第1話「最弱の影縫い、奈落で出会う」
正直に言えば、しんどかった。
《深淵》のF層は、ダンジョンというより「広い地下室」に近い。
天井は低く、壁は湿った土の色で、どこかカビのにおいがする。
照明用の魔石が等間隔に埋め込まれているせいで、薄いオレンジの光がずっと漂っている。
夜霧蒼汰は、その通路の隅に背中をくっつけて息を整えていた。
(……逃げた。また逃げた)
手の中には冒険者カードがある。
まだ発行されたばかりで、ランクの欄には「F」と刻まれている。
Fというのはランクの最底辺だ。8段階中の8番目。
要するに、最弱。
今日の依頼は「F層・スライム(ミドロ)討伐×5体」だった。
達成報酬は1体500円。5体で2500円。
それが蒼汰の仕事だった。
なのに。
壁の向こうから、ぐちゃぐちゃと粘質な音が聞こえてくる。ミドロが3体、うろうろしているのだ。
スライム。
蒼汰が討伐した数は今日で0体。
(怖くはない……怖くはない、はずなんだけど)
短剣を握る右手が、じわじわと汗ばんでいる。
冒険者になったのは特に理由がなかった。
高校を卒業して、就職先も特になくて、駅前の「JAG冒険者協会・渋谷支部」の看板を見てふらっと入ったらそのまま登録されていた。
友達の悠に「蒼汰ならなんとかなるんじゃない?」と言われたのもあった。
なんとかなっていない。
もう一度、壁の角から覗く。
ミドロは3体。半透明の塊が、床をぬるぬると這っている。
核は体内の赤い光点だ。
あれを壊せば討伐扱いになる。
核の位置はわかってる。
距離は5メートルもない。なのに。
(行け。行けよ、俺)
脚が動かない。
蒼汰のスキルは《影縫い(シャドウステッチ)》という。
覚醒したときに「これがあなたの固有スキルです」と白いパネルに表示されたのを今も覚えている。
隣で覚醒した同期の黒瀬慧は《光刃》という派手な名前のスキルを得て、歓声を上げていた。
蒼汰の《影縫い》を見て、黒瀬は一瞥して鼻で笑った。
「影を3秒固定? 使えないな」
そのあと数人がやってきて同じことを言った。
欠陥スキル、と言った奴もいた。
Fランクらしいスキルだ、と笑った奴もいた。
蒼汰は「そうかもしれないですね」と答えた。
内心では、全然違うことを思っていたけれど。
(……でも、もしかしたら、なにかあるかもしれないじゃないか)
深呼吸して、角から踏み出す。
ミドロ1体が蒼汰を感知して、触手を伸ばしてきた。
「《影縫い》!」
スキルを発動する。
ミドロの影が、床に縫い付けられたように固まった。
動きが止まる。3秒間。
その3秒で蒼汰は短剣を突き刺し、核を砕いた。
ミドロが光の粒子に変わって消える。
(やった……1体)
そこで残りの2体が同時に突進してきた。
当然だ。ミドロは集団で連動する。
蒼汰は《影縫い》のクールタイムが間に合わないと瞬時に理解して、
――逃げた。
通路を全力で走りながら、蒼汰は頭の中でひたすら毒づいた。
(クソ、クソ、クソ! なんで俺はこうなんだ! 1体倒して即逃げって、最悪じゃないか!)
走る足音が通路に響く。
ミドロの這う音が追いかけてくる。
角を曲がって、また曲がって、突き当たりの壁に背をつけた瞬間――
前が、塞がった。
◆
ゴブリンだった。
5体。いや、8体。数えている余裕もない。
奥の方から次々とわらわらと現れてくる。
個体名は「ガズ」と呼ばれる種族。
体長1.2メートル前後の人型。
黒緑の肌、黄色い目、鋭い牙。
F〜Eランク帯では中堅に位置する危険モンスターだ。
単体ならまだしも、集団行動をとるガズの群れはEランク冒険者でも慎重を要する。
後ろからはミドロ2体。
前からはガズ8体以上。
(詰んだ)
蒼汰の頭は不思議と冷静だった。
怖い、というより、諦めに近い静けさがあった。
スキルのクールタイムはまだ8秒ある。
短剣は持っている。
でもガズ1体に対してさえ、今の蒼汰にはほぼ勝ち目がない。それが8体以上となれば。
(ごめん、悠。なんか先に死にそう)
ガズのリーダー格が一歩前に出た。
他のガズより頭一つ大きく、古傷が多い。
群れの古参だ。
目が合う。
ガズは笑うような顔つきで口の端を吊り上げた。
蒼汰は短剣を構えた。無様でもいい。1体でも道連れにしてやる。
その瞬間――
風が、吹いた。
地下空間に風など吹くはずがなかった。
なのに確かに、白いコートの裾がはためく音がして、通路の奥に人影が現れた。
背の高い女性だった。
長い黒髪が重力を無視するように浮いている。
切れ長の藍色の目が、群れを静かに見渡している。
腰に下げた一振りの細身の剣。
白いコートには、血の一滴もついていない。
(誰、だ……?)
ガズたちがざわめいた。
リーダー格が一歩後ずさる。
動物的な直感で、何かを感じ取ったのだろう。
女性は蒼汰を一秒だけ見た。
蒼汰は、その目が忘れられないと思った。
怒りでも哀れみでもなく、ただ静かで、深くて、どこか遠くを見ているような目だった。
次の瞬間、女性が動いた。
「霧断」
呟くような声だった。
白い霧が、周囲に満ちた。
一瞬のことだった。
霧の中でガズたちが混乱し、触手を振り回すミドロが止まり、そして――
剣閃が、3度走った。
ガズが6体、光の粒子になって消えた。
残り2体が逃走する。
ミドロ2体が核を砕かれて霧散する。時間にして、4秒もなかった。
蒼汰は、ぽかんと口を開けていた。
(……なんだ、今の)
女性はコートの裾を直して、蒼汰の前に立った。
視線が合う。
身長差があるので少し見上げる形になった。
「怪我は?」
声は低くて静かだった。
「あ……ないです」
「ランクは」
「F……です」
女性は少し眉を動かした。何かを考えているようだった。
蒼汰は自分が恥ずかしかった。
Fランクで、ミドロに追われて、ガズに詰められて、そこを助けられた。
最弱の見本みたいな場面だ。
(笑えばいい。笑ってくれ。その方がまだ楽だ)
しかし女性は笑わなかった。
ただ、一言言った。
「生きてるうちに強くなりな」
それだけだった。
振り返りもせず、白いコートの背中が通路の奥へ消えていく。
残るのは霧の残り香と、ぐちゃぐちゃな感情を持て余した蒼汰だけだ。
(……なんだよ、それ)
怒りとも違う。悔しいとも違う。
ただ、胸のど真ん中に何かが刺さった感じがした。まだ抜けない。
後で協会の掲示板でその女性の顔写真を見つけた。
Sランク上位。業界では最強格の一人と囁かれる名前。
霧島澪。年齢25歳。
蒼汰は写真を何秒も見ていた。
(俺には、まだ全然届かない。でも)
短剣を握り直す。
(いつか、あの背中に追いついてみせる)
Fランク冒険者・夜霧蒼汰の、本当の意味での最初の一歩は、こんな情けない場所から始まった。
――それでも、確かに、始まった。




