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シンジケート -第零番地区-  作者: 平木明日香
第1章 今日じゃないいつか
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第1話 刀!?



 街中の、どこにでもあるはずの路地だった。


 少なくともその瞬間までは、僕にとってそこはただの抜け道でしかなかった。


 駅前の大通りから一本外れた、古い雑居ビルと閉店した文具店のあいだを抜ける細い路地。昼間でも日差しがあまり差し込まなくて、壁際には湿った影が貼りついている。エアコンの室外機が低く唸り、どこかの飲食店から流れてきた油の匂いと、梅雨明け直後の熱を含んだアスファルトの匂いが混ざっていた。


 遠くでは車のクラクションが鳴っている。信号待ちの人たちの話し声も、コンビニの自動ドアが開く音も、すぐそこにあるはずだった。


 なのにその路地の真ん中だけが、まるで世界から切り離されているみたいだった。


 半径二メートルほどの距離を挟んで、二つの影が向かい合っていた。


 ひとりは、女子高生だった。


 白い半袖シャツに、濃紺のスカート。胸元のリボンは少し緩んでいて、長い黒髪が背中の半ばまで流れている。肌は透き通るほど白く、瞳は限りなく透明に近い青だった。


 そして、その腰には刀があった。


 刀。


 そう認識した瞬間、僕は思わず目を擦った。


 見間違いだと思ったからだ。


 女子高生が、街中の路地で制服姿のまま刀を帯びている。そんな光景をまともに受け入れられるほど、僕の現実感覚は壊れていなかった。


 けれど、何度見てもそれは刀だった。


 黒い鞘。艶を抑えた柄巻き。腰骨の横に沿うように置かれた長い輪郭。アクセサリーでも舞台用の小道具でもない。そこにあるだけで空気の質を変えてしまう、本物の刃物だけが持つ冷たい気配があった。


 もうひとりは、人間と呼ぶにはあまりにも大きすぎた。


 ゆうに三メートルは超えている。


 黒いシルクハットを被り、古びた燕尾服のようなものを身にまとった大男。けれどその服は人間用の衣服を無理やり引き伸ばしたみたいに歪で、肩幅は路地の幅そのものを塞ぐほど広く、腕は丸太みたいに太く、指は一本一本が鉄杭のように長かった。


 何より、その顔。


 シルクハットの影から覗いていたそれは、人間の肌の色をしていなかった。


 土気色、というより、焼け焦げた骨に薄い膜を張ったような色。頬は不自然に落ちくぼみ、口は耳元まで裂け、目だけが硝子玉みたいに濁った黄色をしている。鼻の位置には黒い穴が二つ空いていて、そこから湿った呼吸音が漏れていた。


 あれは、人間じゃない。


 頭ではそうわかっているのに、体がその事実についていけなかった。


 だって、目の前にいる。


 影もある。呼吸もしている。地面を踏みしめるたび、アスファルトが小さく軋む。人間ではないものが、人間の形をして街の中に立っている。


 しかも、周囲の人間には見えていないらしかった。


 路地の入口の向こうでは、サラリーマンがスマホを見ながら歩いている。自転車に乗った学生がイヤホンをつけて通り過ぎる。誰も悲鳴を上げない。誰も足を止めない。三メートルを超える化け物が、街中の路地に立っているというのに。


 見えているのは、僕と。


 そして、あの女子高生だけだった。


「アタシに何か用か?」


 少女が言った。


 声は落ち着いていた。


 冷たい、というより、最初から温度というものを必要としていない声だった。


 長い黒髪が頬の横をすべり、彼女は怪物を見上げようともしない。視線はわずかに下へ落ち、腰にある刀の柄のあたりに置かれている。


 「グァァ…」


 怪物が呻いた。


 喉の奥で石臼を回したような、湿った低音。


 けれどそれは言葉に対する反応というより、獲物の匂いに筋肉が反射しただけのように見えた。


 巨大な右腕が持ち上がる。


 肘の関節が、人間とは逆に曲がっているようにも見えた。太い前腕には血管の代わりに黒い管のようなものが浮かび、指は五本ではなく七本あり、それぞれの先端に割れた爪が生えていた。


 その腕が、路地の壁に影を落とす。


 僕の肺が、そこで一度止まった。


 「うわ……っ」


 声が漏れたのは、ほとんど反射だった。


 その瞬間、少女の青い瞳がほんのわずかにこちらへ向いた気がした。


 けれど彼女は何も言わなかった。


 ただ視線を戻し、怪物の振り上げた腕を見もしないまま、小さく息を吐いた。


 「“最下級魔導兵(クラスファースト)“一体で、どうにかなるとでも?」


 少女は腰に手を回す。


 視線は下に向いたままだった。


 大男が、少女に向かって右腕を振り上げているにも関わらず。



 巨大な体躯が、少女に向かって襲いかかる。


 少女は刀の柄を握りしめたまま動かない。


 微動だにしていなかった。


 2人の背後に点滅する信号機が、コンマ1の刹那に、立ち止まっているようにさえ見えて。



 ザッ



 地面と靴が擦れる音がする。


 その摩擦力は、空気を動かす程度には“強く”なかった。


 ただ、地面に写る影を動かす程度には、確かな輪郭を切り抜いていた。


 耳の皮膜に残る質感と、——弾力。


 その重心の深く、——ずっと“近い”ところに地面が疾る。


 土埃の舞う痕跡が、瞬く間に視界を横切り。




 ドッ





 スニーカー。


 少女の履いていた靴だった。


 緑色の紐が、刹那の中心に揺れ動いていた。


 「音」は、後から聞こえてきた。


 赤い鮮血が空中に舞う。


 重力に乗っかっていない丸い粒状の「赤」。


 それが、まるでシャボン玉のようにふわりと宙に止まり。




 ドチャッ




 …え?



 少女の右手は、すでに刀を抜いていた。


 少女の背丈くらいはありそうな長い刀身が、日の光を反射している。


 大男はすでに右腕を振り下ろしていた。


 振り上げていた腕が滑り落ちるように少女に向かい、ぶつかる。


 少なくともそう“見えた”のは、すでに避けられない距離に、2人が交錯していたからだ。


 宙に舞う、切り離された右腕の先端。



 ——それが、瞳の中に映るまでは。






 「…嘘…だろ…?」






 頭の中がパニックになった。



 …だって、手が…



 腕が、切り落とされてる…!




 切り口から血が滲み出ていた。


 骨と思わしき物が見えていた。


 それが一体「何」であるかを、即座に理解することはできなかった。


 大男の腕が、突然地面の上に降ってくるなんて…



 「グォォォォォォォッ!!」



 大男は怒り狂ったように声を荒げる。


 ボタボタと落ちる血液が、右腕があった場所から垂れていた。


 呼吸は荒く、眼光は鋭い。


 痛みは感じていないようだった。


 肘から上が切り落とされているにもかかわらず、それを庇う様子さえなかった。



 …どっからどう見てもバケモンだ…



 大男が人間じゃないことは、頭の中ですでに認識していた。


 人の形をしている“何か”


 けれどその「何か」が、具体的な言葉の中には出てこなかった。



 見たことがない外見。


 感じたこともない気配。



 得体の知れない“怪物“が、ただ、目の前で動いていた。


 ——それ”以外“には。

 



 シュッ




 少女は、攻撃態勢を再び取る大男の懐に一歩、——近づく。


 刀の刀身は体の後ろ側に伸びていた。


 大男は切り落とされてる右腕もろとも、背中をのけぞらせて反動をつけている。


 3mを超える長身が巨大な影を作り、すっぽりと少女の体を覆っていた。


 それでもなお、少女は視線を下に向けている。


 互いの射程圏内。


 その中心に交錯しようとしている、目まぐるしい攻防。



 大男の踵が、丸み帯びたアスファルトの表面を掴む。


 その“姿勢”は伸びやかで、それでいてしなやかな曲線を描いていた。


 少女が蹴り上げた地面の土は、すでに空中の溝を掴んでいる。


 重力が真っ逆さまに“停止”する。


 その懐に飛び込んでいる影が、刀の柄の内側を捉え。



 大男が取っていた反動は、少女に向かうことなく停止した。


 動きは継続していた。


 大男の姿勢は地面に向かって流れながら、少女の体を視界に捉え続けていた。


 けれども、少女に向かって踏み込もうとしている下半身の動きとは裏腹に、振り上げた腕の位置は、1秒の中に留まったままだった。


 先に踏み込んでいたのは少女だ。


 前に進もうとする力。


 その方向に向かって、左膝の重心が伸縮する。


 滑空する刀身。


 その最中に、光が揺れる。


 回転していたのは少女と大男の間にある“射程圏内”だった。


 血液の中に酸素が入る。


 跳躍する筋肉が、バネのように空気を弾く。


 刀身の先端が地面の上を滑空するや否や、にぶい音が空間を走った。


 大男はバランスを崩したように膝を折る。


 下半身が崩れ落ちる間際、その半身はまだ、腕を下ろすことだけに終始していた。


 それが“間に合わなかった”のは、すでに腕を下ろせるだけの力が、——物理的な構造が、そこに残っていなかったからだ。



 ドッ



 大男の体には、一本の「線」が入っていた。


 膝を折る挙動と時間差で訪れたのは、



 ——血だ。



 噴水から出る水のように、体の中心から赤い鮮血が飛び出る。


 上半身と下半身のちょうど真ん中を切り裂かれた体は、それぞれが別の方向へと傾いていた。


 少女は刀を鞘に収めた。


 柄を握りながら、すでに息を“吐いている”。


 躍動する時間が、平坦な空間の中に飛び去ろうとしていた。


 少女の動きは滑らかだった。


 それでいて、限りない一点の中に縮まろうとしていた。


 勝負はもう決していたんだ。


 袂を分かったのは、少女が放った斬撃だった。


 凄まじい速度で絞り出された一閃が、大男の腹を裂く。


 そこに濁りはなかった。


 空気の乱れも、澱みも。


 少女が触れていたのは、大男との間にある直線的な間合いだった。


 斬撃が届く半径の手前では、大男の影が地面の底を衝こうとしていた。


 少女はただ、その中心に踵を押し込むように、“最小”の動作を繰り出しただけだった。


 刀が通り抜けたその角度には、踏み込んだスピードが緩む気配さえなかった。


 刀が鞘に収まる頃には、もう、2人の距離は永遠に分かたれていた。



 少女は大男の最後を見る素振りさえなく、振り返る。


 スタスタと歩きながら、彼女の目は、ただ一点を見つめていた。



 ——僕を


 僕を、見ている…?



 返り血を浴びた制服。


 冷たい表情。



 その光景は異様だった。


 背後には肉塊と化した大男の体が、地面に倒れ込んでいた。



 アスファルトに染み込んでいく、真っ赤な液体。


 何事もなく流れ着いてくる、鳥の囀り。



 長い髪を靡かせながら、少女は悠然と街の上を歩いていた。


 空は青かった。


 ただひたすらに。



 呆然と口を開けたままの僕に、少女は言った。



 「あなたが、今回のターゲットね」



 それが、少女と僕との最初の出会いだった。


 世界の運命を変えるために動き出した、——梅雨明けの季節との。


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