Ⅺ.君の声が、帰る場所
体育館に校歌が響き、始業式が終わる。
ざわつきが戻り始める中、最後のアナウンスが流れた。
「続いて、新年度の担任発表を行います」
空気が少しだけ引き締まる。
亜紀は体育館の脇の方に立ち、背筋を伸ばす。
手のひらに、じんわりと汗がにじんでいた。
校長先生による担任の読み上げが始まる。
学年、クラス、名前。
「二年二組、谷沢亜紀先生」
一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
でも、すぐに表情を整える。
「はい!」
周囲から小さな拍手。
「よろしくお願いします。」
それだけ言って、軽く頭を下げる。
職員室に戻る廊下は、少し長く感じた。
新任特有の空気。
“先生”という言葉がまだ自分の中で完全に馴染んでいない感覚。
教育実習の1ヶ月ですら、“先生”と呼ばれることになかなか慣れなかった。
自分は二年二組の担任。
そして初任者。
その事実が、静かに重い。
職員室では、先輩たちの会話が飛び交う中で、亜紀は自分の机に座る。
スマホは通勤カバンの中。
ここでは出せない。
校則ではなく、“立場”として。
それでも、そこにあることだけはわかっている。
触れられないままの通知。
開けていない画面。
賢から返信がないまま4日が経っていた。
こんなに連絡がないのは付き合ってから初めてだ。
児童が帰ったあと、教室は一気に静かになる。
机を整え、明日の朝の予定を黒板に書く。
ようやく一日の終わりが見えた頃、職員室に戻った。
椅子に座って、少しだけ肩の力を抜く。
そのまま、カバンからスマホを取り出した。
画面には通知がいくつか溜まっている。
その中に、お父さんからの連絡が来ていた。
「今日、たまたま昼前の番組を見ていたら、剣斗くんが出ていたぞ!ドラマ、今夜からだって。」
短い一文。
それだけなのに、妙に現実味がある。
画面をしばらく見たまま動かない。
“今夜から”
その言葉だけが、少し浮く。
剣斗の名前が、誰かの日常の中で普通に出てきたこと。
それが少しだけ、距離を変える。
自分だけのものではない時間になっているのに。
職員室では、誰かが明日の予定を話している。
プリントの束を整理する音。
印刷機の低い音。
その全部が現実なのに。
わたしだけが、少しだけ別のところにいる。
やがてスマホの画面を伏せる。
ロックがかかる。
それでようやく、視線を机の上に戻す。
まだ終わっていない仕事が、静かに並んでいる。
気づけば、外は少し暗くなり始めていた。
明日配るプリントをまとめながら、ふとスマホを見る。
通知が一つ増えている。
賢からだった。
スマホを操作する指が止まる。
4日ぶりの通知。
ゆっくり開く。
【返信遅れてごめん。仕事、お疲れ様。
今日からドラマが始まるから、時間があったら見てほしい。】
短い文章。
それだけ。
「……」
しばらく画面を見たまま動けなかった。
謝罪なのか。
宣伝なのか。
連絡なのか。
どれにも見えて、どれでもない。
でも、“返ってきた”という事実だけが静かに残る。
職員室では、誰かが笑っている。
コピー機の音。
パソコンのキーボードの操作音。
現実は変わらず続いているのに。
私の時間だけが、その一文の前で少し止まる。
【今日からドラマが始まるから】
その言葉が、妙に遠い。
賢はもう、自分の知らない場所で進み始めている。
そう思うと鼓動が少し早くなった。
小さく息を吐いて、冷静を取り戻そうとする自分がいた。
返信画面を開く。
でも、指は動かない。
やがて画面を閉じる。
スマホを机に置く。
それからもう一度、仕事に視線を戻した。
夜。
撮影が一旦止まり、テレビの中ではすでにドラマの世界が動き始めていた。
オープニングの音楽が流れる。
玲架が作曲し、魅波が作詞した『残響』
君を忘れるために 恋をした
それなのに 君が消えない
愛されるほど 愛したことを
思い知らされてゆく
もう戻れない 戻らない
そう決めたはずなのに
静かな夜に 耳を澄ませば
まだ君の声がする
⸻残響のように
「立花佳音役・星川ゆず」
「高瀬ヒロ役・剣斗 (DIM-TAM)」
テロップも同時に流れる。
出た瞬間、少しだけ呼吸が浅くなる。
でも表情は変えない。
「いやぁ、DIM-TAMの主題歌、ドラマに合ってて凄くいいね。」
撮影監督がこっちを向いて賞賛した。
沈黙が引き裂かれた。
「ありがとうございます!」
「撮影と同時並行で大変だっただろ?」
共演する友人役の俳優が声をかける。
「名探偵ユ・ナンの主題歌もだろ?」
「作曲は僕ですが、期間限定のユニットでリリースしました。」
主題歌の話で盛り上がっていると、CMが終わり本編が始まった。
自分の声、自分の顔、自分の芝居が、画面の中で勝手に進んでいく。
隣ではスタッフや共演者が軽く笑っている。
「いいね」「初回としては安定してる」
その言葉が遠く聞こえる。
俺はただ、画面を見ている。
そこにいる“高瀬ヒロ”は、自分より少しだけ感情がある。
隣でスタッフの笑い声がする。
「初回としてはいい立ち上がりですね」
「剣斗くん、普通に引き込まれるタイプだな」
その声は聞こえているのに、どこか距離がある。
画面の中では、次のシーンに切り替わっていた。
高瀬ヒロが誰かとすれ違う。
ほんの一瞬の表情。
それだけで空気が変わる。
俺はそこを見ている。
“こういう顔、してたんだな”
自分のことなのに、少しだけ他人みたいに思う。
現場でやったはずの動きが、もう少しだけ違って見える。
誰かの記憶として編集された自分。
拍手が起きる。
「良かったよ、初回」
「ちゃんと立ち上がったね」
軽い言葉が飛び交う中で、俺は軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
それだけ。俺は軽く息を吐く。
画面の中の“高瀬ヒロ”はまだ生きている。
でもそれを見ている俺は、少しだけ止まっている。
拍手が完全に止む。
スタッフが片付けを始める音。
「次もこの感じでいけそうですね」
そんな言葉の中で、俺はスマホに一度だけ視線を落とす。
通知はない。
当たり前のように、何もない。
それでも、さっきから同じ場所に戻ってくる。
亜紀は、見てくれただろうか。
そのまま画面を伏せる。
それ以上は何も触れないまま、ただその問いだけが残る。
夜風は少しだけ冷たかった。
駅から家までの道を歩きながら、一度もスマホを開かなかった。
カバンの中には、さっきのメッセージがそのまま残っている。
【返信遅れてごめん。今日からドラマが始まるから、時間があったら見てほしい。】
返事は、まだ打てていない。
玄関の前で、一度だけ息を吐く。
鍵を開ける音。
「ただいまー」
リビングの方から、すぐにお父さんの声が返ってくる。
「亜紀、そろそろ剣斗くんのドラマ始まるぞ!」
その言葉に、足がほんの少しだけ止まる。
テレビの音がもう聞こえていた。
番組開始直前の賑やかなナレーション。
父は悪気なく、いつもの調子で続ける。
「昼の番宣にも出てたぞ。すごいなあ」
靴を脱ぎながら、小さく「うん」とだけ返した。
リビングへ入ると、テレビ画面にはドラマの宣伝映像。
そこに映る剣斗は、“高瀬ヒロ”の顔をしている。
見慣れているはずなのに、少し遠い。
母がキッチンから顔を出す。
「ご飯先に食べる?」
「……あとでいい」
始まる。
その感覚だけが、静かに近づいてくる。
テレビのカウントが入る。
「このあと、よる9時スタート!」
リビングの光が少しだけ明るく感じる。
わたしはゆっくりソファに座った。
見るのか。
見ないのか。
その答えをまだ決めきれないまま、画面が一瞬暗転した。
「大学入試まで、あと3日」というテロップ。
駅のホーム。
制服姿の賢が立っている。
電車が入ってくる。
その轟音の中で、友達から言われる。
「なあヒロ。もし受かったら、東京行くんだろ?」
「……うん」
「そしたら、もう帰ってこねえの?」
画面の中の賢は少し笑って、
「帰ってくるよ」
「ほんとかよ」
「……たぶん」
電車が到着し、賢が乗り込む。
ドアが閉まる。
窓越しに、ホームに残った友達が手を振る。
電車が走り出す。
『君を忘れるために恋をした』
という大きなタイトルが画面に出てきて、主題歌が流れた。
イントロが鳴った瞬間、リビングの空気が少し変わった。
『DIM-TAMの新曲じゃない?』
母がテレビを見ながら言う。
力強いバンドサウンド。
そこに重なる、聞き慣れた声。
魅波の声だった。
「この曲、ドラマのために書いたのかなあ」
父がそんなことを言いながら、テレビに目を向けている。
私はただ、画面を見ていた。
「高瀬ヒロ役・剣斗(DIM-TAM)」
テロップが出る。
その瞬間だけ、胸の奥が少し揺れる。
テレビの中に映るわたしの恋人は、自分の知らない場所で呼吸をしていた。
知らない表情。
知らない声のトーン。
知らない間。
でも時々、ふと知っている顔になる。
そのたびに、少しだけ苦しくなる。
ドラマは進んでいく。
父は普通に物語を楽しんでいる。
「演技うまいなあ」
「このドラマ、結構面白いぞ」
何気ない感想。
その中に、剣斗がいる。
“賢”じゃなく、“剣斗”として。
そして、“高瀬ヒロ役”として。
小さく手に力がこもった。
そのとき、スマホが震えた。
魅波からだった。
【ねえ、ちゃんと見てる?笑】
続けて、もう一通。
【主題歌、流れた瞬間ちょっと緊張したんだけど】
魅波の素直さに思わず少しだけ笑う。
その軽さに、ほんの少しだけ呼吸が戻る。
【見てるよ。主題歌、すぐ分かった。】
送信。
すぐに既読がつく。
【よかった笑】
短いやり取り。
でも、それだけで少しだけ現実に戻れる。
テレビの中では、賢のアップが映っている。
感情を抑えた目。
その表情が、妙にリアルだった。
視線を逸らさないまま、静かに息を吐く。
ドラマの1話は淡々と進んでいき、最後に次につながる問題が出てくるのが普通だ。
どんどん話が進んでいくが、
“ヒロ”と呼ばれる画面の中の自分の恋人に違和感を覚えた。
ヒロが交通事故に遭い、そこに駆けつける佳音。
「佳音…何でここにいるんだよ…」
いつも、私に向ける彼の眼差しが、星川ゆずに注がれる。
「何でって…。電話があって、ロンドン行きの飛行機乗らずに来たのに。」
「だからって…大事なオーディションじゃ…」
「オーディションなんていくつもあるわ。」
「……お前、姉ちゃんにそっくりだな」
佳音の顔が固まる。
そして、エンディングが流れた。
「賢くん、かっこよかったなあ。」
「来週も録画しないとね。」
「亜紀、賢くんによろしく言っておいてな。」
「うん。じゃあお風呂入って寝るね。」
お風呂に入る準備をして、賢に返信をした。
【お知らせ、ありがとう。
ドラマ、リアルタイムで見れたよ!
テレビの画面にギターを持ってない賢が映ってるなんて不思議。
来週も早めに家に帰れるように頑張る!】
音楽番組での賢はギターを弾いている姿しか映らない。
そんな言葉を送ったあと、部屋にスマホを置いた。
お風呂から出ると、賢からの着信があった。
「もしもし?」
賢の声がした。
「電話、出られなくてごめんね。」
「こっちこそ、いきなりごめん。」
「ドラマ、よかったよ。」
「そう言ってもらえてよかった。正直、自信なかったんだよね…。演技も初めてだしさ。」
「初めてとは思えない演技力だったと思う。」
「それは…演技指導の先生と亜紀のおかげ。」
「わたしの?」
「うん。」
「最初は、先生に『今のは“声を出しただけ”です』なんて言われちゃって」
「そうなの?」
「でも、『感情を“作る”んじゃなくて、“思い出す”んです』って言われて。亜紀との出来事で似たような感情になった時のことを思い出して、声に出したら自然と演技ができるようになった。」
さっき、賢が…自分の恋人が遠い存在の人に思えたのに、画面の中で演技をしている賢がわたしのことを思い出して演技をしていると聞いて、ホッとして涙が溢れた。
「亜紀…?」
「賢とずっと会えてなかったから少し心配になってたけど、安心した。わたしも頑張らないとね。」
「撮影、残りあと2ヶ月くらいあるんだけど、終わったらどこか行こう。会えそうな時は連絡さるからさ。」
「うん。わかった。」
「亜紀。愛してるよ。」
「賢…それは演技?」
「演技なわけないだろっ!」
「ふふふ。」
久しぶりに、亜紀の声が聞けてホッとしていた。
電話を切ったあと、しばらくスマホを見つめていた。
久しぶりに聞いた、亜紀の声。
たったそれだけのことなのに、胸の奥に張りつめていたものが、ゆっくりほどけていくのを感じた。
ドラマの撮影が始まってから、毎日が慌ただしかった。
撮影に追われて、台詞を覚えて、演技のことで悩んで。
気がつけば、亜紀に連絡することさえ後回しになっていた。
テレビの中では、俺は“高瀬ヒロ”だった。
現場では、俺は“剣斗さん”。
でも、電話の向こうにいた亜紀が呼んだのは⸻
「賢」
その名前を聞いた瞬間、ようやく自分の場所に戻ってこられた気がした。
「剣斗さん、自宅まで送ります。」
明日も朝から撮影だ。
まだ、しばらく亜紀には会えない。
それでも。
今日、声を聞けた。
それだけで、もう少し頑張れる気がした。
その先、運命の悪戯は待っているなんて⸻その時の俺には知る由もなかった。
夜の撮影が終わった頃。
スタジオから少し離れた路地に、一台の車が停まっていた。
後部座席に乗り込む。
「星川さん。頼まれた件、来週の記事として出せそうです。」
向かいに座っていた男がゲラが映し出されたタブレットを差し出した。
「いい写真ね。」
画面には、今夜放送されたドラマのネット記事。
その下には、すでにいくつものコメントが並んでいる。
『剣斗と星川ゆず、付き合ってる?』
『あの二人、絶対怪しい』
ゆずは画面を眺めながら、静かに笑った。
「まだ、こんなものですが。」
「十分でしょう。熱愛の噂としてはかなり広がりますよ。」
「……でも、彼には恋人がいるんですよね?」
男がそう言うと、ゆずは顔を上げた。
「だから面白いんじゃないですか?」
その笑顔には、さっきまで撮影現場で見せていたものとは違う冷たさがあった。
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