無邪気な出郷 ―王歴932年・緑の月10日―
学都レルディの中心にある駅に停まった魔導鉄道の車両から吐き出された乗客の中に、その少年の姿はあった。
飴色のふわりとした髪に、神秘的な深い青色の瞳を持つ少年だ。その目には希望を宿している。
大きなショルダーバッグのベルトを両手でぎゅっと握ると、少年は駅舎から知の香りの漂う街へ足を踏み出した。目指すべき場所は知っている。入念に下調べをしたからだ。
王立大学の巨大な建物を遠目に見ながら、少年は大通りの人混みに紛れた。
品揃えが豊富なことで有名な本屋を通り過ぎ、静かな通りに続く角を折れる。
雨の月が終わり、植物たちが元気に成長する緑の月の風は清々しい。学都にももちろん、その風はそよいでいた。
「……この辺りのはず」
静かな通りを進んでいた少年は、小さく呟いてきょろきょろと辺りを見回す。
レンガ造りの家々が多く立ち並ぶその通りに、少年の目的地があるはずだった。調べた住所は暗記している。番地から考えてもこの辺りで間違いない。
「おや? 見ない顔だね」
ちょうど近くの家から出てきた中年の女性が、少年にそう声を掛けた。
「あ、こ、こんにちは! レルディには初めて来ましたけど、怪しい者じゃないです!」
少年はしゃきっと背筋を正してはきはきと言った。
「僕はフリアン・クラーヴェって言います。プレリーの田舎から出てきました……名探偵のクレト・ミステリオ先生にお会いしたくて!」
それを聞いて、女性は目をぱちくりさせた。それから豪快に笑う。
「あっはっは、名探偵と来たかい。クレトはその先、ほら、三階建ての建物が見えるだろう? そこに住んでるよ」
「ありがとうございます!」
少年――フリアンは勢い良くお辞儀をしながら言うと、教えられた建物へと走った。女性は笑いながらその背を見送ると、大通りの方へと歩いて行った。
『謎、解きます――ミステリオ探偵事務所』
フリアンの目には今、木製のプレートが誇り高く輝くように映っている。
「…………!」
両目をきらきらさせてそれを焼き付け、フリアンは一度呼吸を整えた。
それから、ドアに取り付けられたノッカーを叩いた。
ややあってドアが開けられる。
ブロンドのボブカットにエメラルド色の瞳を持つ、モノクルを掛けたその男性こそが――
「は、初めまして、クレト・ミステリオ先生! あのっ、僕はフリアン・クラーヴェと言います! 助手にしていただけませんか!」
フリアンが憧れて止まない、クレト・ミステリオだった。
「……うん?」
フリアンの勢いに圧されるようにクレトは一歩足を引き、首を傾けた。クレトが一歩足を引いた分、フリアンは右足を踏み出し前のめりになる。
「レルディには名探偵がいるって、僕の故郷のプレリーで聞いてから、ずっと憧れてました! ぜひ、僕を助手にしてください!」
「……あ、えーと、とりあえず、入る?」
「お邪魔します!」
こうしてクレトは、フリアンを招き入れてしまった。
事務所にしている二階へと少年を導く。
「……僕は確かに探偵なんだけどね、ちなみにそれは誰に聞いたのかな?」
応接ソファにフリアンを座らせると、コーヒーを用意しながらクレトは問うた。
「渡り鳥です!」
フリアンは元気よく答える。
「……なるほど」
クレトは得心した。クレト・ミステリオは探偵を自称し、事務所を構えているが、依頼はほぼない。レルディの――否、リュミエリア王国そのものの治安は良く、住民のいざこざの類もほとんど発生しない。クレトがここに事務所を構えて数年、ごくまれに舞い込んでくる依頼は、猫探しだとか失せ物探しだとか、その程度だ。
彼が探偵を名乗っているのは確固たるアイデンティティ由来で、遠く離れたプレリーの住民にまで知られているはずはなかった。
「光の月に、渡り鳥から聞いたんです!」
フリアンは情報を追加した。精霊界の住人の中には、動植物と会話をすることに長けた者も一定数いる。フリアンもその口だった。
「ええと、その渡り鳥は、ここにはほとんど依頼が来ないことは言ってなかった?」
コーヒーとチョコレートをフリアンに勧めながら、クレトもソファに腰を下ろした。
「? 名探偵がいるよ、ってことしか聞きませんでした。あ、それから、行ってごらんって言ってました!」
「ふむふむ。まあ……探偵には確かに、有能な助手は欠かせない。なるほど。ちなみにフリアン君と言ったね、何でまた探偵助手なんかに興味を持ったんだい?」
クレトはこの辺りでは名物住民である。何故かというと、探偵という職業そのものが珍しいからだ。しかも依頼はほぼゼロだ。
王立大学を卒業しているクレトは、たまに大学で講義をすることで生計を立てている。だがあくまで教員は名乗らない。彼が名乗るのは探偵である。それを近隣住民は面白がっているわけだ。
「小さい頃から、探偵小説が好きなんです! で、本当に探偵がいるって知って!」
フリアンの目はこれ以上ないくらいに輝いていた。
「ほう、ちなみにどんなのを読むのかな?」
「ボジヴォイ・クラツィークとか、アシュリー・リドルとか……」
「お、若いのにずいぶんと本格的なの読んでるね。僕も好きだよ」
「あと、ミエル・ブーケ!」
「!」
その名前に反応し、クレトは右手に持っていたカップをテーブルに戻した。
「ミエル・ブーケの最新作は読んだ?」
「もちろんです! 『泡沫の迷宮』シリーズ最新作、『アメジストの眠り』は一気読みしました! プレリーでは発売が遅れることが多いから、手に取るのが遅くなりましたけど……お気に入りなのでこっちにも持ってきたんです、ほら!」
フリアンは大きなショルダーバッグを開けると、本を取り出した。
「……待って、フリアン君。そのバッグの中身、ほとんど本……?」
「? はい!」
「……重くなかった? っていうか君、プレリーから出てきたばかり……だよね? ええと、旅行とかでもなくて……」
「先生に助手にしていただくつもりで出てきました!」
「……着替えとか、いや、その前に……住むところとか……」
「あ……考えてませんでした」
「……っ、あははっ」
クレトは堪えきれずに噴き出すと、そのまましばらく呼吸困難に陥りそうな様子で笑い続ける。
「ずいぶん無鉄砲だねぇ。けれど気に入ったよ」
ようやく呼吸を整えて、クレトはフリアンに右手を差し出した。
「ちょうど部屋が一つ空いてるからね、ひとまずそこを使っていいよ。フリアン君、今夜の寝床もないんだよね?」
フリアンは、差し出されたクレトの右手を両手で握った。
「ありがとうございます! 僕、家事とかも一通りはできるんで、先生の身の回りのお世話とかもさせてください!」
「あはは、ちなみに得意な家事は何かな?」
「料理です! 母さん仕込みのカスレには自信があります!」
「なるほどなるほど。それで、こっちに出てくること、親御さんは何て?」
「納得するまでやって来いって!」
恐らく彼の両親は、すぐに息子が夢に破れて戻ってくると踏んでいるのだろう。クレトは脳内に、フリアンの家族に宛てて挨拶の手紙をしたためなければ、と予定を入れる。
「ふむふむ。じゃあ、フリアン君、よろしくね」
「ありがとうございます、精一杯がんばります!」
この日から、ミステリオ探偵事務所には元気な助手が加わった。
相変わらず事務所には閑古鳥が鳴いているが、フリアンはそのまっすぐで気立ての良い性格を気に入られ、近隣住民からは愛すべき末っ子の位置付けで受け容れられた。
クレトと連れ立って歩く姿が、やがてレルディのあちこちで目撃されるようになる。




