最初の10月21日
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ……
聞き慣れた電子音が頭上から響く。辻 陽介は布団をかぶったまま手を伸ばし、枕元の棚の縁に指を這わせる。人差し指にスマートフォンらしき感触がぶつかるが、画面をタップしても音は鳴りやまない。
陽介はもぞもぞと体を捻り、布団から顔を出す。スマートフォンの画面を気だるげに覗き込み、停止ボタンをタップする。
「ふぁ~……」
大きなあくびをしながら、陽介はベッドから体を起こす。昨日遅くまでゲームをしていたせいか、少し寝不足だ。
ベッドを降り、オレンジ色のカーテンを開ける。朝日が刺さり、その眩しさに陽介は目を細める。
陽介はスマートフォンの充電コードを抜き、枕元の棚に雑に放る。少しだけSNSを眺め、スマートフォンを机に置く。ぽりぽりと腹を掻きながら、陽介はいつもどおり部屋を出た。
階段を下りて一階に来ると、ミートボールのいい匂いが鼻をくすぐる。今日の弁当の中身を察しながら、陽介はトイレの扉を開ける。用を足し、洗面所で顔を洗い、髪を梳くのがいつものルーティンだ。
「おはよー」
陽介は台所に入り、弁当箱にミートボールを詰める母に声をかける。母は陽介に目を向けず、陽介と同じトーンで「おはよう」と返す。カウンター越しに見えるリビングには誰もおらず、どうやら父はすでに仕事に出かけ、大学生の姉はまだ寝ているようだ。
トーストと目玉焼き、牛乳を用意して、陽介はリビングで朝食を取る。テレビから『十月二十一日水曜日、全国のニュースです』と聞こえてくる。内容は昨日と同じく、台風情報から始まる。どうやら今週末に、関東に上陸するかもしれないらしい。
朝食を終えて部屋に戻り、陽介は長袖のシャツに袖を通す。制服のズボンを穿き、日中にはまだ少し暑いブレザーを羽織る。ネクタイは先生に怒られたときにつけられるよう、ブレザーのポケットに入れっぱなしにしている。
スマートフォンをズボンのポケットに入れ、黒色の大きなリュックサックを背負う。再び一階に降り、でき上がっている弁当を母から受け取る。それを雑にかばんに入れ、陽介はくたびれたスニーカーに足を入れる。
「行ってきまーす!」
まだ台所にいる母に向かって、陽介は大きな声で言う。わずかに「いってらっしゃ~い」と聞こえ、陽介はいつもどおり、日常の一歩を踏み出した。
家から徒歩二十分の距離にある高校は、陽介が来るころにはすでに多くの生徒で賑わっている。教室に着いた陽介は、仲のいい生徒から髪のハネを指摘されてケラケラと笑う。鏡ではいつもどおりのマッシュヘアに見えたが、どうやら後頭部に寝ぐせがあるらしい。
チャイムが鳴り、陽介は慌てて席に着く。担任が怠そうに教室に入り、特に中身のないホームルームが始まる。
流れるように四限目まで終わり、待ちに待った昼休みが訪れる。陽介が大きな弁当箱を開けると、予想通りミートボールが敷き詰められている。付け合わせのひじきはあまり好きではないが、それを母に言うと「自分で作れ」と言われる気がして言えないでいる。陽介は弁当を完食し、「ごちそうさま」と手を合わせた。
食べ終わると眠気を感じ、五限目が体育であることに感謝する。現代文なら確実に寝ていた。持久走を走り切り、陽介は清々しい気持ちで水筒の麦茶を一気飲みする。
六限・終礼と眠気に打ち勝ち、陽介は意気揚々と部室に向かう。部活動はクラスの違う親友に会える、一日で一番楽しみな時間だ。
「はざーっす!」
「おはようございます」を崩したあいさつで、陽介は家庭科室の扉をガラガラと開ける。すでに来ている手芸部のメンバーは、同じく緩いテンションであいさつを返す。
陽介はそのうちの一人、ショートヘアの男子生徒の元へまっすぐに向かう。背が高く爽やかな風貌の彼は、人となりを知らなければ運動部に見えるだろう。
「涼ー! うーっす!」
「っすー」
陽介は当然のように、涼と呼んだ生徒の隣に腰かける。涼は雑な返事をし、握った布に針を通す。陽介は涼の手元を一瞥し、重いリュックを足元に下ろす。
「だいぶできてきたなー、鹿のぬいぐるみ」
「だろ? あとはここ縫ったら、ひっくり返して綿入れる」
「へー。つか、まだ半袖? 寒くね?」
「全然。むしろ暑い」
「マジ? まあ、お前暑がりだもんなぁ」
内海 涼は、陽介の小学校からの幼馴染みだ。中学も同じで、家にも何度も遊びに行き、学校行事もだいたい一緒に行動している。お互いのことは全て知っていると言っても過言ではない。
陽介もリュックから布と裁縫道具を取り出す。ぬいぐるみ好きの涼の影響で始めた裁縫は、今では立派に陽介の趣味に成長している。陽介は特に刺繍にはまり、家のありとあらゆる布に刺繍を施している。今は姉の小物入れに、伊達政宗を元にしたキャラクターを刺繍している。
「そういえば、陽介は進路とか考えてる?」
先ほど縫った布を表に返しながら、涼は唐突にそう聞いてくる。陽介は手を動かしたまま「うーん」と唸る。
たしかに高校二年生の秋ともなれば、進路を考えている人も少なくないだろう。しかし陽介は何も決めておらず、まだまだ先のことのような気もしている。
「なんも決めてねーなぁ……。とりあえず大学行くんじゃね? 涼は?」
「俺もまだ決めてない。なんか、実感わかなくてさ」
「わかるー」
「進路を決める」ことに対して半ば文句を言いながら、陽介と涼は笑い合う。その間に、涼の手元ではペラペラだった鹿のパーツが立体的になっていく。完成はもうすぐのようだ。
だらだらと雑談しながら手を動かしているうちに、あっという間に部活の時間が終わる。陽介と涼は荷物をまとめ、共に部室を後にする。
校門を出て、二人は並んで歩道を歩く。陽介と涼の家までは、途中まで道のりが同じだ。夕日が長い影を作り、平均身長の陽介でも背が高くなった気持ちになる。とはいえ隣の涼の影の方が長く、すぐに現実を見ることになるのだが。
歩きながら、陽介は放送中のアニメの話題を振る。涼は原作小説を読んでいるらしく、ネタバレをしたい気持ちと、してはいけない気持ちの狭間で揺れているようだ。陽介はネタバレを気にしない方なのだが、涼がしないと決めたようなので、それ以上は聞かないことにする。
分かれ道に差しかかり、陽介と涼は一瞬足を止める。涼は片手を振り、初夏の風のように爽やかな笑顔を陽介に向ける。
「じゃ、また明日な!」
「おー」
陽介は手を振り返し、まっすぐに進む背中を見送る。涼の姿が見えなくなると、陽介は信号が変わるまでの暇つぶしにスマートフォンを取り出す。
メッセージアプリに、母から買い物の依頼が来ている。陽介はいつも使っている、サルが「OK」の文字を作っているスタンプを返す。
直後、メッセージアプリに一件の通知が増える。見ると、それは涼からのメッセージだった。
『陽介が目の刺繍してくれたぬいぐるみ、今日中にできそうだから明日持ってくな!』
メッセージに続き、『また明日』という犬のスタンプが送られてくる。陽介はふっと微笑み、サルのスタンプを返そうとした。
そのとき、ブォンと大きなエンジン音が耳を突く。黄色信号を無理やり進もうとしている車がいるのだと思い、陽介が顔を上げたとき――
陽介の目の前に、乗用車のフロントが飛び込んでくる。逃げようと思ったときには、すでに手遅れだった。
全身に衝撃が走る。同時に、陽介の意識は暗転した。




