第一章 02
『ディザイアー』という幻覚剤が余里館市の若者を中心に流行りだしたのは、今年の春先ごろからだろうか。不思議なことに、流行しているにもかかわらず、『願望』を意味するふざけた名前以外に、この幻覚剤について判明していることはほとんどなかった。
『どこの誰が使用した』、『どんな作用がある』ということに関して、誰一人として、正確な知識を持ち合わせていなかった。
『この幻覚剤を使用した若者が病院送りになった』という噂はあった。
だが、その若者がどこの誰なのかは誰も知らなかった。
『この幻覚剤を使用した集団が廃ビルなどでパーティーを開いている』という噂はあった。
だが、その集団を見た者は誰一人としていなかった。
『この幻覚剤を利用すれば、幻覚者のすむ世界に行くことができる』という噂はあった。
だが、それを実際に報告した者はいなかった。
『流行している』という曖昧で漠然とした情報だけが、ウィルスのように広まっていた。
だが、噂として存在している以上、学校や警察は対処するしかない。
そんなわけで、余里館高校二年生の高嶺氷空が時間ギリギリで校門に到着した時も、風紀委員たちはいつものように投げやりで、間延びした声をあげていた。
「風紀委員です、ご協力お願いしまーす。持ち物検査にご協力をお願いしまーす」
新学期に入ってから、毎日のように義務付けられた校門前での持ち物検査だ。
(うわぁ‥‥‥先生もこんな日ぐらい、やる場所を変えるとか、してあげればいいのに)
雨の中、雨具を着てまで律儀に校門前でやることなんだろうか、と思いつつ、高嶺氷空は素直に鞄の中身を開けてみせた。
風紀委員は氷空の髪にチラリと視線をむけるが、すぐに鞄の中身へと戻った。
高嶺氷空の髪は染めているかのように赤茶けていたが、これは天然のものだった。
学校からの許可ももらっている。一年生の頃はそれを知らない教師たちからクレームをつけられたが、さすがに一年経った今では髪についてとやかく言われることはなくなった。
「ご協力ありがとうございまーす」
風紀委員の投げやりなお礼の言葉とともに、鞄が返される。
受け取ろうとしたその時、柄を肩と頭に挟んでいた傘が、ぐらりと傾き、隣の男子生徒の頭に直撃した。
「あ、ごめん、大丈夫?」
とっさに申し訳ない表情をつくり、相手に謝罪の言葉を述べる。
被害者は同じクラスの男子生徒だった。
確か名前は霧本‥‥‥なんだっただろうか。
「あ、うん、いや‥‥‥」
とうの霧本某はとっさのことで、うまく返答の言葉を見つけられないのか、口をモゴモゴと動かしていた。どうやら、かなりのシャイボーイらしい。
そんな彼をつかの間、見つめていた氷空は軽く笑うと鞄を閉め、さっさと校舎へと入っていった。
※※※
空を覆う雨雲のせいで、廊下や教室には今日も電灯が煌々と照っている。
おかげで、高嶺氷空の髪色はいつも以上に際立って目立っていた。
「おい、お前! なんだ、その髪は!」
突然、廊下から怒鳴り声が聞こえてきた。
次の瞬間、氷空は思いっきり後ろに髪を引っ張られる。
「うえっ」
奇妙な声を上げて、後ろにのけぞる。
「校則は知ってるだろうが! 髪を染めるな!」
振り返ると、ジャージ姿の教師が血相を変えて髪を掴んでいた。
「これは地毛です、引っ張らないでください、先生」
ビリビリと鼓膜が震えるような怒鳴り声をあげる教師に対し、落ち着いた声で氷空は返答する。髪をおもいっきり掴まれているにもかかわらず、対応は投げやりでぶっきらぼうだった。
「ふざけんな、どうみたって染めてるだろうが、その髪は! 机の中と鞄もみせろ!」
「持ち物検査は校門でさっきやりました。っていうか、髪と関係ないですよね?」
「お前‥‥‥っ!」
そっけない態度は、教師のボルテージを上げるのに十分だった。
怒りに満ちた顔が、あっというまに真っ赤に湯だつ。
「先生。いい加減に髪から手を離してください。そんなに強く引っ張られると私、ハゲちゃいます」
「うるさいっ! 今すぐに職員室まで――」
「加藤先生、高嶺さんの髪については、お母さんから教頭先生に連絡がいっています」
不意に落ち着いた、よく通る声が不意に二人の横から割り込んだ。
「荒川か‥‥‥」
振り返り、悠然と佇む女子生徒の姿を見て、教師は気まずく口ごもる。
穏やかな表情で教師と相対するこの生徒の名前は荒川今日子。この学校の生徒会長を務めている才女というやつだ。
「高嶺さんの髪は生まれつきのもので、担任の大久保先生も了承済みです。詳しいことは直接、大久保先生にお尋ねになったほうがいいと思います」
暗記しているかのようによどみなく話す今日子に、教師はたじろぐ。
「まあ、なんだ‥‥‥そんな誤解されるような髪をしてるなら、黒く染めとけ」
歯切れの悪い捨て台詞を吐くと、教師は足早に歩き去った。
その後ろ姿を眺めつつ、今日子は大きなため息をついた。
「ごめんなさい、先生たち、ディザイアーや例の殺人事件のせいでピリピリしていて‥‥それに、あの加藤先生は9月から赴任してきたから、よくわかっていらっしゃらないみたいで」
「ええ、構いませんよ。慣れてますから。でも珍しいですね、先輩が二階に降りてくるなんて」
乱れた髪を手で直しながら氷空が今日子に尋ねると、
「実はちょっと高嶺さんに頼み事があってね」
慎ましやかな笑みを浮かべながら、話しを切り出す。
「頼み事、ですか?」
氷空は努めて自然な笑顔を浮かべようと務める。
荒川今日子と氷空は同じ中学出身で、バトミントン部に所属していた。その時からすでに周囲から浮いていた氷空に対し、今日子は色々と世話を焼いてくれていたのだ。
だから氷空は知っていた。
この先輩がこういう表情の時はたいてい、彼女自身が気の進まない依頼をする時だということを。
「最近、三桜高校の生徒がディザイアーを使用して警察沙汰になったって噂が流れたでしょう? それで私たち生徒会の方でも要注意人物の生徒を調査しようって、馬鹿なことを先生たちが言い出したの。でね‥‥‥」
今日子は周囲を気にするようにあたりを見回し、声のトーンを落とした。
「高嶺さん、確か駅前のコンビニでバイトしていたよね? そこに三組の阿刀田さんも働いていると思うんのだけれど‥‥‥」
余里館高校では家庭の事情によって生徒にバイトを認めている。母子家庭の氷空は、『家計を助けるため』という理由から許可されていた。阿刀田という生徒の事情は知らないが、何度か同じシフトで働いたことはある。
「実はその子がディザアーを服用しているのではないかって噂がでてきて‥‥‥もし今度、同じシフトになることがあったら、それとなくでいいから、その子のカバンの中身を調べてほしいんだけれど」
「いや‥‥‥それはちょっと」
つくった笑顔が少しひきつる。
いくらなんでも、生徒がスパイの真似事なんてできるわけがない。
というか、そんなことを教員が示唆していたとしたら、問題になるだろうに。と、氷空は思う。
「もしクスリがなければ彼女の潔白が証明されるし、もしそれがあったら、先生たちに見つかる前に、わたしの方で何とかうまく収めようと思うから。こんなこと、私も頼みたくないんだけれど、私の知り合いに阿刀田さんと接点のある人が、他にいなくて」
柔らかで控えめな口調だったが、有無を言わせない強さがある。
この先輩がこういう声を出した時は、すでに相手からもらう返事が決まっている時だということを、氷空は知っていた。
どんな理屈や言い訳を並べても無理だ。結局、最終的にはこの先輩の望む返事をしてしまう。
彼女にとって、荒川今日子は親しくもあり、苦手でもある存在だった。
「‥‥‥その、私でお役に立てるかどうかわかりませんけど」
斜め下に目をそらしつつ、曖昧にうなずく。
「こんなことを頼んで本当にごめんなさい。もしなにかわかったら、私に連絡してくれる?」
安心したような笑みを浮かべると、氷空の返事を待たずに今日子は踵をかえした。
(面倒なことになっちゃったな‥‥‥スパイの真似事か)
引きつった笑顔のまま、先輩の背中を見送る。
ことの善悪にかかわらず、このような『他人の行為を第三者に告げる』という行為は気が引けてしまう。
かといって、この先輩の頼みを断る気力も根気もなかった。
授業が終われば、今日はバイトに行かなければいけない。そして今日は、阿刀田という生徒と同じシフトだ。今日子の頼みを、まともにする気はさらさらなかったが‥‥‥。
(ああ、なんかもう息苦しいな‥‥)
なにもかもが億劫だ。バイトも、しがらみも、勉強も、将来も、この世界全て――無意識のうちに首元のネクタイをゆるめ、氷空はため息をついた。
チャイムが鳴る。ホームルームの時間だ。
ふと視線を感じて、そっちに顔を向ける。
名前は霧本くん。朝と同じようにどこか疲れた顔をしていた。
※※※
街の中心部。オフィス街では昼休みのサラリーマンやOLが傘をさして行き交う。
そんな霧雨の降りしきる正午の街を少女は傘もささずに歩いていた。
どこの学校かは分からないものの、明らかに中学生か高校生とわかる制服に身を包んでいながら、周囲の人々は少女を一瞥すらしない。
少女もまた、それを当然のように受け入れ、平然と歩いている。
(”ほつれ“がこんなところまで広がっている)
周囲の騒音、喧騒がどれほどひどくても、彼女の皮膚感覚は、敏感に共有思念領域のほつれを見つけていた。
少女は心のなかでほくそ笑む。
猟奇殺人は間違いなく、この街に異変をもたらしている。
いい傾向だ。この調子で外界化現象が多発すれば――
(事態が重くなれば、奴らは必ず特殊協力者を呼ぶ。特にあの男を――)
あの男。少女の冷たい表情に一瞬だけ、熱がこもった。
全ての状況が整ったところで全ての目的を完遂する。
(とにかく、これを逃せば次はいつになるかわからない。今回で必ず仕留める)
燃えたぎる感情を凍てつく表情の内にしまいこみ、少女は歩く。
鼓動は静かに、強く脈打っていた。