030420 長→撫子
次に8組だ。後は北陸道か西海道のどちらかだ。
おさめつくる長は後に三つのなでしこが治める地の川で飛ぶが、最後はのうの神が眠りし町で物語の主人公を婿に迎えし者がついた職を持つ者に髪を剃られん。その途中には、帝の居城の別名を持ちし職を持つ者が幸せという意味を持つ花の名もある役職の1つ前の者に死なされるものの、彼はよく耐えた
ここでも、官位が登場している。
まずは『おさめつくる長』について。おさめつくる、というのは律令制の外の主に内裏の修理造営を司る令外官として設置された『修理職』の和名であり、全体で修理職と読むらしい。その修理職の長は修理大夫である。
次に『物語の主人公を婿に迎えし者がついた職』だが、ここに暗号文と共に置いていた紙が関係してくる。紙に書かれていたのは『33ー24』『宝塚市』『崩御』という3つの文字。これは、宝塚市に住んでいる人や寺社に詳しい人ならわかる物で、実際に宝塚市に住んでいる さんが答えを見つけた。
「西国三十三ヶ所の24番目の寺が宝塚市にある中山寺で、そこで第65代花山天皇が三十三ヶ所巡りを始めたという伝承があります。その花山天皇が崩御されたのが1008年。この年に『源氏物語』が初めて表に出てきました」
日本文学史上最高の傑作と言われる、ハーレムを築いた男・光源氏の人生を中心に書かれた源氏物語。
桐壺帝の第二皇子、今で言う王室の次男にあたる光源氏の妻には『葵の上』さんと彼女の死後に『女三宮』さん、更に事実上の正妻に『紫の上』さんの3人がいる。『女三宮』さんの父親は光源氏の兄であり桐壺帝の次の帝である朱雀院の娘であり、その前の『葵の上』さんの父親が一番最初に登場した時の官位が『左大臣』の位についていた男性である。最後は摂政を経て太政大臣にまで登り詰めた人物なので、ひとまずはどの官位の事を指すのは保留しておこう。
3つ目に『帝の居城の別名を持ちし職』。これも、調べてみて関係性がわかった。
紫。
英語ではパープルと言ったり、時にはバイオレットも含まれる事のある青と赤の間の間色であるその色は、中国の文化では五行思想では下位に置かれる一方で、道教では尊びられたという正反対の扱いを受けていた。
正色の青・赤・黄・白・黒を最上として、間色の紫はそれより下位の五間色に位置づけたのが五行思想であるが、道教では天帝が住まうところを紫宮・紫微垣などと呼んだ。
中国の南北朝時代で一般的にも地位が向上して、隋では後に五品以上だけに紫の服を着せた。高官だけでなく、宗教の高徳者にも紫衣を許し、やがてそれは遣隋使・遣唐使を出した日本にも伝来する。
「そして、これが安土時代に1つの事件の主役になります」
時は安土時代初期の1615年に遡る。
当時、天下統一を成し遂げた信忠公は、正室の松姫との間に産まれた公にとっては3男にあたる信家公に太政大臣の位を譲り、自身はその後見人となる一方で、蝦夷の制圧に勤しむ石川四衛門殿や、老齢ながら羽柴家の地位を高めようと内政で功をあげようとする秀吉公、そして隠居して浜松から逃げて伏見に住んでいた家康殿などと次々と新しい政策の策定などをしていた。
そして、この年に信家公の名義で天皇及び公家に対する関係を確立するために定めた禁中並公家諸法度を出す。その中に、みだりに朝廷が紫衣を授ける事を禁じた項目もあった。
しかし、当時の天皇である後水尾天皇は、朝廷にとっての収入源でもある紫衣授与を止める事はせず、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。
「これを知った3代目の信光公は、法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言。当時の京都所司代だった小早川秀秋殿に法度違反の紫衣を取り上げるよう1627年に命じました」
だが、これに後水尾天皇と紫衣を授与された僧侶達は反発する。幕府は、2年後にその僧侶達を流罪に処して没収する。
この幕府の動きに春日局の事も合わせて後水尾天皇は憤慨して、同年の内に幕府に何も相談せず当時5歳だった信家公の孫でもある興子内親王に譲位。奈良時代の阿部内親王《孝謙・称徳天皇》以来859年ぶりに、明正天皇として女帝が誕生した。実権は、久しぶりに院政を始めた後水尾上皇が持つことになるが、当然未婚の女帝に、叔父にあたる信光公は1つの案を考える。
そして、それを近衛前久殿の孫にあたり、同時に後水尾天皇の弟にあたる関白・近衛信尋殿下を介して、後水尾天皇と話し合う。院政の地として1631年に完成、その後の天皇の多くがよく譲位した理由とも言われる桂離宮で話し合う。
「1633年元旦、幕臣と宮臣の双方はいつもの安土と朝廷ではなく、桂離宮に参上するよう命じられます。首をひねりあいながら、双方の主を1つの部屋で待っていると信光公、後水尾上皇、明正天皇、そして信光公の嫡男の信綱殿が入ってきます」
そして、発表されたのは信綱殿が明正天皇に婿入りする事、その後見のために後水尾上皇の弟妹による分家が開かれる事、後水尾上皇は正式に政治の舞台から消えてこれからは日記を書くことに専念する事だった。
これは、即位後に女帝は終生独身でなければならないという不文律を破るものだったが、諸法度にそれを明文化する事で妥協され、明正天皇と信綱殿は結婚。そして、現在の帝へと繋がる血筋となる。
この幕府主導の結末は、幕府は朝廷より上位の立場にあることを暗に示していたが、明文化はされず幕末の動乱に繋がる。
「話を戻しまして、唐名の1つに『紫』が入った役職があります。それは、中務省です。朝廷に関する職務を担っていたために皇居の別名の1つである紫微令と呼ばれていました」
官位が関係する文の最後に『幸せという意味を持つ花の名もある役職の1つ前の者』があるが、これも官位の唐名がわかれば一目瞭然である。
槐。中国原産の落葉高木で、街路樹や庭の木として用いられ、7月に咲く花や蕾にはルチンを多く含有する。蕾を乾燥させたものは、槐花という生薬で止血作用がある。その花の花言葉は『幸福』や『上品』がある。
春秋戦国時代より前の中国の周代、外庭に3本の槐を植え、太政大臣・左大臣・右大臣の三公の座席をそれに向けて設けた故事から、大臣が『三槐』と呼ばれ、大臣の前の官位である大納言が「次位の」などを意味する『亜』を加えて『亜槐』と呼ばれる。
「一方で家紋もあります」
それが『3つのなでしこ』だ。
四季咲きの性格を持つことから異名で付けられた常夏は『源氏物語』の巻名のひとつとなっており、前栽に色とりどりのトコナツを彩りよく植えていた様子が描かれているなど、日本でも広く知られている撫子を、家紋で使っている家もある。
京都の油売りから美濃の国主まで下克上をし織田信忠公の親戚でもある斎藤道三の斎藤家も有名だが、西海道の筑前に根を張り、信忠公の九州攻め後に日向に転封となった秋月氏は、家紋に三角形に撫子の花を書いた『3つ撫子』を採用した。
つまり、この暗号文は西海道に関わるという事になる。




