潮風の贈り物<後編>
ティル・ナ・ノーグの街に、やわらかな風が吹く。
港から吹いてきた風は、かすかに潮の香りを含み、傾き始めた陽の光を浴びて、水平線が橙色に輝いていた。
「どうした?」
不意にコレットが立ち止まったため、クラウスが振り返る。
「いえ、兄はどうしてるかなって」
コレットは、港に停泊する船を目にして、数週間前に旅立ったヴィルフレッドの顔を思い浮かべていた。たぶん、そろそろ実家に着く頃だと思うと話すと、クラウスは得心した様子でうなずいた。
「君の故郷は、ヴィルヘルミーナと言ったか」
「はい」
「遠いのか?」
「そうですね……。船で二週間ほど、そのあと馬車でさらに二週間……。ここからだと合せてひと月ほどかかるでしょうか」
「そうか」
「あの、クラウス様のご実家はどちらなんですか?」
エメリッヒが言っていた、クラウスの出身地や家族構成の話を思い出し、聞くなら今だとコレットは勇気を出す。
「俺はすぐ近い。ティル・ナ・ノーグの郊外なんだ。農家を営んでいて、男ばかりのうるさい家で……」
両親も健在だが、家業は長兄が継いでいること。クラウスは次男で、下に弟が四人もいること。昔はよく手伝いに行っていたけれど、今は弟たちも大きくなったので、よほど手が足りないとき以外は帰っていないことなど、とつとつと話す。
コレットにはその話のどれもが新鮮で、またクラウスが自分の話をしてくれたことが嬉しくて、知らず笑顔になってうなずいた。
「いいですね。ご家族が多いと楽しそうです。お仕事もみなさんで一緒にしている感じがうらやましいです。うちは兄と二人だったし、小さい頃はお店に入るなと言われていたから寂しくて」
「今度来るか?」
「えっ」
男ばかりの家で、クラウスの母はいつも娘が欲しかったと嘆いていた。コレットを連れて行ったら、きっと喜ぶ。クラウスは単純にそう思って口にしたのだが、コレットは別の意味を連想してしまった。
『お式はいつですか? ウェディングケーキは、もちろんコレットさんの手作りですよね』
そう言ったのは、ビアンカだ。
『クラウス様もそれなりのお歳でしょうし、申し込んだからにはある程度お考えが……』
”聖女の初恋”の試食を頼んだときに、確かそんな話をしていた。
(えっ、えええええ!?
ち、違うわ、きっと、単に遊びに来たらっていうだけの話で、深い意味はないのよ。私一人で勘違いしちゃだめっ)
なんとか思考が暴走しそうになるのを止めようとしたコレットだったが、一瞬のうちに頭の中は薔薇色に染まり、自分で作ったケーキを前に真っ白なドレスを着て人々に祝福されている姿を想像してしまった。もちろん隣にいるのは、正装をしたクラウスで……。
ぶんぶんぶんっ
あまりに先走った考えに、コレットは勢いよく首を振る。頭の高いところで結んだ髪が左右に揺れ、音がするほど激しくコレットの頬をたたいた。それに驚いたクラウスが、申し訳なさそうにコレットを見つめる。
「嫌なら無理にとは言わない」
「あっ、やっ、違……っ
違うんです、クラウス様。これはビアンカさんが……」
「ビアンカ?」
(あああ、私の馬鹿、馬鹿っ
ビアンカさんの名前を出したら、中身を説明しなくちゃならないじゃないのっ
そ、そんな恥ずかしいこと、できない……!)
「いえ、なんでもありません。おうち、もしよかったら、ご一緒させてください。ご家族は甘いものはお好きですか?」
「なんでも食べる。父が、特に好きだ」
甘味好きは父似だというクラウスに、コレットは落ち着きを取り戻して微笑む。
「では、何か作ります。お好みがあれば教えてくださいね」
「あぁ……」
今日のようにホールのケーキがいいだろうか、それとも選べるようにいろいろな菓子を持って行った方がいいだろうかと思いをめぐらせるコレットに、クラウスは何か言いたそうな顔をする。
「少し、座るか」
「え? はい」
通りの端に据えられた、海の方を向いたベンチにクラウスはコレットを誘う。街路樹とベンチがいくつか交互に置かれたその場所には、他にも夕陽を眺めて語らう人々がちらほらと見受けられた。
「その……コレット」
「はい」
ベンチに腰掛け、クラウスは両手を組む。コレットは離れてしまった手を残念に思いながら、体を斜めにしてクラウスの方を向いた。
「俺は、頼りにならないか?」
「え?」
クラウスが、頼りにならない?
街の治安を守る騎士団の分隊長で、いつでも冷静沈着、どっしりと構えて、困ったときにはすぐに駆けつけてくれるだろうクラウスが、頼りにならないわけがない。
なぜ急にそんなことを言い出したのかと思ったコレットは、目をぱちくりさせて小首をかしげる。
「いや……。君が『なんでもない』と言うから」
クラウスに言われて、コレットは「あっ」と気付く。そういえば、エメリッヒとの会話内容を聞かれたときも今も、クラウスがせっかく気遣ってくれたのに、「なんでもない」という言葉で切ってしまっていた。何を秘密にしているわけではないけれど、それではクラウスが不快に思って当然だ。
「すみません。別に大したことを話していたわけではないんです。私が、みなさん仲良しでいいなぁって言ったら、エメリッヒさんが、その、クラウス様の履歴書を見せてあげましょうかっておっしゃって」
「俺の履歴書?」
「はい。私が、クラウス様のお誕生日も知らなくてって言ったので、なんでもわかりますよって。あの、もちろんお断りしました。
自分で聞けばいいことですし、これから時間は、た、たっぷりあるわけですから」
クラウスと十八分隊の人たちが過ごしてきた時間にはかなわなくても、きっと、たくさん話をする時間はあるはず。今だって、実家のことをなんのてらいもなく教えてくれて、遊びに来るように言ってくれさえした。だから、大丈夫。
クラウスは、自分の問いかけに対して、一生懸命答えようとするコレットにほっとする。それと同時に、くだらない焼きもちを妬いた自分を恥じた。
「悪かった」
「やっ、そんな! 私も、ついうらやむばかりで口にしていなかったので。これからはちゃんとお話します」
「あぁ。俺も、気を付ける」
誕生日のことを、コレットがそこまで気にするとは思わなかった。しかし、考えてみれば、コレットの誕生日なら、クラウスも何かしてやりたい。彼女も同じ気持ちなのだろうと、理解すると同時に心が温かくなる。
「他に聞きたいことは?」
誕生日と、家族の話はした。コレットは他に知りたいことがあるのだろうか。そう思ったクラウスが、コレットに水を向ける。
「えっと、服の、サイズを……。もしよかったら……」
「服?」
一般的な男性の体型ならそれなりにわかるが、クラウスは規格外だ。教えてもらうか、一度ちゃんと測らせてほしいとコレットが言うと、クラウスは「では今度君の家で」と次の約束をした。
「ありがとうございます!」
「いいや、俺の方こそ……。あとは?」
「あとは、とりあえず大丈夫です。また、思いついたときにお聞きしてもいいですか?」
もちろんだ、とクラウスはうなずく。そして、嬉しそうに笑うコレットに、「俺も聞いていいか?」と尋ねた。
「? えぇ」
「何か、悩みがあるとか」
「!」
「エメリッヒが、言っていた。今ので解消されたならそれでいいが」
「そ、それは……」
濃褐色の瞳が揺れる。コレットの表情から、他にもありそうだと踏んだクラウスは、先を促す。
「それは?」
「いえ、あの、なんでもな……、ううん、なんでもなくはないのですが、クラウス様にお話するほどのことでも」
「なんでもない」や「大丈夫」は、コレットの口癖のようだ。異郷の地で、自分を奮い立たせるために口にしてきたことなのかもしれないが、今はそれがクラウスを消沈させていた。
「すすす、すみません。あの、だって、大丈夫なんです。その、さっき、叶えていただいたし……」
「さっき?」
「はい。えっと、頭、ぽんぽんって」
「……?」
頭? それは分隊員に見送られた後、コレットの頭を撫でたことだろうか。それで何が叶ったというのか。
顔に疑問符を浮かべるクラウスを見て、コレットは両手で顔を覆って下を向く。
「ああんっ、だから、もうっ、エメリッヒさんったら、余計なことを……!
メリルさんが気を付けてって言ってたのはこのこと!? ううん、違うわ。そうじゃなくて……。エメリッヒさんに話したメリルさんのせいかしら」
「コレット?」
「メリルさんは私を心配してくださったのだから、仕方ないのかしら。……でもでもでもー!」
「コレット、落ち着け」
ふるふるふる。体ごと左右に振って悶えるコレットの肩を、クラウスが押さえる。
片手で肩を押さえ、もう片方の手でよしよしと頭を撫でると、コレットはぴたりと止まった。クラウスは、続けて二・三度撫でて手を止める。本当はもっと撫でていたいが、あまり髪を触っているとおかしな気分になってしまうからだ。
柔らかな髪の感触を惜しみながらクラウスが手を下ろそうとすると、コレットが顔を上げた。
「クラウス様の手、好きです」
碧の瞳を見つめ、自分の頭から下ろされようとしていたクラウスの手を握る。
「温かくて、大きくて……。
クラウス様が頼りにならないなんて、とんでもないです。私、クラウス様にお会いしてからずっと頼りっぱなしで、これじゃいけないなって思うくらいです。
自分でお店をやるんだって、まだ早いと止める両親を振り切って出てきたのに」
コレットが胸の前で手を合わせる。それは彼女がよくやる動作だったが、今日の場合はその間にクラウスの手が入っているのが問題だ。
「辛いときや不安なとき、クラウス様に撫でていただくととっても安心して、またがんばろうって思います。ただ、最近、私、すごく贅沢になってしまって、悩みって言うのは、あの、もっと、その……。……クラウス様?」
クラウスの手をきゅうっと握って、コレットがまばたきをする。それまでなんとか耐えていたクラウスだったが、コレットの話が途切れたところで、自由な片手で目元を覆ってうつむき、はぁっと息を吐いた。
「あ、つまらない話を長々とすみません。その、何が言いたいかというと」
「つまらなくは、ない。が、ここが外でよかった」
「え?」
クラウスは、自分の膝に肘をつき、くしゃりと前髪を握る。きっちりと固められていた髪が乱れ、一筋額に落ちた。ちらりとコレットに視線を送る頬が赤いのは、夕陽のせいだけではない。
「その……、手が、な」
「手?」
コレットが、好きと言って握り込んだ手。話に夢中になったコレットが押し当てたのは、ちょうど彼女の胸の真ん中で――
「あっ、きゃぁっ、私っ
ご、ごごご、ごめんなさい!」
クラウス以上に真っ赤になったコレットが、ぱっと手を離す。
騎士だなんだと言っても、クラウスとて男である。好きな女性の体に触れて、まして手の平を胸の間に挟まれて、平静でいられるはずがない。コレットの話に集中しようとしても、髪とは全く異なる柔らかさであるとか、そこが見た目よりもずっとふくよかであったことなどに気持ちがいってしまった。かろうじて理性を保てたのは、ここが人通りのある外であったからに相違ない。
クラウスは、解放された己の手を閉じたり開いたりする。焦った反面、手の平に残る感触に残念な気持ちがなくもないのが正直なところであった。
「まぁ、僥倖、か?」
「やだ、もうっ」
ぽかっとコレットがクラウスを叩く。それをクラウスが手の平で防ぐと、コレットは続けてぽかぽかと叩いてきた。
「君が握ったんだ」
「そうですけどっ、クラウス様ったら!」
ぽかぽかぽか。
耳まで真っ赤になって、コレットがクラウスを叩く。クラウスはそんなコレットが可笑しくて、「ははっ」と声を上げて笑った。
「……!」
クラウスの笑い声を聞いたコレットが、叩くのをやめる。
「?」
振り下ろされかけて止まった手をつかみ、クラウスはコレットの瞳を見つめた。
「どうした」
「いえ、なんでも……、じゃなくて、笑ってくださったのが嬉しいなと思いまして」
コレットははにかむように笑い、自分の気持ちを素直に言葉にする。
「俺だって笑う」
「そうですよね。クラウス様が、私の前で笑ってくださったのが嬉しいです。
私、クラウス様ともっとたくさんお話がしたくて、もっとクラウス様のことが知りたくて、それから、あの、私、もっと、クラウス様に触って欲しいんです」
それが、コレットの悩み。
告白されて、嬉しくて。会話も店に立ち寄ってくれる回数も増えてさらに嬉しかったけれど、案外、触れるという機会はなかったのだ。
でも今日は、頭も撫でてもらえて、手もつなげてとても幸せ。
「君は……」
クラウスがつかんだコレットの白く小さな手は、今は二人の間でつながれている。
潮風が頬を撫で、夕陽が二人を照らす。
まっすぐクラウスを見つめるコレットの顔に、クラウスの顔が近づいていく。
「……はぁ」
「クラウス様?」
とん、とクラウスはコレットの肩に額を落とした。いままでにない近い距離にコレットがどぎまぎしていると、クラウスはコレットの耳のそばで、
「くそっ、あいつら」
とつぶやいた。
「ここはだめだ。行こう」
「きゃっ」
急に立ち上がったクラウスに、引きずられるようにしてコレットは駆ける。
コレットはわけがわからないまま、クラウスは背後を気にするようにして、夕闇迫るティル・ナ・ノーグの街を、二人は手をつないだまま走り回った。
「はぁっ、はぁっ、あの、クラウス様、これは、一体……」
さんざん走り、気が付けばコレットは自分の店の前にいた。
クラウスに中に入るよう促され、コレットが裏口を開けて入る。クラウスもまた、周囲を確認し、身を隠すように扉の中に滑り込んだ。
「ようやく、撒いた」
「もしかして、エメリッヒさんたちですか?」
壁に寄りかかって呼吸を整えるコレットに、クラウスがうなずく。
「別に逃げなくてもよかったのでは」
「見られていたら、触れない」
「あ……」
もっと触れあいたいのだと言ったコレット。彼女の望みはクラウスにとって願ってもないことで、ただ、分隊員たちが覗き見をする前でどうこうする趣味はなかった。
クラウスは、汗ばんだ額に貼りついたコレットの前髪をかきあげる。どこもかしこも柔らかな彼女は、無遠慮に触れれば傷つけてしまいそうで、髪一筋避けるのすら慎重を要した。
コレットは、髪を撫でられて、気持ちよさそうに目を閉じる。
長い睫や、上気した頬、うすく開かれた唇が男を誘うことに、彼女は気付いているのだろうか。
クラウスは、引き寄せられるままに唇を寄せる。丸みを帯びたかわいらしい額に口づけると、コレットがはじかれたように目を開けた。濃褐色の瞳と深い碧の瞳が、しばし見つめ合う。
「今日は、誕生日だった」
「あ、はい」
「誕生日用の菓子も嬉しいが、その前に贈り物をもらってもいいか」
「贈り……? んっ」
……。
…………。
………………。
唇が離れたとき。
コレットは驚きに目を見開いていて、それを目にしたクラウスは、ふっと苦笑した。
「いい、誕生日だった」
「は、はい。それはよかっ……」
かくりとコレットの膝が折れる。クラウスは慌てて腰に手を添えてコレットを支え、きちんと立たせてから帰ることを告げた。
「また明日」
「え、えぇ」
ぼんやりとした様子のコレットが気にかかったが、長居してはクラウスの方も心臓が保ちそうにない。後ろ髪を引かれる思いでクラウスがコレットの家を出ると、通りの陰に見慣れた姿を見つけた。
「まだいたのか」
「やっぱり帰ってましたか。あいつら、まんまと撒かれましたね」
「おまえの差し金か?」
「いやぁ、俺の楽しみを奪われた分、ちょっと働いてもらおうと思っただけですよ」
宿舎の方角に向かって歩くクラウスに、肩を竦めながらエメリッヒが合流する。
「ほどほどにしてやれよ」
「くすくす。まぁ、そこはそれなりに。コレットさんのお悩みはわかりましたか?」
「あぁ」
「へぇ。よかったですね。ん? なんだ、分隊長、ご機嫌ですね。やらしいなぁ」
「……」
緩みかけた口元を目ざとく見つけられて、クラウスはじろりとエメリッヒを睨む。もちろんその程度でひるむはずもない補佐官は、にやにやと笑ってクラウスの肩を叩いた。
「飲みにでもいきます? お祝い第二弾」
「自分が飲みたいだけじゃないのか」
「そんなことないですよ。コレットさんを送ってから出てくるまで何してたのか、詳しく教えてくださいね」
「おまえ……いつからいた」
「さぁて、いつからでしょうね。朝まで出てこないかとも思ったんですけど、思ったより早く出てらして拍子抜けですよ。もしかして何もしなかったんですか?」
「……」
何もしなかったわけではない。けれどそれを話す義理もない。クラウスが複雑な表情をしていると、エメリッヒが可笑しそうに笑った。
「ぷっ。やっぱり飲みに行きましょう! ね! 分隊長のおごりで」
「なんで俺がおごるんだ」
「いいことあったんでしょう? 幸せを分けてくださいよ。あぁ、俺もかわいい恋人が欲しいな」
勝手に作れ、おまえはいつもふざけているから続かないだけで、真面目にやればいくらでも相手がいるだろうと言って宿舎に戻ろうとするクラウスを、エメリッヒは飲み屋の並ぶ港の方へ引きずって行く。
月が昇り、水面を照らす。
クラウスがエメリッヒに連れられて酒場の扉をくぐるころ、コレットは私室の窓から空を見上げていた。
(えっと、さっきのって、あれよね。あれ。
私が触って欲しいって言ったのは、頭を撫でて欲しいとか、手をつなぎたいとかだったんだけど……。
まさか、そんな、きゃああああっ)
戸口での口づけを思い出すたびに、頬が火照る。夜風に当たれば冷めるかと思ったけれど、いくら風に吹かれてみても、一向に冷える気配はなかった。
(明日……。また明日ってクラウス様はおっしゃったわ。どんな顔をしてお会いすればいいの? はじめに、なんていえばいいの? メリルさんには、悩みがなくなったことを言った方がいいのかしら。でもそれを言ったらさっきのことまで?
やあぁぁん)
月が中天に掛かり、東の空が明るくなり始める。
寝台に横になる気になれなかったコレットは、窓辺に寄りかかってうとうととしていた。しばらくそうしてうつらうつらとしていると、ふわりと何かが手の甲に落ちた。
「……?」
そっと拾い上げたのは白い花びら。街路樹として植えられている、ナナカマドの花だ。それが、風に乗って二階まで舞ってきたものらしい。
「ん、そうだ。お仕事しなくちゃね。火の妖精に怒られちゃう。
えっと、まずは下ごしらえ……」
夜明けが近づいていることに気付いたコレットは、ぱちんと頬を叩いて立ち上がる。
恋も大切だけど、お菓子作りはもっと大事。クラウスにつりあう自分になるためにも、大事なことを見失いたくない。
風に乗って飛んできた花びらを手に、コレットは厨房に向かう。
「あ……っ」
朝日が差し込む厨房では、一昨日飾ったナナカマドの枝についた蕾が開き、手にした花びらと同じ白い花を咲かせていた。これは火の妖精が貢物を気に入った証拠であり、一年間の炎の祝福と無病息災を暗示していると言われていた。
コレットは、枝の前で膝を折り祈りを捧げる。小さな菓子工房の厨房に、しばし厳粛な時が訪れた。
日が昇るとともに街は活気づき、人々の息遣いがそこかしこで聞こえてくる。
カララン。コレットが店内を掃除していると、店のドアベルが鳴った。
「おはよう、コレットちゃん! 今日の分の果物、持ってきたよ!」
「おはようございます、メリルさん」
波打つ赤毛をふわりと揺らして、コレットは隣人を朗らかに迎えた。
「あれ、コレットちゃん」
「?」
コレットの顔を見たメリルが、首を前に突き出して目をしばたたかせる。
優しげな濃褐色の瞳ににこやかな笑顔。最近とてもきれいになったと噂されているコレットだけれど、昨日より今日のほうがもっときらめいて見えた。
「若いってのはいいねぇ」
「えぇ? どうしたんですか、急に」
コレットがくすくすと笑う。数日前とはうってかわったすっきりとした笑顔に、メリルは嬉しくなって一緒に微笑んだ。
「何かいいことでもあったのかい?」
「んん、えっと、ナナカマドの花が咲いたので」
「そうかい。よかったね。商売繁盛、無病息災だ。
ただし、火の妖精は女の妖精だからね。気まぐれで悋気なんだ。一生懸命働いてるうちはいいんだけど、手を抜いたらしっぺ返しがあるから気を付けるんだよ」
「はいっ」
メリルの言葉に、コレットは気を引き締める。コレットを想っていつも助言をくれるメリルのことが、コレットは大好きだ。
メリルが持ってきてくれた新鮮な果物を使って、今日の分の菓子を作る。黄金林檎のアップルパイに、ベリーのタルト。苺のムースにはホイップした生クリームを混ぜてふんわりとさせて、ほんのりビターなチョコレートケーキには紅茶で煮たオレンジのスライスをのせる。
色とりどりの菓子で、飾り棚がいっぱいになったら開店だ。
「よいしょ……っと」
店の扉を開けて、コレットが立て看板を外に出す。ふぅっと一息ついて額をぬぐったところで、通りを一陣の風が吹き抜けた。
「わぁ……!」
通りを歩く人々が歓声を上げる。風に乗って、通り脇のナナカマドの花が一斉に舞った。
ティル・ナ・ノーグの街に、白い花びらが舞い踊る。それはこの街ではめったに見られない”雪”というものに似ており、人々を喜ばせた。
はらり、はらり。
花びらが舞う。
人々と同じように空を見上げていたコレットが、ふと通りに目を転じると、皆と同じように空を見上げる大きな人影に気が付いた。隣にはエメリッヒもいる。
コレットが声をかけようかどうしようか迷っていると、エメリッヒが先に気付いてクラウスの腹を肘でつついた。
「お、おはようございます!」
昨夜、次に会ったらなんと声をかけようかと悩んでいたのに、出てきたのはそんな平凡なあいさつで。内心焦ってコレットが赤面していると、クラウスは口の端を上げて手を振ってくれた。
コレットがクラウスに駆け寄る。クラウスもまた、エメリッヒと一緒にゆっくりとコレットに歩み寄った。
はらり、はらり。
潮風にのって、ナナカマドの花が舞う。
天高く舞った花びらは、ティル・ナ・ノーグの街を超え、はるか海上までとんでいく。
海の妖精が起こす波で水面が揺れ、海面に落ちた花びらを揺らす。
波に抱かれた花びらは、ゆらゆらと揺れながら海の底へと沈んで行き――
「はぁ……。分隊長たち、見つかんねぇ」
「なぁ、もう帰ってもいいんじゃないか? これ以上探してたら、今日の任務に差し支えるぞ」
「だって、補佐官が見つかるまで帰ってくるなって言ってたじゃないか」
「そうだけど、いい加減、コレットさんも店を開ける時間だし、家に帰って……。あ!」
一晩中、街を走り回った分隊員たちが見つけたのは、“コレットの菓子工房”の前で談笑する、上司たちの姿だった。
「そうだよな、帰ってるよな」
「誰だよ、あのままどっかにしけこんだんじゃないかって言った奴」
「あー、阿呆らし。帰ろうぜ」
「なぁ、おい、待てよ。分隊長とコレットさんが一緒なのはともかくさ、なんで補佐官もいるんだ」
「知らねぇ。俺は眠い」
「俺も……。ふあぁ」
ぞろぞろと宿舎へ帰る分隊員たちの上にも、白い花びらは降る。
ティル・ナ・ノーグの街は、今日も平和である。
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