『麗華侯爵』
「…ふぅん」
真っ赤なドレスのスリットから伸びた艶やかな足でムウロの腹を踏みつけたまま、その女性はシエル達に、いやシエルの隣に立っていたシリウスにはその鋭く細められた薄い金の目が自分になど一筋の興味もなく、それが興味を持って真っすぐと向けられているのはシエルだということを察した。
「そうね、確かに似ているわね…あの女に」
シエルを目にいれながら、シエルとは違い誰かを思い浮かべている。
そんな言葉を吐きながら、女性は凄みのある笑みを真っ赤な唇の端を持ち上げることで作り出した。それは決して空気を和らげることもなく、心を際立たせるだけの笑み。
「む、ムウさん」
地面に横たわるムウロはピクリとも動かない。
「この程度で死にはしないわ」
吐き捨てるように言う女性は自分が踏みつけるムウロを見ることもせず、ただシエルに目を向けている。
「な、なんでムウさんを…」
女性に足をどかせなければ。
「ムウさんのお母さんにそっくりだってことは、ムウさんのお姉さん…」
「ふぅん。確かにおもしろい」
何度かその存在と名前を聞いた、ディアナの妹、レイの双子の妹、そしてムウロ、カフカ、マリオットの姉であるという女吸血鬼、ルージュ。
『夜麗の迷宮』の屋敷を仕切っていた大公の分身、『女主人』に似ていると感じたその女性がそうなのではないかと尋ねかけたシエルの言葉は遮られた。姉なのなら、どうしてムウロにそんなことをしているのかと言おうとしていたのに。
少しだけ、少しだけだが女性の笑みが凄みを減る。そして金の目に、それを見てしまったシリウスが剣の柄に沿えた手に無駄な力を込めてしまう、不穏にも思える光を宿した。
「私を見て、母に似ているという者は少ない」
光の下だからこそ見て取れる毛先に薄い青色が混ざった銀の髪、そして金の目。その顔立ちはシエルが対面したことのあるレイに似ているものだった。レイも男性と言われてもすぐにはピンッとこない、見る度に見惚れてしまう美麗な顔立ちをしていた。だが、それでも同じ顔立ちで比べれば、ちゃんと彼も男性なのだと性別の違いははっきりと理解出来た。
目の前に現れた女性はどちらかといえば、レイに似ていると感じた『女主人』の絵、女性である『夜麗大公』ネージュのそれにそっくり。
「えっ?でも…違うの?」
思ったことを素直に口にしたそれに対しての女性の言葉、それはシエルには否定されたと思えるものだった。
クス。
クスクス。
女性が笑う。
「皆が皆、兄に似ていると口にするというのに」
「…レイ、さん?」
笑いながらの女性の囁くような言葉はしっかりとシエルの耳に届いた。
若干、その声に柔らかみが生まれたようにも聞こえる。
「起きなさい」
ゴスっ。
細いヒールが踏みしめていた狼姿のムウロの腹へ、一度足を持ち上げ、そして勢いをつけて蹴り上げた。
「ぐっ」
女性のすらりと細い脚で繰り出したその蹴りにそこまでの威力があるとは見えなかったが、動かなかったムウロに苦痛の声を上げさせるだけの力があったらしい。
「ムウさん!」
「情けない。本当に情けない。この程度のこれを弟と呼ばねばならないなんて」
もう一度、蹴り上げる。
「そうだ、面白いことを考えた。お前だけではなく、あの女達にも…。……」
女性が腰を折り曲げて、自分の口を出来るだけムウロの耳に近づけた。そして口がゆっくりと動いてムウロにささやきかけているその声は、シエル達には届かなかった。
だが、ムウロにはしっかりと届いていた。
ガゥッ!!
ピクリとも動かず、蹴り上げられても苦痛の声を上げるだけだったムウロが突然、体を持ち上げ女性に向かって牙をむき出しに迫った。
げほっ
「…そんなことが、許され、る、わけ」
噛み殺す。そんな意志が籠っていると見てとれる攻撃をふわりと飛んで交わしてみせた女性に、体を持ち上げたムウロが咳き込みながら吠え立てる。
グルグル。
それは劇場の中で聞いた音と全く同じ音だった。
狼の姿のまま、ムウロは喉を鳴らして女性に唸る。
「あら、どうしてかしら?たかが、人間でしょう?」
ムウロを怒らせる何かを言った女性は悪びれることもなく、鋭く光る二本の牙を見せて笑った。
「ふんっ。全く、どうして皆が皆、たかが人間如きにかまけるのかしらね」
たかが人間。
鼻を鳴らして侮蔑した女性だったが、その直後にシエルへと目を移した時にはその様子はすっかり消えていた。
「準備が出来た、アウディ―レからの伝言よ」
「えっ?」
くいっと顎で城へ指す女性。
「慌ただしくしているようだから伝えてきて、と言われたのよ。あれには借りが幾つかあるし、それに一応は弟ですもの。恥ずかしい真似をされたら、我が一族の名に傷がつくわ」
「貴方があの女とそんなに親しい関係などと、初めて知りましたね」
呼吸が整えたムウロが女性、姉であるルージュを睨みつける。
この国の女王たるアウディ―レは大戦にも大きく関わった、魔族からは敵と言える存在。そして、化け物と魔族からも恐れられている者。
そんな存在と親しげな姉に、兄上は知っているのか、とムウロは口にした。
「私が誰と、どんな付き合いをしようと、関係ないことだわ」
ムウロの睨みなど、ルージュにとっては歯牙にかける価値もない。
「早くなさいね」
ルージュはそれだけを言うと、一瞬にして姿を消した。
「ムウさん、大丈夫?何があったの?」
「大丈夫か?」
ルージュが消えてすぐに、シエルはムウロに駆け寄った。
シエルがその灰銀の毛に覆われた体に触れようとした時、ムウロはいつもの人の姿へと変じた。小さな切り傷や痣が出来ている、重傷という訳ではないが至るところに傷のあるその姿は痛々しいもの。
「…ごめん。ロゼは逃がしてしまった」
何があったのか。その問いには答えることなく、ムウロは任されていたというのにロゼを捕らえることが出来なかった事を詫びる。
「情けない。姉上の言う通り、本当に情けない…」
「…やっぱり、あの人がルージュさんなんだね」
ムウロの落ち込む様子にそれ以上は何も聞けない。
そう考えたシエルが聞いたのは、結局はっきりとした答えを貰えなかった女性の正体についた。
「そう。『夜麗大公』の第三子、兄上の双子の妹、僕の姉であるルージュ。『麗華』という名で『侯爵』を得ている人だよ」




