アッシュ! 2
想像もしなかった答えに、びっくりしてしゃっくりが出てしまった。途端、アッシュが水を取りに部屋を出ていく。
確かに今、アッシュは自分のことを「人の気持ちがわからない」などと言っていた。
まさか、あのアッシュが?いやいや、それはないでしょう。
今だって、私が驚きすぎて変なところに空気が入ったと感じた瞬間に水を取りに行ってくれた。毎日毎日私の様子を見て、少しでも怪しい素振りをしようものならば速攻で釘を刺しにくる。
無表情なわりに、周りとの連携が取れていない訳じゃない。
大体この間の王宮訪問だって、アッシュが私に付いてきてくれたならあんなふうにガイロス殿下に嫌われるここはなかったんじゃないかな、と思っている。もっと上手にお話できるように、さりげなく誘導してくれたと。
でも、成人前だからと、お母様がアッシュの付き添いを許可しなかっただけ。
つまり何が言いたいかと言うと、アッシュに人の気持ちがわからないのならば、私がわからなくても当然だということだ。
だから、少し息を切らしたようにして水を運んできてくれたアッシュに向かい、もう一度尋ねる。ただし今度は断定的に。
「アッシュ、私ね、人の気持ちがわからないんだって!」
「……あ、の?」
「だから正直に聞くね。アッシュは、どうして自分のことを人の気持ちがわからないなんて言うの?」
私がずばり思ったことを口にすると、アッシュは下唇を噛んだまま黙りこくってしまった。
しばらくそうしていたものの、私の我慢が限界を超えそうになった頃、アッシュがようやく口を開いた。
「お、お嬢様が……」
「え……私が?」
「……違います。これは、僕が勝手に、いえ、僕の、問題なの、で」
そう声を絞り出しきると、なんとも居心地の悪い沈黙が流れる。
うーん、どうしよう。何を言っていいかわからない。とりあえず、なにかこう、アッシュの気持ちが上がるような言葉はないだろうか考えてみた。
そういえばさっき、王宮でのお披露目会に行くか行かないかという話題のところで、アッシュの手が止まったのを思い出す。
「あ!アッシュ……もし、アッシュが王宮に行きたくてそんな話をしたのなら、私は別にどっちでもいいし、一緒にお披露目会に行く?今度こそちゃんとお母様にお願いするよ、アッシュも連れていっ……」
「いいえ、そうじゃない。……そうではないんです」
否定の声が私の言葉に被る。あまり変わっていないはずのアッシュの表情なのに、なぜか私には泣きそうに見えた。
アッシュ、と声をかけようとすると、それを遮るように「失礼します」と頭を下げて彼は部屋から出て行ってしまった。
「えー……やっぱり、これは、私のせい、かも?」
杉の木から落ちて頭を打った後、私は前世のコブラ・兵頭を思い出した。
勿論その時の『乙女の夢』も一緒に。
そこから随分変わった私のことを、アッシュは気に病んでいたのだろう。彼の言う「おとこのするもの」ばかり興味を持ちだした上に、やたら迷惑ばかりかけている自覚がある。
さらに、第二王子を怒らせる失態までしでかした。きっと、アッシュの理想とは程遠い侯爵令嬢としての姿に、多分従僕としての自信を失っているのだ。そうに、違いない。
全部アッシュのせいじゃないのに、さすがにこれは申し訳ないと思う。
そう気が付いてしまえば居ても立っても居られない。乙女の夢は絶対に諦めるつもりはないけれど、できるだけアッシュに迷惑はかけないように頑張ろう。
それをすぐにでも伝えなくちゃと急いで後を追いかけた。
そうしてバタバタと足音を立てながら走り回る。走る。走る。
屋敷の中、私が行ってもいい範囲内で走り回りながらアッシュを探してみても、見つけられない。
そういえば私は、私に付いていない時のアッシュのことはさっぱりと分からない。お兄様たちと一緒になって令息教育をうけていたのだって、ピアノのレッスンの時に初めて知ったくらいだった。
「アッシュ……どこへ行っちゃったのかな?」
キリアスお兄様とは随分と親密そうだったけれど、アッシュ側にはどこか壁があるように思えた。だから多分、アッシュはよほど何も用事がなければお兄様のところへは行かないはずだ。
だとしたら……頭を傾けながら考える。
人の気持ちがわからなくても、ここはなんとしてもアッシュの気持ちにならなければいけない。どうしてもそう思った。
すると、ある場所がふと頭に浮かんだ。
『――とても落ち着く空間です』
アッシュが軽く笑みを浮かべながら言ったその言葉を思い出したと同時に、私の庭へと足を向けてダッシュしていた。
枯山水のきりりとした空気の中、私は出来るだけ音を立てないように東屋へと近づく。
私の庭が枯山水になってしまったため、どうせならとここの東屋は少し細長い板張り床にしてもらった。土足厳禁のこの東屋は、椅子ではなく床に座って足を外に向け、枯山水を眺められる仕様だ。
その裏側からそっと覗き込めば、やはりそこにはアッシュの銀髪が静かに揺れていた。
色の少ない枯山水の中にひっそりと咲くアッシュの銀の髪はとても美しい。ぽおっと見とれていると、私の気配に気がついたアッシュがゆっくりと振り向いた。
「アッシュ……っ!」
その姿があまりにも儚げで、消えてしまいそうに感じてしまった。私は思わず板張りの床を土足のまま乗り上げてアッシュの胸へと飛び込む。
ぎゅっと彼に張りつき抱きつけば、冬の冷たい空気の匂いがした。
「エリーシャルお嬢様、どうして……」
「あのね、アッシュ、いつも迷惑ばっかりかけてごめんなさい。多分、アッシュは私のこと、すごく変な子だと思っているだろうけど……でも、好きなこともやめられないの」
「あの、」
「けどね、なるべくアッシュが嫌にならないようには気をつけるから。だから、お願いだから、どこかへ行っちゃわないで!」
そうだ、私はあの後姿を見て、あのままアッシュがどこかへ行ってしまいそうな気になったのだ。
だからめいっぱい抱きついて、正直な気持ちを全部ぶつけてみた。
ぎゅうぎゅうと力を込めると、頭上から小さくうっと声が漏れる。あまりにも力を入れ過ぎたせいで、アッシュが困っている。
「あ、ごめんね、アッシュ」
「いえ。その……僕こそ、すみません」
ぱっと手を放すと、今度はなんとなく抱きついて泣きついたことが妙に恥ずかしくなってしまった。
けど、それはアッシュの方も同じようで、本日二回目の気まずい雰囲気をかもし出している。
ただ、それは一回目の時とはほんの少し違っていて、アッシュの表情からは悲しげな色が随分と薄まっていた。
「どこへも行きませんよ」
「本当!?」
ようやく口を開いたアッシュの言葉に即返事を返す。あまりの速さに、アッシュの口角もほんの少しだが上がった。
「はい。エリーシャルお嬢様が成人されるまではお側にひかえております」
「ありがとう、アッシュ!成人するまでだなんて言わないで、ずっとついていてね。約束だから!」
アッシュの返事が嬉しくて、ぴょんっと飛び跳ねたら。東屋の床がカツンと音を立てた。
「あ、ブーツ脱いでなかった。ごめん、ちょっと降りるね」
ブーツのままだったのを思い出し、慌てて床から飛び降りた。
だから私は、その時アッシュがどんな表情をしていたのかということに、全く気がつくことがなかったのだった。




