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献花  作者: 刻野 海
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2、【訪問者と遺書、上の世界】

気が付けば一週間が経っていた。

ポリ袋や酒の空き缶が散乱する部屋の中で、わずかな隙間に寝ころんだままテレビをつける。二、三日はテレビでも報道された友人の殺人事件だが、今ではすっかり二日前に発覚した有名芸能人の不倫浮気騒動で見なくなってしまった。コメンテーターは滑稽なほど真面目な顔をしてそのことを批判している。

人一人の命よりもこんなことの方が大事なのか。狂ってる。

目頭が熱くなるのを感じた。


衝撃音と共にテレビの画面が割れる。そこに食い込んだリモコンの電池が一つ床に落ちた。電池の重さを感じないほど軽い音だった。霧島は舌打ちをするが、壊れてしまったテレビもリモコンももう元には戻らない。あるのは何の意味もなさない無機物だけだ。

霧島は仕方なく立ち上がる。何をしようというわけでもない。今更何をしたって何も元通りにはならないのだ。殺された友人も、壊れたテレビも、出ていった妻も、変わってしまった自分も。


丁度ビールを冷蔵庫から取り出して扉を閉めた時、インターホンのチャイムが鳴った。

こんな時に、誰だ?

霧島は離婚届のコピーが乗ったテーブルに缶ビールを置き、腐卵臭がするキッチンの前を通って玄関に出た。

玄関を開けるが誰もいない。時代遅れのピンポンダッシュというやつか。もはや風情すら感じる。霧島は自嘲気味に笑い玄関を閉じようとした。しかし彼はそうしなかった。足元にいる小さい猫が目に入ったからだ。茶色とも黒色ともつかない深い色の毛並み、金色の目をしたその猫は何かを背に乗せていた。猫が霧島を見上げてじっとしたままなので、興味本位でその背に乗っているものを取ってみる。猫は霧島がそれを取ったとたんに、鈴の音をさせながらどこかへ行ってしまった。霧島は間抜けな顔でしばらく玄関口に立ちちくす。伝書猫、というわけなのだろうか。新しいな。猫の背に乗っていたそれは手紙のようだった。とりあえず周りに誰もいないことを確認してから玄関を閉じる。


その手紙は一週間前に死んだ友人からだった。手紙は語る。

「久しぶりだね武明、元気にしているといいんだが。僕の方は仕事をクビになったり、道端に落ちていた仕事を拾ったり、拾った仕事で時間を止めてみたり、まぁ波乱万丈に元気にやってるよ。お前にもこの話を聞いてほしいな。

 でもこの手紙が届くころには状況が変わっているのかもしれない。だからこうしてお前に手紙なんて、きな臭いものを書こうと思ったのさ。お前は確か刑事だったよな?早急に調べてほしいことがある。

実は―…」


霧島は全ての文章を読み終わると手紙を丁寧に折りたたみ、刑事時代のくたびれたショルダーバックに突っ込んだ。服装も正装に見えなくもない服に着替えてネクタイもしめた。鏡の前で髭をそり身だしなみのチェックをする。鏡の中でいつもよりも五歳は若返った自分を見つめ、心の中で現役時代と同じ文句を繰り返す。

さて、事件だ。



雲の上には何がある?

普通に考えるならば大気圏だ。雲のはるか上には大気圏があり、それはとても分厚く、すさまじいエネルギーを持っている。そのさらに上に行くと上も下も存在しない世界、すなわち宇宙が広がっている。それは至極当たり前のことで、常識で、事実だと思っていた。

アベルという銀髪銀目の案内人に連れられて雲の階段を上っていると、その階段が途切れるところが見えてきた。既に訳の分からない状況なのは間違いないが、ここからがメインディッシュだ。

階段を登りきったところで彼は何やらファンタジー系の漫画に出てきそうな、細かい装飾を施された杖のようなものを取り出す。彼がそれを上に勢いよく突き上げると「パリン、」というガラスが割れたような音が聞こえた。何が割れたのかと辺りを見回したがそこに割れそうなものは何もない。首をかしげていると丁度杖が突き上げられたところから水が溢れてきた。まるで滝のように。

「な…なんだぁ?」思わず素っ頓狂な声が飛び出る。

「ご心配なく、」アベルはその端正な顔立ちを少しもゆがめず冷静に答えた。

「これは、入りの禊ぎ、です。流されるということもありませんから、この水を全身で受けてください。そうでないと中に入れませんから。」

 ワンランク上の天国にでも招待されたか、よっぽど生前の行いが評価されたらしい。

 男は相変わらず思考を停止したまま、自分はもう死んだのだと理解することにした。アベルの言うとおりに水を浴びる。その水の感触は不思議なものだった。温度はちょうど男の体温と同じ、着ている服が濡れるということもない、だから透明な何かが自分の体をすり抜けている、といった感覚なのだ。

なるほどこれが死後の世界か。男は感心したが、ふと疑問に思ったことをアベルに問う。

「そういえばさっきは杖で何を壊したんだ?」

「ああ、大気圏です。」アベルは平然とした顔で答えた。

 死後の世界では大気圏とはこんなにも薄いのか。男は納得したがアベルは誤解をそのままにしておいてはくれなかった。

「まだあなたはお亡くなりになっていませんよ。」

「え?そうなの?」男の口調が弱々しくなる。思い込みが壊れたとなっては、どうやら思考を働かせなくてはならないようだ。アベルは続けた。

「これから私たちの世界へお連れします。このままついてきてください。」

 ワンダーランドへ?と思ったが、男の復活した理性がこれ以上の恥をさらすまいと働いて結局この言葉は心の中で思うにとどめた。

 

 思わず言葉を失う。

 これは言葉の意味だけでいえばワンダーランドには違いない。だがあのアリスが迷い込んだ世界とは何もかもが違っていた。

 アベルの言う大気圏の上には二度目の青空が広がっていた。足元にはうっすらと、先程浴びたのと同じだろう水が、ちょうど靴の中に水が入り込まないくらいに張っていて、長い時代を経た遺跡のような建造物が、目の前にぽつんとある以外には、見渡す限りの水平線が広がってる。薄く張った水が空の青や雲の白を反射し、そこはまるで絵画の中のような世界だった。ここが、アベルに案内されたこの場所がまるで別の世界なのだとようやく理解できる。思考を停止している場合ではなさそうだ。

 アベルはしばらく男の反応を楽しんだ後、静かに男に向かって言った。

「これからMs. marryのところへ案内します。このままついてきてください。」

 今度はチョコレートの?とは思わなかった。


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