030420 濾過→蝙蝠
喋り疲れたので、織田信長と長宗我部元親の対立が終わった所でいったん区切る。
戦国時代の話が好きだという恵比寿さんはもちろん、同じ6組の人達も聞き入ってくれていた。
私が『要覧』を借りている内にゼレマノフさんが持ってきてくれたという、海水から冷凍されたため水と塩に分離した水を濾過装置で汚れを取り除いた後に配られたコップの中の水を飲み干した後、再び読み始める。
「本能寺の変を生き残った信忠公は明智光秀を討ち、変で崩壊した戦線を立て直す。光秀を討った直後に安芸・石見・出雲・周防・長門の5ヶ国の領有と引き換えに臣従してきた対毛利の中国戦線が消滅したが、上杉景勝・北条氏政・徳川家康の三者が空白地帯になった甲斐・信濃・上野を巡って争った『天正三国の乱』の結果を信忠公が認めず、信濃と上野の返還を三者に求めたために生じた徳川と北条との戦いにより1582年と翌1583年の間は、三好氏支援と嫌がらせにとどめる。
そして1584年4月、信忠公を総大将に、始まる前に終わった信長公の四国攻めに名を連なっていた神戸信孝公、丹羽長秀殿らが大将として、更に中国からは毛利軍が参戦した四国攻めが始まる。
讃岐では毛利より先に織田に臣従していた宇喜多秀家殿率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝殿と仙石が加わり計1万5000の軍が屋島に上陸した。秀家殿等は喜岡城を攻略して高松頼邑を討ち取り、香西城や牟礼城も攻略した。しかし、戸波親武の守る植田城の守りの堅さを見てとった黒田はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、信忠軍との合流を図った。
伊予では毛利が攻め立て、長宗我部は守勢に立たされる。
阿波の信忠公率いる大和・和泉・紀伊の軍勢3万は4月16日に堺から船出し、海路で洲本に至る。信孝公率いる摂津・近江・丹波の兵3万は明石から淡路へ渡り、両軍は福良で合流して大小800艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸した。対する長宗我部方は木津城に東条関兵衛、牛岐城に香宗我部親泰、渭山城に吉田康俊、一宮城に谷忠澄・江村親俊、岩倉城に比江山親興、脇城に長宗我部親吉をそれぞれ配した。
信忠公の軍は阿波上陸後、まず木津城を攻撃した。八昼夜にわたる攻撃の上に合流した蜂須賀正勝殿によって水の手も絶たれたため、城将の東条関兵衛は信忠方についた叔父の東条紀伊守の説得に応じて開城した。関兵衛は土佐へ退いたが、立腹した元親によって切腹させられた。双方が主力を投入した阿波の戦いだが、戦力を伊予・讃岐にも分散せざるを得なかった長宗我部方の劣勢が明らかとなった。そのため、牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊は木津落城を聞いて城を捨てて逃れ、残る長宗我部方の拠点は一宮・岩倉・脇の三城のみとなった。
そして5月中旬には残る3つの城も陥落し、東の織田勢、西の中国勢で元親が詰めた阿波の白地城を挟撃する態勢となった。
忠澄を始めとする重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、5月25日付の信忠公の停戦条件を呑んで降伏した。交渉に当たっては蜂須賀正勝殿が仲介を務め、6月6日に白地城に入った信忠公と元親によって講和が成立した。講和の条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、長宗我部元親の実子を人質として提出とされている。これに従い、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を割譲した。
6月23日、信忠公は戦後処理を終えて安土に帰還する」
長宗我部元親の白地城の降伏によって、四国、そして南海道の戦国時代は終わりを告げ、平穏の時代に入る。
紀伊に京都所司代の村井貞勝殿、淡路に津川義忠殿、讃岐に十河存保殿、そして阿波に三好康長殿が入る。
康長殿の実子の康長殿は本能寺の直後。亡くなっていたため、養子に入っていた秀吉公の甥の信吉殿の中継ぎの後に、信吉殿の娘と結婚した三好の本家の小笠原家真殿が三好を継ぐ。
その康長殿に命運を決められた長宗我部は土佐に安堵され、平安時代の国風文化の中の代表的な作品である紀貫之著『土佐日記』の始まりの町である今の南国市にあった岡豊城から、後に御三卿の1つ・土佐織田家の本拠地として御三家の駿河織田家出身で最後の太政大臣になる織田信慶が青年時代を過ごす高知市に本拠地が移される。
残った伊予は、毛利の一門衆であり家臣だった小早川隆景殿が、備後を加えて6ヶ国を領有する事になる本家とは別に領有する。
そして、1599年に『鳥無き島の蝙蝠』と呼ばれた長宗我部元親が、その翌日に長宗我部と戦った十河存保が天寿を全うして病死する。
総合して考えると、長宗我部元親が産まれた岡豊城、十河殿が籠っていた十河城、そして元親が降伏した白地城になる。




