陽炎の鏡 ― 邪馬台国東遷、そして祈りの 終焉
陽炎の鏡 最終回です。
第五章:陽炎の鏡、二月堂の残り火
規律を重んじるべき調査員の立場でありながら、夜間に独断で行った発掘調査。その代償は、組織からの厳重な譴責と減給という無機質な通達によって下された。しかし、組織内の冷ややかな評価とは裏腹に、世間が放った騒光は、僕の日常を根底から揺さぶっていった。
僕が纒向で掘り当てた鏡の片割れが、かつて北九州・吉野ヶ里遺跡の近郊で出土し、その後長らく未同定のまま行方不明同然となっていた「ある欠片」と、寸分の狂いもなく合致したのだ。その欠片は、かつて遥が若き日に発掘に携わっていたとされるものだった。
この発見は、停滞していた古代史界に激しい議論の火を放った。邪馬台国は九州にあったのか、あるいは大和にあったのか。その終わりのない論争に、新たな第三の道――「邪馬台国東遷説」という巨大な灯を点したからだ。 三世紀から五世紀にかけて、九州の女王の系譜は大和を目指して移動した。政権が西日本を東へと遷し続けたその旅路こそが、日本という国の礎になったのではないか。同一の鏡が、千五百年の時を超えて九州と大和を結びつけたという事実は、何よりも雄弁にその「移動」を証明していた。
僕はいつしか、時の人となっていた。 学術誌への寄稿、テレビの特集、そして全国各地からの講演依頼。かつての怠惰な学生生活が嘘のように、僕のスケジュールは数ヶ月先まで埋め尽くされた。しかし、どれほど脚光を浴びようとも、僕の心の奥底には冷たい空洞が横たわっていた。その空洞を満たせる唯一の女性は、もうこの世のどこにもいない。
秘巫女の輪廻
十二月中旬。冷え込みの厳しい午後のことだ。 僕は大阪市内のホールで開かれた講演会に、ゲスト講師として登壇していた。 「……卑弥呼とは、魏志倭人伝に登場する特定の個人を指すのではなく、ある特別な霊性を受け継いだ巫女の『称号』であったとも考えられます」 僕は遥が残したあの古文書の言葉を、学術的な仮説に変換して語っていた。 「十代で月のものを見てから、巫女としての聖なる時期を終える――おそらく閉経に関連した、三十八歳に至るまで。その限られた期間、彼女たちは『秘巫女』として神の声を聴き、民を導いた。しかし、それは同時に、一人の女性としての人生を神に捧げるという過酷な宿命でもありました」
僕はさらに、自説を続けた。 「何らかの自然災害か、あるいは勢力拡大の決意か。ある代の『秘巫女』は、日出る東を目指す決断を下した。彼女たちは、自らの象徴である青銅鏡を二つに割り、半分を故郷である九州に残し、半分を旅の護符として携えた。これが、我々が目にした『分かたれた鏡』の正体ではないでしょうか」
僕は、かつて遥が夢想したであろう景色を、聴衆に投げかけた。 「彼女たちが瀬戸内を渡り、この難波の地に上陸した場所……。当時は大阪平野の深くまで湿地が続いていたことを考えれば、大和へ最も近い港――現在の東成区、深江あたりがその候補として浮かび上がります。そこから生駒を越えれば、彼女たちが目指した約束の地、大和平野はすぐそこなのです」
講演の締めくくりに、僕は自身の最も私的な願いを込めた。 「九州から大和への遷都は、神に捧げられた巫女たちが、自らを解放し、男性の支配者を生み出していく『個の目覚め』の歴史でもあった。二つの鏡が一つに重なった時、僕はそこに、千五百年の時を超えて繋がろうとした一人の女性の意志を感じるのです」
盛況のうちに講演は終わった。 会場を出ると、冬の湿った風が頬を打つ。十七歳の頃、ここから遥と近鉄電車に乗って奈良へ向かった。あの日の匂いが、ふと鼻腔を掠めた。僕はそのまま、吸い寄せられるように鶴橋駅へと向かった。
二月堂への巡礼
午後四時すぎ。近鉄奈良駅に降り立った茂の姿は、冷たい風に吹かれる駅前で、どこか迷子のような心細さを湛えていた。スーツの上にコートを羽織り、革靴で硬いアスファルトを踏みしめる。 奈良公園へと続く坂道を歩き始めると、冬の短い午後の光は、すでに金色の斜光となって木々を焦がしていた。
二十八年前、遥と一緒に歩いた道。 あの時は、隣を歩く彼女の温度を感じるだけで、どれほど歩いても疲れなど知らなかった。だが、四十五歳になった今の茂にとって、二月堂へ続く緩やかな上り坂は、ひどく長く、肺が焼けるほどに息の切れるものだった。 手向山八幡宮を抜け、三月堂の脇を通る。遠くで鹿の鳴き声が、冬枯れの空に冷たく吸い込まれていった。
奥山に 紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
古今集
ふと、そんな和歌が頭をよぎる。鹿の声は、失った者への挽歌のように物悲しく響く。 長い階段を、一段、また一段と踏みしめ、ようやく辿り着いた二月堂。茂はそのまま、震える手でポケットから二つのお守りを取り出した。 二十八年間、自分の手の中で紐が擦り切れるまで握りしめたお守り。 そして、纒向の泥の中から見つかった、遥の命と共にあったお守り。 茂はそれらを、納札箱の中へ静かに並べて納めた。 (遥、もうここに返すよ。僕たちの、止まっていた時間を)
それから茂は、重い足取りで二月堂の舞台へと上がった。 かつて、凍てつく寒さの中で大勢の参拝客に揉まれながら、遥と肩を並べて見上げた景色。今は、人影一つない。ただ、十二月の中旬らしい鋭い冷気が、木造の舞台を支配していた。 茂は欄干に手をかけ、正面に広がる大和盆地を見据えた。 目の前には生駒山地が、凛とした稜線を描いている。西南の彼方には、金剛山と葛城山が、古から変わらぬ重厚な影となって横たわっていた。
「……見てるか、遥」
隣に、あのショートカットの少女が立っているような気がした。 彼女が探していた「深いところにある声」は、もう届いたのだろうか。邪馬台国の謎も、鏡の行方も、秘巫女の正体も、すべてはこの大和平野の静寂の中に溶け込んでいく。
生駒の山向こうに日が落ちると、街の灯が一つ、また一つと点り始める。 二十八年前に二人で見た、あの赤い夕焼け。今、茂は一人でそれを見つめている。
(やっとやね……)
冷気の中で、遥の声が聞こえた気がした。
「そうや、遥。ここに戻ってこれた。君を連れてこれたよ」 茂は隣にいるであろう透明な影に向かって、小さくささやいた。
生駒の稜線に最後の一条の光が沈み、深い群青の闇が大和を包み込む。 溢れ出した熱い雫が、頬を伝い、凍てつく風にさらわれていった。それは二十八年という歳月を濯ぐ、浄化の儀式のようでもあった。
遠くで、また鹿の鳴き声が響く。 凍てつく夜の静寂の中に、一人の男の孤独と、ようやく空へ還った陽炎の残り火が、静かに溶けて消えていった。 (完)
また、次回作も新しい話を続けますので、よろしくお願いします。




