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6.ウエディングドレス(6)



「あの……もしお時間があったら、お茶をご一緒させていただきませんか?」


そう衝動的に口に出してしまってから『しまった』思った。だが―――もう後の祭りだ。

目の前の七海は視線を彷徨わせて戸惑っている。その時雪は確信した。そう、七海は知っているのだ。―――雪と彼女の夫が、かつて付き合っていた事を。


一体自分は何をしているのだろう?


幸せなカップルにヒビを入れたいのだろうか?

彼と別れた頃、自分の気持ちばかり考えていた自分に幻滅した。そしてそう言う自分と決別して、ちゃんと自分の足で立ってから彼の前に出て行きたいと密かに思っていた。

なのに、今やっている事はなんだろう?彼の目の届かない処で―――二人の昔の関係を承知している様子の彼の妻に、何を聞き何を伝えたいと言うのだろう。


しかしもう何もかも遅い。

声を掛けてしまったし、どうしても掛けずにいられなかった。雪はお腹にグッと力を込めて姿勢を保った。


「取って喰いはしませんよ?」


強張った筋肉を無理矢理(ほぐ)して、出来る限り柔らかい笑み浮かべてみる。

雪の迫力に気圧されたのか―――目の前の七海は彷徨っていた視線が定まった後、素直にコクリと頷いたのだった。







「ええと―――何から話しましょうか。あの、気付いてますよね?私と旦那さんの事」


ええい、もうどうにでもなれ。


内心そう思ってしまった部分は確かにある。―――しかし口に出してからまたしても『酷い台詞だ』と雪も思った。テーブルに置かれたコップの水を、今すぐ掛けられたとしても仕方がないと思うくらい酷い。そして何処かでそうして欲しい……と願ってしまう自分がいた。

何の罪もない、傷を持たない若い彼女の手を暴虐に染めたいと言う昏い衝動が、一瞬心の隅でムクリと頭をもたげた。思えば雪もかなり自棄になっていたのかもしれない。しかし返って来た七海の応えはシンプルかつ、サッパリした物だった。


「えーと、はい。彼から聞きました」


雪は驚いて目を見開いた。見た目よりずっと、七海は胆力があるらしい。少し気圧されたように上擦った声を出したのは雪の方だった。


「……何と言ってました?」

「『彼女だったの?』って聞いたら、『そうだ』って」

「ふふっ」


思わず笑いが漏れる。あまりに端的で簡潔な言葉に『彼らしさ』を感じたからだ。


「三年前かしら……別れたのは。私が仕事で色々悩んでいて―――結局ちゃんと仕事に向き合おうと決心して、別れる事にしたんです。でも本当にあの時は吃驚したなぁ……結婚なんて全然考えて無さそうな飄々とした彼が、こんな若い内に結婚してしまうなんて。―――すっかりちゃんとした旦那さん、やってるんですもの。ちょっと浮世離れしている人だと思っていたから、別人かと思っちゃっいました」


肩の力が抜けてしまった。それに全く変わらない七海の態度に毒気を抜かれてしまい、ついつい本音がポロポロ飛び出してしまう。もし最初の言葉に対する七海の態度が―――今の様子とまるで正反対だったら、きっと雪は当り障りの無い事を口にして直ぐにこの場を逃げ出してしまっていただろう。


「あの……この間は時間が無くて、ほとんど話も出来なくてすいません」


更に謝られてしまった……!


雪は何だか可笑しくなって来てしまう。この子は天然なのだろうか?だとしたらあまりにお人好し過ぎる。もしかして彼が彼女と結婚を決めたのは―――この度を超えた懐の深さを見込んでの事だろうか?だとしたら、少しだけ……彼に失望してしまう。そう言うタイプだと思わなかったが、従順で自分の思い通りになる女性が好みだったのかと。それとも元々『恋愛と結婚は別』と言う考えの人だったのだろうか?あんなに素敵で自由な母親がいて……いや、だからこそ違うタイプを結婚相手に選んだとか?


思わず口元に自嘲的な笑みが漏れた。雪はそんな意地の悪い事を考える自分を嗤ってしまう。でも、と思う。そう願わずにはいられない自分の存在を否定する事はできない。

彼がそんな男だったら良いのに。そんなツマラない前時代的な考えを持っている男なのだと判明すれば―――この胸に燻る未練にも区切りを付けられる、そう思ったのだ。


「話す事なんて無いもの。もうずっと前に別れた相手だし」

「あの、今美山(よしやま)さんは……」


続く言葉は発せられなかったが、聞かれるであろうことは予想が付いた。

確かにフェアでは無い。自分の事情を隠して相手の詮索ばかりするなど。雪は首を振って正直に答えた。


「生憎仕事ばかりで恋人も夫もいないの。やっと色々身辺が落ち着いたって所かな?」


しかしこれではまるで宣戦布告では無いか、と気が付き、続けて否定の言葉を継いだ。


「だから―――彼が幸せそうで良かった。そう思ったの」


それは本心だった。手ひどく振り回した自覚はある。身勝手な理由で声を掛け、自分の都合で切り捨てた。そんな相手の行く末が気になっていたのも事実。しかし心の片隅で―――彼が傷つき、自分をいつまでも待っていてくれたならば。そう夢想していた事もまた事実だった。


心の声が漏れたのか、向かいに座る彼の妻は言う言葉が見つからない、と言うように口籠る。だから慌てて取り成しの言葉を続けた。


「ごめんなさい、こんなお話。……ちょっと愚痴みたいね?彼は元気でやっているのかしら?本当はそれだけ聞きたくて、お茶に誘ったの。ほら、別れた相手が元気じゃ無かったら寝覚めが悪いじゃない?」


お道化てみせる。どうか信じて貰えますように、と。信じて貰えなくても雪が七海の権利を踏み躙ろうと思っている訳ではないのだと伝えたかった。ただそれなら何故―――自分は彼女を呼び止めて、今向かい合っているのだろう?自分の中に存在する矛盾に答えを与えられないままの雪だったが、今時点悪意を持っている訳ではないと言うことは真実だった。


「えっと、仕事は忙しくていつも寝不足ですが―――休みも呼び出しが多くて、ちゃんとお休み取るのも難しい日も多いですけど、とりあえず元気です。きっともともと頑丈なんですね、精神も体も―――本人もそう言ってましたから」


その言葉を聞いて雪は思い出した。ひりつくような、焦燥感と羨望……それから彼に抱かずにはいられなかった嫉妬の感情を。しかし今となってはその感情も、アルバムを見ているように遠い存在だった。




「そうですね、彼は強いですよね―――ひょっとして他人ひとの悩みや痛みなんか、全然想像つかないんじゃないかって、よくそう思った事もあります。黛さん―――奥様は、そう思いませんか?息が詰まる事って無いですか?彼は何でも軽くこなして、人の苦労が理解できないんじゃないかって」




彼の強さを羨み、嫉妬した。自分の所まで堕ちて来て欲しいと願ったこともある。けれども決して彼は歩むペースを変えたりはしなかった。


彼に感じたそんな複雑でもどかしい感情は、その傍で、その眩しい存在を目にしなければ薄れて来るたぐいのものであった。だから今、雪は落ち着いて息をしていられるのだ。

けれどもこの目の前の大人しそうな……素直で従順な女性は、今まさに彼と接しているのだ。かつて雪が感じたような思いを抱いたり、同じように悩んだりしているのではないだろうか?そう雪は考えたのだ。



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