N井さんといぬいぬさん(Love me, love my dog)5
「あー、っと」
咳払いになり損ねたようなそれは後ろから聞こえ、香里が振り向くより先に知佳とは反対側、香里の右隣に声の主が並ぶ。若い男だ。
「こいつに、何か用?」
片手で気安く犬を示す様子を見てどうやら飼い主らしいと判断し、香里は問いかける。
「もしかして、いぬいさん?」
「犬が?」
いきなりの質問に少したじろいでから、男は問い返す。
「いえ、あなたが」
「ん、いや、俺は七井さん。で、こちらはN井さん」
「えぬいさん?」
わ、わん、と紹介を受けるように犬は鳴く。
「そ。手ぇ貸して」
七井は自分から近い香里の右手を取ると、手のひらを上向きにし手の甲に自らの左手を添えて支えるようにした。
棒を一本ずつ、上から下に、左上から右下に、また上から下に。今度は棒を二本ずつ、左から右に、上から下に。軌跡も残らない七井はアルファベットも漢字も書き順を守っているらしい、と自分の右手のひらに走る指を見ながら香里は感心する。
「N井、さん?」
「そう。憂鬱と退屈の犬、N井さん。ま、俺も名字を伏字にすると『N井さん』か」
ゆうつと、たいくつ、と呟きながらつながれた手をつんつんと引っ張る知佳に、香里は答えようとして口ごもる。
————憂鬱と、退屈の、N井さん。
「手、借ります」
先ほどまで書かれる側だった右手を書く側に変え、人差し指を滑らせる。香里はクロスワードパズルも小文字で、日本語のものはひらがなで埋めていく主義である。ヒントとして埋まっているマスが大文字であろうがカタカナであろうが、小文字とひらがなを使うと心に決めている。
知佳とつないでいる左手はそのままに、利き手である右手を七井の左手の上になめらかな曲線を描く。ひとつの文字が終わると、一旦指を離して区切りとする。
————e-n-n-u-i。
「これですか?」
「そう、それ」
七井は少し驚いたように肯定する。
「これ、アンニュイ」
犬は答えなかったけれど、代わりに七井が「え」と声を上げた。ほぼ同時に、香里が書きやすいよう自力で固定されていた七井の左手も引っ込む。
「え、ほんと? アンニュイ? エヌイじゃなくて?」
「そう。フランス語だから正確な発音はわからないけど」
「うわ、そうかアンニュイか」
七井はしみじみと呟いて、だらりとした自分の左手を見下ろしたまま動かない。
「あんにゅいー?」
知佳が困ったように香里の腕に体重をかけるので、「やる気がないこと」と告げる。
「ねえりーちゃん、えぬいさんなの? いぬいぬさんじゃなくて、えぬいさん?」
「そう。N井さん」
「そっか。えぬいさんか」
えぬいさん、とそっと唇に乗せて知佳は香里の腕を離し、自分より大きい生き物への敬意を示すように、触れない距離に両手を差し出す。
「あ、触って平気だから。やる気がないから噛みつかないし」との衝撃から立ち直ったらしい七井の言葉に、知佳は犬の首筋の後ろにふわりと触れ、えぬいさん、と噛みしめるように口にする。
「よかったらお姉さんもどうぞ」と七井に気軽に促され、「いえ叔母です」と返してから、思いついて香里は再び七井の手を取った。今回は左手を下敷きのように支えにしている。
「それでは、これは?」
————m-o-n-s-i-e-u-r、と借りた七井の手に香里は綴ってみる。「もっかい」と七井に請われて、同じ指の運びをもう一度ゆっくり繰り返す。
「……もんじゃ?」
「ムッシュー」
「うわ、そうくるか」
それはこちらの台詞だろう、と半ば予想した結果に笑みをこらえつつ七井の手を解放し、香里はフランスの犬に思いを馳せる。かの地でも犬は同じように鳴くのだろうか、言葉はこんなに通じないのに、と香里は知佳と犬とを眺めやり、「ねえ、N井さん」と問うてみる。
わん、と犬は答えた。