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シンジケート -第零番地区-  作者: 平木明日香
第1章 今日じゃないいつか
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プロローグ



 子供の頃から、ずっと感じていた。


 「今日」というものが、本当はどこから始まって、どこで終わるのか。


 「明日」というものが本当にまだ来ていないものなのか、それとも僕たちが気づかないだけで、すでにどこか遠い場所で静かに待っているものなのか。


 そんなことを誰かにうまく説明できたことは一度もなかったけれど、それでも僕の胸の奥には、言葉になる前の小さな違和感だけが古い棘みたいにずっと刺さったまま残っていた。


 昨日と同じ朝が来て、昨日と同じ制服に袖を通し、昨日と同じ道を歩き、昨日と同じ教室で、昨日とよく似た声を聞く。


 先生が黒板に白い文字を書きながら、窓際の席の誰かが退屈そうに頬杖をついている。グラウンドからは運動部の掛け声が届いて、昼休みには購買のパンを巡ってくだらない争いが起きて、放課後になれば校舎の影がゆっくりと伸びていく。


 そのすべてが、昨日もあったことのように思えた。


 そしてきっと、明日もあることなのだと思っていた。


 何もかもが少しずつ形を変えながら、それでも決定的には壊れないまま続いていくのだと僕はどこかで信じていた。


 たとえば、学校からの帰り道。


 雨上がりのアスファルトにはまだ薄く水の匂いが残っていて、電柱の根元にできた小さな水たまりには、雲の切れ間から覗いた夕空が逆さまに映っている。


 自転車のタイヤが濡れた路面を踏むたびにかすかな水音が背後へ流れていき、民家の庭先では雨粒を抱えた木の葉が風に震えながら、透明な光をこぼしていた。


 それはどこにでもある景色だった。


 誰も立ち止まらない、誰も特別だとは思わない、ありふれた午後の終わりだった。


 けれど僕は、そういう何でもない景色を見ているときほど胸の奥が静かに痛むことがあった。


 まるでそこに映っているものを、僕は一度失っているような気がした。


 昨日と同じ夢を、今日もまた見ている。


 そんな感覚に囚われることがあった。


 この空を、僕は前にも見た。


 この道を、僕は前にも通った。


 この風の匂いを、この水たまりの形を、この角を曲がった先にある古い自動販売機の唸る音を、僕は確かに知っている。


 けれどそれは記憶と呼べるほど確かなものではなく、夢と呼ぶにはあまりに生々しく、ただ目の前にある現実の輪郭をほんの少しだけ二重に見せる、薄い膜のような違和感だった。


 雨上がりの空の下で、昨日と変わらない空がそこにある。


 青と灰色のあいだで滲む雲の流れも、遠くの鉄塔に引っかかった夕陽の欠片も、住宅街の屋根を撫でていく柔らかな風も、すべてが今日という一日の終わりを穏やかに告げている。


 きっとこれは、永遠に続くものなのだと思っていた。


 明日も明後日もその次の日も、僕は同じように学校へ行き、同じように帰り道を走り、同じように空を見上げて、同じように何も変わらないことに少しだけ安心して、少しだけ退屈して生きていくのだと。


 そう思っていた。


 いや、そう思いたかったのかもしれない。


 胸のずっと奥で。


 心のさらに奥の、誰にも見せたことのない場所で。


 いつからだろう。


 胸の中に残るしこりが、気にならなくなったのは。


 昔はもっといろいろなことに怯えていた気がする。


 このまま大人になること。


 何者にもなれないこと。


 大切なものを選べないまま、何かを失ってしまうこと。


 ある日突然、昨日まで続くと信じていた日々が、何の前触れもなく途切れてしまうこと。


 けれど人は不思議なもので、痛みにも違和感にも、取り返しのつかない予感にさえ慣れてしまう。


 最初は眠れないほど気になっていたはずの小さな棘も、時間が経つにつれて自分の一部みたいになっていく。


 僕もそうだった。


 何かがおかしいと感じながら、それでも何がおかしいのか分からないままいつしか考えることをやめていた。


 考えたところで、明日は来る。


 朝になれば目覚ましが鳴り、制服は椅子の背にかかっていて、台所からは母さんが朝食を作る音がして、スマートフォンには友達からのどうでもいいメッセージが届いている。


 世界は僕の不安なんて知らない顔で続いていく。


 続いていくはずだった。


 なのに、その日だけは違った。


 今日はもう来ない。


 そんな奇妙な言葉が、ふいに頭の中を掠めた。


 意味なんて分からなかった。


 “今日がもう来ない”なんておかしい。


 だって僕は今まさに「今日」の中にいる。


 雨上がりの道を、自転車を押しながら歩いている。


 鞄の重みを肩に感じている。


 濡れた空気の冷たさも夕方の匂いも、遠くで鳴る踏切の音も、全部ここにある。


 それなのにその言葉は、まるで誰かが耳元で囁いたみたいに僕の内側へ落ちてきた。


 今日はもう来ない。


 もう二度とこの今日には戻れない。


 そう告げられたような気がして、僕は思わず振り返った。


 その先には何もなかった。


 通い慣れた坂道。


 雨に濡れたガードレール。


 低い塀の上に並んだ植木鉢。


 誰かの家の窓に映る夕焼け。


 道端の木の葉を揺らすそよ風がさっと舞い上がるように吹いて、濡れた葉の先から遅れて落ちた雨粒が一つ、音もなく地面に弾けた。


 ただそれだけだった。


 世界は何も変わっていないように見えた。


 けれどその瞬間、僕には分かってしまった。


 変わっていないように見えるものほど、ほんのわずかなところで、もう取り返しがつかないほど変わってしまっていることがあるのだと。


 昨日と同じ空。


 昨日と同じ道。


 昨日と同じ自分。


 そのどれもが本当は昨日とは違っていて、僕たちはいつもそれに気づかないふりをしながら生きている。


 選ばなかった言葉。


 曲がらなかった角。


 手を伸ばさなかった誰か。


 謝れなかった一言。


 あの日、見送ってしまった背中。


 そういう小さなものたちが、きっと僕たちの後ろに積もっていく。


 雪みたいに静かに。


 灰みたいに音もなく。


 そしていつか振り返ったときには、もう道の形さえ分からなくなっている。


 だから僕は放課後になると、自転車のペダルを漕いで街へ出かける。


 目的地なんて、いつも曖昧だった。


 本屋に寄ることもあれば、川沿いをただ走るだけの日もあったし、駅前の雑踏を抜けて知らない路地に入り込むこともあった。


 誰かに会いたいわけでも、どこかへ行きたいわけでもない。


 ただ、同じ場所に留まっていると、今日というものに追いつかれてしまう気がした。


 明日を追い越してしまわないように。


 今日に追いつかれてしまわないように。


 昨日の中に置き去りにしたはずの何かが、知らない顔をして僕の前に立ってしまわないように。


 僕はペダルを踏む。


 濡れた路面を滑るように進みながら、夕暮れの街を抜けていく。


 街灯が一つ、また一つと灯り、電線の向こうで鳥の群れが黒い線のように空を横切っていく。


 その景色を見ながら、僕はいつも思う。


 この世界は本当に一つだけなのだろうか。


 僕が選ばなかった道の先にも、僕はいたのだろうか。


 どこか別の場所で別の僕が、別の空を見上げながら同じように胸の痛みを抱えているのだろうか。


 そんなことを考えるたびに、心の奥で見えない壁に指先が触れるような感覚があった。


 冷たくて、硬くて、越えられない壁。


 それが何なのか、その頃の僕はまだ知らなかった。


 運命という言葉で呼ぶには、あまりにも静かで。


 偶然という言葉で片づけるには、あまりにも確かだった。


 いつか見た夢の中の景色を、置き去りにしてしまわないように。


 失くしたことにさえ気づけなかったものたちを、もう一度見つけられるように。


 そして、まだ名前のない明日へ辿り着くために。


 僕は今日も自転車を走らせる。


 この何も変わらないはずの街の中で。


 もう二度と戻らない今日の中で。


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