第四話-三つ編みを 毎朝きつく 結ぶのは 良い子の仮面 剥がれぬように
朔夜から「月も出ない新月の夜は、すべての境界線を曖昧にして、俺たちを隠して守ってくれるんだよ」「ここは僕の国だからさ」という最高の救いをもらって、僕が自分のぼやけた輪郭を少し愛おしく思えた……はずだった。
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僕はまた学校に行った。なんとか布団から体を引きずり出して行った。行ってやった。
なんとか授業を乗り越えた先の昼休み、近くにクラスメイトの集団ができていて、聞くつもりはなかったが、なんとなく話している内容が聞こえてきた。標的にされているのは、少し線の細いクラスメイトだった。聞こえたつぎはぎを合わせるとこうだ。
「おい見ろよ、こいつの今日の走り方まじウケる。内股すぎだろw」
「マジだ、ちょっとオカマっぽくね? お前、中身は女子なんじゃねぇの?」
「やめろよーw!マジでそっちの趣味はねえから!」
いじられている彼自身も、顔を真っ赤にしながら、大声を上げて一緒に笑っていた。
周りの「男らしさ」の空気を壊さないように、傷ついていないフリをして、必死に求められてる姿を演じている引きつった笑顔。その場が盛り上がれば盛り上がるほど、教室の片隅でそれを見つめる僕の心臓は、嫌な音を立てて冷たくなっていく。
――笑わなきゃいけないんだ。世間の用意した「男」という四角い箱から少しでもはみ出したら、あんな風に笑い者にされる。そして、自分を守るために、自分の心を殺して一緒に笑わなきゃいけないんだ。日によって自分がわからなくなる僕の本性がもしバレたら。認めてしまったら。
きっと、僕はあの引きつった笑顔すら維持できずに、今度こそ完全に壊れてしまう。僕は逃げるように視線を落とし、教科書の角をきつく指先で潰した。
結局、その日の授業の内容はひとつも頭に入らなかった。
家に帰ってからも、自分の輪郭が内側からぐちゃぐちゃに溶け出していくような、激しい自己嫌悪と恐怖が止まらない。お風呂上がりに鏡に映った自分の平坦な胸や、少しだけがっしりとした肩幅を見るだけで、喉の奥がカッと熱くなるような嫌悪感が込み上げてきた。
昨日はこの身体を「僕」として受け入れられていたはずなのに、今日はこの皮膚の一枚一枚が、自分ではない悍ましい化け物のスーツのように思えて気味が悪い。
時計の針は、夜の11時を回っていた。 密が教えてくれた「バグったままでいい」という言葉も、朔夜がくれた「夜の深海に逃げておいで」という不敵な優しさも、昼間の太陽がもたらす圧倒的な同調圧力の前では、まるで簡単に吹き飛んでしまう頼りない幻のようだった。
僕はまたもや観念して、ベッドの上でノートパソコンを開く。液晶の無機質な光が、暗い部屋の壁を冷たく照らし出した。 行きつけの短歌投稿サイト『星詠みのうた』にログインする。タイムラインは相変わらず、世界の片隅に取り残された人たちの静かな吐息で満ちていた。今日は、朔夜はここにはいないようだ。
僕は、昼間に教室の隅で目をそらしながら窒息しそうになっていた自分の心を、推敲もせずに31文字の形に切り刻んで放り投げた。
四角形の 箱に心を 押し込めて はみ出す部位を 削ぎ落としてく
詠む、ボタンをクリックする。ネットの夜空に、僕のドロドロとした憂鬱がまたひとつ、寂しい星となって浮かんだ。 ふう、と小さく息を吐き、タイムラインをスクロールする。
すると、僕が投稿したすぐ上の位置に、選ばれしフォロワー3人のうちの、3人目のフォロワーである『合わせ鏡』の新しい短歌が流れているのが目に留まった。
三つ編みを 毎朝きつく 結ぶのは 良い子の仮面 剥がれぬように
その歌は、いつも以上に冷ややかで、だけどどこか僕の胸を刺すような、痛切な痛みを帯びていた。良い子の、仮面。 気づけば、僕はキーボードを叩いていた。昼間に目撃した、あの引きつった笑顔で笑っていたクラスメイトの姿が、その歌の背景にぴったりと重なって見えたからだ。
きっといじられていた彼は、笑っていた周りの人々によく思われるために笑っていた。僕たちはみんな、何かの仮面を顔に張り付けながら、必死に「普通」のフリをして生きている。 朔夜のときのように、僕は彼女の歌にそっと心を重ね合わせるように、返歌を入力した。
愛想笑い 張り付く顔を 剥ぎ取れば そこには誰も いない気がして
タイムラインに僕の返歌が表示された、まさにその瞬間だった。 ピコン、と小気味いい電子音が部屋の静寂を破る。
――✉️合わせ鏡 さんからDMが届きました。 「返歌ありがとー!てか…」
密や朔夜のときと同じ、手紙のアイコンのポップアップ。送り主は、やはり『合わせ鏡』だった。 画面をクリックしてトーク画面を開く。彼女の短歌の、あのクラシカルでどこかお淑やかな雰囲気からして、きっと丁寧で物静かなメッセージが来るのだろう。そう身構えていた僕の目に飛び込んできたのは、予想を斜め上からぶち抜くような、驚くほどサバサバとした文字の羅列だった。
合わせ鏡:返歌ありがとー!てかKasumiの歌、マジでそれな。あたしの心に刺さりすぎてちょっと凹むレベル(笑)
「え……?」 僕は思わず、液晶画面に顔を近づけた。 それな。凹むレベル(笑)。これまでの密や朔夜とは明らかに違う、画面の向こうからもの凄いエネルギーで押し寄せてくる、飾らない、竹を割ったようなトーン。画面の向こうからもの凄いエネルギーで押し寄せてくる、大波のような強烈な――ギャルっぽさ。
合わせ鏡:あーマジ疲れた!今日も一日、親と先生の前で『黒髪三つ編みのお淑やかな受験生ちゃん』やりきってマジ精神擦り切れたわー。学校の男子とかもさ、一歩引いてニコニコして「すごーい」とか言ってあげるとすぐ調子乗るのね。マジでウケる。あいつらのプライド守るために、なんであたしの貴重な脳のキャパ使わなきゃいけないわけ? 本当に人生の無駄遣い!
彼女は、怒涛の勢いでメッセージを続けていく。「入力中…」の文字が消える暇もない。
合わせ鏡:だからさー、ここ(短歌)で毒吐き散らかさないと、マジでいつか学校の全校集会とかで机ひっくり返しちゃいそうだわ(笑) あ、ちなみにあたし、リアルは中学三年生の地味な優等生ね。ウケるでしょ?
ここまで返信が来ていないのに自分語りができるのはもはや才能なのではないか?
Kasumi:リアルとネットでそんな変わるってなんかすごいね。演じ分けるのってきっとすごく難しいし。
合わせ鏡:凄くないって。そうしないと、親も学校も「お淑やかで良い子な〇〇ちゃん」っていう四角い箱からハミ出たあたしを許してくれないから。
だから、型に嵌められて死にそうになりながら愛想笑いしてるだけ。Kasumiの『四角形の箱に心を押し込めて』って歌、本当にその通りだよ。
彼女の言葉に、昼間の光景がフラッシュバックする。 周りの「男らしさ」に合わせるために、オカマいじりをされても引きつった笑顔で一緒に笑っていたあのクラスメイト。彼もきっと、あの狭い箱の中で窒息しかけていたのだ。尊厳はズタボロにされて、それでも仲間はずれになりたくなくて笑ってる。
キーボードの上に置いた僕の指先が、また冷たく強張る。だけど、このサバサバとした彼女になら、僕のこの歪なバグを話してもいいのかもしれない、と思ってしまった。
Kasumi:実は僕……自分の心の形が、毎日変わっちゃうんだ。何も気にせず振る舞える日もあれば、
自分の男らしい身体や声が急に嫌悪感で耐えられなくなる日もある。
男とか女とか、ひとつの役割に自分を固定できなくて……みんなと同じ箱に収まれない自分が、出来損ないみたいでずっと怖かったんだ。
送信ボタンを押したあと、激しい動悸がした。 自分がおかしいのだと、狂っているのだと告白するのは、やっぱりいつだって心臓に悪い。 けれど、少しの沈滅のあと、画面の向こうの彼女から返ってきたのは、僕の絶望を根底から笑い飛ばすような、驚くほど力強い言葉だった。
合わせ鏡:は?何それ。むしろめちゃくちゃ羨ましいんだけど。
Kasumi:え……?
合わせ鏡:あ、ごめん、Kasumiが本気で悩んでるのに怒らせるつもりはないんだけどさ。でもあたしからしたら、それの何がダメなのか一ミリも分かんない。型が決まってないって、何にでもなれるってことでしょ?最強じゃん。あたしとは違って、すごく楽しそうだと思うし!
文字を目で追いながら、頭が真っ白になる。 最強。楽しそう。
出来損ないのバグだと思っていた僕のグラデーションを、彼女はそう表現した。
合わせ鏡:あたしなんてさ、『お淑やかな女子』っていう、周りが勝手に作ったクソ狭いひとつの型に自分をギューギューに詰め込んで、毎日窒息しそうになって生きてんの。ひとつの役割に固定されて死にそうになってるあたしから見れば、毎日違う自分でいられるKasumiのグラデーションなんて、最高に自由で贅沢な特権だよ。
合わせ鏡:自分のスタイルなんて、その日の気分で変えればいいじゃん。なんでそんなつまんない四角い箱に、自分から進んで嵌められにいく必要があるわけ?絶対そんなの必要ないって。タヒにに行ってるみたいじゃん。
合わせ鏡:Kasumiがそれでいいなら、あたしは何も言わないけどね。
ドクン、と心臓が大きく波打った。 昼間の学校で、先生やクラスメイトの無神経な笑い声によって抉られたた心の傷口が、彼女のサバサバとした、だけど圧倒的に肯定的な言葉によって、みるみるうちに熱を持って再生していくのが分かった。 型がないということは、何にでもなれるということ。にじんだ輪郭のままで、グラデーションのままで生きていていいんだ。
Kasumi:……ありがとう。自分を閉じ込めてた箱が、少しだけ壊れた気がする
合わせ鏡:良かった!悩んでる時間もったいないし、自分のテンション上がる生き方しよ。じゃあ、私は明日も『良い子ちゃん』の営業があるからもう寝るね。おやすみ、Kasumi。
Kasumi:おやすみ。明日も営業、頑張ってね。
合わせ鏡:頑張りたくないけどね!
そう言い残して、DMの画面が閉じた。 最後の最後までサバサバした彼女の強さに、僕はパソコンの前で、今日初めて本物の笑顔をこぼしていた。
ノートパソコンの液晶をパタンと倒す。 真っ暗になった部屋のなかで、僕のぼやけた輪郭は、もう恐怖の対象ではなかった。何色にでも変われる自由なグラデーションを宿したまま、僕は深く、穏やかな呼吸をして目を閉じた。
✧合わせ鏡プロフィール✧
中3(体感もうちょい上)女性
学校、家でおしとやかで完璧を演じているが、
「星詠みのうた」では愚痴でドロドロ。




