第一章 04
予定より遅くなりました。申し訳ありません。
※※※
まるで時間が凍りついたかのように、あたりはしんと静まり返っていた。
氷空と薫の視線は、絶叫が聞こえてきた方向のまま動かない。
「今のって‥‥」
「うん、悲鳴だね‥‥‥」
いや絶叫といったほうがいいのか。
あの潰れた町工場の方から聞こえてきたのは間違いない。
(ん‥‥‥?)
目を凝らして凝視する――しばらくして、薫はその場所に漂う異変に気づいた。
「こういう時は、やっぱり警察かな? 警察をまず呼んだほうがいいよね?あ、でも、周りの家の人がもうしてるかな?」
少しパニクっているのか、同意を求めて薫に視線を向ける。
「‥‥‥‥」
「ねえ、ちょっと霧本くん?」
いつのまにか薫は夢遊病者のように歩き出していた。
絶叫のあがった町工場へ、ゆっくりと。
「ちょっとちょっと! まずいって、警察、呼んだほうが絶対にいいよ」
氷空が上ずった声で引きとめようとする。
「ああ、高嶺さんは‥‥ここにいた方がいい。俺、ちょっと様子を見に行ってくる」
上の空で返答する。
更に一歩、また一歩。
後ろで氷空がうわずった声をあげて引きとめようとしていたが、薫の耳にはもはや届いていない。
(なんだ、あれ‥‥‥あの場所だけ、揺らいでる‥‥)
薫の視界には、たしかにそう映っていた。工場の裏側、まるで陽炎のように大気が揺らいでいる。
そこだけ、空間が切り取られ、別世界になっているような。
その揺らぎに誘われるように、薫は錆びついたチェーンをまたぎ、工場の敷地内へと入っていく。
扉は鍵がかかっていなかった。ゆっくりと中へはいる。
工場はどうやらかなり昔に閉鎖されたらしく、埃と錆びた鉄の匂いで充満していた。
埃の被った機械の隙間をすり抜け、裏庭へと向かった。
そこは横幅が6メートル程度の狭い裏庭だった。
足は地面に縫いつけられたかのように、ピクリとも動かない。動けなかったのだ。眼前に広がる地獄のような光景を目の当たりにして。
目の前に一体の骸が地面に伏している。
かつて「人間だった」と思わしき肉塊だ。
半分砕け散った頭蓋骨には頭髪とほんの僅かな肉片がこびりついており、眼球はまるで啄まれたかのように抉りとられている。眼窩からはドロっとした粘液が涙のようにこぼれ落ちていた。身体をまとっていた衣類は荒々しく引き裂かれており、全身の肉体はほぼ原型をとどめていないほど食い荒らされていた。
「う‥‥‥っ」
こみあげる嘔吐感を抑えこもうと、思わず手で口を覆った。
全身から冷や汗が止まらない。クラクラと目眩がする。ぐにゃりと力の入らなくなった両脚がフラフラもつれ、思わず壁によりかかった。
(いったい、ここでなにが起こったんだ?)
わからない。気持ち悪い。頭がグラグラする。
肉塊から目をそらそうとして、生きた人間の気配に気づく――骸の傍らに屈みこんでいる小柄な人影。
いったい、誰だ? 犯人?
全身からイヤな汗がどっと噴き出る。
薫に気づいたのか、小柄な影がゆっくりと一歩、こちらへ歩み寄る。
外灯の明かりがぼんやりとその姿を照らした。
少女だった。
どこの学校かは分からないが、濃紺のブレザーの制服に身を包み、底冷えするような瞳で薫をじっと凝視している。
首元にはバラを思わせるような小さな赤いリボン。肩からは古ぼけた緑色のショルダーバックを下げている。
そして細い両手には大きな銃が――。
いや。
それは銃と呼ぶには、あまりにいびつで武骨すぎた。
全長は銃床も含めれば六十センチ程度だろうか。太い鉄パイプや鉄くずを、金具で無理やり繋ぎあわせたような異様で奇妙な造形。
映画やドラマなどで見覚えのあるものとは似ても似つかない。
華奢で小柄な少女と異形の銃。
それは明らかに不釣り合いな組み合わせだった。
だが一方で、この浮世離れした少女の風情にぴったりとハマっているようにも思えた。
「君が‥‥‥やったのか?」
束の間の沈黙を破り、絞りだした声は情けないほどに掠れている。
少女は薫の問いには答えず、油断なく薫を見据えたままゆっくりと立ち上がった。
息が詰まる、重苦しい沈黙――
「覚悟しておいた方がいい」
不意に少女が口を開いく。ひんやりとした、透明な声。
「貴方はもうすぐ、今の世界から消える」
「え――?」
薫に言葉を返すひまをあたえず、少女はしなやかに跳躍する。
高さ二メートルはあるコンクリートの壁に手をかけ、軽々とその上を越して姿を消した。
※※※
警察がきたのは、それから十分後。
どうやら、薫が工場に入っていった後、氷空が警察を呼んだらしい。
現場で十分ばかり事情を聞かれ、その後、二人揃って警察署に行くことになった。
聴取を担当したのは島崎と呼ばれる、深い皺が刻まれた、白髪交じりの刑事だった。
死体を発見した経緯と、その傍らにいた謎の少女について話すと、島崎は興味深そうに目を細めた。
「いや、実は今まで発生した事件現場で、君のいう少女らしき人物を見かけた報告が何件かあってね。我々も興味をもっているんだ。とにかく、他に思い出したことがあったら言ってくれないか。連絡先はここに書いてあるから」
名刺を渡された後、氷空と薫はパトカーで家まで送迎された。
※※※
次の日の朝。
霧本薫はなぜか、いつもの悪夢をみずに目を覚ました。
ぶあつい雨雲は依然として余里館市から動く気配はないようだったが、今までの倦怠感が嘘のように消えていることに気づいた薫は、清々しい気持ちだった。
もしかしたら、もう二度とうなされることはないかもしれない。期待と不安が入り混じりつつも、朝食を済ませ、珍しく妹よりも先に家を出る。
悪夢の件はおいておいて、少しでも早く、確認しておきたいことがあったのだ。
(いるのか、アイツ‥‥‥?)
駅前につくと、キョロキョロと当りを見回した。
人々がいそがしく行き交うさまは、昨日までと全く同じ。
ただひとつ違うのは、例の浮浪者がいないことだった。拡声器でがなりたてる男の姿は、どこにもない。
(まさか死んだわけじゃないよな?)
いや、死ねばさすがにニュースになるだろう。警官だって辺りをうろつくはずだ。
ということは――
「すみません、ちょっとそこの君」
「うお」
突然、後ろから声をかけられ、思わず肩がビクンと震える。
「あ、はい、なんでしょう?」
ぎこちなく振り返えると、背広姿の中年男が薫の背後に立っていた。
白髪交じりで深く皺が刻まれた顔に見覚えがある。
「島崎だよ、覚えているかな?」
警察手帳――のようなものを掲げる。MES対策局という文字だけが見えた。
「ああ、昨日の刑事さん‥‥‥」
「悪いけど、昨日の話をもうちょっと詳しく聞きたいんだ。ちょっと来てくれるかな」
「はあ‥‥‥」
昨日の今日でいったいなんだろう?
腑に落ちないまま、ためらっていると。
「大丈夫だよ、学校のほうには連絡しておいたから。さあ、行こう」
学校には連絡? なんでそんな手回しが早いんだ?
というより、どうして俺がここにいるってわかったんだ?
疑問が次々に湧き出るが、島崎はさっさと道を歩いて行く。
(まあ、ついていくしかないか‥‥)
チラリと氷空の顔が浮かんだものの、無理やりかき消した。
(――ん?)
ふと、背後に数人の気配を感じた。
振り返ると、背広を着た二人の男が、薫の後ろをついてきていた。
「あの‥‥‥」
男たちに声をかける――返答なし。
後ろの男たちは薫の声が聞こえなかったかのように表情を変えず、歩いている。
向き直って先頭を歩く島崎の後ろ姿に視線を戻す。
もちろん彼の表情を窺うことはできない。
だが、妙に周囲の空気が張り詰めているような気がした。
「えっと、どこにいくんですかね?」
「こっちだよ、心配しなくていい」
島崎の声が妙に柔らかい。
いつの間にか、人気のない路地裏に連れ込まれていることに気づく。
「あの――」
もう一度、今度は先頭を歩く島崎に声をかけようとしたその時。
「確保だ」
前を向いたまま、島崎は薫の言葉を遮った。と、同時に後ろの男たちに両腕を掴まれ、のしかかられるように地面へ押し倒される。
「ちょっと待て、なんな――っ」
濡れたアスファルトに顔面をしたたかうつ。火花が飛ぶような痛みがはしる。
「急げ、こいつにリミッターを装着させろ!」
薫の背中にのしかかった男が声を荒らげた。
いったい、何がどうなってる?
あの浮浪者に襲われて、今度はいったいなんだ?
状況が理解できない。
巨大な恐怖が薫の胸の中で急速に膨らんでいく。
ドクン。
心臓がまるで爆発したように脈打った――全身が震えるような鼓動。
そして薫の体の奥から情動が、マグマのように噴火する。
薫は絶叫した。この現実を吹き飛ばそうとして。
「ぎゃあああっ!」
突然、男の悲鳴が聞こえ、右手の拘束がゆるんだ。
(なんだ‥‥いったい、何が起こった?)
必死に首をよじらせて、状況を確認する。
(‥‥何が起こった? いったい何なんだ、これは?)
目の前の光景は、薫の想像を絶するものだった。
一人の男が宙に浮いていた。
いや、正確には胴体を『巨大な手』によって一掴みにされ、宙に持ち上げられていた。
ゴツゴツした岩のような掌と、大木のようにぶ厚い指、そして獣のような爪――それが薫の眼前、宙を浮くようにして現れた、もうもうと噴き上がる不気味な黒煙の渦から生み出されていた。
――これは鬼だ
薫は直感する。
あの悪夢で自分を探し、友人を貪り喰らった鬼の一部だと。
「た、たす――けっ」
グチャリ。
巨大な手が男を握り締めると、まるで爆発したかのように、四肢が四散する。
臓器とともに血の雨がアスファルトに降り注いだ。
「くそっ、発症しやがった! 中継車、インキャパ発動させろ!」
男がインカムに向かって叫ぶ。
(いったい何が起こってる?)
わからない。わからないことだらけだ。
この男たちの目的も、この妙な黒煙の渦も、そしてそから生み出された巨大な鬼の手も。
いったい、何が――
(――っ!)
突然、強烈な衝撃が頭部を襲った。
まるで巨大なコンクリートを頭に叩きつけられたかのような、激痛と意識の混濁。
同時に黒煙と鬼の手が一瞬で霧散した。
ブオォォォンという耳鳴りが脳をかき回す。
たまらずアスファルトに崩れ落ちた。
「な、なんだよ‥‥‥これ‥‥‥」
頭を両手で抑え、うめき声を揚げる。痛い、苦しい、ダメだ、何も考えられない。何もできない。
「くそ、びっくりさせやがって、ちくしょう‥‥このバケモノが」
腹立ちまぎれにうずくまった薫を、男たちのうちの一人が蹴りあげた。
「島崎さん、コイツの症状はかなり危険です。処分執行しましょう」
「待て、いま本部に許可を取る」
痛みでも朦朧とした頭でも、男の『処分』という声は聞こえた。
『処分』。
死を連想させるその二文字が、激痛よりも恐怖を喚起させた。
いやだ、まだ死にたくない。
強烈な生の欲求がこみ上げてくる。
どうすればいい? どうすれば、死なずにすむ?
そうだ、こいつらさえいなくなれば。
こいつらさえ、いなくなれば、この痛みも恐怖も消えるはず――。
消えてしまえ、消えてしまえ、消えてしまえ!
激痛に抗うように、いや、痛みすら飲み込もうとする勢いで、薫は身を起こし、心のなかで絶叫する。
「な――っ?」
男たちのうろたえ声。
同時に霧散したはずの黒煙が、再び薫の眼前にもうもうと噴出され、渦を形成した。
ドチャリ。
粘土を壁にたたきつけたような、濁音混じりの音が聞こえる。
黒煙から現れた鬼の手が、男を壁にたたきつけたのだ。
「嘘だろ、インキャパ発動させてんのに――おい、もっと出力上げろ! 許可は待てない。こっちで執行するぞ!」
島崎の怒号がひびきわたった。
耳鳴り、頭痛、激痛、絶叫、もう気力は尽き果てようとしてる。
だが、もうあと少しだ。あと一人、コイツを消してしまえば。
頭の痛みにこらえながら、あたりを見回す。
黒煙はまるで薫に寄り添うように、身体にまとわりついている。
(消えろ! 消えてくれ! 俺の目の前から‥‥‥)
ギュイイイイン
「ぐ――っ」
耳鳴りがさらに脳をシェイクし、頭の痛みは思考をさらに混濁させる。
それと同時に、薫を守るようにして、沸き起こる黒煙の渦が薄くなり、そこから生えた鬼の手が幻のように消え去る。
(まて、まってくれ、消えないでくれ!)
目の前には島崎ともう一人。
二人とも憎しみと怒りのこもった瞳で、薫を睨みつけていた。
妙にゴツゴツした大型拳銃が薫に狙いを定める。
(くそ、死にたくない、死にたく――)
「死ね、化け物――」
引き金をひこうとした瞬間、乾いた音が薫の耳元を切り裂くように駆け抜けた。
「ぐ――っ」
同時に、銃口を向けていた島崎の左胸が弾け飛んだ。
「我は我がことをなさん、汝は汝のことをなせ。われが生きるは汝の期待に沿わんがためにあらず‥‥‥(※3)」
どこからかひんやりとした声が聞こえてくる。
唱えているのは何かの呪文だろうか
(なんだ、今度は何が起こった?)
いや、もう誰でもいい、とにかくこの痛みから俺を解放してくれ。
コツコツコツと硬い足音が聞こえ、薫の頭元で止まった。
冷たい手がそっと薫の額に添えられた。
同時に気の狂いそうな激痛が一瞬で霧散する。
「汝は汝、われはわれなり されど、我らの心 ゆえあって心通うことあれば、 それは素晴らしきことなり」
(なんだ? いったい‥‥‥なにが‥‥‥‥‥‥)
代わりに猛烈な睡魔が襲ってくる。
意識が朦朧とする。とりあえず、身体を横にして眠りたかった。たとえそれが雨に濡れたアスファルトだろうと構わない。
ゆっくりと、身を横たえる。冷たく濡れた地面の感触が妙に心地よかった。微睡む意識の中で、黒いハイソックスに革靴を履いた小さな足が目に写る。
いったい誰だろうか。睡魔に蝕まれた意識に抗い、顔を上げる。
視界に入ってきたのは、一人の少女。
その底冷えするような瞳に見覚えがあった。
「――幻覚者の世界にようこそ」
冷ややかな声が彼の鼓膜を震わせ、そして薫は暗闇の中へと落ちていった。
補足説明
※3‥‥‥‥フレデリック・パールズ『ゲシュタルトの祈り』