第七話 消えかけた星のドレス
屋上へ行かない日が、続いた。
別に決めたわけじゃない。でも、放課後になると足が向かなかった。いつもなら自然に階段を上っていたのに、それからは昇降口から外へ出て、そのまま帰り道を歩いていた。
ルナちゃんとは、教室では普通に過ごしていた。挨拶もした。目が合えば笑った。でも、屋上の話はしなかった。ルナちゃんも、しなかった。
ルナちゃんとぶつかった日の言葉が、まだ胸の中にある。
みらいこそいいじゃん。好きなものを好きって言えるでしょ。
何度も思い出した。でも、思い出すたびに、うまく受け取れなかった。ルナちゃんがあの言葉を言ったとき、どんな気持ちだったのか。羨ましいと言っていたけれど、本当にそう思っていたのか。
分からないまま、日が過ぎていった。
スケッチブックも、開けなくなっていた。
鞄の中にあるのは分かっている。でも、手が伸びなかった。描きたいものが浮かんでこない、というより、描いていいのかどうか分からなかった。あのペアの衣装の絵が途中のまま、ページの中で止まっている。
☆
翌週の水曜日の昼休みに、事件が起きた。
事件、というほどのことでもないかもしれない。でも、わたしにはじゅうぶんすぎるくらい、事件だった。
理科の授業の準備をしていたとき、鞄からスケッチブックが落ちた。よりによって、開いたまま。
ちょうど後ろの席の子が通りがかって、そのページを見た。
「あっ、なにこれ」
声が上がった。
ドレスの絵だった。星の飾りが散ったワンピース。袖のレース。胸のリボン。丁寧に描いたあの衣装が、教室の床に広がっていた。
「かわいい衣装じゃん。これ誰が描いたの?」
「星岡さんが描いたんじゃない?」
「えっ、星岡さんって絵うまかったっけ」
声が重なった。悪意があったわけじゃない、と思う。ただ、知らなかっただけで、面白いものを見つけた、という感じの反応だった。
でも、わたしはすぐに屈んでスケッチブックを拾って、胸に抱えた。
「あっ、もっと見せてよ」
「いい」
「なんで、かわいいのに」
「いいです」
きっぱり言えた。でも、顔が熱くなるのは止められなかった。
その後、席に戻って教科書を開いたけれど、文字が頭に入ってこなかった。
笑われた。
正確には、笑われていない。かわいいと言ってくれた。でも、わたしには笑われたのと同じ感覚があった。知られたくなかったものが、知られた。隠していたものが、見られた。
ずっと怖かったのは、こういうことだった。
「変なの」とか「なにそれ」と言われることじゃなかった。ただ、見られること。自分の中にある「好き」を、外に出してしまうこと。それが怖かった。
昼休みが終わるまで、わたしはずっとスケッチブックを机の中に押し込んだまま、窓の外を見ていた。
☆
放課後、帰ろうとしたとき、ひなのちゃんが声をかけてきた。
「みらいちゃん、今日も帰る?」
「うん」
「一緒に帰っていい?」
ひなのちゃんと二人で下校するのは、初めてじゃなかった。でも、今日は特別にありがたかった。
校門を出て、住宅街の方へ歩きながら、しばらく二人とも黙っていた。ひなのちゃんはそういう子で、沈黙を埋めようとしない。それがわたしにはちょうどよかった。
桜並木の下を通ったとき、ひなのちゃんが言った。
「今日、スケッチブック落としてたね」
「……見てたの?」
「ちょっとだけ。遠くからだから、よくは見えなかったけど」
わたしは黙った。
「みらいちゃんは、いつも誰かに見られるのが嫌そうだよね。スケッチブック、すごく大事そうに持ってるから」
「大事だから」
「うん、分かる」
ひなのちゃんはそれだけ言って、また少し黙った。
木の葉が風に揺れて、木漏れ日がゆらゆらと地面に動いた。
「わたしは、みらいちゃんの絵、好きだよ」
穏やかな声だった。
「見てると、元気になる、って前も言ったけど。あれ、本当のことだから」
「……うん」
「見られたくない気持ちも分かる。でも、みらいちゃんの絵が好きな人も、ちゃんといると思う」
わたしは足を止めた。
ひなのちゃんも止まって、わたしを見た。責めていない目だった。ただ、本当のことを言っている目だった。
「……ありがとう」
声が少しかすれた。
ひなのちゃんは小さくうなずいて、また歩き始めた。わたしもついていった。
それだけだった。
でも、胸の中の何かが、ほんの少しだけほどけた気がした。全部じゃない。でも、少しだけ。
☆
翌日の放課後、こころちゃんが珍しく一人で廊下を歩いていた。
いつもはグループの真ん中にいるのに、なんとなく一人だったから、わたしは少し気になった。
こころちゃんは音楽室の前で立ち止まって、中を覗き込んでいた。
音楽室の窓から、ピアノの音が聞こえた。
わたしも近づいて、ガラス越しに中を見た。
ルナちゃんがいた。
ピアノを弾いているわけじゃなかった。音楽室の端の広いスペースで、一人でダンスの練習をしていた。音楽もかけていなかった。ただ、静かに、同じ動きを何度も繰り返していた。
一回、二回、三回。
同じところで、足の動きが微妙にずれる。
ルナちゃんはそのたびに止まって、また最初からやり直した。
こころちゃんがわたしの隣に来て、小さな声で言った。
「ずっとあそこにいるんだよ。昨日も、一昨日も」
「……そうなの?」
「うん。声かけようとしたんだけど、なんか、かけられなくて」
わたしも、かけられなかった。
ガラスの向こうのルナちゃんは、いつもの明るさが全部抜けていた。ただ黙々と、一人で、同じ動きをやり直し続けていた。
しばらくして、ルナちゃんは壁にもたれて座り込んだ。
膝を抱えて、天井を見上げた。
その横顔が、疲れていた。
こころちゃんが、ぽつりと言った。
「ルナって、あんなに何度も練習してるんだね」
「……うん。収録のときだけじゃなかったんだ」
「わたしも、ここまでは知らなかった」
「なんか、大変そう」
そのとき、ルナちゃんが独り言のように言うのが、ガラス越しに少しだけ聞こえた。
「……完ぺきにしなきゃ。また、笑われる」
また。
その一言が、耳に刺さった。
また、ということは、前にも笑われたことがある、ということだ。
エマ先輩が言っていた言葉が思い出された。失敗することへの怖れ。完ぺきにしようとして、悪循環になっている。
ルナちゃんには、何かがあったんだ。
昔、ステージで何か起きたんだ。
わたしはガラスから離れた。こころちゃんも、ゆっくりと離れた。
「みらいちゃん、ルナのこと、なんか知ってる?」
「……少しだけ、かもしれない」
「そっか」
こころちゃんはそれ以上聞かなかった。こころちゃんなりに、踏み込んではいけないと感じたのかもしれない。
わたしは廊下を歩きながら、音楽室の方を振り返った。
ルナちゃんの「また笑われる」という声が、まだ耳の中にあった。
☆
その夜、スケッチブックを開いた。
途中で止まっていたペア衣装の絵を見る。星と月を結ぶリボンは、半分だけ描かれたままだった。
ルナちゃんの横顔を思い出した。
膝を抱えて、天井を見上げていたルナちゃん。「また笑われる」と言っていたルナちゃん。
わたしは、ルナちゃんのことを「何でもできる子」だと思っていた。
まぶしくて、遠くて、ちがう世界の子だと思っていた。
でも、違うのかもしれない。
ルナちゃんも怖いんだ。わたしと種類は違っても、同じくらい、何かが怖いんだ。
昼休みの収録で、ルナちゃんは何度も「大丈夫」と言っていた。笑顔で踊りながら、スカートをぎゅっとつかんでいた。
それなのに、わたしは「ルナちゃんはいいよ。何でもできるから」と言ってしまった。
ルナちゃんが簡単にできているように見えたのは、見えないところで何度も練習していたからだ。わたしは、そのことを知ろうともせずに、外から見えるルナちゃんだけで決めつけていた。
ペンを持った。
星と月のリボンの続きを描いた。
二人をつなぐリボンが、ゆっくりと形になっていった。でも、まだ完成じゃなかった。絵の中の二人は、まだつながっていない。リボンの端と端が、少しだけ離れたまま止まっている。
それでいい、と思った。今は、まだここまでだ。
スケッチブックを閉じて、窓の外を見た。
夜空に、星が出ていた。
月はなかった。
☆
翌朝、教室に入ったとき、ルナちゃんはもう席にいた。いつもより少し早い。机の上に手を置いて、窓の外を見ていた。
わたしは席に着いて、鞄を置いた。
少しの間、どうしようか考えた。
でも、気がついたら立ち上がっていた。
ルナちゃんの席まで歩いて、隣に立った。
ルナちゃんがわたしを見た。
わたしは少し深呼吸して、言った。
「ルナちゃん。わたし、ちゃんと話したい」
ルナちゃんはしばらく何も言わなかった。
でも、やがてゆっくりとうなずいた。
「……うん」
その一言は、短かった。




