―第2章― 恐怖と興奮の為の理恵の「躊躇」
気がつくと、あれほど不規則に鳴り響いていた心電図モニターの警告音がいつもの周期的なスイッチ音に戻り、千夏はまるで何事もなかったように起き上がっていた。
「奇跡よ。奇跡…!」
千夏のお母さんは泣きながら飛び上がって喜んでいる。
けれど私は、その光景を素直に喜べなかった。
先程の黒い、何か、は何だったのか。
あの怪物が言った、ミッション、とは何なのか。
そして、私達は何を代償にしてしまったのか。
喉の奥が張り詰め、呼吸が浅くなる。
夕方六時。
病院での処理が終わり、私達は帰路についた。
千夏が生きている。
それは本来なら胸が弾けるほど嬉しい出来事のはずなのに、私は今までの人生の中で最大級に不安で苦しい夜に沈んでいた。
誰もが口を開けずに、夜道に落ちる影だけが長く伸びていく。
みんな、あの怪物を見たのだろう。
そうでなければ、こんな重苦しい沈黙に包まれることはない。
でも、もしあれが現実だと認めてしまったら、「幻かもしれない」という最後の希望が消え失せてしまう。
その現実を知りたくなくて、脳内で生成された言葉は遮られる。
「なあ、お前らもあれを見たんだろ。なら、なんで黙ってんだよ」
飛鷹が上ずった声で沈黙を破った。
誰も答えない。
誰もが同意することが怖い。
同意した瞬間、全てが現実になってしまうから。
「あれって、死神だったのかな。どうしてあんな形をしてるんだろ?」
つくづく想空は好奇心のままに動く自由人だ。
空気なんか読まずに、その好奇心のままに行動していく。
その姿は時折、羨ましく、疎ましく映る。
その時だった。
再び、黒い影が夜道に滲み出るように現れた。
「君達にはあの少女を生かす代わりに、今、握っている鏡を使って、俗にいうあの世でミッションを行ってもらう」
気がつくと、手の中に不気味な鏡があった。
この世の全ての色が混ざり合ったような何とも言えない不穏な色。
「ミッションを一つ成功させるごとに1ヶ月の寿命をやる。失敗したらその瞬間、一ノ瀬千夏は死ぬ」
呼吸が止まる。
その言葉に器官がきゅっと締まり、怯えで声が出ない。
「なんだ。怖気づいたか。飛鷹迅。鈴木隼人。遊馬想空。森田理恵。穂積鈴」
以前に音楽の授業で聴いた「魔王」のように低く、威厳のある声。
「なんで、名前を?」
飛鷹が目の前を覆う死神に向かって声を荒げる。
「そりゃ、死神だからね。殺そうと思えば君達だって簡単に殺せる」
死神は飛鷹の睨みに屈せず、卑猥な笑みを浮かべる。
その笑みは、さっきよりさらに歪んでいた。
「やっぱり死神だったんだ。どうしてそんな姿をしてるの?」
想空が脅しに気付かず、無邪気に疑問をぶつける。
死神は露骨に顔を顰めた。
失敗したら、千夏を自分達のせいで死なせることになる。
病で死ぬよりもそれは、きっと辛い。
それでも。
「そのミッション、受けてやろうじゃねえの」
その空白に飛鷹が息を取り戻し、状況を愉しむかのように笑った。
獲物を捉える鷹の鋭い眼つき。
「そうだな。やってやろうぜ」
隼人も続いて息づく。
私だって、もし千夏がいなかったら、とっくに人生のつまらなさに失望して、今頃死んでいただろう。
私にとって千夏は太陽だ。
ミッションを成功させる確率が限りなく低かったとしても、千夏を失わないためなら挑まない道はない。
限りなく少ない奇跡の為に走るまでだと。
そう心は決まっていた。
躊躇う理由はないはずなのに、恐怖と興奮で身は震える。
「「そうだね」」
4人の声は重なった。
死神は顔を紅潮させて、歪んだ笑みを口元に張り付けた。
「そうか、受けるか。なら、思いっきり叩きのめしてやんねえとな」
その笑みは、悪意そのものだった。
「今月中にその鏡を使ってあの世に来い。そしたら、ミッションを伝えてやる」
死神は、闇に溶けるように目の前から消えていた。
この5人の中で動けなかったのは、私だけだった。




