第五話:氷下の残り火、銀糸の祈り
■ ビジュアルリンク一覧
【00】アムネシア外観
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【01】いおりとゆめ
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【02】いおりとゆめ(幼少期)
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【03】いおり
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【04】ゆめ
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【05】ユウリ
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【06】セシリア
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【07】ステラ
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【08】リナ
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【09】ラヴァ
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【10】すず
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【11】もか
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【12】オールキャスト
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第一章:焦燥の陽炎
アムネシアの通路を支配していた静謐な冷気は、今や見る影もない。
非常灯の赤い点滅が、断裂した血管のように壁面を這い、警報音は熱に浮かされた喉の奥で鳴る悲鳴のように歪んでいた。
「……うそ、でしょ」
いおりは立ち止まり、目の前の光景に息を呑んだ。
白磁の如く滑らかだった壁面パネルは、目に見えない巨大な熱の手で握りつぶされたかのように、内側から飴細工のごとくぐにゃりと歪曲している。床の継ぎ目からは、逃げ場を失った熱気が陽炎となって立ち上り、視界をぐらぐらと揺さぶっていた。
ここは、本来なら絶対零度の思考が許される場所。救世主たちの繊細な神経を護るための、凍りついた楽園のはずだった。
『――いおり、いおり、聞こえる……?』
脳内の「銀色の回路」が、ノイズの混じった共鳴を響かせる。リンクの向こう側にいるゆめの声は、恐怖に震え、薄氷のように今にも砕けそうだった。
「ゆめ、大丈夫? すぐにそっちへ――」
『だめっ、来ちゃだめ! 何かが、そこで笑ってる……ううん、泣いてるの? 違う、これは……「熱」そのものだわ!』
ゆめの意識が、回路を通じて濁流のように流れ込んでくる。
それと同時に、通路の奥、隔離区画の重厚な電磁扉が、内側からの爆圧で凄まじい音を立てて弾け飛んだ。
噴き出してきたのは、火炎ですらなかった。
それは、すべてを灰に帰す「意志」を持った熱量。
その爆心地から、一人の少女が這い出してきた。
かつては純白だったはずの聖女の制服は、炭化して肌に張り付き、剥き出しの四肢からは、赤い火花が火の粉となって絶え間なく舞い散っている。彼女が足を踏み出すたびに、防熱仕様の床材さえもが一瞬でガラス状に変質し、重力に耐えかねて結晶の破片へと砕け散っていく。
「ラヴァ……」
いおりの唇が、震えながらその名を形作った。
資料の中でしか見たことのなかった、第七の聖女。
圧倒的な火力と引き換えに、自らの人間性を薪として焼き尽くし、アムネシアの最下層に「封印」されていたはずの少女。
ラヴァの瞳には、慈悲も知性も、もはやハイライトの一片すら残っていなかった。
ただ、煮えくり返るような溶岩の如き紅蓮が、その眼窩を埋め尽くしている。彼女は叫ばない。だが、その全身から溢れ出す呼気が、空間の分子を一つ残らず沸騰させていた。
(苦しいんだ……この子、ずっと焼かれてるんだ)
「銀色の回路」が、意図せずラヴァの表層意識に触れてしまう。
それは、永遠に終わることのない焼身自殺を強いられているような、地獄の風景だった。いおりの胸に、言葉にならない痛みが突き刺さる。
「ラヴァちゃん、待って。私は――」
いおりは、無意識に一歩を踏み出していた。
救世主としての義務感ではない。ただ、目の前で自分の魂を燃料に燃え盛る少女を、一秒でも早くその熱から引き剥がしてあげたいという、いおり自身の「エゴ」に近い純粋な情動。
『待ちなさい、いおり!』
通信回線に割り込んできたのは、焦燥を隠しきれないユウリの声だった。
『それ以上近づくのは自殺行為よ! 今の彼女は、私たちが知っているラヴァじゃない。ただの、制御不能な熱源なの!』
「でも、ユウリちゃん! 彼女、こんなに熱くて、こんなに苦しそうだよ! 誰かが触れてあげなきゃ……!」
『だめよ、離れて! あなたがその手を伸ばすたびに、リンクしているゆめの負荷が跳ね上がるの! あなたの「優しさ」が、この場では一番の凶器になるのよ!』
ユウリの悲痛な叫びを背中で聞きながらも、いおりの足は止まらなかった。
ラヴァの周囲に舞う銀色の結晶の欠片が、彼女の放つ高熱に触れては一瞬で気化し、キラキラと残酷な光を放って消えていく。
いおりは、震える右手を伸ばした。
熱風が制服の袖を焦がし、剥き出しの肌を鋭い灼熱が切り裂く。
あと数センチ。その指が、ラヴァの黒く焦げた肩に触れようとした、その刹那。
「あ……」
いおりの視界が、真っ白に、そして真っ赤に反転した。
直接触れてすらいない。ただ、彼女の「銀色の回路」が、ラヴァの持つ絶望的な拒絶の波動と、完全に同期してしまったのだ。
次の瞬間、アムネシアの通路を貫いたのは、いおりの叫びではなかった。
リンクの深淵で、すべてを肩代わりさせられたゆめの、引き裂かれるような絶叫だった。
第二章:崩壊するリンク
「ゆめ――ッ!」
いおりの叫びは、物理的な空気の震えではなく、銀色の回路を通じて直接、自らの精神を内側から引き裂くような衝撃となって跳ね返ってきた。
目の前で立ち尽くすラヴァは、依然として言葉を発しない。だが、彼女の周囲に渦巻く赤黒い熱量は、いおりが伸ばした「救済の手」を最大の燃料として、爆発的な臨界点に達していた。
『あ、あああああ――ッ!!』
ゆめの悲鳴が、回路の中で幾重にも反響し、ノイズとなって視界を白く塗りつぶしていく。
リンクが強固であればあるほど、片方が受けたダメージは、もう片方へと増幅されて流れ込む。いおりがラヴァの「拒絶」に触れた代償は、いおり自身ではなく、彼女と魂を繋いでいたゆめの精神をダイレクトに焼き焦がしていた。
「切って! ゆめとの接続を、今すぐ切って!!」
いおりは、見えない回路を素手で引きちぎろうとするかのように、自分の胸元を掻きむしった。しかし、一度暴走を始めたシンクロニシティは、いおりの意志など容易に踏み越えていく。
『……だめよ、いおり。自分では切れない……!』
通信モニタ越しに響くユウリの声は、もはや制止ではなく、悲鳴に近かった。
『警告したはずよ……! あの子の熱は、ただの温度じゃない。他者の「共感」を餌にして増殖する、精神的なエントロピーなの。あなたが同情すればするほど、ゆめの命が、回路の導線として焼き切れていく……!』
「そんな……。そんなつもりじゃ……私は、ただ……」
いおりの指先が、絶望に震える。
助けようとした。その指が触れれば、この熱を少しでも和らげてあげられると信じていた。
だが、現実は残酷だった。いおりの「正義」や「慈愛」は、ラヴァという地獄にとっては、単なる焚き木に過ぎなかったのだ。
足元で、床の破片がさらに細かく砕け、結晶の砂となって舞い上がる。
ラヴァが一歩、いおりに歩み寄った。
その足跡には、どろりと溶けた鉛のような熱の轍が残る。彼女の虚ろな瞳が、いおりを捉えた。それは「殺意」ですらなく、ただそこに在るだけで周囲を滅ぼしてしまう、純粋で孤独な災害の眼差し。
『いおり……くる、しい……たすけて……』
ゆめの、弱々しい、消え入りそうな声。
それが「銀色の回路」から聞こえた最後の言葉だった。
次の瞬間、いおりの脳裏でパチン、と何かが弾ける音がした。
通信モニタの向こうで、ゆめが崩れ落ちる気配がする。生命維持アラートがけたたましく鳴り響き、銀色だった回路のラインが、毒々しい赤に染まり、やがて――沈黙した。
「ゆめ? ゆめ!! 返事をして!!」
呼びかけても、回路は死んだように冷たい。
いおりは崩れ落ちた。膝を突いた床からは、容赦ない熱が制服を焦がし、肌を焼く。だが、心の奥を凍りつかせる喪失感に比べれば、その熱さすらも遠い出来事のように感じられた。
自分のせいで。
私の、中途半端な優しさのせいで、ゆめを殺してしまったのかもしれない。
『……全ユニット、強制排除フェーズに移行。これ以上の被害は許容できない』
ユウリの声から、先ほどまでの激情が消えていた。
それは、感情を殺し、セシリアから現場を任された者としての「最悪の決断」を下した者の、凍てついた響き。
『ラヴァを……「廃棄区画」へ再封印するわ。抵抗するなら、物理的な破壊も辞さない。いおり、あなたもそこから離れなさい。これは、アムネシアを守るための――』
「待って。ユウリちゃん、待ってよ……」
いおりの声は、かすれて届かない。
ラヴァは、目の前でうずくまるいおりを、もはや認識すらしていないようだった。彼女から溢れ出す熱量は、通路の天井さえも溶かし始め、アムネシアという巨大な棺を内側から崩壊させていく。
絶望が、物理的な重圧となって、いおりを押し潰そうとしたその時。
カツン、と。
この焦熱の地獄にはおよそ似つかわしくない、軽やかで、どこか眠たげな足音が響いた。
いおりの背後から、一人の少女がゆっくりと歩み寄ってくる。
巨大なヘッドホンを首にかけ、だらしなく着崩した制服のポケットに手を突っ込んだまま。
「……うるさい、なぁ」
リナだった。
彼女は、肺を焼くような熱気も、ユウリの悲痛な警告も、すべてはるか遠くの雑音であるかのように聞き流し、ただ静かに、ラヴァの前に立った。
第三章:冷たい部屋の二体
それは、まだ「アムネシア」の空気が今よりもずっと鋭利で、救世主というシステムそのものが未完成の熱を帯びていた頃の記憶だ。
リナにとって、世界は常に「うるさい」場所だった。
他人の感情、機械の駆動音、銀色の回路から漏れ出す無数の思念。それらすべてを遮断するために、彼女は厚手のヘッドホンを耳に押し当て、心の中に深い雪が降り積もるような静寂の領域を築いて生きてきた。
「……リナ、新しい被検体との適合試験よ」
当時から管理者候補として奔走していたユウリが、眉間に深い皺を寄せてリナの部屋を訪れた。その背後には、防護服に身を包んだ数人のスタッフと、厳重にロックされた搬送カプセル。
その中にいたのが、ラヴァだった。
当時のラヴァは、今のような「歩く災害」ではなかった。だが、その小さな体からは、制御不能な熱量が絶え間なく漏れ出し、周囲の観測機器を次々と焼き切っていた。誰とも目を合わせず、ただ膝を抱えて震える少女。彼女が震えるたびに、部屋の温度は一気に数度跳ね上がる。
「誰も近づけないの。触れようとした聖女はみんな、彼女の『熱』に精神を焼かれて廃人寸前……。リナ、あなたなら――」
ユウリの言葉を最後まで聞かずに、リナはヘッドホンの音量を最大にした。
外界の音をホワイトノイズで塗りつぶし、リナはゆっくりと、熱気で陽炎が立つ強化ガラスの向こう側へ歩を進めた。
「……あついね」
部屋に入った瞬間、リナの肌はチリチリと焼けるような痛みに襲われた。
だが、リナは眉ひとつ動かさない。彼女にとっての痛みは、外部からの不快な雑音の一つに過ぎなかった。
ラヴァが顔を上げた。その瞳は、助けを求めるように激しく明滅し、拒絶するように赤く濁っている。
「こ、こないで……! 燃えちゃう……みんな、燃えちゃうよぉ!」
ラヴァの叫びとともに、室内のスプリンクラーが熱を感知して作動した。だが、放出された水は彼女に届く前にすべて蒸発し、部屋は視界を奪うほどの白い霧に包まれる。
リナはその霧の中を、迷うことなく進んだ。
激しい熱。皮膚が水膨れになりそうなほどの温度。
けれど、リナが見ていたのは熱量ではなく、その奥にある「震え」だった。
「……大丈夫。私の音は、焼けないから」
リナはポケットから、小さな布切れと針、そして銀色の糸を取り出した。
それは彼女が静寂を維持するために、唯一許された手慰み――刺繍。
ラヴァの目の前で、リナは床に座り込んだ。
そして、猛烈な熱気にさらされながら、淡々と針を動かし始めた。
一針、また一針。
銀色の糸が布の上を走り、複雑な幾何学模様を描いていく。
不思議なことが起きた。
リナが針を刺すたびに、荒れ狂っていたラヴァの熱波が、わずかに、本当にわずかずつだが凪いでいったのだ。
リナの刺繍は、単なる手芸ではなかった。
それは「銀色の回路」の仕組みを応用し、空間に漂う過剰な精神エネルギーを、物理的な糸の網目へと固定していく、リナだけの独自の鎮静法。彼女は無意識のうちに、ラヴァの荒ぶる感情を、その小さな布の中に縫い止めていた。
「……な、に……これ」
ラヴァが、震える手を伸ばした。
リナは、その手が触れるのを拒まなかった。
熱い。骨まで溶けそうなほどの熱。
けれど、リナは無表情のまま、ラヴァの指先に自分の指を重ねた。
「これは、あなたの音。……今はまだ、バラバラだけど。こうやって縫えば、静かになるよ」
世界を救うためでも、聖女としての使命でもない。
ただ、目の前のうるさい叫びを静めてあげたい。
リナの個人的な「エゴ」が、初めてラヴァの孤独に触れた瞬間だった。
白い霧の中で、二人の少女は寄り添っていた。
一人は焼き尽くす太陽として。
一人はそれを冷たく受け止める静かな雪として。
「リナ……リナちゃん。私……生きてていいの?」
ラヴァの消え入りそうな問いに、リナは答えなかった。
代わりに、出来上がったばかりの、小さな花の刺繍を彼女の手の平に乗せた。
それが二人の間に交わされた、言葉よりも重い、銀色の約束だった。
第四章:決別と刻印
アムネシアの冷たい石壁は、二人の少女の熱量さえも吸収しきれないほどに、その隔絶を深めていった。
リナとラヴァが過ごした、霧の立ち込めるあの部屋。そこは「救世主」としての公的な義務から切り離された、微かな「私情」の逃げ場でもあった。リナが針を通すたびに、ラヴァの頬の赤らみは落ち着き、その瞳にはかつての、年相応の幼い光が戻りつつあった。
しかし、その平穏は、ある朝、重々しいブーツの音とともに終わりを告げる。
「試験運用期間は終了よ」
部屋に入ってきたユウリの表情は、いつにも増して硬かった。彼女の視線は、ラヴァの手の中にあった、リナが昨晩まで縫っていた「未完成の刺繍」に一瞬だけ留まり、すぐに逸らされた。
「ラヴァの熱源としての出力は、個別管理の限界を超えたわ。セシリア様の決定よ。彼女は『廃棄区画・第零層』へ移送。そこを恒久的な熱源供給炉として、アムネシアの主動力に組み込むことが決まった」
「……供給、炉?」
リナが針を止めた。ヘッドホンを首にずらし、初めてユウリの目を真っ直ぐに見つめた。
「それって……ラヴァを、部品にするってこと?」
「言葉を選ばなければ、そうなるわ。でも、そうしなければこの施設全体のエネルギーバランスが崩壊する。それに、リナ……。あなたまで彼女の『毒』に染まる必要はないのよ。あなたはまだ、普通の聖女として戻れる可能性があるんだから」
ユウリの言葉には、リナという少女をこれ以上の深淵から救い出したいという、そして友人としての必死の温情が滲んでいた。リナには、それが痛いほど分かった。分かった上で、彼女の心は一滴の涙も流さなかった。
「……ゆーりちゃん。私ね、もともと『普通』なんていらなかったんだよ」
リナの呟きは、極寒の部屋で白く凍りついた。
リナには、生まれ持った欠落があった。感情の起伏が薄く、周囲の音に耐えられない、精神的な「欠落者」。彼女自身もまた、このアムネシアに拾われるまでは、家族からも社会からも「扱いにくい不良品」として扱われてきた記憶がある。
誰にも理解されない静寂の中にいたリナにとって、ラヴァの荒れ狂う「熱」だけが、自分がここに生きていることを教えてくれる唯一の、強烈なリアリティだったのだ。
「リナちゃん……っ」
ラヴァが、警備員たちに両腕を掴まれ、無理やり立たされる。
彼女の体から再び、制御不能な熱が噴き出した。いおりが見たような、絶望的な焦熱。
「だめだよ……行きたくない……。まだ、縫って……リナちゃん、まだ最後まで、縫ってないよぉ!!」
ラヴァの叫びが廊下に響き渡る。
リナは、奪い取られそうになった布切れ――まだ花の形が半分しか出来上がっていない刺繍を、ラヴァの震える手に無理やり押し込んだ。
「……持ってて」
リナの声は、驚くほど平坦だった。
「これ、まだ未完成だから。私が、いつか続きを縫いに行くまで。……それを、あなたの印にして」
それが、リナが自分に課した「呪い」であり「約束」だった。
ラヴァを救うという大きな目的ではない。ただ、自分が始めた仕事を、自分の一番理解できる相手のために終わらせるという、極めて個人的で、傲慢なエゴ。
ラヴァは引きずられていく。熱い涙が彼女の頬を伝い、床に落ちる前に蒸発して消えた。
残されたのは、指先に残る火傷のような微かな熱と、リナの手の中に残った一本の、銀色の針だけ。
「……バカね、リナ。あの子はもう、誰の言葉も届かない場所へ行くのよ」
ユウリが震える手でリナの肩を抱こうとした。
リナはそれを、静かに拒んだ。
「大丈夫。あの子は、私の音を覚えてるから」
リナは再びヘッドホンを耳に当てた。
静寂。
けれど、その静寂の底には、今もなお銀糸で縫い止められた、熱い、熱い「残り火」が確かに刻まれていた。
第五章:静寂の介入
視界が、回想の「白」から、現実の「赤」へと一気に引き戻される。
通路の熱量はもはや臨界を超えていた。天井から溶け落ちる断熱材が、火の滴となって床を叩く。ゆめとのリンクが断たれ、膝を突いて絶望に沈むいおりの背中。そして、すべてを焼き尽くす一歩手前で、無表情に、だが確かに意志を持って前進を続けるラヴァ。
「……リナ、ちゃん?」
いおりが、掠れた声でその名を呼ぶ。
リナは答えなかった。ただ、いつものように首にかけたヘッドホンを、ゆっくりと首元までずらす。彼女にとって、この場の絶叫も、警報も、熱気の爆ぜる音も、すべては「調整の必要のない雑音」に過ぎなかった。
『リナ! 戻りなさい!』
通信モニタから、ユウリの悲鳴に近い怒号が響く。
『あなたまで焼かれたら、今度こそ私は……! 逃げなさい、これはセシリア様の権限に基づく緊急命令よ!』
リナは立ち止まった。だが、それはユウリの命令に従うためではない。
彼女は、ポケットから「それ」を取り出した。
数年前、あの凍てつくような部屋でラヴァが手にしていた、未完成の刺繍。
ラヴァが隔離される際、彼女の指に焼き付くほど強く握りしめられていた、銀色の糸の花。それは今、リナの手の中で、熱によって黒ずみながらも、確かにその形を保っていた。
「……ユウリちゃん、大丈夫」
リナが、初めてモニタの向こうの戦友へ、微かな、本当に微かな微笑を向けた。
「この子は、私の音を覚えてるから」
リナは再び歩き出した。
いおりが近づこうとした時とは、何かが決定的に違っていた。
リナが歩く場所だけ、まるで空気の振動が止まったかのように、陽炎が凪いでいく。彼女から発せられる圧倒的な「静寂」の波動が、狂った熱の粒子を一つずつ、強引に元の配置へと縫い留めていくかのようだった。
ラヴァが、止まった。
煮えくり返るような紅蓮の瞳が、リナを捉える。
彼女の手が持ち上がり、リナの喉元を焼き切ろうと、火の粉を撒き散らしながら伸びる。
「……遅くなって、ごめんね」
リナは避けない。
その手がリナの首に触れる寸前、彼女は手に持っていた刺繍を、ラヴァの胸元、ちょうど回路の心臓部が位置する場所へ、そっと押し当てた。
「続き、縫いに来たよ」
瞬間。
世界から、音が消えた。
爆ぜる熱気も、崩落する天井の轟音も、ユウリの叫びも。すべてが深い水底に沈んだかのように、絶対的な静止が訪れる。
ラヴァの体から噴き出していた火花が、リナの差し出した刺繍に吸い込まれるように収束していく。銀色の糸が、ラヴァの暴走する精神波を導線として捉え、複雑な模様の中にその膨大なエネルギーを「秩序」として閉じ込めていく。
ジュッ、と。
リナの指先が焼ける音がした。けれど、彼女の表情は変わらない。
ラヴァの瞳から、濁った赤が引いていく。
代わりにそこに宿ったのは、数年前のあの冬の日に見た、透明で、震えるような、孤独な少女の輝きだった。
「リ……ナ……ちゃん……」
ラヴァの唇が、かすかに動く。
それは声にはなっていなかったかもしれない。
けれど、リナには確かに聞こえた。
数年越しに届いた、自分だけが理解できる「音」が。
アムネシアを覆っていた焦熱が、目に見える速度で引いていく。
壁を赤く染めていた熱波は、リナとラヴァが触れ合う一点へと集約され、やがて銀色の結晶が舞う、本来の静寂へと還っていった。
そこにあったのは、ボロボロに焼け爛れた刺繍を挟んで、互いの体温を確かめ合うように寄り添う、二人の少女の姿だった。
第六章:役割の残響
アムネシアの通路を狂わせていた焦熱は、嘘のように引いていた。
壁面のパネルは焼け爛れ、無惨に剥がれ落ちているが、空気だけは元の冷徹な静寂を取り戻している。
いおりは、震える手で自分の胸元を押さえながら、目の前の光景を凝視していた。
そこには、互いに寄り添うリナとラヴァの姿があった。
リナの指先は熱で赤く腫れ、ラヴァの制服はボロボロに焼けている。けれど、二人の間には、いおりがどれほど望んでも手が届かなかった「調和」が横たわっていた。
「……リナ、ちゃん」
いおりの声は、静まり返った通路に小さく吸い込まれた。
自分が振りかざした「救いたい」という正義。それは、ラヴァにとっては単なる外部からの侵食でしかなかったのだ。いおりが回路を通じて感じようとした痛みは、ラヴァにとっては「暴走の燃料」であり、結果として最愛のパートナーであるゆめを傷つける刃となった。
けれど、リナは違った。
彼女はラヴァを「救うべき対象」としても「制御すべき兵器」としても見ていなかった。ただ、数年前に残してきた「未完成の刺繍」という、極めて個人的な約束を果たすために、その熱の渦中へと足を踏み入れたのだ。
『……全セクション、熱源の制圧を確認。医療班、急行しなさい』
通信モニタから響くユウリの声には、いつもの冷静な響きが戻っていた。けれど、その奥には、安堵で今にも泣き出しそうな、震える吐息が混じっているのをいおりは見逃さなかった。
『いおり……ゆめのバイタルは安定したわ。回路の強制切断が間に合った。……リナのおかげよ』
「……うん。わかってる。わかってるよ、ユウリちゃん」
いおりは、安堵と共に訪れた、ひどく冷たい敗北感に唇を噛んだ。
自分は、この世界の「救世主」になろうとしていた。誰もが幸せになれる正解を探し、最大多数の正義を執行しようとしていた。
けれど、今、目の前で起きた奇跡は、そんな大層な理念とは無縁の場所にある。
それは、たった二人の人間にしか分からない、共犯者ゆえの絆。
「救世主」という役割を脱ぎ捨てた、むき出しの個人と個人の、重なり合い。
(私には、できなかった……)
リナはゆっくりと立ち上がり、眠たげな、それでいてどこか満足げな表情でヘッドホンを耳に戻した。彼女の手の中には、ラヴァの熱を吸い取って真っ黒に焦げた、けれどもしっかりと花を咲かせた「完成した刺繍」が握られている。
「……終わったよ。ゆーりちゃん。……あついのは、もう、おしまい」
リナの呟きは、誰に聞かせるでもなく、アムネシアの冷気に溶けていった。
ラヴァは、リナの膝に頭を預けたまま、深い眠りに落ちている。その寝顔は、記録映像にあった「兵器」の顔ではなく、ただの、年相応の少女のそれだった。
いおりは、立ち上がり、自分の煤けた手をじっと見つめた。
自分たちの戦いには、正義だけでは割り切れない、泥臭くて、独りよがりで、けれど何よりも尊い「エゴ」が必要なのだ。
リナが教えてくれた、その静かな祈りの形を、いおりは忘れないように強く、強く胸に刻み込んだ。
「……いこう、リナちゃん。ゆめが、待ってる」
いおりの言葉に、リナは小さく頷いた。
アムネシアの深淵に、銀色の回路が再び、静かに拍動を始める。
それは、傷つきながらも、新しい「繋がり」を見出した少女たちの、不器用な産声のようだった。
第五話:氷下の残り火、銀糸の祈り--完
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■イメージソング収録
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