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後編

 身体が重い。泥のように溶けてしまったのかしら。

 聴こえて来た声は、良く知るもの。

 瞼を少しずつ開けば、白い天井が見えた。私は寝ていたらしい。知らない場所、かすかに薬品の匂いがする。

「お兄さま……?」

 私の声に、つい立ての向こうから兄が足早に寄って来る。

「エリアーデ、大丈夫かい?痛みはない?」

「ええ、お兄様」

 身体は起こせないけれど、その代わりに痛みもない。首だけをそちらへ向けると、兄の隣に男性が立っているのが見えた。私をじっとみて、怖れと安堵の入り交じった表情をしている。そして。

「エリアーデ」

 彼が私を呼んだ声に、なぜか胸がぎゅうっと痛んで。その瞳にざわざわする。

 けれど、知らないひとだ。

「……どなた?」


 

 私はリオン様を忘れてしまったのだ。


 

 「何が起きたのか、覚えているか?」

 彼は学院の生徒会長らしい。私が時計塔の崩落に巻き込まれて大けがをしたと知って、お見舞いに来てくれたそうだ。

 私より一つ年上のリオン様は、涼しげで整った顔立ちをしているから、きっと学院では人気があるだろう。生徒会長は主席でないとなれないから、成績も優秀なはず。有名人だろうし、どうして私は彼を知らなかったのかしら。そう疑問に思ったけれど、お兄様は「さあ。君は人を顔で選ばないから、気にしたことなかったんじゃない?」と言った。

 リオン様が私のお見舞いに最初に来たのは、私が入院して三日後だったそうだ。

「ーー事情説明に手間取ったって?」

 お兄様が彼を睨みながら問い、リオン様は顔をしかめて答える。

「ええ……何故だかエルシアが全く喋ろうとしなくて、俺が何度も学院側と警備隊に出向かなくてはならなくて。エリアーデ、もっと早く来れなくてすまなかった」

と謝る彼。お兄様は最初は聞く耳持たないといった感じだったけれど、そんなに責められることだろうか。彼は生徒であって学院側の責任者ではない。

 ーーそれとも、彼はもっと私と親しい間柄だったのか。いち早く駆けつけるのが、さも当然のような。

「あら、生徒会長だからってそこまでお気になさらないで。わたくしはただの一生徒なのですし」

と伝えたら、彼は却って苦しそうな顔をしていた。どうしてだろう。その後も時折見せる彼のその表情が、私の胸をきしりと軋ませた。



 それから何度も、彼はお見舞いに来てくれたようだ。ーーといっても、兄がその半分以上追い返してしまっていたから私は会っていない。侯爵家の嫡男にそんな無礼を働いて良いものかと心配になったけれど、父からも許可を得ていると言っていた。まあ、リオン様も権力を盾にするようなお方には見えなかったし、昔から過保護で私を溺愛してくれている兄と父だけれど、普段は決して他人を無下にするような人ではない。そんなお兄様がリオン様にだけ冷たく当たるのはどうしてなんだろう。仲が悪いの?と聞いたら、

「……昔はそうじゃなかったよ。だからこそ今もチャンスをやってる。彼が自分で乗り越えなければ、完全に縁を切るさ」

と寂しげに答えた。お兄様もリオン様も苦しんでいるのは確かみたいだ。

 そしてわからないなりに感じた。

 私の事故には、リオン様が何かしら関係しているのだと。そして彼はそれをずっと後悔しているのだと。



 それが分かったのは、私の怪我が完治し、学院に復帰して間もなくのこと。

 中庭で友人達と過ごしていた私へと、リオン様が声を掛けてくれた。彼はわざわざ一学年下の私のクラスにもよく顔を出して、移動に手を貸してくれることもある。生徒会長だからといって、こんなに甘えてもいいのかしら。戸惑う私に構わず、彼は今も微笑んでいつものように聞いてくる。

「エリアーデ、学院生活はどうだ?体調は大丈夫か?」

「ごきげんよう、リオン様。ええ、体調はもう大丈夫ですわ。ご心配ありがとうございます」

 立ち上がって礼をした私に、彼は少し焦ったように手を差し伸べようとした。けれど私はその手を取ることを躊躇ってしまう。なぜか前にも、こういうことがあったような……。

 彼は私のためらいに気づいて手を引っ込め、座るよう促した。傷ついたような顔をさっと押し隠して。私の友人達が何か言いたげに彼を見たけれど、結局は何も言わずに見守っている。彼女達の好意的ではない視線が気になったものの、彼はそれを咎めることはなかった。その時。

「リオン!」

 彼を呼ぶ声がして、一人の女子生徒が彼の腕にしがみついた。この方は知っている。確か今年転入してきた一学年上のエルシアさん。貴族ではないが、リオン様と並ぶ成績優秀者だと聞いている。ああ、確か彼のクラスメイトでもある。

「探したのよ!授業で聞きたいことがあって……」

 リオン様に腕を絡ませてニコニコと話す彼女は、屈託ないように見えるけれど、なぜかじわりと嫌悪感がわいた。そもそも異性を呼び捨てにしてこんなにも馴れ馴れしく触るなんて、はしたない行いだ。私は思わず彼女へ声を掛けてしまう。

「エルシアさん、こんにちは。あの、差し出がましいようですが、淑女が男性にそのように馴れ馴れしくするのは感心できませんわ。リオン様は侯爵家の方ですし、あなたの評判にも傷がついてしまいます」

 いくら学院での身分が不問とはいっても、それは節度ある態度を心がけてのことだ。伯爵令嬢として教育を受けている身として、同性の彼女に忠告しなくてはと思って口にした。リオン様が困った顔をして彼女の腕を引き抜いたようにも見えたからだ。けれど彼女はあっさりと反論する。

「あら、リオンは許してくれているのよ。私達、ダンスパーティのパートナー同士でもありますし」


 ダンスパーティ。ではこの二人は、恋人同士なのか。

 男性を呼び捨てで呼ぶなど、よほど親しい間柄だ。エルシアが、リオン様の恋人。


 ちくり、と胸が痛む。兄や彼の態度に、もしかして私は彼の婚約者候補ではないのかとも思ったこともあった。けれど、そうではなかったらしい。侯爵家の跡取りが庶民と結婚など、普通は許されるはずがないけれど、そうではないのだろうか。

 私は引きつりそうになる頬を隠して、彼らに笑ってみせた。


「……ああ、余計なお世話でしたわ。申し訳ありません。お二人が親しくなさっているなら、わたくしが口を挟むことではありませんでした」

 どうして私は、落ち込んでいるのだろう。どうして胸が痛むのだろう。

「ーーなんですの、今の」

「アイリーンも、思いました?わたくしもよ。エルシアはいつものことだけれど、リオン様には呆れ果てましたわ」

 彼らと別れたあと、ふと私の友人達が怒りに満ちた表情をしているのに気づき、私は二人に問いかけた。

「どうしたの、二人とも。何を怒っているの」

 私の言葉に、ミアはこちらを気遣うように見つめてくる。

「エリアーデ、何も思い出さない?今の彼女達を見て」

 どういうことだろう。首を横に振る私に、今度はアイリーンが問いかけた。

「じゃあ、今のリオン様のこと、どう思っているの?」


 リオン様のこと。そう聞かれて、私は咄嗟に答えることができなかった。

 帰宅して一人になって、やっと彼女達の言葉の意味を考える。

 優しい方だと思う。良い方だと思う。だけど、なぜか彼の手は怖い。差し出されると、苦しくなる。

 でも彼の瞳に私が映る瞬間は、とても心地いい。だからこそーーこれ以上近づきたくない。エルシアという恋人のいる彼に。


 ダンスパーティで踊る二人など、見たくもない。そこは私の居場所だったはずなのにーー


「え?」


 どうして。どうして私の居場所などと。

ーーリオン様は私を裏切った。私を選ばなかった。愛していた。諦めた。


 私を助けてくれなかった。

 私を選ばなかった。

 私は、リオン様の婚約者なのに。


「ーーあ、あああ!」


 ずきずきと痛みだした頭を押さえて、私は叫ぶ。見開いた瞳から、涙がぼろぼろと溢れた。ふと見下ろした自分の手に、重なって、思い出すのは。


ーーあの日届かなかった彼の手。


「リオン様……!」



 そうだ、私はエルシアに呼び出され、彼女とリオン様の前で時計塔から落ちた。彼と彼女は助かり、私は大怪我を負った。

 リオン様が私に優しいのは、私を見捨てた罪悪感だったのか。私が目覚めてからの彼の態度に、皮肉な笑いしか起こらなかった。彼が私を気にしていてくれているなどと、私は本当におめでたい。あの時と何も変わっていない。

 あれは事故で、彼のせいではない。彼が私の事を世話する義理などないのに。本当は、エルシアと居たいのではないか。私に遠慮しているのか。


 記憶が戻ったことは、誰にも告げなかった。もうあんなに辛い思いを繰り返すのは嫌だし、みじめな思いをするのも嫌。

 それに。私は恐れていたのだ。リオン様の態度が変わってしまうことを。

『君との婚約も考え直すべきだな』と告げたあのときの彼ではなく、私に優しい今の彼のまま、そして私も嫉妬深いエリアーデではなく、ただの伯爵令嬢としての関係でいたかった。このまま彼が婚約を破棄して私から去っていくなら、なおさら。


 リオン様の婚約者であるエリアーデは死んだ。それでいい。



 その日、お父様に呼ばれて居間へと向かった。お忙しいお父様が珍しく帰宅されていて、お母様とお兄様もそこにいた。

「やあおかえり、エリアーデ」

 柔らかく微笑んだお父様は、私をソファへと座らせる。事故の時、家族にはたくさん心配を掛けたし、お父様とお母様は代わる代わる夜通しで、私についていてくれたりもした。そういえば、リオン様が何度かうちの方へもいらしていたけれど、対応するのはお兄様で、お父様は決して会おうとはしなかった。記憶を取り戻した今となっては、お父様はリオン様にひどく怒っていたのだと気づく。

「エリアーデ。お前は記憶を取り戻しているんじゃないかい?」

 いきなりのお父様の核心をついた問いに、私は答えられず、父を凝視してしまって。それが何よりの答えになってしまった。

「……ごめんなさい」

「いや、お前の気持ちはよくわかる。怖い思いも、嫌な思いも沢山したんだろう。リオンを信じられなくなっても当然だ」

 謝る私にお兄様がそう言って、私を覗き込む。きっとアイリーンやミアに学院でのことを聞いたのだろう。彼女達は事故の後、何度も私のうちに来ていた。お兄様なら彼女達に事情を聞き出すのもお手の物だ。私の表情を見て、お父様は穏やかに言う。

「私はね、最初は確かにとても怒っていた。リオンがついていながら、お前を助けられなかったこと。お前の言葉を信じず、他の娘の言葉に惑わされたこと」

「そんな」

 たとえあの時、リオン様が私を選んでいても、助かったかどうかはわからない。思わず言葉を返そうとした私を目で制して、お父様は続けた。

「確かに事故はリオンにはどうしようもなかったかもしれない。だけど一番は、リオンが変わろうとしないことだ」

ーーえ?

 私の訝しげな表情に、お父様は哀しく笑った。

「お前も気づいているだろう。彼はあまりにも周りに執着しない。だから人の心を思いやれない。だれにも平等というのは、誰のことも大切にはしていないということだ。それでもあの時、お前と結婚したいと、唯一リオンが自分から求めたのにーーそれすら忘れてしまっている」

 私の心がチクリと痛む。

「おそらくリオンは、エルシアという少女でさえもーーいや、これは分からないな。とにかく、今の彼にお前を任せることなどできない。これはリオンの父であるグレイル侯爵も同じ意見だ」

 話の向かう方向に、私は身を固くした。お兄様も頷いて、お父様の言葉を待つ。

「ーーリオンとの婚約は破棄する。これがオルファス伯爵家としての意志だ」


ーー私は、リオン様の婚約者ではなくなる……。

 言われた言葉に、私は茫然と家族を見渡した。何か言わなくてはと思うのに、なんと言っていいか分からない。

「……」

 覚悟していたはずなのに、いずれはリオン様から申し渡されると思っていたのに。いざ本当に現実になったら、私はーー。


 気がつけば、私の頬を涙が伝っていた。泣くつもりなどなかったのに、次々と膝の上に染みを作っていく。止まらない。

「エリアーデ」

 今まで黙っていた母が口を開く。

「……あなたはどうしたいの?」

 え?

 問われた言葉に驚いて、お母様を見れば、彼女は困ったように笑った。

「今のは伯爵家としての意見よ。でもわたくしもお父様も、あなたの気持ちを尊重したいの。それがどんなに愚かな選択だとしても、あなたが望むなら背を押してあげるのが、わたくし達の役目ですもの」

「子が誤った道を選ぶのを止めるのも親の役目ですよ、母上」

 お兄様が苦い顔をしてそう言った。お母様はにっこりと微笑んで。

「あら、エリアーデを誰か他のボンボンに嫁がせるくらいなら、リオンの根性を叩き直すほうが簡単だと豪語したのはだあれ?まったく頼もしいお兄様ですこと」

「そ、それはっ……」

 私の視線にお兄様は焦ったように視線を泳がせて。溜息をついた。お父様はそれを優しい目で見ながら、私に告げる。

「彼はまだ17歳で、視野が狭くなることもある。愚かな選択をすることも、過ちを犯すことも。それはお前も同じだ、エリアーデ。全てを彼の責任にするつもりはないよ。育てた私達大人にも責任はある。グレイル侯爵もだけど、私達だって彼の親代わりみたいなものだったしね」


ーーだからエリアーデ。お前が決めなさい。

 彼を許すのか、彼と離別するのか。



 両親と兄の問いにーー私は答えられずに自室へと戻って来た。

 家族の深い愛情を知って、見守っていてくれた彼らに感謝していた。本当はすぐにでもリオン様との縁を切って、私を護りたいと思っているだろうに、それでも私の気持ちを汲んでくれる両親に。リオン様を本当の弟のように想いながら、裏切られた気持ちで苦しんでいる兄に。


「私の、望みは……」


 夜の闇に沈む窓の外を見て、溜息をつく。私は酷く混乱していた。幼い頃からのリオン様への想いと、あの日自分の命とともに砕け散るはずだった恋心と、事故の後からの彼への戸惑いが混じり合って、どうしていいかわからない。それに何よりも、リオン様の気持ちが私にないのであれば、この先は辛いだけだ。誰も幸せにはなれない。


「リオン様……」


 ふと呟いた声は私の耳にさえ届かず。代わりに聴こえるはずのない声が聴こえた。

「エリアーデ」

 驚いて振り返れば、私の部屋の入り口に立っていたのはリオン様だった。どうして、こんな時間に。

 もう寝るつもりで夜着に着替えていた私は、自分の格好を思い出してガウンの前を掻き合わせる。婚約者とは言え、もう人を訪ねるには遅い時間帯だ。ましてや未婚の女性の部屋を訪ねるには、あまりにも非常識な時間。

「まあ、リオン様。どうなされたのです、こんな夜更けに」

 目の前の彼は青ざめた顔をしていて、酷く焦っているように見える。冷静な彼らしくない。

「君に、謝りたいことがある。それと、伝えたいことがある」


ーー婚約破棄をしてくれと、そう言いに来たの?エルシアを選んだと?


 彼の言葉に、私の顔がこわばった。

 二度も捨てられるなんて耐えられない。それくらいなら、自ら身を引く。貴族の娘として、エリアーデとして。

 彼が手をあげ、私がびくりと震える前に手を掴んだ。別れるつもりならば、どうしてこんなことを!

「わたくしとの婚約を破棄して下さい」

 私がみっともなく縋ってしまう前に。私は未練を断ち切ろうと、自らその言葉を口にする。

「わたくしがあなたの目の前で墜ちたりしたから、責任を感じていらっしゃるのでしょう。もう大丈夫ですから、あなたの想う方のところへ」

 私の言葉に、リオン様はますます顔を白くさせ息を吞んだ後、ハッとしてこちらを見た。

「思い出したのか」

 私は頷いて肯定する。

「少し前に思い出したのです。あなたのことも、あの日のことも」

「ではどうして黙って……」

 彼の言葉に、私の心にじわりと怒りと悲しみが溢れた。

「もう、思い出したくなかったのです。私はあなたに選ばれなかった。彼女に嫉妬する醜い私も消してしまいたかった。あの瞬間に、リオン様の婚約者エリアーデは死んだのです。私が殺したのです、あなたへの気持ちを。私自身を」

 何もかも否定されて、死んでしまいたかった。リオン様がエルシアを選ぶところなんて、見たくなかったのだ。あの時の私はリオン様と自分のことしか考えられなかった。心配する家族のことも考えもせず、身勝手に命を絶って逃げようとした。

 もう同じことはできない。家族の気持ちも、友人達の涙も知ってしまった。ならば、自分からこの恋を終わらせ、断ち切るしかない。

 苦々しい気持ちで小さく微笑めば、リオン様は痛みを堪えるような顔をする。ーーどうして?

 握られた手を引こうとするが、彼は離してはくれなかった。

「俺はエルシアを選んだのではない。いや、そう思われても仕方なかった。助けられなかったのは、本当にすまなかった。君を信じられず、酷い態度をとったことも。だけど俺は、君を失いたくない」

 彼から次々に溢れる言葉に、私は耳を疑った。まさか、リオン様が。私に懇願しているなんて。私に縋るなんて。

 私をーー失いたくない、と言ったのか。エルシアではなく?


「愛しているんだ、エリアーデ」


ーーどうして。

 どうして今更。離れる覚悟を決めたのに。

 だってあなたは、彼女の手をとったじゃない。

 今なら分かる。記憶のない間、リオン様の手に怯えていたのは、あの時の恐怖がよみがえるからだ。私に差し出されたものではない手。私に届かなかった手。それを思い出すから。

 茫然としていた私だったけれど、気づけばボロボロと涙が溢れていて。

「嘘……もうやめて。あなたは私の言葉など信じなかったじゃない。それにあの時ーー階段が崩れた時、あなたは一番にエルシアを呼んだわ」

 彼が最初に身の危険を感じた時に頭にあったのは、エルシアのこと。私じゃない。

 そう言えば、彼は一瞬思い出すかのように口を噤んでーーハッと顔を上げる。泣きそうな顔で笑おうとしてーーその顔が歪んだ。


「エル、だろう。君のことだよ、エリアーデ。幼い頃はそう呼んでいただろう?」


『エル!エルおいで!そっちはあぶないよ!』

 記憶の底で響いた声は、あの頃の彼のもの。確かに私達は幼い頃、お互いの名が上手く呼べずに愛称で呼んでいた。

 リオン様は私のことをエル、私は彼のことをリィ、と。

 私ですらそんなこと忘れていたのにーーではあの瞬間、リオン様が呼んだのは、案じたのは私のことだったのか。


「ーーそんな」

 いまさら告げられた彼の心に戸惑うばかりで、また新たな涙がぽろぽろと溢れる。リオン様は私に手を伸ばしかけ、私がびくりと怯えるとそれを止めて唇で私の涙に口づけた。


「頼む、エリアーデ。俺の前から二度も消えないでくれ。俺への気持ちを消さないでくれ」


『僕たちずっといっしょにいるんだ!僕はエルとけっこんする!』

 あの日叫んだ幼いリオン様に、今の彼の姿が重なった。

 初めて彼が欲しいと願ったもの。執着したもの。それが私。

ーー今も同じだというの?


「あなたは何にも執着しない人でした。誰にも親切で公平だけれど、それゆえに人の心を探ることを諦めている。わたくしはそれが怖かった。いつかわたくしも、あなたに必要なくなるのではないかと。エルシアがあなたの唯一になるのではないかと」

 私も初めて、自分の気持ちを彼に曝け出した。伯爵令嬢としてのプライドなど今はどうでもいい。みっともない女だと思われてもいい。私はただ怖かったのだ。リオン様の心を動かす唯一でなくなることが。それを彼女に取って代わられることが。自分に自信が無かっただけ。

「でもあなたは、わたくしを欲しいと言ってくれるのですね……あの幼い日のように」


 リオン様はそれでも私の手を離さなかった。その瞳に、私を失うことへの怖れを浮かべながら。

「もう一度、君の側にいる許しをくれないか。ただそれだけでいい」

 ただ私に乞う。こんなにも強く、彼が感情をあらわにするところなんて初めて見る。その姿が、あの日の帰りたくないと駄々をこねた幼い子供に見えて、思わず可笑しくなってーー切なくなった。本当に、まるで子供の駄々だ。けれど、彼のワガママがどんなに珍しく、彼にとってどんなに重要か、私は知っている。

 大切で、欲しくて、仕方ないとーー叫んでいるのと同じなのだ。


 彼の心を変えたのが何だったのかは分からない。彼をまた信じられるかもわからない。愚かな選択だと言われるかもしれない。それでも。


「わたくしはずっと、あなたを愛しておりました。リオン様。わたくしと同じく、その心は今も生き残ってしまっておりますわ」


 そう。性懲りも無く、私はまだ彼に恋をしているのだーー。



***

 その後、私や友人から事情を聞いたリオン様は、エルシアについての調査を始めた。彼女がどんな手回しをして私を追いつめたのか、明らかになればなるほど彼は私への罪悪感に思い悩んでいたけれど。警備隊との検証で、時計塔の崩落した階段に細工がされており、事故が意図して起こされたものであるかもしれないという可能性が出てくると、彼は張りつめた表情でエルシア自身への尋問を自ら行うと進言し、学院長と警備隊に許可を得た。

「警備隊よりも俺相手であれば彼女も油断して喋るだろうし……なにより俺の責任だ。彼女の嘘にも気づかずに、エリアーデを巻き込んだ」

 そう言うリオン様に

「わたくしも共におります。彼女の本当の心が知りたいのです」

と無理を言って同席した。

 そしてリオン様に問いつめられたエルシアは、最初こそ言い逃れようとしていたけれど、私とリオン様の手がしっかり繋がれているのを見て、口元を歪めて笑った。


「あーあ。せっかく良いとこまでいったと思ったのに。あなたもまんざらじゃなかったはずよ、リオン」

 豹変した彼女は、あの日私が塔で対峙した彼女だった。リオンは苦々しい表情で問う。

「侯爵夫人になりたかったのは君なんだな、エリアーデではなく」

 エルシアが私のことを爵位目当てだとリオンに吹き込んだらしい。真実も知らず、簡単に信じて愚かだったと彼は語ってくれた。

「そうね。伯爵夫人でも、公爵夫人でも、王太子妃でも良かったんだけど……あなたのおかげで全部パアね、エリアーデ様。あのとき落ちて助からなければ良かったのに。まあ思ったよりも派手に崩れて、私も危なかったけど」

 彼女が故意に事故を引き起こしたことを認める発言に、私達は凍り付く。一歩間違えば死んでいたかもしれないのに。それは私だけではない。リオン様も、彼女自身もだ。

 だからこそ嘲るように語るエルシアに違和感を覚えていた。リオン様は私の肩をしっかりと抱き寄せて、彼女を見た。

「俺はエリアーデを愛している。もう君の思い通りにはさせない」

 その言葉が終わる前に警備隊が踏み込んで来て、エルシアは彼らに身柄を拘束される。連行される彼女は、もう私達を見てはおらず。去っていく彼女を見るリオン様は後悔の表情でそれを見送っていた。

「ダンスパーティ、出たかったな……」

 ポツリと落とされた彼女の言葉が、私の耳に残った。



「ーー本当に、良かったのか」

 リオン様が私を気遣わしげに見る。私は彼とともに王へ、エルシアへの恩赦を願う訴状を出して来たところだった。

 エルシアのしたことは伯爵令嬢の殺人未遂とまでおおごとに扱われてしまい、学院と警備隊にとどまらず王の判断に委ねられたのだ。貴族への殺人未遂は死罪もあり得る。お人好しと言われても、私は彼女の命を奪ってほしいとまでは思わない。

「だって、彼女はきっと、本当にあなたのことをーー」


ーー友人達の婚約者にも言い寄っていたエルシアだったが、彼女がダンスパーティの約束をしたのは、リオン様だけだった。

 彼女の言い分では公爵家の子息や王子すら狙っていたようだったのに、彼にだけ。

 リオン様は人の心を推し量ることが苦手だとしても、彼女の態度が全て悪意の上でのものなら、さすがに気づくだろう。生徒会長としての彼は確かに優秀なのだから。けれどほんの少しの真実と混ぜた嘘は、とても分かりにくい。


 それに、彼女にはきちんと償って欲しいのだ。リオン様がその道を選んだように。誰かからの罰ではなく、彼女自身で。

 彼女の本当に望んだことはなんだったのか、どこまでが嘘だったのか、今となっては分からないし、もう知らなくてもいい。



**

「ーー申し訳ありませんでした」

 リオン様が深々と頭を下げる前で、お父様は静かに彼を見下ろしていた。

「君を殴りたいところだが、それはエリックに譲っておく。私の相手は君の父親だし、もうやったからな。けれどリオン」

 お父様はことさら厳しい顔をして、口を開く。

「君がエリアーデの信頼を取り戻せなければ、永遠にエリアーデの前に姿を見せることは許さん。わかっているな?」

 「ーーはい。……ご配慮、感謝致します」

 リオン様は深く、深く頭を垂れていた。

 彼も私も、父が婚約を継続すると一言も言っていないことに気づいていた。ーー破棄する、とも言われなかったけれど。



 私はあの事故から、良く眠れなくなっていた。時々うなされて目覚めることがあるのだ。大抵は届かなかった手を見つめながら墜ちていく夢を見て、小さく悲鳴を上げて飛び起きる。けれど、居間のソファでうたた寝をしてしまったその時はいつもと違った。

 いつものように墜ちる恐怖に叫びそうになったときーー差し出された手が私の手を掴んだのだ。

「もう大丈夫だ、エリアーデ」

 目を開けば、そう言ってこちらを見ているのはリオン様で。

「……あ」

 私は初めて悪夢から逃れられた。


 その夜も同じ夢を見た。けれどやはり、墜ちかけた私の手を掴む彼がそこにいた。

 目を開けば、私の寝台の隣で、椅子に座って私の手を握っているリオン様がいて、私は驚愕した。

「な、何をなさっているんです、こんな夜中に!」

「悪夢を見るのだろう?だから君が眠れるようになるまで、ついていようかと」

 リオン様は真剣な顔で言うけれど、私は顔を真っ赤にして言葉を返した。

「だからって婦女子の寝室に断りも無く!第一どうやって入ったのです?」

「エリックが入れてくれた。もちろん妙な真似をしたら殺すと言われているし、言われていなくても何もしない。ただ」

 リオン様は握ったままの私の手に視線を落とした。額を付けて、血を吐くように呟く。

「ーー今度こそ、助けたい」


 彼は気づいているのだ。私の悪夢があの瞬間なのだと。だからこそ、今度は手が届くようにとこんなことまで。

 私はなんだか何も言えなくなってしまった。リオン様だって次期侯爵としての教育を受けている。婚約も破棄されかけている今、こんなことが世間に知れたら、彼の評判はどこまでも堕ちてしまうかもしれないのに。お兄様も何を考えているのか。軽率なーー

「俺は伯爵に招かれて、エリックの補佐官研修として滞在していることになっている。偶然それが君の部屋の真上というわけだ」

「リオン様、優秀な頭脳を言い訳に使わないでくださいませ」

 生真面目に言う彼に、私は毒気を抜かれてしまってーーしまいにはクスクスと笑い出してしまう。

 彼の手が私の悪夢を変えてくれるなら。寝不足続きで参っていた頭でそう考えて、私は頷いた。


 それから私が何度うなされても、彼は私を夢から引き上げてくれた。

 そして私が眠れるようになるまで、枕元でたわいもない世間話や、子供の頃一緒に呼んだ物語の話をしてくれた。

 そうやって、数日が経つと、私は夢を見ることが少なくなって来た。そして気づいた。

ーーリオン様は、一体いつ寝ているんだろう?


 夜中か、下手をすると明け方まで私についていてくれて、朝は学院で生徒会業務を行う為に私よりもずっと早く登校している。彼は授業中に居眠りなどする人ではないし、放課後も城で働く兄から、本当に研修を受けている。

ーーもしかして、ろくに寝ていないのでは。

 彼の顔色がどんどん悪くなっていって、クマが酷くなっている気がするのだ。


 私の想像は的中する。リオン様が倒れたと連絡をもらったのはすぐのことだった。


「ーーあなたは馬鹿です!こんなに無理をして」

 寝不足と過労で倒れた彼は、迷惑をかけるからと侯爵家に戻ろうとしたが、お父様はうちで休養するように命じた。

「すまない。こんなはずじゃなかったんだが」

 苦々しく呟く彼に、私は溜息をついた。彼が私に罪悪感を感じているのは分かっている。

「わたくしに精一杯に償おうとしてくれているのはわかっております。けれどそれであなたが倒れては、元も子もありませんわ」

 リオン様は考え込むように目を伏せ、それから私を見つめて言った。

「ーー償い、と言えばそうなんだが……俺はただ、君に安心して眠って欲しいだけなんだ。君が笑ってくれたら嬉しいんだ」

「え?」

「君を愛しているから」

 そう言って優しく微笑む彼に、私は絶句してーー泣きそうになった。このひとは。どこまで子供みたいなひとなの。

「……普通の淑女は男性が同じ部屋に居る時点で、安心して眠れませんわ」

「……はは、それもそうだな」

 力なく笑う彼に、私も苦笑した。彼が差し出した手を、今度は私から握りしめて。


 きっともう悪夢は見ない。彼はここにいる。もう一度、始めればいい。

 あの日の哀しみに囚われるのではなく、これから先のために。

 私はもう一度、彼へと微笑んだ。

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