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献花  作者: 刻野 海
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1、【自嘲の雨、雲の朝】

灰色の街でひとつ、人影が素早く走り去る。

ただ、ただ霧島は逃げたかった。

 都市部に広がる曇天の、どこか喧騒を忘れた街の中でひたすら走り続ける彼は、立っていることもままならないほど疲労しているように見えた。彼の眼尻に涙が浮かぶ。きっとそれは悔し涙なのだろう。赤く滲んだ唇が、裾が破れたジーンズが彼の走る理由を物語っている。灰色のアスファルトを蹴り続ける彼のおぼつかない脚は、まっすぐに走ることができなくなっていながらも走り続けなければならなかった。自分の中にある事実から、現実から逃げ続けなければならなかった。古いビルに巣を作ったツバメが低空を飛び巣に戻る。

 

二十年以上前に仲が良かった友人が死んだ。それも他殺で。

ふと思い立って友人の家に向かって歩いていると、友人の家のそばに人だかりができているのが見えた。

あいつに何かあったのだろうか、

人ごみをかき分けその二階建てのアパートが見えるところまで近づく。丁度その時、警察の職員がブルーシートに包まれた友人を担架で運びだすところだった。

霧島は呆然とその場に立ち尽くす。

何が起こっているのか理解できなかった。

担架はアパートの錆びた階段の下へ運ばれていく。外の椅子に掛け涙を流す友人の母親が目に入った。通り過ぎる担架がその前を通り過ぎた時、野次馬の視線と母親の視線は交わる。

「見せもんじゃないとね!」そう叫んだ彼の母親の顔が今も忘れられない

自分はこうはなりたくない、そう思って志した職を数年前にくだらない理由で辞めた。霧島は今、なりたくなかった野次馬に、ただ事態を傍観するだけの人間に成り下がってしまっていた。

ここまで自分が堕ちているとは正直、思っていなかった。

 

雨が空から降り注いでくる。霧島はおもむろに立ち止まり、上を見上げた。雨が彼の目の中に入ってきて、涙と雨水が目の中で混ざり合う。

ちょうどいい、と霧島は嗤う。

普段よりトーンを三つは落とした街から降り注ぐ雨は、体だけではなく心の芯まで冷やしてくれる雨だった。

夏の終わり、秋の始まりの雨だった。



 目が覚めたら雲の上にいた。

 雲海の上に立つ自分、綿あめのようにふわふわした足場を歩く自分、はるか下に見える地面。現実離れしすぎたその光景に男はパニックになった。

そんな馬鹿な。

古典的に頬をつねってみても、精一杯セルフビンタしてみても、そこにあるのは無駄に生えた髭のじゃりじゃりした感触だけだ。

現実か。どうやら受け入れるしかないらしい。

怠惰に年を取ると状況判断は曖昧になるのだろう。男は無理やり納得した。

さて、昨日は何をしていたんだったか。男はこの状況になるまでの経緯を思い出そうとしてみた。しかしそれができない。無意味に頭を掻く手が早まる。十分弱、そうして必死に記憶をたどってみたがほとんど覚えていないようだった。思い出したことはたった一つだけだ。

「そういえば、猫を追いかけてたような気がするな。」

 あの猫、黒みを帯びた茶色をしていて、耳は少し大きいめで、金色の目をしていたと思う。種類までは分からなかったが、そういえば首輪をしていたな。鈴が首元でなっていたから間違いない。恐らく誰かの飼い猫じゃないだろうか。何故あの猫を追いかけていたのだろう?その時は何故か追いかけなければならない気がしていた。でもそれがどうしてこの状況につながる?つたない記憶の中からはやはり何も手掛かりを見つけることができなかった。手詰まりか。ふわふわした雲の上で大の字になって倒れこむ。もう何も考えられない。男の思考回路は完全にショートしてしまったようだ。何もない、もちろん雲の上なのだから文字通りの意味で何もない、ただひたすらに高く澄む空を見上げて、男は雲と同化した。


足元にかかった影にもしばらく反応することができなかった。

「お待ちしていましたよ」

 誰かを雲の上に待たせていたんだったか。この状況に無理やり理由をこじつけて顔を上げると、そこにいたのは銀の髪と目を持ち、黒と白のコントラストがよく効いた衣服に身を包んだ神秘的な青年だった。悪意のない純真な笑みを浮かべ一拍置くと彼は再び口を開いた。

「初めまして、僕はアベルといいます。あなたを案内しに来ました。」

「よろしく。」男は即答した。

 どうやら男の思考回路はショートしたままのようだ。アベルは物分かりの良すぎる男の反応に少し驚きを見せたが、やがて先程と同じ笑みを浮かべた。どこかへ向かって歩き始める。どうやら本当にどこかへ案内してくれるようだ。

「では僕についてきてください。足場には気を付けてくださいね。」


 しばらく歩くとアベルの言葉の意味が分かってきた。

 どうやら足場がふわふわしていたのは男が目を覚ました周りだけで、他の場所はごつごつした、ざらざらした、岩場とも砂場ともつかない奇妙な感触の足場だった。だが足場が砂のようにぽろぽろと崩れたり、あるいは男の足に合わせて変化したりということはなかった。どうやら足場の素材となっているものは相当固いようだ。見た目は完全に雲なので違和感しか生まれない。

雲が固い?どんな状況だ?

それでも思考を放棄した男に残された道はただアベルについていくということだけだった。

 しばらく歩くと雲でできた階段のようなものが見えてきた。自然の産物だとするならば相当貴重な光景だろう。カメラを持っていないことが悔やまれる。

「そうだ、一つお聞きしてもよろしいですか?」突然アベルが立ち止まる。

「なんだ?」男は動揺することなく、アベルと歩いていた時同様、一定の距離を保ったまま答えた。

「あなたのお名前は何とおっしゃるんですか?」アベルの目の奥が鈍く光る。

「変なこと聞くなよ。俺の名前は…」そこまで言って男の表情は固まってしまった。

 あれ、俺の名前は…何だっけ?


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