―第8章― 感情の揺れの為の死神の「逡巡」
「俺はどうして一ノ瀬千夏を助けたんだろうな」
静まり返った室内に俯瞰に満ちた声が響く。
暗闇の中で机の上の書類の束だけが浮かび上がっている。
本来なら悔しがるべき。
わざわざ木の上に鍵を隠し、見つからないように仕向けたのだから。
意識的には理解しているのに、胸の奥で煮え立つはずの感情はどこにも湧いてこない。
代わりにあったのは、安堵。
「俺はあの少女に、一ノ瀬千夏に、生きて欲しいのか」
呟いた瞬間、胸の奥が酷く軋んだ。
それは死神になってから長い間、忘れていた痛み。
死神になりたての頃は、死者を連れていくたび胸が締め付けられた。
死者の周りには最後までその死を悲しむ者もいたし、死者さえも最期まで生きる希望を持っていた。
死神になったところで、元は人間。
理にも示した通り、輪廻転生で記憶は消えるが、死者の都に来る場合は前世の記憶が消える訳じゃない。
死への恐怖やら、親しい人と離れたくない気持ちは痛いほど伝わってくる。
それでも、年月が経つにつれ、仕方のないことだと割り切れるようになっていた。
俺がやらなかったところで、別の死神がやるだけ。
死を決めるのは本物の神で、俺達には生者を死者にした責任はない。
ただ、自分の仕事を行うだけ。
そう思って、仕事をこなしてきた。
それなのに。
俺はなぜあの時、一ノ瀬千夏を生かしてしまったのだろう。
こんなに悩むなら、生かさなければよかった。
どうせ、あと5か月で死ぬ。
なのに、運命を変えるべきじゃなかった。
上げてから落とされるのが一番辛い。
希望が絶望に変わる方があの少年達には痛い。
でも、あの少年達に今だけでも涙を流させたくないと思ってしまった。
一筋の涙が薄く淡く、書類の上に零れた。
50年ぶりの涙。
感情が消え去ったと思っていた俺にも、こんな感情がまだあったんだな。
未知は怖い。
あの少年達が以後どうなってしまうかは分からない。
それでも、賭けてみるかな。
未来は分からない。
だけど、それでいい。
だから諦めない、か。
『ミッションコンプリート。寿命1ヶ月、くれてやるよ」
一ノ瀬千夏の額にそっと手を当てて、俺は静かに呟いた。
その声はまた闇に掻き消されていった。




