先輩で、人生の後輩だ。
二十五歳で結婚し、それと同時に上京してきた私はアパレル店員として主婦業の合間にパートを始めた。最初は週三日、一日四~六時間程度の勤務。でもアパレル店員としての仕事が性に合っていたのか、気が付いたら正式に社員として働くようになっていた。
「いらっしゃいませ、こんにちは」
「ただいまセールを開催しております。どうぞお手に取ってご覧くださーい」
普段よりワントーン高い声にとびっきりの笑顔で店内を歩き回る。これがなんだかとっても楽しいのだ。もちろん立ち仕事なので、長く働くうちに足の裏は固くなり、いつの間にか外反母趾が進行していた。それでもこの仕事は楽しい。
そんな職場で学生アルバイトとして私より先に働いていたのが例の彼だ。第一印象は正直よくない。なぜなら五年も人生の先輩である私に、いきなりため口で話しかけてきたから。後になって聞くと、主婦パートである私を同じ学生だと勘違いしたらしい。嬉しいような嬉しくないような理由だ。いきなりため口で声を掛けられムッとなった私は、わざと
「蒼井さんって学生さんですよね、おいくつですか?」
と聞いてみた。学生さん、この言葉がポイントだ。
「あ、えっと、二十二です」
狙い通り動揺した彼は、その後私に対して敬語を使うようになった。
――蒼井倫太朗、名前から受ける印象通り真面目でしっかりとした青年。彼の周りには冬の朝みたいに青く澄んだ綺麗な空気が漂っている気がした。
学生アルバイトとして大学終わりに出勤する彼と、昼間がメインの主婦パートではシフトがかぶることはほとんどなく、社員として働くようになりようやく顔と名前を覚えた。だからあの日、限界寸前だった私に声をかけてくれたことは、奇跡だったと思う。
二〇二二年、秋から冬にかけて。
大学生として彼がアルバイトや就職活動に頭と体をフル回転させていた頃、私は私で人生について悩み、苦しい毎日を送っていた。
主婦業とアパレル店員の仕事、どちらも好きで、この生活はわりと気に入っていた。けれど、今思えばあの頃の私は死んでいた。死ぬのを待っていたとでもいうのだろうか。もしも明日突然命が終わったとしてもそれはそれでいい、その方がいいと思いながら生きていた。当時の夫婦生活は窮屈で制限されていた。否定と孤独の毎日が、否が応でも私の心を蝕み殺す。
自分で望んで結婚したのだ。自分で望んで上京したのだ。実家での生活を手放し、今の生活を選んだのは紛れもなく私自身なのだ。それなのに、どうしてこんなにも毎日が苦しいのだろう。どうしてこんなにも全てが虚しくて、悲しいのだろう。その答えを見つけられないまま、主婦という肩書を背負い生きていた。
死んでもいいと思いながら惰性で生きているはずなのに、店長から提案された、パートから社員にならないかという話にイエスという答えを出したのは、無意識下での私が「本当はもっと生きたい、自由になりたい」と望んだからかもしれない。
社員になりフルタイムで働くようになってから、私は少しずつ生きることに欲が出てきた。それと同時に、今の生活から逃げ出したいという気持ちがぐぐぐっと沸き上がり、あたりまえに流れる当時の結婚生活に疑問を抱くようになった。
当時私の夫であった人は、私が化粧をすることやおしゃれな服を着ることをあまりよく思っておらず、出かけるために化粧をすると「うえっ」という顔を見せ、たまに帽子なんかをかぶってみると「似合わないね」と口にする。そんな人となぜ結婚したのか。そう問われても、どうしてだろう、思い出せない。思い出せるのは、本当の私はおしゃれをすることが大好きで、季節が変わるたびに母と洋服屋さんへ足を運び、お気に入りの洋服をみつけることがとても楽しみだったということ。
それなのに今の私のワードローブはデニムのスカートとTシャツだけ。結婚して一年が経った頃、きっともう出番がないだろうとお気に入りの洋服たちのほとんどをごみ袋へと詰め込んだ。出番があったって「うえっ」という顔をされるだけだ。だからもういらない。私の生活におしゃれな服はいらない。持っていたって、着る機会もなくいつか死ぬ
そうやって諦めて、ただ死ぬのを待っていたはずなのに、急に生きる欲が湧いた私は再び自分の好きな服でクローゼットを埋めてみたくなったのだ。
「ねえ、君」
この人は私のことを、きみ、と呼ぶ。
「何?」
「そんな服持っていたっけ」
少し増えた服を目ざとく発見され、問われる。
「この前買ったの。ここのフリルが気に入って。可愛いでしょう」
「俺は好きじゃないな、そういう派手なの」
お決まりの「うえっ」の顔だ。
「ごめんね」
「君が着たいなら別にいいけど。でもいくらしたの?」
この人はお金の使い方にも厳しい。私が自分で働いて買ったのだとしても。
「五千円くらいかな。セールだったから」
本当はセールなんかやっていなかったし、もう少し高かった。でもこの人にはこうして嘘をつかないと自分が傷つくことになる。
「五千円って高くない? 君のお金に対する価値観って本当にバグってるよね」
「そっか……。ごめん」
わざわざ嘘をついたのに、結局傷ついた。もっと安い値段を言わなければいけなかった。でも、どうして。どうしてこんな思いをしなければいけないの。
少しずつ、でも着実に疑問は積み重なり、一日一日確実に、時間をかけて私の中に消えることのない影を作る。
もっと生きたい。ただ繰り返されるだけの毎日から逃げ出したい。毎日毎日この人の食事を作り、脱いだ服を洗濯し、この人が暮らす家を綺麗に保つ。私は好きな服を着ることすら肯定されないのに、この人のために一生懸命家事をする。
そんな毎日の中、社員になってからできた友人と夜ご飯を食べる機会が増えた。お互いフルタイムで働いているため、一緒にご飯を食べようとなればどうしても夜が多くなる。私は当時の夫へ夜ご飯を作り置き、温めて食べるようメッセージを残し出かける。
学生時代以来に過ごす友人との自由な時間は想像以上に楽しかった。自分の話をしても否定されない。むしろその友人は私のことを褒めてさえくれた。嬉しかった。まるで何年かぶりに自分を取り戻したような気持ちになった。大袈裟に聞こえるかもしれないが本当にそう感じたのだ。
最初の頃は夫の機嫌を伺いながら恐る恐る外出の許可を取っていた。
「今度職場の人と夜ご飯に行ってもいい……?」
「え、この前も行ったよね」
「それってもう一か月以上前の話だよね。月一回のご飯すら私には許されないの?」
「別にいいけど」
決してダメとは言わない人だった。ダメとは言わないけれど、あからさまに嫌そうな、こちらを軽蔑したような目を向けてくる。この目を向けられないために、今までの私は自分の意思を殺し、いかに相手の機嫌を損ねないかを考えて生きてきた。けれど欲が湧いてしまえばもう、自分の意思を殺すことができない。私のことを否定し続ける相手に対し、これまで抱えていた諦めや悲しさといった感情は、いつの間にか反発や苛立ちへと変化し、私の性格を少しずつ変化させていく。
いつしか夫からは、
「君、なんか変わったね。怒りっぽくて怖い」
こんな言葉を向けられるようになっていた。それでもお互いに離婚という選択は取らずに、反発するようになった私と、今まで以上にこちらに軽蔑の目を向ける夫の暮らしは続いていた。
ある夜、眠ろうと布団に入り電気を消した私にあの人が言った言葉がずっと耳に残っている。
「大学生みたいだよね」
一瞬意味が分からなかった。誰の何が大学生みたいなのだろう。
「君さ、主婦の自覚ないでしょ。普通主婦だったら友達に会うにしたって昼間だよね。俺がいない間に会うとかさ、そういう風にするんじゃないの。主婦なのに夜にご飯行くとか、学生気分抜けてないんじゃない? 大学生がたくさんいるんでしょ、君の職場。大学生と一緒にいるからさ、君も段々大学生みたいになってきてるんじゃない。主婦なのにさ」
暗闇の中隣から聞こえてくる、まくしたてたような台詞に私は返事ができなかった。
傷ついた。自分だけではなく、一緒に働いている人達まで否定されたような気持ちになった。苛立ちよりも悲しさが勝つ。けれど、この人が言ったことは間違いではない。図星を突かれたようで、何も言い返せなかった。
そうだ、私は主婦なのだ。
性に合う仕事を見つけて、主婦パートから社員になって。気の合う友達ができて、夜しか時間がないことを言い訳に仕事が終わった後も家に帰らず友人とご飯を食べに行く。主婦なのに。主婦なのに。そうだ、主婦なのに……。
ある日ふいに湧いた生きたい、自由になりたいという欲に支配され、自分の立場を忘れていたかもしれない。そう思い始めると急激に、ここ数か月間の自分の言動が馬鹿みたいに思えてくる。
「なんか、馬鹿みたいだね」
隣からは寝息が聞こえる。私の口から出たその言葉は誰の耳にも届かず暗闇の中に吸収される。
「馬鹿みたい」
もう一度だけ呟いて、私は目を閉じる。
その日を境に私は自分が何をしたいのか、本当は何を求めているのかがすっかり分からなくなってしまった。仕事を頑張りたい気持ちも、人と関わりたい気持ちも本当だ。けれど、私が主婦であるということも、また事実。主婦をやりながら仕事も人間関係もうまくやればいいではないかと言われると、そうに違いない。しかし、どれだけ主婦業を完璧にこなしていても、新しい服を買ったり、友人と夜ご飯を食べたりする度にあの顔を向けられるようでは、どんなに楽しいことにも常に苦しい気持ちがぴったりとくっついて私にやってくる。
何を優先するべきだろうか。やはり主婦に、それも自ら望んで主婦になった以上、人生を楽しむことは諦めて今まで通り自分の感情を殺し、死んだように生きていくべきなのだろうか。分からない。
そんな風に悩んでいると次第にうまくご飯が食べられなくなり、私はニケ月で六キロも痩せてしまった。毎日こんなにも悩み、苦しむくらいなら、以前のただ死ぬことを待つだけの生活に戻った方が楽かもしれない。私の中の生きたい、自由になりたいという気持ちが次第に力を失っていく。いっそもう、この仕事を辞めてしまおうか。そんな気持ちが私を覆い始め、ついに店長にそのことを相談しようと心に決めたその日。
いつも通りバックヤードで洋服の品出しをしていると、遅番として大学生アルバイトの数名が出勤してきた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
この人達に会うのももう最後か……。結局学生さんたちとはほとんど話せなかったな。そんなことをぼんやり考え、洋服を畳む。なんだか、死にたいな。もうどうでもよくなっちゃった。
「ねえ」
無表情で洋服を畳み続ける私に少し上の方から声が降ってくる。
「えっ、私ですか」
「そう、あなた。今日具合悪いんですか?」
「あ、いえ。大丈夫です」
声の主の首にぶらさがる名札には「蒼井」の文字。確か、蒼井倫太朗。他の学生たちよりも背が高い彼の顔は私の頭よりずっと上にあり、顔を見るためには自然と上を向く姿勢になる。上を向いたのなんて久しぶりだ。
「いや、大丈夫じゃないでしょ。うーん、今日休憩何時から?」
「十三時です」
「それ十四時にずらして。僕が店長に許可取っておくから。休憩一緒に行こう」
「へ? なんで」
「いいから」
これまでほとんど話したこともなかったのに、突然休憩に誘われ私は戸惑った。それに、今日は十三時の休憩のタイミングで店長に仕事を辞める話をしようと思っていたのに。でもまあいいか。久しぶりに上を向いたおかげか、私の心は少しだけ弾んでいた。
――ねえ倫太朗、もしもこのとき倫太朗が声をかけてくれなかったら、私きっともう死んでいたよ。生きることがこんなにも楽しくて幸福で、面白いと知らないままに。ありがとう、倫太朗――
十四時。いつもより少し遅めの休憩。学生と一緒に休憩に入るなんて初めてのことで、ロッカーから取り出した荷物を持ち、彼を待つ私の挙動は不審だったに違いない。同じ場所で足踏みをしてみたり、バックヤードから出たり入ったり。
「何してるんですか。行きますよ」
突然上から降ってきた声に驚くも、私を笑うでもなく待つでもなくさっさと歩いて行く彼を小走りで追った。
「クールなんだなあ」
「何か言いました?」
「いえ」
その日は強い雨が降っていて、まだ十一月にはなっていないものの肌寒い日だった。
「具合悪いんだったら外じゃ寒いですよね」
彼に問われ、私は否定する。
「具合悪くないです。外で大丈夫です」
結局店の外のベンチに腰掛ける。そこは屋根が伸びていて二人で雨宿りをしているみたいだ。どのくらいの距離に座っていいのか分からずあたふたする私を無視して、彼は鞄から大きなおにぎりを二つ取り出した。母親の手作りだろうか。
「いただきます」
ご丁寧におにぎりに向かって手を合わせ、いただきますを口にして食べ始める彼を横から眺める。具は鮭だ。彼がおにぎりを食べ終えるまでの間、私は何も喋らずただじっとみつめていた。
「そんなに見られたら食べづらいでしょ」
「ああ、ごめんなさい」
「もう食べ終わったからいいけど。あとこれ羽織っといてください」
彼は自分が着ていた上着を脱ぎ、私に差し出す。
「ありがとうございます」
素直に羽織りたいくらいに肌寒かったが、主婦である私が学生の上着を羽織るわけにもいかないだろうと考え、そっと畳んで自分の膝の上に乗せた。膝の上にのせるだけでも暖かい。
「それで、どうしたんですか」
こちらに向き直り、彼が問う。
「何がですか」
「いや、今日のあなたはもう限界って顔してます。明らかにおかしいです。何があったんですか」
私の心が限界だということを、バックヤードで挨拶をしたあの一瞬で感じ取ったのか。この青年は人をよく見ているんだな。悩んでいることを誰かに話すつもりはなかったが、彼の冷たくも温かい真剣な眼差しを向けられると、自然と言葉が口に出る。
「仕事、辞めようかと思って」
こちらを見る彼の目が細まる。
「誰かに何か言われたんですか」
「職場の人にじゃないの。夫にちょっとね。私が上手に生きられないだけなの」
「詳しく聞かせて」
その後の休憩時間を目いっぱい使い、彼は私が今抱えている悩みを聞いてくれた。話を聞く彼は、夫のことを悪くいうわけでもなく、私の主婦としての自覚のなさを責めるわけでもなく、ただ聞くだけ。けれど、それが一番嬉しかった。私の悩みは私にしか分からない。だから誰にも意見してほしくない、そう思っていたから。
「まあ、大変なのはわかりました。でもだからって、何かを諦める必要はないと思いますよ。僕はこの仕事があなたに向いていると思うし、これからもここで働いていてほしい。でも主婦なのは事実です。両立できないのなら、どちらかをきちんと自分の意思で選ぶことが大切なんじゃないですか。どっちも中途半端に手に持とうとするから、手一杯になって悩むんでしょう」
「でも他の人達は、他の主婦の人達は仕事も主婦業もうまくやってる」
つい感情的な言葉を返してしまう。
「いいえ。そんなことはありません。うまくやっているように見せているだけで、実際そんな器用に生きられる人なんてほとんどいませんよ。まあ、あなたが超人なら話は別ですけど」
「なにそれ」
突然出てきた超人のワードに思わず笑みがこぼれる。
「笑いましたね。これでもう大丈夫ですよ」
「えっ」
「あなたがどちらを選ぶか僕は知りませんが、やりたいようにやったらいいんです。もっと自分のことを分析してください」
「分析……」
「ほら、休憩終わりますよ」
彼はそう言い、すくっと立ち上がるとまたしても私を待たずに、すたすた歩いて店内へと戻っていく。
その場には私と私の膝の上を暖める彼の上着だけが残される。
「待って、上着!」
急いで立ち上がり走り出した私の心からはもう、仕事を辞めようという気持ちは消え去っていた。
その日以降私は今までよりもさらに主婦業を完璧にこなした。仕事で早番を担当していたため起床時刻はこれまで毎朝五時だったが、少し早めて四時半には起きた。夫のために朝一でお茶を沸かし、冷蔵庫を見て夕飯に使う食材をピックアップ。軽く下ごしらえをする。
もちろん仕事にも今までよりさらに全力で打ち込んだ。どうすれば今よりもよいサービスをお客さんに提供できるか。社員はもちろん、先輩にあたる学生アルバイトの人達とも積極的にコミュニケーションを取り、アドバイスをもらう。蒼井さんのアドバイスはいつも驚くほど適格だった。この人はお客さんだけではなく、働いている人達にもしっかり目を向けていたんだ。アドバイスをもらうほどにそれを実感した。
退勤後はすぐにお風呂を済ませ、夫の帰宅までの時間に掃除、洗濯、夕飯の用意を完璧に終わらせる。週に一度の買い出しも欠かさず行い、どんなに眠くても夫に付き合い二十三時まで共にドラマを観て過ごした。ベッドで横になってからも他愛ない会話を心がけ、必ず夫が眠るまで意識を落とさないよう細心の注意を払った。
正直、きつかった。睡眠時間は平均四時間程度で、夫が翌日休みの日などは夜遅くまでアニメ鑑賞やスマートフォンでのゲームに付き合い、二時間も眠れなかった。それでも冬の間中ずっとそんな生活を続けた。
十二月に入り、夫と休みが重なった日。私がクリスマスツリーを買うことを提案し、二人で大型ショッピングモールへと出かけた。ホリデーシーズンの休日、ショッピングモールは人でごった返していた。
「すごい人の数だね」
「なんで休みの日にこんな疲れる場所に来なきゃいけないんだ……」
夫はすぐに人疲れしたようで少し不機嫌だ。
「ごめんね。でも結婚してからクリスマスツリー飾ったことなかったでしょう。どうしても飾りたいの」
「はぁ……」
ため息をつきながらも夫は私のクリスマスツリー選びに付き合ってくれた。大きいものは値段が高く夫の許可が下りなかったため、百センチに満たない小さく細いツリーを選んだ。
「飾り、どれにしようか」
「俺はこれが好きだけどな」
夫が好きだと言い手に取ったのは、赤と緑の丸いボールとプレゼントボックスの形をした飾りが十個入った透明の箱。飾りの一つひとつがとても小さく作られていて、このミニチュア感が気に入ったのだろう。数年一緒に暮らした人だ、好みは把握していた。
「……私はこれが好き」
私の目に付いたものは大きな丸いボールが六個入った箱。ボールは手のひらにギリギリ乗るくらいの大きなもので、色は金色と銀色、それに白色のものがそれぞれ二個ずつ入っている。昔実家で母と飾ったツリーにはこれくらいの大きな飾りがたくさんついていた。
懐かしい気持ちが込み上げ、箱の中身をいろんな角度から見る。ボールの表面に散りばめられた無数のラメがショッピングモールのライトに照らされてきらきらと光る。
「えぇ……」
懐かしさに浸っていた私は現実へと意識を戻し、隣を見る。夫はあからさまに嫌そうな顔で私の手元を見ていた。
「うそうそ、ちょっと昔こういうの持っていてね、懐かしかっただけだよ。あなたが気に入ったやつにしよう」
小さいツリーと小さな飾りを抱え、私たちは帰路に就く。人混みに疲れたのか夫は電車の中で居眠りをしている。私も少し疲れた。ほんの数秒目を瞑るつもりがいつの間にか眠ってしまっていたようだ。いつの間にか起きていた夫の声でハッとなり、自分が眠っていたことに気づく。
「君さ、最近疲れてるよね。家のこと、前より完璧にやってくれてるでしょ」
「別に疲れてなんか」
「無理、しないで。何もここまで完璧にやってほしいわけじゃないんだ。ただ、仕事を始めて楽しそうな君を見てるとさ、なんか寂しくて。どんどん俺の元から遠ざかっていくっていうか、いつかいなくなっちゃいそうで怖くて。俺、もしかしたら君に酷いこと言ったかも。それがきっかけでこんな頑張ってくれているならさ、もういいよ。君が家にいてくれたらそれで十分なんだ」
根は優しく、寂しがり屋。きっと私はこの人のこういう部分に惹かれて結婚したのだろう。
「ありがとう。でも全然無理してないよ。私がやりたくてやってるだけなの」
結婚したばかりの頃がほんの少し蘇る。私がただあなただけを見て、あなただけのために生きられる人ならよかった。あなたといる喜びをずっと、ずっと変わらず感じ続けられたら。なにもかも諦めて死んだように生きるのではなく、二人きりで幸福に暮らしていけたらよかった。
――ごめんね――胸の中だけで呟く。今年が最初で最後の飾りつけになるかもしれないこの小さなクリスマスツリーを抱え黙り込んだままの私たちを、電車は止まることなく次の駅へと運んでいく。
あの日以来蒼井さんと休憩が被ることはなかったが、仕事中に言葉を交わす機会は以前より増えたように思う。今まで以上に仕事のアドバイスを欲しているからなのか、彼と言葉を交わすことで元気をもらいたくて話しかけているのかは、正直自分でも分からない。けれど蒼井さんと話す度に、もっとうまく接客ができるようになりたい、もっと早く業務をこなせるようになりたいとやる気が出るのは事実だ。
そんなある日店長から声をかけられた。
「最近頑張って働いてるね。みんな褒めていたよ」
「ありがとうございます」
褒められると素直に嬉しい。
「それで相談なんだけど、お客さんの裾上げ対応もやってみない?」
「それって、ミシンを使ってお客さんの購入品を縫うってことですか」
私の働く店舗では、お客さんが購入したパンツの裾が長い場合、その場で採寸しミシンでの裾上げを行っている。
「そうそう。練習した後にテストがあって、それに受かれば実際に商品を縫うことができるんだけど、どうかな」
その提案は嬉しかったが不安もあった。ミシンなんてもう何年も使っていないし、今の状況では練習時間もほとんど取れないだろう。私は慌てると普段できていることもできなくなる性格だ。万が一テストに受かったとしても、限られた時間の中でお客さんのものを綺麗に縫うなんてできるのだろうか。
けれど、今は仕事も家事も全てを全力でやると決めたのだ。
「やりたいです」
私は大きな声で返事をした。
「よかった! じゃあ明日から空いている時間に練習して。一週間後にテストしよう」
「一週間後ですか」
「とりあえずね。大丈夫、一度で合格する人なんてめったにいないから。ダメならまた受ければいい」
「わかりました」
それからの一週間、私は可能な限り全ての業務をスピードアップして終わらせ、業務の合間に少しでもミシンを触る時間を確保することに必死だった。しかし案の定、この七日間で練習に使えた時間は二時間にも満たず、テストは不合格。仕方ないと分かっていても、何かに落ちるというのはへこむものだ。
テスト後、なんとも暗い気持ちでバックヤードから店頭へ出る。他の人はどのくらいの期間でテストに合格しているのだろう。誰かに聞いてみたくなり、話しかけられそうな人を探す。
「いらっしゃいませ」
レジで小物の袋詰めをしている蒼井さんを見つけ、私はそっとレジ裏へ回った。平日の午後は客数も少なく店内は落ち着いている。今なら大丈夫だと思い、声をかけた。
「テスト、ダメでした」
蒼井さんは一瞬きょとんとしたが、すぐに裾上げのことだと理解し、私を見て微笑む。
「そうですか。まあ僕も最初の頃はミシン壊しかけましたから。大丈夫ですよ」
「えっ、蒼井さんがミシンを」
完璧に見える彼にもそんな時代があったのかと嬉しくなり、思わず
「テストは何回目で合格しましたか?」
と尋ねてしまった。
「一回目です」
「うわー……」
仲間かと思った矢先、裏切られた気分だ。
「まあまあ、そんな落ち込まなくても大丈夫です」
さらに落ち込む私の様子が面白かったのか、蒼井さんは微笑みながらわずかな笑い声をあげる。
「じゃあ、これからも頑張るので応援してくれますか」
「もちろん。僕はあなたにかなり期待していますから」
ふいにもらった期待という言葉に、心が弾む。蒼井さんと話すとやっぱり私は元気になる。
この会話のおかげか、二回目のテストでは無事に合格をもらうことができ、真っ先に報告した相手からは「おめでとうございます」と嬉しい言葉をもらった。
こういった経験は、私に今を生きていることを実感させる。生きることは悪くないかもしれない。少しずつ、でも確実にそう思えるようになっていた。
年末年始を忙しく過ごし、ようやく仕事も私生活も落ち着いたかと思えば季節はいつの間にか春。
限界だったあの日、蒼井さんと休憩に行ったあの日から数か月。私は彼に言われた通りずっと自分の気持ちを分析していた。何が嬉しくて、何が悲しいのか。私は誰のために生きたいのか。何を目指し、どうなりたいか。もしも一つしか選べないとしたら何を選ぶべきか。
たくさん考えた。何度も何度も最初から考え直した。自らの選択を間違えないために、主婦業も仕事も全て全力でやった。手を抜かずに一生懸命やってきたつもりだ。そして今日、春一番が吹いた朝。私は決断をした。
「私と離婚してください」
あまりにも重いその一言は、口にしてしまえば驚くほど簡単に相手の耳に伝わる。
「は? どういうこと。ちょっと待ってよ、いきなり何」
休日、パジャマ姿のままテレビを見ていた夫がこちらを振り返る。動揺するだろう。私は今日までの数か月間、全く離婚というワードを出さず、そういった素振りも一切見せなかった。むしろ主婦業を全力でこなす私を見て、夫は私が以前の家にいて夫の世話をやくことが生きている意味であった頃の私に戻ったと思っていただろう。
――ごめんね――
「とりあえず話し合おうよ。どうして離婚したいの?」
「ごめん。でももう決めたの」
「勝手に決めないでよ」
片付けそびれたこたつに入っていた夫が立ち上がり、こちらへと歩いてくる。怒りの感情を見せたかと思えば、夫の目には涙が溜まっていた。
「ごめん」
「ごめんじゃなくてさ」
「ごめんなさい」
謝ることしかできない。
「どうして君っていつも一人で決めちゃうの。いつもそうだよ、いつも」
「ごめん」
夫が鼻をすする音が聞こえる。あまりにも突然のことにきっと状況は理解できていないだろう。それでも夫は泣いている。
「ごめん、ごめんね。私なりにずっと考えてたの。あなたのことは好きだったよ。でもたくさん考えて、一生懸命考えて、やっぱりこのまま一緒にはいられないって」
「どうして途中で相談してくれないんだよ」
そう問う声は震え、いつの間にか泣き声が混じる。
「ごめんね」
「君って勝手だよ、本当に」
もう何も言えなかった。夫も何も言わなかった。その日の夜は一晩中隣から堪えたような泣き声と鼻をすする音だけが、暗闇の中私の耳に届き続けた。
伝えてしまえばそれまでだと思っていた離婚話。あたりまえだがそう簡単に話が進むわけもなく、翌日夫からある提案をされた。
「君の気持ちはわかった。俺が悪かった。昨日君から離婚したいって言われて、それで俺気が付いたんだ。俺は君を愛してる。ようやく気付いた。だから離婚したくない」
唐突な告白には嬉しさではなく、いまさら何をと嫌悪感が沸き上がる。
「俺、悪いところ全部直す。家のことも君に任せっぱなしだったけどこれからは手伝う。俺頑張るから、だからもう少しだけ待って」
「もう少しってどのくらい」
「三か月。三か月間本気で頑張るから。それで夏になったらもう一度君に告白させて。それでだめなら諦める」
考えてもみなかった提案になんと返事をしたらよいのか分からず言葉に詰まる。どれだけ夫が変わる努力をしてくれたとしても、きっと私の決断は揺るがない、その自信があった。
だってこの数か月間を全力で必死に生きて考えて出した決断だもの。
「君だって今すぐに家を出て行けるわけじゃないでしょう。家とかお金とか。だから三か月後にまた話し合おう。それまではこの話題には触れないでほしい」
勝手だ。じわじわとこの身を侵食していく嫌悪感は、何度振り払ってもしつこい虫のようにまた這いあがってくる。
けれど、勝手なのはお互い様。むしろ私の方が酷く勝手で残酷な仕打ちをした。
ほんのわずかに生まれた罪悪感が、私の体を侵食していた嫌悪感とこの提案に反発したい言葉を飲み込む。沈黙は同意。
私たちはこの三か月間を全く違った意味で過ごすことになるだろう。離婚を進めるための三か月と、もう一度告白するための三か月。春の夜、肌寒いのは季節のせいか。
それからの夫は、あの言葉通り確かに家事を手伝ってくれるようになった。むしろ家事のほとんどを率先してやり、私の方が手持ち無沙汰になるくらい。けれどへんてこな干し方をした洗濯物は肩口や袖が変な方向に伸びていたし、食器棚にしまってくれた皿はどれも油が取り切れておらず触るとぬるぬるした。昔、食器用洗剤の使用量について使いすぎだと夫に怒られたことがある。けれど、たくさん使うにはそれなりの理由がある。特に油ものを載せた皿は多めに洗剤を使わないと綺麗に洗えない。
家事をやってくれることはありがたかったし、夫が分からないなりに工夫しながらやっていることも理解している。けれど今までいかに私が家事をしている姿を夫が見ていなかったか、夫の家事のやり方を見ていると一目瞭然だ。結局夫が洗濯物を干し終えたそばから私が形を整え、夫がいない隙に皿を洗い直した。
夫は残業を減らしたようで、家にいる時間が以前よりずっと増えている。私は私で離婚を決めたあと早番を降り、昼から夜にかけての勤務に切り替えた。独断で決めたことで、それを知った夫は自分が無理して残業を減らしたのにと怒っていたがそんなのお互い様だ。夫が夏に向けて家事を私から奪うようにやり出したのと同じように、私も夏に向けてたくさん働いて一人暮らしのためのお金を貯めなければいけない。
二人の生活はあからさまにすれ違っていた。
その頃職場では、私が夫と別居しているのではないかと噂が立ち始めていた。春一番が吹いたあの日から私は結婚指輪を外していたし、職場のグループLINEにフルネームで登録していた名前を下の名前だけに変更した。
【雪】苗字がなくなったその名前は、なんだか少し寂しそうにも、自由になって嬉しそうにも見えた。ぽつりと表示されるその名前にまず学生アルバイトの人達が反応し、指輪を外したことも相まって、噂は私の耳にまで届いた。
「私、別居してることになってるんですか」
勤務時間を変更し以前より会う機会が増えた蒼井さんに聞く。
「さあ。あなた自身がよく知っているんじゃないですか」
「別居はまだしてない。でもね、離婚するって決めたの」
「へえ。興味ありませんね」
学生はみんな噂話が好きかと思っていたが、蒼井さんは違うようだ。
「でも、すぐには離婚できなさそうで」
「そうですか」
連れない返事に少しムッとする。
「今度聞いてくださいよ、話。いろいろあったんです」
思い切ってそう言ってみた。
「嫌です。どうして僕が人妻の相談に乗らなきゃいけないんですか」
「前は聞いてくれたじゃないですか」
「あれは特別。今にも死にそうな顔してたから。それに、仕事の相談ならともかく、プライベートの話なんて聞きたくありません」
とても淡々としていて冷たい返事に、心の奥がひんやりする。まるで心の中に氷を落とされたみたいだ。
「わかりました」
これ以上粘る理由もない。心をひんやりさせたまま私は引き下がる。
「でも」
「へ?」
その場を去りかけた私に言葉が降ってくる。
「でも、自分で決めたんでしょう。よく頑張りましたね。僕には関係ありませんが、なかなかすごい決断をしたと思いますよ」
「……うん」
この人はどうしてこんな風なのだろう。この数か月間必死に生きた、一生懸命考えた。それをただ誰かに認めて褒めてほしかった。でも誰が私を褒めてくれるだろう。こんなに自分勝手で残酷な私を。そう思っていたのに、蒼井さんはその思いをあまりにも自然に叶えてくれた。この人は変な人だ。
「「なんか」」
変な人だと伝えようとしたとき声がかぶる。
「蒼井さんからどうぞ」
「なんか、変な人ですよね」
「蒼井さんが?」
「いや、あなたが」
お互いを変だと思った、そのことが少し嬉しかった。
少しずつ気温が上がり、湿度もぐっと増した六月中旬。父の日を兼ねてみんなでご飯を食べに行かないかと義母から提案があった。もちろん離婚話についてはまだ伝えていない。私たちは話し合い、夫が決めた三か月をまだ超えていなかったため何もないふりで食事に参加することにした。
「今日、大丈夫かな」
「離婚の話は絶対に出さないでね。母さんも父さんもびっくりしてしまうから」
「……うん」
若干の不安を抱え、約束のレストランへと向かう。義母から指定されたのは、少し値は張るが美味しいと評判のステーキが有名なレストランだ。迷いに迷い服装は、数年前に義父の親族へ結婚の挨拶を兼ねた会食が行われた時に着たものと同じ、シンプルだが上品な作りのワンピースにした。袖を通すとき、前回の会食で義父の親族からたくさんのおめでとうをもらったことを思い出し、胸が痛んだ。あの頃はまだ、数年後にこんな未来がくるなんて想像もしていなかった。もちろん、その手前にある自分の気持ちを殺す主婦生活なんて夢にも見ていなかった。
早めにレストランへ到着し、席で義父母を待つ。
「そのワンピース似合ってる。新しく買ったの?」
離婚話をしてからの夫は毎日何かしら私のことを褒めるようになった。けれどこのワンピースは新しいものではない。忘れてしまったのか、またしても私に小さな失望が降る。けれどもういいのだ。これ以上失望したところで結末は変わらない。
「そう、ね。ありがとう」
「やっぱり。見たことないと思ったんだ。本当によく似合ってるよ」
――傍から見れば私たちは幸せそうな夫婦に見えるだろうか。仲の良い夫婦に見えるだろうか。離婚を待っているなんて誰にもバレないくらい、うまく笑えているだろうか――
「ごめんね、遅くなって」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた義母とその肩に優しく手を添えた義父。そして義弟の姿。誘われた時は父の日を兼ねると言っていたが、大学生の義弟が就職先から内定をもらったらしく、そのお祝いも兼ねるようだ。
「お久しぶりです」
それぞれに挨拶をすませ、全員が席に着いたところでメニュー表を手に取る。
有名なだけあってとても美味しそうなステーキが最初の数ページを陣取っている。その他にパスタやグラタン、ハンバーグなんかも提供しているようだ。ステーキはどれも美味しそうだが、やはり値段は高い。今日は義母がお金を出すと決まっているようで、下手に高いものは頼めない。
「雪ちゃんはどれにする?」
迷っていると義母から声がかかる。
「どれも美味しそうで迷っています」
無難に答える。いっそ夫と同じものを選び、グラム数だけ減らせば問題ないのではないか、そう考えた私は夫へ意見を求めた。
「あなたは、どれがいい?」
「俺は」
「こら、あんたはいいの。雪ちゃん先に決めていいのよ。好きなものを選びなさいね」
答えようとした夫を義母の声が遮る。いつものことだ。義母はなぜか自分の子である夫に厳しい。昔夫から聞いた話では、義母が望んだ大学を受験したが受からなかった頃からあたりが強くなり、義母が望んだ就職先の内定をもらえなかった日からほとんど口を聞いてもらえないのだと言っていた。結婚が決まり、嬉しさからかそのあたりは少し弱まったと言っていたが、私からすれば十分にきつい。
「じゃあ、私はこの小さめのステーキにします」
「えっ、そんな小さいのでいいの? ちょっとあんた、雪ちゃんに遠慮するよう言ったんじゃないでしょうね。あんたがいつも余計なこと言うから、雪ちゃんが縮こまって自分の意見言えないんじゃない」
「俺は何も言ってないよ! 母さんだっていつもそう決めつけてさ」
「やめなさい」
言い合いになりそうなところを義父が止める。空気は最悪だ。
「久しぶりにお義父さんお義母さんにお会いしたので緊張してしまって。多くは食べられなさそうなので、この小さいので十分ですよ。お気遣いありがとうございます」
なんとか空気を戻そうと、それらしい言い訳をしてみるが効果はなく、義母は夫に向かって大きなため息を吐く。
今まで何度もこんな場面に出くわした。二人で義実家を訪ねたり、義父母と食事へ行ったりする度に義母から意味もなく責められる夫を見てきた。その場では言い返す夫も、家に帰るといつも落ち込み、優遇される弟と自分への態度の違いに涙を流したこともあった。
かわいそうだ。いつもそう感じた。この人の味方は私しかいないと思った。この人の凍ったような卑屈さはきっとこの母親から来ていると思ったし、私がそれを自身の温かさで溶かしたいとも思った。
懐かしい感情がよみがえる。この人は唯一の味方である私さえも失おうとしているのか。私がこの人の前から消えたらこの人は、日々の悲しさや愚痴をどこへ向けて吐き出すのだろう。どこにも吐き出せず、自身の中へため込むのか。いや、そんな考えはあまりにも無駄で傲慢だ。私がいようといまいと、この人は生きる。私しか味方がいないなんて、きっととんでもなく失礼な考えだったんだ。
大丈夫、この人の中にある凍ったものは、私には溶かせなかったけれど、きっとどこかで魔法のように溶ける瞬間がくるだろう。だから、大丈夫。
そんな考えを巡らせているうちに注文した料理が次々と運ばれてきた。
ジュージューと音を立てるステーキとほんのり焦げたようなソースの香りが食欲をそそる。
「うわ、うまそう! 母さんありがとう!」
義弟はステーキに目をきらきらさせ、ナイフとフォークでステーキを切り分ける。
「いいのよ。あんな大手から内定をもらうなんて凄いわ。それにくらべてあんたはねえ」
まただ。またしても義母のナイフが夫へと振り下ろされる。
「雪ちゃんもいるし、そろそろ子供も作るんでしょう。あんたが頑張らなくてどうするのよ。国家試験もいつになったら合格するの。ちゃんと勉強してるの?」
「してるよ。それに子供とか勝手なこと言わないでよ。俺らには俺らの考えがあるんだから」
「雪ちゃん、そうなの?」
「ええ、まあ」
無難に微笑む。
「それならいいけど。あんたは本当に何をやっても昔からダメよねえ」
「黙って食えよ」
もしもこのまま離婚話が進み離婚の話を持ち出したら、義母はどんな反応を見せるだろうか。今よりもするどいナイフを夫へ突き立てるのだろうか、それともそのナイフを私へも振り下ろすのか。
交際していて別れることとは違い、結婚をして離婚をするということは、お互いの親や親戚にまで何らかの影響を及ぼすということだ。ただ離婚届けに印を押し、それで全てが終わるわけではない。私はそれをきちんと理解しているだろうか。
ここに来てほんの少し離婚へのためらいが出た。私はこの人と離婚をして、この家族と縁を切り、夫も義父母も傷つけて何がしたいのだろう。
心にもくもくと暗い雲が流れ込む。私は、私は……。このままただここにいるだけの人生では満足できないのだろうか。何も変わらず、ただ日々をこの人のために、自分のことは考えずにただ生きるだけではダメなのか。
あれほど全力で生きた数か月に、あんなにも自分を分析し考えて出した答えに、私は自信を失いかける。正解はなんだろう。
その夜夫のスマートフォンが鳴る。
「母さんからだ、珍しい」
義父に何かあったのかと一瞬不安がよぎるが、電話に出た夫の声を聞いていると緊急事態ではないらしい。少しほっとした。一度知り合ってしまった相手の安否を不安に思うのは、人間だからあたりまえのことだ。例えそれが離婚しようとしている相手の父親であろうとも。
電話の内容は今日の私たちについての心配だった。
「今日のあんたたちなんか変だったけど、私何かまずいこと言っちゃったかしら。それとも喧嘩中だった?」
夫曰く、非常に心配そうな声でそう聞かれたそうだ。何もないよと答えたようだが、さすが義母だ、よく見ている。
やはり今の私たちは仲睦まじい夫婦には見えないのか。
「離婚のこと、お義母さんたちに話したほうがいいんじゃない?」
「いや、まだ決まったことじゃないし。余計な心配かけたくない」
「そっか」
やはり夫はまだ離婚を認めていないらしい。この話がまだ私たち二人だけのものなら、まだ撤回できる。まだ、以前の私に戻れる。自分で出した答えに自信をなくしていた私の心がほんの少し揺れる。
「この話、三か月はしないって決めたじゃん」
「ごめん」
その日がくればきっと分かる。どうするべきか、正解なんてきっとないけれど。それでも誰かに相談できたら。誰かに助言をもらえたらどれだけ楽になるだろうか。でもこれは私が乗り越えなければならない試練だ。しかし分かっていても心は苦しく不安定だった。
答えに自信をなくしてから、私は働いている間もどこか上の空だった。そんな中お客さんからの意見箱に明らかに私宛だとわかるクレームが入った。
『〇月〇日の十一時ごろレジにいた女性店員がぼーっとしていて、こちらが困っていても声をかけてくれなかった。もっとしっかり働くべきではないのか』
反論の余地もない。その日付は義父母と食事へ行った翌日だ。お客さんのことは見逃さないように努めていたつもりだったが、つい上の空で見逃してしまったのだろう。今まで頑張ってきただけに、これにはかなり落ち込んだ。
意見箱に入った意見は、クレームであろうとお褒めの言葉であろうと朝礼で店員同士共有する決まりになっている。私はすぐに自分のことだと気づき、店長に謝罪した。そんなこともあるし、嫌がらせのクレーマーかもしれないから気にしすぎないでと言われたが、今回は自分にきちんと心当たりがあったし、プライベートを仕事に引きずってしまうようでは店員失格だ。
離婚して、この仕事を続けて、それで正解なのかな。ここにいていいのかな。一度考え出すと数珠繋ぎで次から次へと自問自答が続く。こんな風に考えこんでいてはまた同じ失敗をしてしまうのに。
「大丈夫ですか」
そんなときまた上から声が降ってくる。
「ああ、いや、うん」
声の主は蒼井さんだ。もう以前のように顔を上げなくても声だけで分かる。だから今回は顔を上げずに返事をした。
「また悩んでるんですか」
「大丈夫、です」
「ねえ、こっち見てください」
「どうして」
「いいから」
そう言われ私は無理に顔を上へ向ける。頭を動かした拍子に目から水滴が流れる。
「えっ」
動揺した蒼井さんの声。やっぱり私はダメなんだ、夫を傷つけて義父母に心配をかけて、蒼井さんまで動揺させて。ごめんなさい、とその場から立ち去ろうとする私の腕を蒼井さんが掴み私の足を止める。
「あっ、腕ごめんなさい」
私が止まるとすぐに腕は離された。
「はあ、また悩んでるんですね。ついこの間すっきりした顔してたかと思えば。全く、悩みの多い人ですね。羨ましいです」
羨ましい? 自分のことが、自分の存在意義が、全てが分からなくなってこんなに苦しんでいるのに、どうして羨ましいなんて言えるんだ。
「羨ましいは違うか」
私の心を読み取ったかのように蒼井さんが言う。
「でもどうせまた自分が何をしたいのかとか、どうしたらいいかとか、自分の存在意義とかそいうの考えてるんでしょう」
「どうして分かるの」
「それくらい顔見ればわかりますよ。僕は正直、そんなに自分のことで悩めるあなたが羨ましいというか、眩しいというか」
「どういうこと」
蒼井さんが小さくため息をつく。
「僕はあなたほど自分のことを愛せないから。自分のこと、きちんと大切に思っているからそんなに考えられるんですよきっと。じゃないと、僕みたいにどうでもよくなっちゃうから。どうでもよくって、死んでいるのか生きているのか分からない。フランケンみたいな人間。それが僕なんです」
蒼井さんが語る言葉は普段の彼からは想像ができないものだった。
「どうして。蒼井さんはみんなから尊敬されているし、仕事も勉強も両立していて。これからの未来に希望しかないじゃない。これからなんでもできるじゃない。今の蒼井さんにできないことなんて何もないでしょう。みんなから必要とされて、きちんとそこに留まって居られて。私は蒼井さんが羨ましい、蒼井さんみたいに生きられたらよかった」
「僕は確かになんでもできますよ」
「ほら、やっぱり」
「なんでもできるけど、何もできない。誰かが望んだ僕を、僕は生きているだけです。本当の自分がどこにいるのか僕にはわからない。誰も僕を必要としなくなったとき、僕は消えます。本当の僕はどこにもいないから」
「それは私も同じ」
「違います。あなたにはちゃんと、自分の意思があるじゃないですか。好きなんでしょ、この仕事。もっと人と関わりたいんでしょう。もっといろんなことをやりたいんでしょう。だから現状を打破しようと頑張っているんでしょう」
――自分のことで悩めるのは、自分を愛しているから。きちんと大切にしているから――
考えたこともなかった。私は自分を大切にできていないと思っていた。だって、自分のことを大切にするためには、自分自身をきちんと知っておく必要があると思っていたから。
自分のことを知らなくても、答えが見つからなくても、それを求めて悩んだり葛藤したりすることが、それこそが自分を大切にするということだったのか。
「じゃあ私は、私は自分のやりたいことのために人を傷つけてもいいんですか? 違いますよね。でも人を傷つけないように生きたら私が殺されるの。私が生きるためには誰かが必ず傷つくの。だから私はもう生きられないの」
思わず感情が昂る。下を向いたままの私の足元にはいくつもの涙が落ちている。
「生きてりゃ誰かしら傷つけますよ。あたりまえでしょう。あなた、僕より年上ですよね、僕より五年? も長く生きていてそんなことも分からないんですか」
「分からないよ」
「傷つけ合うのはお互い様です。今まで旦那さんに一度も傷つけられなかったと言えますか? そんなことないでしょう。現に僕だって、自分を守るためにすでに何度かあなたを傷つけています」
「そんなこと」
「ありますよ。自覚なしですか。困るんですよ、そういうの。去年の秋、一度休憩に誘ってからあなたは度々僕に話しかけるようになりましたよね。しかも全てが全て仕事の話ってわけでもない。聞いてもいないプライベートな話題を僕に振る。今がどういう状況か知りませんけど、まだ既婚者でしょう。あまり仲良くなりたくないんです、既婚者の女性と。誰かに何かを疑われたらと思うと僕は怖くて。だからここ数か月、僕はあなたになるべく冷たく接しています。それなのにいつも折れずに話しかけてくる。だからまた冷たくする。自分を守るために、自分のために僕はあなたを傷つけています」
「自分を守るため? 蒼井さん、自分のこと大切にできているじゃないですか」
「今はそういう話はしていません」
いつの間にか涙は止まっていた。
「とにかく、離婚しないのなら今後仕事以外では一切僕に関わらないでください。離婚するとしても、きちんと成立するまで僕に関わらないでください」
「でも今日は蒼井さんの方から」
「それは」
「それは?」
「それはまたあなたが今にも死にそうな顔をしていたからです。死なれると困るので」
結局この人は優しいのだ。私を傷つけていると言ったが、私はもう何度も蒼井さんに救われている。そして今日、ほんの少しだが自分のことを話してくれたことが嬉しかった。
叶うなら、もう少し蒼井さんの話を聞いてみたい。私はこの人と話すとなぜかいつも生きる気力が湧いてくる。数分前まであんなにも暗い雲に覆われていた心は、すっかり穏やかな風が吹き、晴れ空に変わっていた。
あの日から三か月が経ち、夫が決めたあの日がやってきた。私の心は揺れつつも気持ちは変わっていない。
仕事を終え、家に帰る足がなかなか進まない。夫は一体私に何を伝えるのだろう。今夜中に離婚の話は進められるだろうか。話し合っている間にまた私の心は揺れてしまうのではないか。いくつもの不安が頭によぎる。
「ただいま」
「おかえり」
先に帰っていた夫が鍵を開けてくれた。お互いの間に流れる空気は緊張感を含んでいて、本格的な夏がもう目の前に迫っているというのになんだか肌寒い。
「これ」
鞄を下ろし、手洗いを済ませた私に夫が何かを差し出す。それは小さくもカラフルな花束だった。
「えっ、これ買ってきたの? 花嫌いなんじゃ」
「今日は大切な日だから」
これまで夫から花束をもらったことは一度もない。花が好きな私は常に家の中に花を飾っていたかったが、夫は花があまり好きではない。花を飾れば虫が来る、すぐに枯れるのにお金を出すのはもったいない、そんな理由で我が家に花を飾ることは許されていなかった。だから私は、いつも花屋の前で足を止めてはぐっと我慢していたのだ。
この三か月間の夫の優しさや頑張りは果たしてこれからも続いていくものなのだろうか。離婚の話がなくなれば元に戻ってしまうのではないか。それとも本気で変わろうとしているのか。その答えを私は知ることができない。
「雪、俺は雪が好きだよ。これまでたくさん負担をかけて悪かった。雪の気持ちちゃんと考えてなかったんだ。でも俺はこれからも雪と一緒にいたい。離婚はしたくない。足りないところがあったら言って。直すから。だから」
「ごめん」
「へ?」
「この三か月、いろんなことをやってくれてありがとう。今日も花なんて買ってくれて。すごく嬉しいよ、あなたから花をもらうの初めてだもん、ありがとう。でも、もう遅いよ。もっと早くあなたから花をもらいたかった。もっと早く私にきちんと向きあって考えてほしかった。もっと早く、私を見てほしかった」
「これからは見るよ、雪の気持ち見逃さないようにちゃんと見る」
「うん。もうね、あなたに直してほしいところは何もないよ」
「じゃあこれからも」
「あなたはあなたのままでいいの。あなたのこと心から好いて大切にしてくれる人、きっと他にいるよ。あなたもきっと、最初から大切にしたい、守りたいって思える人に出会えるよ。無理して私とこのままいるよりも、その方がいいよ」
「ちがうよ」
夫の声が大きくなる。揺れる瞳には涙が溜まる。
「違うんだ、俺は雪が好きなんだ。雪といたいんだよ」
「うん、ありがとう。でもごめんね、私はもう無理なんだ」
「なんでだよ」
ドンっと大きな音がして体がびくっと反応する。感情のあまり叩かれたその壁には小さな穴が開いていた。
「最悪だよ、どうしたらいいんだよ」
声はだんだんと弱くなり、泣き声に変わる。
「ごめん、ごめんね」
十分ほど夫はその場に立ち尽くしたまま泣いていた。私の手の中で小さな花束が温められていく。間違っていない、大丈夫、そう自分に言い聞かせてみるが、声をあげて泣いている夫を見ていると私の目にも涙が溢れ、心の中はもうぐちゃぐちゃだ。
「わかったよ」
泣き止んだ夫がこちらを見て言う。
「わかった。もういいよ。だから一か月いないに出て行って。二人の貯金は半分渡すから、一か月以内にこの家から出て行って」
その言葉が夫の強がりから来るものだと、私にはわかる。これまでそれなりに二人で暮らしてきたのだ。一番近くで、二人だけで。
「うん。なるべく早く出て行けるように頑張るね。ありがとう」
「ありがとうってなんだよ……」
その日はもう、それ以上二人の間に会話が生まれることはなかった。三か月前のあの日と同じように、暗闇の中で長い間夫のすすり泣きだけが響いていた。
一か月以内に家を出て行けと言われた翌日、私はすぐに不動産会社へ連絡を取り、
部屋探し相談の予約を取った。
当日は足元が濡れるほどの土砂降り。不動産会社の最寄り駅から数分歩いただけで、靴がかなり水を吸ってしまうほどだ。
大手ではないが、対応が丁寧だと口コミがいくつも書かれていた不動産会社を選んだ。建物の中へ入ると店員らしき人がタオルを渡してくれる。
「雨の中いらしていただき、ありがとうございます」
「今日は、よろしくお願いします」
タオルで服や鞄の表面についた雨水を拭きとり、用意されていた椅子にかける。
「お部屋探し中とのことですが、どのあたりでお探しでしょうか」
「はい、東武スカイツリーラインの〇〇駅~〇〇駅の間でいい家があればと考えています」
事前に考えていた希望の駅を伝える。現在は主に武蔵野線を利用しているが、せっかく引っ越すのであれば少しだけ違う場所にしようと考えた。あまり職場から離れても困るが、今の家と近すぎても日常生活で夫に会ってしまうリスクがある。そこで今の家と職場からの距離がちょうどいい東武スカイツリーラインのとある駅間を指定した。
以前蒼井さんと通勤について話したとき、蒼井さんも確か東武スカイツリーラインを利用していると言っていた。職場まで一度だけ乗り換えが必要になるが、便はいい。むしろ武蔵野線よりも風に強く、都内へも一本で出られる。蒼井さんが言っていた最寄り駅はあえて外し、そこよりも少し職場寄りの駅を希望する。
「他に条件はありますか?」
「風呂トイレ別、エアコン付き、広さは1LDKくらいを希望します。防犯面で一階は避けたいですが、優先事項ではありません」
譲れないポイントと譲れるポイントを事細かに伝えていく。最後に予算を伝えると、店員が一つの物件を紹介してくれた。
「こちらの物件はこれからネットに載せようと思っていたんですが、お客様の条件にぴったりでしたので紹介させていただきますね」
見せてもらったデータは確かに私の条件に一致していた。むしろ条件以上の物件だった。南向き、広いクローゼット、都市ガス、最上階角部屋。賃料も予算内に収まっている。
「ここがいいです、ここにします!」
「おお、よかった。でも一応内見に行きましょう。今からでも大丈夫ですか」
即決したい気持ちだったが、店員の勧めで内見へ向かうことに。車に乗せてもらい、目当ての物件へと向かう。不動産会社からは車で十分くらいの場所だが、雨ということもあり道が混んでいて想像以上に時間がかかった。
道中の車内で案内してくれる店員と少しだけ会話をした。
「お引越しですか? 新しい生活、わくわくするでしょう」
「ええ、まあ」
少し迷ったが、他人であることが影響してか私は離婚のことを素直に話した。
「実は離婚するんです。それで家を探していて」
「そうだったんですか。まあいろいろありますよね。私も昔は……」
店員は特に驚いた様子もなく、ほどよい距離感で話を聞いてくれた。離婚についてこんな風に誰かに話したのは初めてだったが、こんなにもスラスラと話せた自分に驚き、そしてなにより話し終えた後、店員が言った新しい生活という言葉にわくわくしている自分に驚いた。
私はこれから始まる一人の生活が楽しみなのだろうか。
「着きましたよ」
そうこうしているうちに物件に到着。雨は相変わらず土砂降りで、傘を差したまま駐車場から私がこれから住むかもしれない家を見上げる。外壁はブラウンとホワイトで構成されていて、築年数の割に綺麗な見た目のアパート。部屋の前まで行き、店員が鍵を開ける。その鍵は上下に二つ付いていた。
「この部屋、ダブルロックですよ。防犯面でも安心ですね」
「はい、いい物件に出会った気がします」
「では中にどうぞ、ってうわぁ、広い」
鍵を開けて店員と共に中に入る。玄関から廊下が左右に伸びていて、左はキッチンへと続く扉、右は洗面所へとつづく扉になっている。想像していた形とは違っていて、その玄関は店員も驚くほどに広々としていて清潔だった。
キッチン、リビング、寝室、洗面所やトイレ、一通り見て私はこの物件にすると決めた。リビングの壁だけ花の模様が入っていたがその他は白色の壁で統一されていて、パソコンで見せてもらった間取りから想像した部屋よりもずっと広く感じた。
「本当にいい物件ですね。私が住みたいくらい」
「本当にそうですね。私ここに決めます」
「この広さなら模様替えし放題ですよ」
「一応、ドアやカーテンの幅を測ってもいいですか?」
「どうぞ、好きなだけ測ってください」
キッチンに出窓が一つ、ベランダに出るための大きな窓がリビングに。そして花柄の壁面にも窓がついている。寝室にも窓、洗面所にもお風呂にも窓。今日は雨で室内は薄暗いが、晴れていたらきっと部屋中が光に溢れ、明るく照らされているのだろう。早く晴れた日のこの部屋を見てみたい。この家で洗濯をしたり、料理をしたり、眠ったりする日が楽しみで仕方ない、そう思ってしまうほどその部屋は魅力的な場所だった。
引っ越しに必要になるであろう採寸を終え、不動産会社まで戻り私はその日のうちに契約書にサインをした。
ほんのり浮足立つ気持ちで最寄り駅までの道を歩く。今日見た部屋の魅力を早く誰かに伝えたかった。でも誰に?
私はまず報告として夫にメッセージを送る。
『今不動産会社へ行って部屋を決めました。とてもいい部屋がみつかったの。どんな部屋か伝えたい』
すぐに返信がくる。
『よかったね。君が新しく住む家の話は聞きたくないからいい』
そりゃそうだ。私は嬉しさのあまり、つい夫にあんなメッセージを送ってしまった。反省しつつも、誰かに伝えたい気持ちは収まらない。
会社のグループLINEから蒼井さんの名前を探す。心臓が急激にドクンドクンと跳ね始める。どうして。何を緊張しているのだろう。LINEを送る許可は前回話したときに得ている。職場で死にそうな顔をするくらいならその前に相談して、と。もちろん、仕事の事なら、という条件付きで。
仕事の事、ではないか。でも伝えるだけなら。そう考え思い切って蒼井さんを友達登録する。蒼井さんのアイコンは足元を移した写真だ。足元にはピンク色の花びらが散っている。
『離婚が決まって、新しい家を今日見てきました。すごく素敵なところだったんです。無事に決まりました』
送信ボタンを押す指が震えた。どうせまた冷たくあしらわれるか、無視されるかだろう。でも、それでいい。蒼井さんのおかげで私は死なずにここまでこられたのだから。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、じっとスマートフォンを見つめる。返信がくるかも分からないのに。
四十分ほど電車に揺られ、乗り換え、今の家の最寄りへと到着した。そのときスマートフォンがメッセージの受信を知らせる。落ち着きかけていた心臓が、またしても大きく跳ねだす。こわい、そう思った。返信を見るのがこわい、と。
それでも勇気を出してメッセージのページを開く。
『そうですか。家決まったんですね、良かったです。じゃあこれから自分の城を作っていくわけだね』
短いけれど、冷たくはない。胸が締め付けられるような感覚に息がうまく吸えない。それでもその感覚は嫌なものではなかった。
『一人暮らしは初めてなので、いろんなこと分からなくて不安だけど頑張ります』
これ以上会話を続けてはいけない気がしたが、なぜか私は返信をせずにいられなかった。
『でも一人暮らし、ちょっと楽しみじゃない? 僕も早く一人暮らししたいです』
今度はすぐに返信が返ってきた。
蒼井さんも大学を卒業したら一人暮らしをするのだろうか。卒業してしまったらアルバイトも辞めるだろう。そしたらもう会えなくなる。なぜか心が痛んだ。私には関係のないことなのに、どうして。
『卒業したら一人暮らしするんですか?』
思わずそう聞いてしまった。
『迷っているけど、一旦半年か一年か実家でお金貯めようかなと思っています』
またしてもすぐに来た返信にもう心臓が持たなさそうだ。それにすぐには一人暮らしをしないと分かり、どこか安心している自分がいた。遠くに引っ越してしまえば、本当にもう二度と会えなくなってしまうから。
『そうなんだ、返信くれてありがとう。それじゃあまた職場で』
これ以上はいけないと自分から会話を終わらせた。
駅構内で立ち止まったままだった私は家へと足を進める。雨はいつの間にか上がり、夕暮れの赤い光が私の影を長く伸ばしていた。
役所に、離婚届をもらいに行った。窓口で離婚届がほしいと伝えるとすぐにもらうことができた。書き損じがあるかもしれない。念のため二枚もらった。
数年前に出した婚姻届けは、インターネットサイトでダウンロードしたものだった。何種類もある中から夫と私で選んだもの。シンプルな背景の左端に黒い猫がちょこんと座っているデザイン。証人欄はお互いの友人それぞれに書いてもらった。そう遠くはない日の記憶が蘇る。あのときも二枚用意し、友人が一枚書き損じた。
離婚届の証人は義父母でいいだろうか。今夜聞いてみなくては。
家に帰り夫が帰ってくるまでの間に先に離婚届に名前や住所を書き込んだ。名字は悩んだが戻さずそのまま使わせてもらうことにした。仕事への影響だけではなく、様々なインターネットサイトの登録、クレジットカードや銀行口座のことを考えるとそのままにしておく方がずっといい気がした。この名字に恨みがあるわけではない。
自分の分だけ書き終えた二枚の離婚届を並べて眺めてみる。丁寧に書いたつもりなのに、なんだか字が汚く思える。まるで雑に急いで書いたような字だ。でももう書き直しはできない。あとは夫の署名と、証人欄さえ埋まってしまえばこの離婚届は完成する。
帰宅した夫に証人の話をする。
「離婚届、もらってきた。私のところは一応埋めてみたけど。証人欄はあなたの両親にお願いできるかな」
「ありがとう。うん、明日実家に帰って書いてもらうよ。まだ離婚の話していないんだ。きっとびっくりするだろうな……」
「あなたに負担を背負わせて、ごめんね。よろしくお願いします」
これで無事に完成する。そう思っていたが、翌日仕事の休憩時間に夫から着信があった。
「ねえ、今実家に来てるんだけど。離婚届の証人欄、片方しか書けないって。もう片方は君の親に書いてもらえって。じゃないと認めないって」
予想外だった。私の実家はかなり離れたところにあり、証人欄へのサインをもらうためには一度郵送し、サインをしたあとまた送り返してもらうしかない。
「でもそしたらかなり時間かかっちゃうんじゃない?」
「しょうがないだろ。離婚するんだからそれくらい我慢しろよ」
「わかってるけど」
「それと、離婚の話をしたら親にいろいろ問い詰められて。今夜は帰れそうにないから実家に泊まるわ」
「そうなんだ、じゃあまた明日」
そう言い電話を切る。一人で過ごす夜なんて何年振りだろう。夫は交友関係が狭く、飲み会等にもほとんど参加しないため、夜に一人きりになることは今までほとんどなかった。夜ご飯、何食べようかな。いざ自分が一人きりだと思うとなんだか寂しいものだ。
退勤が近づき、引継ぎをしているとお疲れ様ですと声が降ってきた。蒼井さんもこの時間で退勤するようだ。私は思わず声をかける。
「あ、あの、私も今退勤するので少しだけ待っていてもらえませんか」
「えっ、なんで」
「いいから」
なぜそんなことを言ったのか、何度考えても分からない。けれど後になって思うことは、きっとこのときの私は運命の神様に背中を押されたのだろう。
急いで引継ぎを済ませ、店舗の出入り口へと走る。扉の手前、蒼井さんは柱にもたれて私を待っていてくれた。
「遅くなりました。さ、帰りましょう」
「なんで引き留めたんですか?」
駅のホームに向かいながら話す。
「分かりません。どうしてでしょう」
「はあ、全く」
「蒼井さん、途中まで電車の方向一緒ですよね。せっかくなんで途中まで話しましょうよ」
「話すことはないです」
相変わらずあっさりと、冷たい。けれどそのときの私はそんなことなど全く気になっていなかった。どうしてだかは分からない。
電車が来るまでホームのベンチに並んで座った。退勤後そのまま走ってきたことを思い出し、手鏡でこっそり自分の顔をチェックする。身だしなみの一つだ。
「身だしなみの確認ですか」
「いえ、別に」
蒼井さんにばっちり見られていた。
「そういえば、昨日離婚届を書いて。親のサインがいるので完成までにはまだ時間がかかりそうなんですけど、一応報告です。無事に新しい生活を始められそうです」
「そうですか」
電車がホームに滑り込み、私たちは電車に乗り込む。学生の帰宅ラッシュと重なり、車内はかなり混んでいた。仕方なく並んでつり革を握る。つり革は私の頭より上にあるのに、蒼井さんはつり革と同じ高さに顔がある。背が高いんだ。
「身長いくつですか」
「百八十一センチ」
「おお、私より三十センチ近く高いですね。そう、それで、離婚届が無事に受理されたら、お茶しませんか」
なぜ私は新手のナンパのような言葉を言ってしまったのだろう。決して蒼井さんを好きだとかそういうわけではない。ただ、なぜか蒼井さんと話したくてたまらなかった。蒼井さんと話すと生きる気力が湧くからだろうか。
「嫌です」
「えっ」
「お断りします」
見事に断られた。
「コーヒーおごりますよ」
「結構です」
「じゃあ、今日はどうですか」
「なんでそうなるんですか」
蒼井さんはずっと窓の外を眺めたまま素っ気ない。
「次の駅で乗り換えですよね。そこのコンビニでコーヒーおごります」
「あなたは乗り換え必要ないでしょ。それに僕この後用事あるんで」
「何時まで大丈夫ですか」
「何時でも大丈夫ではないです」
蒼井さんが乗り換える駅に到着することを知らせるメロディーが車内に響く。そして間もなくドアが開く。
「えいやっ」
「はあ? 何やってるんですか」
私は蒼井さんよりも先に電車から降りた。運命の神様に背中を押されていなければ、普段の私はこんなことを絶対にしない。後から何度振り返ってみても、この日の私はおかしかった。
「はあ、一杯だけですよ」
「はい!」
私たちは駅の中にあるコンビニに入り、蒼井さんはペットボトルのブラックコーヒーを、私はカップのカフェラテを買った。結局蒼井さんがおごってくれた。
「これ飲んだら帰ります」
「分かってますって」
ホームから出た先にあるベンチに腰掛ける。
「それで、今日は何ですか」
「何もないです。ただ話したくて」
「何を話したかったんですか」
「分かりません。でも蒼井さんと話したくって」
「意味がわかりません。あなたが引き留めたんだから、責任もって喋ってください」
「えっと、身長は」
「さっき言いました」
「血液型は」
「B型です」
「好きな食べ物は」
「米って、お見合いか!」
蒼井さんのするどいツッコミに思わず笑ってしまう。
「私、蒼井さんと話すと元気になるんです」
「そりゃよかった。でも、もうないですからね」
「今日のお礼、今度は私がおごります」
「次はないです。おごらなくてけっこうです」
何かを望んでいるわけではない。冷たい返事だが、こうして話せたことが嬉しくて楽しくて、心がみるみる満たされていく。
「けっこうヤバい人ですよね」
「私が?」
「はい。変な人だし、ヤバい人です」
「そんなことないよ。私はどちらかというと真面目で大人しくて、しっかりしている人です」
「いやぁ、どうだか。僕はかなり人を見る目があると思うんですけど」
「そうかなあ」
何の意味も持たない会話を十五分くらい交わした。カップの中身はすっかり空っぽだ。
「飲み終わったみたいだし、帰ります」
蒼井さんが立ち上がり駅の方へと歩き出す。楽しい時間が終わってしまう。いやだ、もっと話したい。
「じゃあ、駅をぐるっと周りましょう。そしたら大人しく帰ります」
わがままを言ってしまった。
「それやったらちゃんと帰るんでしょうね」
「はい、もちろん!」
意外にも蒼井さんはそれを受け入れ、早足で歩き出す。置いて行かれないよう私も小走りで蒼井さんの後を追った。
「走ったら転びますよ」
「そしたら助けてください」
「助けるとしたら頭を鷲掴みにしますけどいいですか」
「いいですよ」
「……冗談なんですけど。変な人」
駅の周りを一周するだけ。五分もかからなかった。それでも私は久しぶりに心の底からその時間を楽しんでいたように思う。ただ純粋に、子供のように。
蒼井さんとは路線が違うので、改札より先には行けない。
「今日は、ありがとうございました」
「いいえ、それじゃあ」
「うん。また今度、コーヒー飲もう!」
「飲みません。お疲れ様でした」
そう言い残し、蒼井さんは一度も振り返ることなく改札の奥へと消えていく。
私の手には飲み終えたカフェラテのカップが残っている。なんとなく、私はそのカップを写真に撮って残した。
生きる気力をもらい、ほんのり元気になった私は一人で帰路に着く。家のドアを開けると、真っ暗な部屋と静寂だけが私を迎えた。
「そっか、今日一人なんだ」
なんとなくやるせない気持ちになり、服も着替えずソファに横になる。そうだ、さっきの写真を見返そうとスマートフォンの写真フォルダを開く。コンビニの赤いカップと自分の手。なんてことない写真なのに、どうしてこんなに嬉しい気持ちになるんだろう。
私はそのまま写真フォルダを遡る。最近はほとんど写真を撮っていなかったが、少し前は職場でできた友人との写真が多く、それより前は夫とのツーショットや出先で出会った猫や綺麗な風景、料理のレシピ画面をスクショしたものなどが多い。様々な思い出が蘇ってくる。いい思い出ももちろんある、けれどそれよりも苦しさや悲しさが勝る。だからこの選択は間違いじゃない、大丈夫。懐かしさに呑み込まれないように再び自分に言い聞かす。
私は昔から思い出を写真や文章に残しておかないとすぐに忘れてしまう癖があった。病院へ行くほどではないが、一度でも何か形に残さないとすぐに記憶が薄れてしまう。その代わり、一度でも写真や文章として残せば、長く、長く覚えていられる。何年の何月何日に誰とどこへ行って何をしたか、そんな風に事細かく記憶できる。どうしてだかは分からない。
だから夫に、たくさん写真を撮ってほしいと何度も頼んでいた。私自身も写真を撮るが、誰かに撮ってもらった自分の姿も記憶に残したかった。けれど夫はいつも面倒だとほとんど写真を撮ってくれなかった。カメラモードにした私のスマートフォンを無理やり押し付ければ一枚くらいはシャッターをきってくれたが、私から言わなければ自分からは一枚も撮ってはくれない。
だから、私の中にある夫との思い出に私はいない。私が見た景色や夫の姿は存在していてもそこに私はいない。そのため何を着ていたか、どんな髪型をしていたかを思い出せないのはもちろん、本当にその場所に私はいたのだろうかとときおり疑いたくなる。これは私の思い出ではなく、誰かが撮った写真から私が勝手に作り出した記憶なのではないだろうか。本当の私はどこへも行っていないのではないか。
一度だけ、どうしても記憶に残したい瞬間があり、夫にしつこく写真を撮ってほしいと頼んだことがある。面倒くさいと嫌がる夫にあまりにもしつこく頼んだおかげで、夫は不機嫌になってしまった。そのときに私は自分の記憶の話を初めて夫に話したことを覚えている。
形に残してほしい、そう頼んだが、理解されることはなく、不機嫌な夫は苛立った口調で
「そんなの知らないよ。自分で撮ればいいじゃん」
と言った。私はそれ以来、夫に写真を撮ることを頼まなくなった。だからそれ以降、この世界に私は存在していない。
SNSなどで見かけるカップルや夫婦の投稿に、お互いが撮り合ったピンショットがたくさん載せられているのを見かけると、どうしても羨ましく感じてしまう。
「消しちゃおうかな」
ふいに思い立った。一万枚を超えるこれまでに私が撮った写真たち。ふいに全て消したくなった。見返したって、苦しく悲しくなるだけなら消してしまった方が楽だ。もう二度とこの日々を思い出さないように。ほんの少しだけ迷い、私は、私が存在していない世界の記憶を全て削除した。削除ボタンを押すと写真たちはほんの数秒で私のスマートフォンから消え去った。唯一残したのは、母とのツーショット写真と、今日のカフェラテの写真。この二つの記憶だけは消すまい。これらはこれから私の生きる活力になり得るのだから。
一人きりの夜はあっという間に過ぎ去り、翌日の夜夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「離婚の話、してきたよ。離婚届の証人欄は、君の親が書いたあとじゃないと書かないってさ。だから預かってきた。これ、郵送してもらってもいい?」
「そうなんだ……。じゃあ、明日出しておくね」
「返信用の封筒も入れときなね」
こういうところだけしっかりしている人だ。これまでも私の親に対して他人かと思うほど律儀な態度を取っていた。
「そういえば、お母さんがあなたと話したいって」
離婚することを私の母に伝えると、母は直接夫と話したいと言ったのだ。
「……わかった。今からでもいいかな」
「かけてみる」
そのあと私の母と夫は一時間以上電話で話していた。いつも通り堅苦しい挨拶を交わし、離婚の経緯を語った。こっそり聞き耳を立てていたら、夫は離婚の原因について全て俺が悪いですと言った。俺が不甲斐なくて、どうしようもなかったからこうなりました、と。そして母の言葉を受け、夫は泣いていた。悲しくて泣いているというよりも、申し訳なくて泣いているという風だった。あとで母に聞いた話では、どちらも悪くない、話してくれてありがとう。これからも体に気を付けて生きていくんだよ、そんな言葉をかけたようだ。
この数か月間で泣いている夫を何度見ただろう。これまでほとんど泣かなかった夫が、こんなにも涙を流している。離婚話を切り出してから今日までの日々で夫の髪には白髪がいくつも目立つようになった。まだ白髪が生える年齢ではない、きっと相当のストレスを抱えたのだろう。
電話を終え、涙を拭いた夫と少し話をした。夫の実家での話も聞いた。かなり驚いていたし、ショックを受けていたが誰のことも責めていなかった、と。義母が夫を責め立てるのではないかと少し心配していた。だから
「お義母さん、怒らなかったんだね。よかった。あなたが怒られたら申し訳ないなって」
そう口にした。返ってきた言葉は
「うちの家族のことは君に関係ないから。君がそれを心配するのは筋違いだよ」
離婚届はまだ完成していないが、もう他人になってしまったのかもしれない。それとも夫なりに割り切ろうとしているのか。私にその答えを知ることはできない。
その後私の母から離婚届が返送され、夫の親にサインをもらいそれが完成するまで十日ほどかかった。
全てが揃った七月中旬。二人の休みはなかなか合わず、離婚届だから一緒に行く必要はないという夫の言葉もあり、私が休みの平日に一人で役所へ行くことになった。家からは少し離れた坂の上の役所。最寄り駅からバスに乗り役所へ向かう。照りつける日差しに思わず目を細めた。外の世界はこんなにも明るく生き生きとしている。私は今どんな顔をしているだろうか。傍から見れば、どんな気持ちでどこへ向かっている人に見えるだろうか。口角をきゅっと上げて笑顔を作った。けれど、今の感情に笑顔は似合わない。
平日昼の役所は思ったより混んでいて、受付をしてから呼ばれるまで少し時間があった。
鞄の中にはいつも持ち歩いている読みかけの文庫本や、音楽を聴くためのイヤホンなど時間がつぶせるアイテムはいくつも入っているが、なんだか気持ちが落ち着かず、何をするでもなく座っていた。
みんなはどんな目的があって役所へ来ているのだろう。よく観察していると、もらえるはずのお金がもらえていないと怒っている若い女性や、遠くから一人で引っ越してきたので手続きをしたいと話す高齢の男性、その他にも子連れのお母さんや、同い年くらいの夫婦、本当にいろんな人がここにいるんだ。役所には日々、様々な年代の人達が様々な理由で集まっている。今日ここで離婚届を提出する人は何人くらいいるのだろうか。役所の職員からすれば、婚姻届も離婚届ももう見飽きてしまっているのだろうか。
そんなことを考えていると、私の順番が来た。
離婚届を窓口に提出し、本人確認や今後の手続きの確認をされ、それが終わるとそれはあっさりと受理された。
「お疲れさまでした」
最後に対応してくれた職員からそう言われ、私の体から一気に力が抜けていく。これで終わったんだ。これで、全て終わった。
――お疲れさまでした――その言葉は今の私たちにぴったりだと思った。私もあなたもお疲れさまでした。幸せに生きてね、今までありがとう。本当にお疲れさまでした。
離婚届が受理された数週間後に私は引っ越し、夫――元夫の家を出た。
離婚が成立した後はこれまでの冷え切った関係が嘘のように、穏やかで温かい時間が二人の間に流れた。もう離婚したのだ、他人なのだとお互い割り切ってしまえばこれまでのようにいがみ合う必要もない。昔の思い出話をして楽しかったことをランキング形式で発表しあったり、お互いの嫌いなところを笑いながら伝えあったりした。
引っ越し当日、引越し業者に荷物を託した後、私は大きなキャリーケースを一つ持ち、新居へと向かう。駅までは夫がキャリーケースを持ってくれた。
「最近よく聴く曲があるんだ」
そう言って夫が教えてくれたのは、私の知らないアーティストの別れの曲だった。
「もっと早くいろんなことに気が付けていたらよかったなって」
「そんなことないよ。楽しかったんだよ、あなたとの日々。本当だよ」
「うん、俺も楽しかった。ありがとう、今まで」
「こちらこそ、ありがとう」
最寄り駅まで送ってもらうつもりだったが、もう少しだけと途中の乗り換え駅まで私のキャリーケースを手放さなかった元夫に
「ねえ、お花買って」
駅構内にある花屋を指さし言ってみた。
「もちろん」
嫌な顔一つせずそう言ってくれた。
たくさんの綺麗な花たちの中から、私はオレンジ色の少し大きいブーケを選び、元夫がそれをレジへ持って行く。
「はい、どうぞ」
元夫の手からブーケを受け取った。夫の目には涙が浮かんでいて、私がそれに気づくとすぐにゴシゴシと服の袖で涙をぬぐう。
「君、好きだよ」
「ありがとう。私も、好きだったよ。元気でね」
大きなキャリーケースとオレンジ色のブーケを手に、私は改札へ向かう。すごく、すごく振り返りたくなったが一度も振り返らずに改札を通り、ぴったりのタイミングでホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。ありがとう、バイバイ。




