身も蓋も
ふとした瞬間に書き留めなければ消えてしまうような何か。
それが捕まえられれば自分は変われる気がする。
書き留めるも、書いているうちにそれが臭くなってしまう。その匂いは自分の体臭のようなもの。本当に書きたかったことがあった気がした。それは幻か。
夢なのかもわからない。昨日もしきりにうなされていた。幾度か叫んだ気がするし、叫ぼうとして声が出ないいつもの現象になった。
朝起きて何か書く。脳が整理されているからなのか、何かが書ける。
直感的でない操作は脳を硬直化させる。
でも、だからといってPCでなくペンで書き記したそれは、いかにも幼稚で原始的な叫びでしかない。
原稿用紙に書いていた偉人はどんな気持ちで書いていたのだろう。
わたしの脳内はすべて何かのトレースに過ぎない。
わたしは自分が臭くて汚い男であることを解消するいいアイデアが起き掛けに思いついたのを感じた。それはまるで画期的な何かであるように感じたのだが、書きだそうとしていかにも陳腐な内容であったため書けなかった。
いや書いたのだった、しかしそれは、結局汚くてどうしようもない自分の上書きにしか過ぎない内容であって、どうしようもなく沈んだのだ。
自分の行動はだいたい恐怖から成り立っている。
恥をかきたくない、飢えたくない、蔑まれたくない、晒されたくない、付き合いたくない、話を聞きたくない、死にたくない。そういう忌避すべきものとそれへの恐怖。
自分は恐ろしいほどにださい。
ださい。この言葉はとても恐ろしい。
自分はださいのだから。こう言い聞かせて生きてきた自分は、センスという言葉を過剰に恐れた。
センスとは何だ。先天的なものなのか、環境なのか、育ちなのか、かっこいい何かなのか、趣味の良さなのか、デザインなのか、生き方なのか。
自分はセンスがないのだからないなりに生きよう。
こう思い、そのように行動することで一定の効果を得て生きてきた。
しかし、その結果は、結局のところ何も改善されてはおらず、何かを常に取り逃してみないようにしてきた。
こう書いてみても、結局センスは助けてくれない。自分は逃げている。
批評の有効性を説くことをしていた。
それは文章の力を称揚するためだったのか、仕事を得るためだったのか、嘘つきだからだったのか、何も作れないからなのか。
結局は自分は批評に何も見いだせない。広い意味での批評とか創造的な批評とか、皆批評して自分を作っているとかいう解釈はどうでもいい。批評するよりも何かを作れるようになるべきだ。いたちごっこもどうでもいい。難しい理論もどうでもいい。
何かを作ることのほうがよい。これは自分の中で確定している。批評や研究というのが結局何か言葉を弄していることなのは変えられない。
そこから距離をとって、ようやく心が整理されてきたのだ。そこにリソースを割きすぎていたのだろうか。それももはやどうでもいいことだ。一会社員としての自分にとっては。
会社員とは言うがその生活も長くは続かない。任期によって雇止めが決まっているからだ。来年の今頃何をしているかも想像がつかない。
先行きの不安。のうのうとした会社員生活の終焉。待っているのはいくばくかの貯金と失業保険によるフリーターまがいの生活。下手すればニート。
いい年してもはや再就職先も厳しいものだろう。それなのに今わたしは当然のように会社でくだらない文章を書いている。就活も全くしてい ない。かといってフリーでやれるだけの何かを作れてもいない。猶予はあった。しかし行動できなかった。だからせめて何か行動しなければと 焦ってはいる。具体的な行動もいくつかはしている。
だが、何も見通しはない。仕事もない。収入も望めない。
結局はどこかの会社員になるのくらいが関の山であるし、いい歳してバイト漬けになるのも辛いが収入がなければそうせざるを得ない。
そもそも、今の仕事をしているのも無能だからだ。
任期で雇止めになるような場所にしかいられない。それなのに無為に日々を過ごし、何のスキルも得られずに今に至る。
掲示板のニートスレを嗤いながら見られているのは自分を省みないからだ。
一寸先は闇。自分も必ず無職になってしまう。どこかに就職するか自分で仕事を得なければならない。自分一人では生きていけない。どうやっても自分は世界に寄生しなければならない。
寄生虫だ。
でも寄生がうまい人は優秀だということだ。どうにかして会社から、どこかの予算から、自分にお金を回してもらわなければならない。自分の価値に対価をもらわねばならない。
寄生していたとしてもコバンザメのようにくっついているだけでなく何か恩恵を与えなければならない。
汚いことをするのか、悪意にまみれるのか。ひどい扱いを受けてぼろ雑巾のように扱われてなけなしのお金を得るのか。それでもそうするしかないからそうしている。犯罪にならなければ何をしてもいいとは思わない。人の悪意は実に醜いし、はびこりすぎだ。そういう言葉が陳腐すぎて狂いそうになるが、実際狂わされているのだから仕方ない。
仕事がある、というよりも収入があるうちは自分をさんざんごかまして甘えていられる。
鬱に飲まれていても生活ができる。仕事で鬱になり、鬱でも生き延びられて、それでも続かなくなったらお金が無くなり、追い詰められてまた仕事を探す。
追い詰められるだの後がないだのそうならなければ動けない。
そうなってなお動きたくはないというか、何となく何とかなるだろうというのがどこかにあって、それとなくやっているような気分で何にもものになっていないことをしてしまう。
それではいけないと、何かを学ぼうとする。実際に行動している。
そうすると、全然よくなくても少しは何かいいことができたような気がしてくる。
そういうとき、ふとしたときに感じるのだ。
これを捕まえればよくなるような何かを。
それが本当なのかはわからないが、矮小な実体験としてそれはだいたい本当だ。
ただ、それを活き活きと感じられるのはおそらく今が一番そうなのであり、それはいつしか減衰していく。以前はそれが減衰していくということ自体が後退を意味すると解釈し、自分を責める一因となった。
しかし、今やそれは繰り返す何かであることを感じ取れる。
でも、それをこのように文章にすると、なんだかよくない啓蒙セミナーに感化された気色悪い思想に自分自身が思われることで、自分の確かに大切かもしれないことまで容易に臭くなってしまう。これも先に述べた臭みの原因である。
大切なものをすぐに自分で腐らせてしまうから。
何かいいものについてそれを即座に陳腐化する風習は、斜に構える悪癖であり、すべてを盲目的に信じることと同程度かそれ以上によくないことだ。
こういう現象には名前があるだろう、それで呼びなさい、と心の中の説教おじさんが言ってくる。こいつも都度殺すべき。内臓をぶちまけて切り刻んで殺すべき。
身も蓋もないというのは容れ物がないことだと昨日知った。
身というのは身体であり、蓋というのは皮膚みたいなものか。
そして、丸見えになってしまうのは心である。
心が丸見えであるから、あけすけで意趣がなく面白みに欠ける粗暴なものとして身も蓋もないという言葉を使うのだ。
今までわたしは身も蓋もないというのは、中身がなくさらにそれを隠しもしないという意味だと思っていた。
だから、中身が空っぽな空虚馬鹿という意味なのだと思っていた。
しかし、実際には中身があるのだ。隠し切れない中身、そこにある何かに対してそれを隠そうとしないという意味が身も蓋もないということだ。
身も蓋もない文章を書くというのは簡単であり、難しい。
この文章を見ればわかる。
わたしの文章はたいてい身も蓋もないものになっている。
なぜかというとわたしの心のあり方が率直に書かれているように思われるからだ。
しかし同時に、わたしは書くことで本当に心にあったことを腐らせたり虚飾したり、改変して盛ったりして書いてしまう。
心に浮かんだ大事な書き留めるべきことも書くと失われてしまい、そこに残っているのは大事かもしれない記号でしかない。
身も蓋もなくない文章というのはよく推敲されていて人様に見せても問題ないもので、でもそれって自分の書いた文章と何が違うのか。
身も蓋もない文章を書きたくてもわたしの文章には身がまとわりつき、蓋をして、何かをごまかしたものになってしまう。
ごまかさないでいることはほとんどできない。現に、わたしはもはやこの文章を書きだしたときとは違った心持になってしまい、当初の書きたかったことはどこかへ行ってしまった。
身も蓋もないようなのは結局語り口にすぎない。それは身も蓋もないように書いているだけで、結局は身や蓋によって形を成している。わたしは決して素直にはなれない。
辛く苦しいことであっても、いつしか忘れてしまう。
いや、忘れられなかったとしても、その辛さは身や蓋によって覆うことで和らげることができる。楽しいことも、よかったことも、悪かったこともそうだ。
書いても、語っても、それを人に伝えても、決してわからない。
そういうものだからだ。それがいかに陳腐な事実でも、そうであることを救いにしても何も問題ない。
本当のことを知りたい、本当のことはわからない。
そういう事実が虚無や幸福でもなく、ただ存在するかのように振る舞うこと。
そのようにしてしか、たぶん大事なものは書くことができない。
大事なものは、忘れてしまう。失われてしまう。大事なもの自体が虚無や幸福かもしれない。そうでないかもしれない。考えることもできなく、考えなくてはわからない。
だから今日も書いている。それがいかに臭みを帯びようと、腐ってしまおうと、そんなことはもはや、どうでもいいのだから。




