明日があるさ2【第五話】
焼き鳥屋を出て、亜笠は駅と逆方面に歩いていく。その背中を追いながら明日葉は、今日はたぶんもう帰れないんだろうなぁ、と察していた。脳内には童謡「ドナドナ」が流れていた。ある晴れた夜下がり……と、そこまで幻聴が聞こえたところで亜笠が急に立ち止まった。
「ホテルを取りました」
事後承諾かよ。今更だろうに。明日葉は呆れた目で言った。
「うん、なんとなくそうかなって思ってた」
「…………キャンセルしましょうか」
「えっ!?」
びっくりした。まさか日中手錠までちらつかせて強引にデートを遂行した男が、今ここで殊勝になるとは!
いや、しかし――――
「……ホテルって、キャンセル料取られるよね」
「まあ、当日キャンセルなので」
「100%取られるよね」
「そうですね」
明日葉は意を決して聞いた。
「一泊おいくら……?」
亜笠が目を反らして黙った。
「待って! やめて! そういう態度! 気になるから!」
「僕が勝手に取ったホテルですから、明日葉さんは気にしないでください」
「いやいやいや気になるよその言い方!」
いや、待てよ。この男、ここまで王道を攻めるなら――――まさか。
「スイートルームとか取ってないよね……?」
思わず亜笠の胸倉を掴みながら聞いてしまった。
「…………」
沈黙。絶対こっち見ない。確実に黒だ。明日葉は頭を抱えた。
(この辺のホテルのスイートルームって一泊いくらするの!? おれの給料で払える額か!?)
庶民よりやや下のレベルの生活をしている明日葉にはとてもじゃないが想像がつかなかった。が、たしか職場の同僚の旭が奥さんにプロポーズする際泊まったホテルが一泊15万と言っていた――――ような気がする。
一泊15万――――下手するとそれ以上。いやこの男のことだから可能性はある。っていうか絶対それ以上だと思う。
(どうしよう割り勘でも払えない……)
悲しみをたたえドナドナ、明日葉の脳裏に再び音楽が流れた。
明日葉は胸の前で拳を握って、覚悟を決めて亜笠に言った。
「行く」
「……いいんですか?」
「行くけど!」
「はい」
「行くけどセックスしなきゃダメ!?」
一番気になっていたのがそこだった。我ながら色気もクソもない言い方だな、と思った。が、相手は一瞬瞳を見開いた後にケロリとして答えた。
「何もしませんよ」
「ですよねー……って、え?」
おれの聞き間違いか? 今、何もしないって言ったような。亜笠は平然と、再度はっきりと言った。
「だから、明日葉さんが嫌なら何もしません」
「………………ほんとに?」
長い沈黙の末にそれだけ聞く。亜笠が頷いた。
「ほんとに」
「泊まるだけ?」
「泊まるだけ」
「ほ、本当に――――」
しつこく聞くと、亜笠がさらりと言った。
「明日葉さんがしたいなら喜んでしますけど」
明日葉は即座に首を横に振った。首が千切れそうなほど振った。その様子に、亜笠がため息をついた。
「明日葉さんがしたくないなら、何もしませんよ」
とりあえず行きましょうか、さすがに疲れましたとだけ言って、亜笠はホテルに向かってスタスタと歩き始めた。明日葉は慌ててその後を追った。
チェックインを済ませ、二人はエレベーターの中にいた。明日葉は不謹慎ながら、初めてのスイートルームに内心ドキドキしていた。何もしないと宣言も受けたので、尚更呑気にスイートルームを楽しむ気でいた。
が、ひとつだけ杞憂があった。
「おれ、もしかすると割り勘でも払えないかもしれない……」
一泊いくらかにもよるが、せめて3分の1は……とぶつぶつと呟いていると亜笠が言った。
「僕が全部出します」
さすが元MR。言うことがかっこいい。たぶん株とかもやってるんだろうな、と明日葉はじっとりとした目を向けた。
「…………ちなみにおいくらだったんですか?」
聞くと、亜笠がやっぱり目を反らした。これは相当高いのでは、と明日葉はさっきの浮かれ具合も忘れて青くなった。
(やっぱりドタキャンしなくて良かった……)
亜笠が部屋を開けた瞬間にも、明日葉は同じことを思った。
部屋の中に入る、と、広い。とにかく広い。誰が座るんだというくらいバカでかいソファが並んでいるし、ダイニングエリアまであった。
ベッドルームの窓からは横浜のビル群と海のどちらもが眺望できた。先ほど乗った観覧車も一望できる。イルミネーションが美しく窓に映っていた。
「おぉ~……!」
思わず歓声を上げる。庶民の自分にはこんな感想しか出てこない。
「すごい……」
「奮発した甲斐がありました」
亜笠が少し照れたように言った。あ、やっぱり奮発したんだ、と明日葉は思ったが、言っても目を反らされるだけなので言わなかった。あとでネットで調べよう、と明日葉は心に決めた。
財布や携帯をテーブルの上に投げ、さっそくスニーカーから室内履きに履き替えて寛ごうとする明日葉の耳に、ガチャリ、という金属音が聞こえた。
明日葉は振り返った。
扉の前には亜笠がいた。なぜか扉に背を向けて。なぜか後ろ手に鍵を閉めて。
その顔には輝くばかりの笑顔が浮かべられていた。
「ヒッ」
思わず後ずさる。っていうか今更だけどおれは何を思ってホテルまで来てるんだ。本当に今更ながら自分にツッコんだ。男とホテルは初めてではないがこうもホイホイ連れ込まれていいものだろうか。いや、駄目だろ。
「やっと二人きりになれましたね」
本日二回目の犯人の台詞。怖い。
「なっ、何もしないって言ったよね……」
「しませんよ、何も」
めっちゃ笑顔。怖い。
「とりあえず一緒にお風呂入りましょうか」
「嘘つきぃいいい!」
「何もしません。お風呂に入るだけですよ」
「いや絶対嘘だろ!」
ふざけんな!と明日葉は威嚇するハムスターのごとく亜笠に対峙した。亜笠は亜笠で猟犬のようにじりじりと少しずつ明日葉との距離を詰めてくる。こいつがもし犬だったらボルゾイとかかな、と明日葉は妄想に逃避しかけた。背中が壁にぶつかって現実に戻る。
「ちょ、ちょっと待っ――――」
「大丈夫、本当にお風呂に入るだけですから」
言いながら、亜笠は明日葉のパーカーに手をかけた。ジッパーが下げられる。
「あ、亜笠……」
脱がされかけたパーカーが明日葉の腕に絡まって止まる。優しく抱き寄せられ、服越しに感じる体温に息を呑んだ。
流されそうになるのが、怖かった。いやもうホテルに入っている時点でかなり流されているが。
どうしたおれ、初めてじゃあるまいし――――と明日葉の脳裏をふっと暗い記憶が過った。
頬に手を添えられ、亜笠の顔がゆっくりと近付いてくる。
「明日葉さん……」
震える声に、明日葉は抵抗を忘れた。
キスされる――――と思ったその時、テーブルに置いた携帯が震え出した。
画面には『安斎薬局長』の文字。
明日葉の顔色がサッと蒼くなった。
明日葉が手を伸ばすより先に、亜笠の手が伸びた。奪った携帯を手にし、そのまま高く掲げる。明日葉は亜笠の手に掴みかかったが、握られた拳は頑として開かなかった。細腕に似合わない剛力だった。
「ちょ、亜笠!」
「社畜すぎるのもいい加減にしてください。プライベート中に仕事の電話に出るなんて言語道断ですよ」
「青梅病院の安斎薬局長からだ! 出ないとヤバい!」
余程のことがなければ明日葉のプライベート用携帯に電話はしてこない。そういう人だ。その人から電話ということは――――おそらく相当急ぎのトラブルだ。
「ダメです。絶対出させません。そのうち相手だって諦めて切りますよ」
「きっ、切られる前に出ないと、っ!」
「僕と仕事とどっちが大事なんですか!」
「仕事だよぉおおお! どう考えても!」
決まってんだろ、と言うと亜笠が何かを言いかけた。
「今日だけは――――」
が、明日葉にはそれどころではなかった。今朝タックルされた時も思ったが、こいつ、かなり体を鍛えている。見た目からはわからない力が携帯を握る手に込められていた。明日葉が両手でこじ開けようとしても開かない。
埒が明かない、と明日葉は意を決して名前を呼んだ。
「亜笠っ!」
「はい」
返事をする亜笠の両頬を乱暴に掴んで顔を近づける。そのまま唇をくっつけた。ガツッと二人の歯がぶつかる。ムードもクソもないキスだった。
呆然としてされるがままの亜笠の手から、力が抜けた。すかさず携帯を奪い返す。
「…………ちょっと、明日葉さん」
低い声の亜笠を無視して通話ボタンを押した。
「はいっ! 明日葉です!」
『明日葉ぁ! てめぇふざけんなよ!』
安斎の怒号が飛んできた。明日葉の額に冷や汗が流れる。やばい、これは相当急ぎの案件だ。
『ホルモン製剤届いてねぇぞ!』
明日葉の脳裏に大柴の笑顔が過る。今日の当番は――――やつだった。恐れていたことが起きた。大柴の配送ミスだ。
「大変申し訳ございません……!」
『謝罪はいい! すぐに届けろ』
低い声で安斎が唸る。明日葉はさらに冷や汗を流した。
「すぐに、ですか……」
脳内に路線図が浮かんだ。
『何だよお前、家にいるんじゃねぇのか』
まさか男とホテルにいるとは口が裂けても言えない。明日葉はしどろもどろに答えた。
「いえ、実は今諸事情により横浜におりまして……その、2時間くらいはかかるかと…………」
『…………』
沈黙する安斎。ため息の後、怒りを押し殺した声で言った。
『わかった。じゃあ22時までに届けろ。何としても、だ』
「はいっ!」
電話を切って数秒、明日葉は急ぎ乱れていた着衣を正した。
携帯電話に表示された時刻は19時39分。
とにかく一秒でも早く会社に行き、病院に届けなければ!
そんな明日葉に冷ややかな目線を送る男がいた。
「明日葉さん」
「はいっ!」
「行くんですか」
安斎よりも低い声。だが明日葉には今は構っている余裕がなかった。
「行く! お前はゆっくり一人で泊まっていけよ! もったいないだろ!」
言いながらスニーカーを履く。亜笠は額に手を当てて目を閉じて深い深いため息をついた後、口を開いた。
「何が悲しくてスイートに一人で泊まらなきゃならないんですか。僕も行きますよ」
「えっ」
スイートなのに滞在時間30分になっちゃうじゃん、と驚くと、亜笠の顔がさらに顰められる。
「乗り換えどうするんですか」
僕なしじゃ青梅まで帰れませんよね、と呆れ顔で言われる。
「でも――――」
「19時52分発の電車に乗れば21時45分には青梅につけます」
お前は人間時刻表か、と思うより先に明日葉は青い顔をパッと輝かせた。先ほどまでの逡巡が嘘のように切り替わる。
「亜笠さまぁ!」
今ほど亜笠が頼りになることはなかった。亜笠が目を細めながら呟く。
「まったくこんな時ばっかり――――そうと決まればさっさとチェックアウトしますよ。駅まで走ります」
「埋め合わせは出来るかどうかはわからないけど頭の隅には置いておくから!」
「絶対埋め合わせしてもらいますから」
そう言いながら、文字通り二人で部屋を飛び出した。




