八話 咀嚼音
そもそもあたしが一人暮らしを始めたのは、ゾーイのお爺さんが亡くなったことにより、家族に迷惑をかけたくなかったからだ。
だからと言って、なんのあてもなかった。一人暮らしをするまで、卑怯にもあたしはあまり外に出ることはなかった。
みんなの視線に耐えられなかったから。
それなのに、ゾーイだけは味方をしてくれた。
人里離れたゾーイの田舎の古民家を、彼が格安で貸してくれたのだ。
このお家にしても、ゾーイ自らが修復作業を手伝ってくれたし、快適に住めるし、お針子の仕事を手配してくれるのも、その傍らでお菓子を作れるのも全部、ゾーイのおかげだ。
でも、本当にこのまま彼にばかりあまえていてもいいのかな?
過去にこころを飛ばしている間に、ゾーイが彼の水筒の水を沸かしてお茶を淹れてくれた。
「おいしい」
おいしいのに、涙があふれてくる。どうして、ゾーイはこんなに優しいのだろう?
どうしてゾーイは、あたしを責めないのだろう?
「ほら。せんべいをそのまま噛じると歯が欠けるかもしれないだろう? オレが割ってやるよ」
ふるふると震えるあたしの手から、ゾーイはそっとおせんべいをつかみ取った。
あの頃。ゾーイのご両親はあたしを疑ったし、なんなら国のみんなもあたしを疑っているような気がした。
「こういうのはな」
そう言うと、ゾーイは清潔なタオルを用意しておせんべいを包み込む。
「てやっ!! ってな具合でな? 割れるんだよ」
もう、どうしてそんなに優しいかな?
流れ落ちた涙をハンカチで拭う。
それから、タオルの中で一口大に割れたおせんべいを口の中に放り込む。ほのかに香ばしい醤油の薫りに癒やされる。一度咀嚼すれば、リズミカルに次を求める。
「おいしい。あたし、おばさんにお礼を言えてないのに」
それでも時々こうしておばさんだけが、あたしにおせんべいや食事をわけてくれるのだ。
「礼なんていらないさ。ノゾミがうまそうな顔して食ったことを言っておくよ。それだけでいいだろう?」
な? と言って、ゾーイは大きな丸いおせんべいにそのまま齧りついた。
しばらくの間、無言の咀嚼音が響く。
バリボリ、バリボリ。
ずずずと緑茶をすする音。
この時間を守るために、あたしも頑張らなくちゃいけない。
あたしにできること。
お針子とお菓子づくり。
それを魔王城で求めてくれるというのなら。
……いや、お針子は求められてないか。それはともかく。
「ゾーイ、あたし決めた。あたしも魔王城で働くことにしたよ」
「うん。お互い、頑張ろうなっ」
「うんっ!!」
ずっとおなじ生活がつづかなくても。
少しずつの変化があったり、突然一変することもある。
この変化を、今は受け入れなければならない。
だって、ギュルディーノ魔王様の奥方様は、あたしのことを知っていて、それでもお菓子をつくったら持ってきてね、なんてお姉ちゃんに頼んでくれたのだから。
残念ながら、奥方様は凍結されてしまったけれど、ディール様は引きつづき、あたしにお菓子を贈呈するように取り計らってくれた。
ひとの好意を感じられる今だからこそ、恋なんてしている場合じゃないぞ。
せっかくお城にお呼ばれしたんだから、期待に応えられるように頑張らなくちゃっ。
つづく