ふらりと河岸を変えて飲みに出たら会社内のヒエラルキーが上がってしまった件について最終章
相手はストーカー。
川原としては自分とのラブシーンを見たストーカーの憎悪が、被害者雫ではなく自分に向くようにと願うばかりであった。
間違いなく言えることはストーカーが今逆上していて、殺意を胸に抱いているであろう、ということであった。
ぜひそのまま決定的な決断をくだして欲しいものだと川原は願う。
しかし、ストーカーはこの雫の部屋を見張っている。
ならば自分が部屋を離れたふりをすれば、ストーカーは雫を襲いにくるのではないだろうか?
川原はそこに賭けることにした。
しかし雫があっさりと殺される事態は避けなければならない。
川原が台所に目をやると、ロングサイズのライターがあった。
天井を見る。
火災用の熱探知機がついていた。
「いいかい、雫さん。俺は一旦この部屋を出る。それを監視しているストーカーは、きっとこの部屋にくる」
雫はイヤイヤをした。
しかしこのまま川原が一生彼女の護衛をする訳にはいかない。
「おそらくストーカーは合鍵を持っているはずだ。勝手に玄関から入ってくる。そうしたらそのライターで火災探知機をあぶるんだ。俺は必ず君を助けに来る」
できればストーカーの姿をスマホで動画撮影して欲しい、ともつけくわえた。
怯える雫を置き去りに、アパートを出る。少し離れた場所から、雫の部屋を監視した。
案の定、不気味なほど色白な痩せた男が現れた。
朝から暑い夏の日に、薄手の上着を着ている。
……刃物を持っているな?
川原はポケットから名刺を一枚抜き出した。
刃物に対抗する川原の武器だ。
男は迷うことなくアパートの階段を登る。
思い詰めたかのように、目つきが異常だった。
そして雫の部屋の前に立った。
川原は物陰から音も無く飛び出す。
足音を立てぬよう、階段を駆け上がった。
階段を上り切ると、音と目が合った。
あっというような驚きの表情である。
右手は挿し込まれた合鍵にかかっていた。
「いけませんなぁ、ストーカーくん。無断で他人に部屋に入り込んじゃ……」
「お、お前……」
もがくようにして、懐から包丁を抜き出した。
「おーおー抜いたね? で? それをどうするの?」
ストーカーは雫の部屋に飛び込んだ。
川原も後を追う。
扉を閉められぬよう、足を扉の間に突っ込んだ。
扉を閉めることを諦めたストーカーは、部屋の奥へと転身した。
その瞬間に川原も飛び込む。
部屋の中では椅子の上に立った雫が、探知機にむかってライターの火をかざしていた。
途端に鳴り響く警報。
ストーカーは驚いたように足を止める。
そして正常な判断能力を失くしているのか、川原に向き直った。
川原は名刺を打った。
名刺手裏剣である。
手裏剣と称しているが、殺傷目的ではない。
目をねらっているのだ。
名刺は回転しながら飛んで、ストーカーの眉間に命中した。
おそらくその目には、糸ほどにも見えなかったに違いない。
そして目をねらわれた者は、身をすくめるものだ。
川原のつま先が鋭くストーカーの股間を蹴った。
目潰しに金蹴り。
卑怯といえば卑怯な技である。
しかし川原からすれば、関節を折る訳でなく命を奪うことが目的ではない。
最小限のダメージで戦闘能力を奪う、極めて平和的な技であった。
ストーカーは昏倒する。
川原はそのベルトを抜いて、後ろ手に戒める。
雫は無事であった。
そして手柄なことに、一部始終をスマホで動画撮影してくれていた。
「もう大丈夫だよ、雫さん。アクション映画はおしまいだ」
スマホを受け取ると、消防署へ通報。
この警報は誤報であることを伝えた。
そのままストーカー事件と負傷者がいることを告げる。
これで消防署から警察に連絡が行くはずだ。
パトカーのサイレンが聞こえてきた。
警察官が乗り込んでくるまで、川原は雫を抱きしめて頭を撫でてやった。
警察官たちに事情を説明する。
雫の撮影した動画が決め手となって、川原は早々に無罪放免となった。
しかし、熱烈なキスや抱擁以上の御褒美を受け取る雰囲気ではない。
川原は肩を落として雫の部屋を後にした。
それから数日、川原はなにかと警察署に呼び出された。
もちろん事情聴取というもので、川原に否はない。
そして川原の会社でのポジションは、居てもいなくてもいいようなものだったので、警察に気軽に応じていた。
ちょっとしたサボリのようなものである。
しかし庶務課長の態度は一変した。
刃物を持ったストーカーを撃退、逮捕した川原の腕力に怯えたのだ。
さらには営業一課である。
雫の勤める店を一課長が馴染みにしていたのだろう。
川原の力が一気に知れ渡ってしまったのだ。
会社の出世にはまったく影響は無かったのだが、川原の立場が「さん付け」になったのだ。
今では見知らぬ者まで、「川原さん、川原さん」と慕ってくる。
中には酔狂なことに、真月流のレッスンに通う者まで出てきた。
指導の手が足りぬということで、川原も教授に入る。
すると今度は「先生、先生」である。
会社の中でも先生だの師範代だの呼ばれるので、川原としては少々辟易してきた。
ほんの出来心で河岸を変えて飲みに出ただけなのに、会社の中でのヒエラルキーが急上昇してしまった。
ただし、川原に彼女はまだ無い。
そこだけは、変化が無かった。
おわり
後書きが遅れてしまいましたが、今回のエピソードはこれでおしまい。次回更新をおたのしみに。




