16.先生のお土産 1
15話の続き、黛の両親、龍一と玲子の馴れ初め話の一部です。
黛先生は時折玲子にお土産をくれる。
と言っても食べ物とかアクセサリーとか、そんな女の子受けするような物ではない。
黛先生が持ってくるのは譜面の写しだ。知合いが持っている譜面をコピーさせてくれるのだと言う。
御礼に玲子はその譜面の楽曲を練習する。大抵音源がある有名な曲ばかりだから、それをチェックしながら譜面に入った持ち主のメモと照らし合わせつつ最後までマスターする。そしていよいよ演奏会だ。聴衆は一人、黛先生だけの演奏会。その時だけ厳めしい表情を緩める彼の微笑みを見る事が出来る―――その稀少な瞬間の為に、玲子は練習につい熱を込めるのだった。
週一回二時間、先生に会えるのはその短い時間だけだ。大学生の先生は忙しいらしい。大学の授業や研究、実習の他国家試験の勉強……それから苦学生だと言う先生は、幾つかの家庭教師を掛け持ちしているらしい。こういう先生に関する情報は全て春彦からもたらされたものだ。黛先生は玲子には全然話してくれない―――尋ねたとしても、余計な話をするなとばかりに睨まれてしまう。不満を漏らすと春彦は柔らかく笑って、こう言った。
「玲子はまだ中学生だから」
中学生だから、何なのか。
それ以上春彦は説明してくれない。玲子は不満だった、もっと先生と仲良くなりたいと思っているのだ。春彦が羨ましくて仕方が無かった。だから先生についてもっと知りたくて、ついつい根掘り葉掘り春彦に尋ねてしまう……そんな玲子に対して春彦は仕方ない、とばかりに笑って質問に答えてくれるのだった。
黛先生が家庭教師になって一年が過ぎた頃、母親から家庭教師を変更するかもしれない、と言う話を聞かされた。どうやら大学の実習が忙しく家庭教師を行う時間がなかなか取れなくなりそうだと、黛先生から相談を受けたらしい。後任はまた優秀な生徒を、黛先生を紹介してくれた医大の教授である松本先生にあらためて紹介して貰えるそうだ。だけど春彦は今年大学受験まであと少しだからと、回数を減らして家庭教師を継続して貰えると言う。
ずるい、と思った。
玲子だって、週一なんて贅沢は言わない。月一回だって構わないから、先生に家庭教師をして貰いたいのに……。
聞き分けの良い子と褒められる玲子は、母親にそう言えなかった。何となく言えば余計、直ぐにでも黛先生と引き離されるような気がしたのだ。ジャズを弾いている所を一度観られて、母親に窘められた事がある。クラッシックのお勉強はちゃんとやっているの?と言われて口を噤むしか無かった。ジャズの練習をする為に通常のピアノのレッスンを疎かにしている自覚はあったから。黛先生にジャズの譜面を貰っているなんて口が裂けても言えそうに無い、そう思ったのだ。
新しい先生は大学三年生で、その学年で首席を取る事もあると言う優秀な先生だった。切れ長の瞳にボブスタイル、理知的な容貌の女子大生で一見近寄り難く見えるが気さくで楽しい女性だ。だから玲子もすぐに打ち解ける事が出来た。
「黛先輩?ああ、すっごく優秀なんですって。だから松本教授のお気に入りなのよね」
「お忙しいんですよね。従兄の春彦の家庭教師は続けてくれるみたいですけど……」
「そうねぇ、国家試験の勉強もあるからってすっぱりバイトを辞めちゃう人もいるくらいだからね。実習にも時間を取られるだろうし」
「そうなんですか……大変ですね」
やはり時間を割いてくれる余地は無いのだ、と肩を落とす。玲子の真意を誤解したのか、励ますように一ノ瀬先生は明るく口を開いた。
「あ!でも黛先輩、決まった日に行き付けのジャズバーに通ってるって聞いた事があるわ。きっと要領が良いから、そこまで無理していないんじゃないかな?だからそれほど心配する事は無いわよ、きっと」
玲子の意気消沈した様子を、黛先生の体調を心配している健気な生徒だと受け取ってくれたらしい。しかし玲子は彼女の慰めの言葉に、グッサリと傷ついてしまった。ジャズバーに通う時間はあるのに、玲子に掛ける時間は無いのだと言われた気がした。『ジャズ』と言う所が先生らしい……とは感じたが。
「ジャズバーですか。黛先生、お好きですよね」
「そうらしいわね。確か昔そこでバイトしていたって言ってたわ。バイトを止めた後も客として通っているって」
「なんて言う所ですか?」
「え?」
「あ……その。私もジャズが好きで……興味があって」
ふーむ……と腕を組んで、一ノ瀬先生は首を傾げた。
「お店の名前までは聞いてないなぁ。でもきっと中学生は入れない場所だよ?」
「あっ……そうですよね!ちょっと気になっただけです」
「玲子ちゃんはお勉強に集中してね」
「はい」
そう素直に頷いたものの、ソワソワした気持ちは収まらず……玲子はまたしても、春彦に詰め寄ったのだった。
「ハルちゃん!」
ノックに返事があるや否や、バンっと扉を開けて部屋に飛び込んだ。机に向かって赤本を解いていた春彦がその勢いの少し面食らいつつ、クルリと椅子に座ったまま振り返った。
「ああ……吃驚した、玲子か」
「ねぇ、先生が通っているジャズバーって知ってる?」
「あーうん。たぶん……」
「知ってるの、知ってないの?どっちなの?」
いつもの『お人形さん』も、兄妹のように育った春彦の前ではしばしば瓦解する。居候の身の春彦とて、それは同じこと。彼も玲子の前では素を晒す事が多かった。だからこそ将来結婚を……とやんわり言われている玲子に対して、どうしても妹としての視線しか向けられずにいるのだ。実際付き合っている彼女と下校途中一緒にいる所でバッタリ玲子と遭遇した時、何の躊躇いも無く紹介してしまうくらいに彼女を女性として見る事が出来なかった。玲子もそんな春彦の行動に、何の屈託も持たずに無邪気に笑顔を返すくらい拘りが無い。
尤も―――玲子の情緒は未だに未発達で、そう言った難しい感情を発生させる土壌が育っていないのかもしれない、と春彦は想像してもいた。だからこそ、彼女はまだ可愛らしい皆の『お人形さん』なのだと。
「確か雑誌に載っていたと思うけど……頭からは消えたって意味」
「それ見せて!」
「えー……今勉強中なんだけど」
しぶしぶ本棚を漁り、春彦はページをパラパラとめくり出す。ややあって目的のページを見つけて、そのまま玲子に差し出した。その紙面をジィッと見つめながら玲子がポソリと口を開く。
「何曜日に通っているのかって……聞いた事ある?」
「ああ、金曜日だよ。俺のカテキョの後に顔を出してるって……って、玲子どうするの、そんな詳しい話を聞いて」
「……え?……」
鋭い視線に晒されて、玲子は視線をキョドキョドと彷徨わせた。背中にじんわりと汗を掻いたが、首を振って心を落ち着かせる。それから顔真っすぐ春彦に向けて、出来るだけ落ち着いた声で話した。
「別に……気になっただけ。ずっと先生に会えてないし、一ノ瀬先生が黛先生は週一でジャズバーに通っているって聞いたからどんな所かなって」
春彦は溜息を吐いて、椅子から腰を上げた。見下ろす柔和な笑顔の中にある黒い瞳が笑っていないように見えて、玲子は訳も無くギクリとする。すると口元をふっと綻ばせて春彦は玲子の頭に手を乗せる。そのままグリグリと乱暴に頭を撫でて彼女の名を静かに呼んだ。
「玲子」
「ハルちゃん……」
恐る恐る玲子が視線を合わせると、今度こそニッコリと春彦は微笑んだ。
「―――忙しい黛先生に、迷惑は掛けるなよ」
ピャッと玲子が固まったのを見て春彦は笑い出し、そのままクルリと彼女の体を百八十度回転させてその部屋を追い出したのだった。
もう少し続きます。