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ぶつぶつと何事か呟きながら、リアは目の前に立つ陸斗と蓮を睨め付けた。
群青色の瞳には沸々と沸き上がる熱湯のような感情が見え隠れしていて、これ以上彼女の神経を逆撫でしないよう陸斗はさりげなく目を逸らす。一方、蓮の方はとっくに萎縮しきって視線を俯けていた。
そして三人の周りを、アウスがぐるぐると歩き回る。地平線の果てから空が橙色に染まる中、彼の表情はこの場の誰よりも楽しげだ。
何故こんな状況になってしまったのかというと、端的に言うならばフリージアの指示である。
二人の前から急に立ち去った彼女は、戻ってくるや「後はリアに頼んでおいたから、とりあえず外へ行け」と紅茶を飲み干した二人を無理矢理リビング兼台所から追い出した。面食らいつつ、陸斗は蓮と共に教会の外へと向かった。
結果、彼らを待ち受けていたのは恐ろしく機嫌の悪い青髪の少女と、何故か恐ろしく機嫌の良さげな白い犬だったのだ。
「で、あんたたちはエレアについて何も知らないのよね?」
呆れたような口調ではあったが、リアの怒りのボルテージはやや下がったようだ。色々と諦めたのかもしれない。
蓮の方は相変わらず背中を丸めているため、陸斗が答えるしかない。始めよりは冷静さを取り戻したリアの目を見つめながら、口を開く。
「知らない」
「……そう。エレアっていうのは、この世界の全てを構成している基本元素ね。私もあんたも、地面も木も、突き詰めれば全部エレアでできてるの」
彼女の言葉に、蓮がきょとんとした表情で固まる。次いで、急にきょろきょろと辺りを見回し始めた。
吹き抜ける風が、どことなく白々しいように感じられる。襟足まで伸びた黒髪を風に弄ばれながら、陸斗も微かに首を傾げた。
しかしいくら考えたところで、大した意味などないのだろう。今更地面は何でできているのか、何故地球は回るのかなどと考えてもしょうがないのと同じだ。
それらは陸斗や蓮が生まれるずっと前から、当然のようにそこに存在しているのだから。
暫しの沈黙が辺りに満ちたが、結局リアは二人の返事を待たずに再び話し始めた。
「それで、この世界には二つ国があるんだけど」
「え? な、何で、いきなり」
「話は最後まで聞きなさいよ。大陸をほぼ二分してる、東側がフルジオラス、私たちがいる西側がアルスホーンっていうの。で、こっち側の人は自分たちの体を構成しているエレアをある程度自由に使えるのよ」
「……それは、危険じゃないのか」
無意識のうちに不審げな言い方になっていたのか、リアの眼差しが再び剣呑さを帯びる。文字通り、皮膚にずぶずぶと突き刺さってくるかのようだ。
蓮がおろおろと視線を彷徨わせているが、恐ろしいのか宥めることまではできないらしい。
その役目を自ら買って出たのが、今までただ周りを彷徨いていたアウスだった。
『まあ、確かに心配にもなるよね。でも、自分をがりがり削り取って使うわけじゃないんだよ』
「……そう。イメージトレーニングできちんと力の出所を設定すれば、別に危険でも何でもないのよ。現に、私たちはこうして使ってるわけだし」
そう言うと、リアはおもむろに陸斗に向けて右の手のひらをかざしてみせる。
眩しいほどに白く、思いがけないほど小さな手。その行動の意図がわからず、陸斗は思わず首を傾げた、が。
唐突に、視界が揺れた。腹部に何かが激突したような衝撃。
抵抗する暇も悲鳴を上げる暇もなく、後方に吹き飛ばされる。
「陸斗!」
代わりのように叫んだのは蓮だった。
呆然と地面に転がっている陸斗の元へ駆けてくる。
吹き飛ばされた際に地面で擦ったのか、右肘が熱い。それに、何かがぶつかったような腹部もじわじわと痛みを放っている。
陸斗は思わず眉根を寄せて腹を押さえ、傲然と見下ろしてくるリアを見やった。
フリージアの目が届かなくなったせいか、彼女は再びいじめっ子じみた色を瞳に宿している。しかし始めと比べれば、いじめっ子からいたずらっ子へ軽減されているように、見えなくもない。
その隣に座ったアウスが、明らかに苦笑いしている。
「まあ、エレアを使えばこんなこともできるわけ。人によって属性とか性質とかいろいろあるんだけど、ひとまず気にしなくていいわ。あんたたちがまともにエレアを使えるようになるかもわからないしね」
彼女が翻した右手には、よく見れば白っぽい何かが絡みついている。同時にひゅるひゅるという、風が巻き起こるような音。
おそらく、彼女のエレアの属性とやらが風か、その関係の何かなのだろう。そのため、触れることなく吹き飛ばすことができたのだ。
鈍い痛みを腹部に抱えたまま、陸斗は緩慢な動きで立ち上がる。
とりあえずは、リアが本気を出していなかったのだと信じたい。しかし、もっと他にやり方があったのではないか。
おかげで、ただでさえリアに対して萎縮していた蓮が完全に恐れ慄いてしまっている。今にも悲鳴を上げて逃げ出してしまいそうだ。
「──こら、何やってんだ」
「いっ」
抗議の意味合いも兼ねて精一杯恨めしげな視線をリアに送っていると、不意にここにやってきてから一度も聞いたことのない声がした。続いて、リアが頭を押さえる。
いつの間にか彼女の後ろに立っていたのは、長身の青年だった。百七十五センチある蓮よりもなお十センチ近く背が高いので、百七十弱の陸斗だと完全に見上げる形になる。
適度に筋肉質でありながら、決して暑苦しくは感じない程度の線の細さ。その顔立ちは、まるで作り物のように整っている。
燃え盛るような朱色の頭髪は、遠方でもなお輝く松明のようだった。切れ長の瞳もそれと同じ色で、肌の白さと相まって目立っている。
が、何より目立つのは──彼の、右袖だった。そこには、明らかにあるべきはずの腕がない。そよ風に煽られて平べったくなった袖が、右に左に揺れている。
未だに鈍痛を放つ腹部をさすりながら、陸斗は何となくそこから視線を逸らした。あまりじろじろと観察してはならないような気がしたからだ。
が、ふと隣を見ると、びくびくと怯えていた蓮がぽかんと口を開け放っている。彼が凝視しているのは、明らかに青年の空の右袖だ。
陸斗は反射的に蓮の頭を叩きたくなったが、気合いで抑え込む。
『出たな、バカラミエル』
「バカとは何だ。こっちは買い出しに行ってきたばっかで疲れてんのに、わざわざ様子見に来たんだぞ」
『別に頼んでないもーん』
犬歯を剥き出しにして唸るアウスは、陸斗と蓮と出会って初めて敵意を噴出している。しかしそれも本気ではないようで、ラミエルと呼ばれた青年はただ苦笑いを浮かべていた。
リアの射抜くような視線も全く気にせず、ここで初めて陸斗と蓮を交互に見やる。我に返ったように、蓮が慌てて視線を逸らした。
「さっきはごめんな。別にあんな方法じゃなくてもいくらでもエレアは見せられるのにさ。リアは悪い奴じゃないんだけど、ちょっと人見知りが」
「う、うるさいバカ!」
『そーだバカ!』
完全にアウェーの空気である。ラミエルはどことなく気まずげに頭を掻くと、暫し思案するように顎に手を当てた。
その間にもアウスのバカコールは続いていたが、当然の如くスルーされる。
ふと陸斗は空を見上げた。つい先ほどまで端っこの方だけがオレンジ色に染まっていたのに、既に大半が茜色になっていた。
アウス曰く季節は春先だそうなので、日が落ちるのも早いのだろう。ろくにエレアを使う方法について教わらないうちに、時間が経ってしまった。
が、リアは全く悪びれる素振りを見せていない。彼女も日が既に暮れかけていることに気付いたようだが、ただ鼻白んだように片手を振った。
相変わらずラミエルに対して不穏な視線を送りつつ、口を開く。
「とにかく、エレアを使うのに必要なのはイメージトレーニングと、使えるかどうかの資質だけ。駄目なら駄目で仕方ないわ」
『そーそー。使えなくても、別に気にしなくていいんだよ。普通ならこっち側の人は、物心付いた頃からみんな練習し始めるんだからね。使えなくて当たり前!』
「そ、そう……なの?」
突然駆け寄ってきたアウスに翻弄されつつ、蓮は何とか声を絞り出す。
闖入者であるラミエルと、彼からあからさまに距離を取って佇むリア。二人を交互に眺めて、陸斗は次に蓮にじゃれついているアウスへ視線を移した。
「で、君たち、名前は? 俺はラミエル。さっきそこのアウスが言ってたけど」
「あ、朝月蓮、です」
「……夕月陸斗、です」
が、二人が名乗ったにも関わらずラミエルの表情はあまり芳しくない。軽く首を傾げ、腑に落ちないような顔をしている。
「あー……何て呼べばいい?」
『やっぱりバカだなあラミエルは。リクトとレンだよ』
「いや、でも全部名前なんだろ?」
初めて名乗ったときに、アウスもぴんと来ないような様子だった。ということは、少なくともこの国の人間に名字と名前の概念は存在しないのかもしれない。
「あ、えーと、名前は蓮、とか陸斗の方で」
「うん? じゃあ、ゆうづきとかあさつきは何なんだ?」
そのもっともな疑問に、蓮が言葉に詰まる。彼自身も、改めて考えてみるとわけがわからなくなったらしい。
明らかに助けを求めるような視線を向けられ、我関せずを貫いていた陸斗も会話に参加せざるを得なくなった。
「名字、です」
「みょうじ?」
「名前じゃなくて、どちらかというと所属を表す言葉です。この人とこの人の間に生まれた、とかそういう所属」
「へえー」
今度は納得したように頷くラミエルを見て、蓮が安堵の溜め息を漏らす。
陸斗も改めて名字について説明するとなると正直自信がなかったのだが、納得してもらえたならそれで十分だろう。とにかく今は、名字が名前とは違うとわかってもらえればそれでいい。
「じゃあ、リクトとレンでいいんだな」
「そ、そういうこと、です」
ようやく訪れた閑話休題の空気に、さすがに今まで口を挟めなかったリアは相変わらず不機嫌そうに眉根を寄せている。
どうやらこの常に機嫌の悪そうな態度は、極度の人見知りから来ているらしい。が、果たして本当なのだろうか。
下手にじろじろ見てしまうとまた逆鱗に触れそうなので、陸斗は極力さりげない風を装ってリアを観察する。
「どっちにしても、練習は明日からよ」
「え? 何で」
「昨日言ったこと、もう忘れたの? 夜は外出厳禁。外に出てもいいのは、見回り担当の自警団の人間だけ」
ぷいと顔を横に背けると、リアはそのまま教会に戻ってしまった。
『え、ま、待ってよ!』
面食らったようにアウスも蓮にじゃれるのをやめ、慌ててその後に付いていった。急に絡まれ急に放り出された蓮は、呆然とその場に突っ立っている。
見上げれば、確かに夕闇は刻一刻と歩み寄ってきていた。空は赤と群青色のグラデーションで彩られ、明日の晴天を予告しているようにも見える。
誰もが口を閉ざす中、がりがりとラミエルが頭を乱暴に掻く音だけが響く。ややあって、彼は苦笑いを顔面に張り付けて口を開いた。
「相手にされないとああやって拗ねるんだけど、本当に悪い奴じゃないからな」
「そ、そう、なんですか」
「ああ。慣れたら全然怖くないぞ。後、敬語はいらないから。たぶん俺たちそんなに年も変わらないだろうし」
「うえ……う、ん。わか、った」
どことなく申し訳なさそうな蓮の言い方に、ラミエルは今度こそ苦笑いではなく極普通の笑みを浮かべた。茜色の夕日が朱色の頭髪に反射して、凄まじく眩しい。
「そういえば、もう部屋は決まってるのか?」
「へ、部屋?」
「ああ。今日はここに泊まるんだろ?」
ラミエルは、自分たちが別の世界からやってきたことを知らないのだろうか。二人が、というより蓮だけが一方的に辿々しい会話を繰り広げている横で、陸斗はぼんやりと考える。
先ほど買い出しから帰ったばかりだと言っていたから、やはり何も知らないのかもしれない。これからフリージアが話してくれるのならば、今この場で説明する必要もないのだが。
そろそろ風も冷たくなってきた。やはり春先というだけあって、夜間へ近付けば近付くほど空気が冷え込んでくる。
「おい、リクト。早く入らないと夜になるぞ」
いつの間にか教会へ向かい始めているラミエルと、それに慌てて従う蓮。
確かに、空は既に大半が夕闇に包まれていた。
また、昨晩の彼のような者が現れるのだろうか。
さざ波にも似た揺れが、心のどこかに生まれる。が、それは明確な形や色を持ったものではなかった。酷く曖昧で、輪郭すら定かではない。
陸斗は思わず首を傾げた。しかし次の瞬間には、もうその揺らぎは消えていた。
「陸斗?」
いかにも不安そうな声に、顔を上げる。予想通り、教会の傾いた扉の前で蓮が心許なげに佇んでいた。
ラミエルは、既に無事な方の扉を半分開けて待っている。建物の内部からは、どこかぼんやりとした明かりが漏れていた。




