序章 祈り(2/2)
「まったく!けしからんことです!」
枢機卿は肉で丸くなった拳を握りしめ、声を荒げた。
「魔族を殺さずに飼うなど……例え罪人と同じ扱いとはいえ自然とはかけ離れている!魔族とは人間の敵、見つけ次第駆逐せねばならぬ存在なのです!それこそが自然の理!」
アムディールの熱弁を教皇は黙って聞いている。沈黙を同意と見做したアムディールはさらに語気を荒くする。
「今すぐにラドカルミアに使者を出し、“勇者特区”はローティスの教えに反すると抗議いたしましょう!彼の武王もまたローティスの信徒、無下にはしますまい。この機会に今一度我らの威光を示せば、布施の額ももっと増やせるやも……」
「ならぬ」
寡黙な教皇が発したはっきりとした否定に枢機卿は一瞬、面食らったようにわなわなと口を震わせた。
「な、なぜです!?」
訳が分からないと問うアムディールとは対照的に、セムジ二世はゆっくりと極彩色の窓を見上げた。少し陽が翳り、色彩の雨が止んでいる。
「魔族は、人間が力で押さえつけたとて言う事を聞くようなものではない。なれば、彼らは彼らの意思でその“勇者特区”に留まっているのだろう。それを彼の国が容認しているのであれば、我らが口を出すべきことではない」
饒舌な教皇に枢機卿は度肝を抜かれ、たじたじと後ずさった。そこに畳みかけるように新たな言葉が紡がれる。
「それが自然に反しているならば、遠からず自ずと破綻しよう。それを待たずして我らが介入するなど、それこそ自然の理に反する」
たじろいだアムディールだが、まだ反論する余力はあるようで、一瞬にして乾いてしまった口腔になんとか唾液を絞り出して口を開く。
「し、しかし……風の噂では、その“勇者特区”を設立した勇者は魔族と和解するなどという馬鹿げた思想を抱いているという話もあります。放置してラドカルミアが道を踏み外しては、我ら人間領を守護する城壁が失われてしまう!その前に、我らローティス教が道を正してやらねば……!」
「二度、同じことを言わせるな」
頑なな教皇の言葉にうぎぎと唸ったアムディールは、
「そうですか……ならば私からはもう何もいいますまい。失礼します」
観念したように、否、不遜にも教皇を見限ったかのような落胆をありありと顔面に浮かべて踵を返した。相対する者が畏まらずにはいられない教皇の威厳の前でこのような態度をとれるというのなら、それはそれで彼の才覚と言えるのもかもしれない。
その態度に憤慨するでもなく、教皇はただ、天を仰いで瞳を閉じた。
が、その瞳はさらなる人物の声によってすぐに開かれる。
「――まったく、なんであんなのが枢機卿なのかねぇ。せいぜい商会の幹部ぐらいが関の山だろうに」
教皇はゆっくりと声のした方へ首を回した。すると、いつからそこにいたのか大聖堂の柱に寄り掛かるように一人の人影がある。
不躾な言葉同様、腕を組んで柱に背を預けた教皇を前にしているとは到底思えない態度。教皇に次いで地位の高い枢機卿ですらそのような態度をとる者はいないというのに、その者の衣服は紛れもなくローティス教の祭服であった。
ただ、彼女の着ている祭服は少しばかり特殊であった。基本的な構造はローティス教の修道女が着用する物に近いが、所々に改良が施され、身体の動きを阻害しないようになっている。また、心臓の直上にあたる場所に皮による部分的な強化が施されていることから、それが戦闘行為を想定しているものであると推測できる。
陽の光が再び差し、彼女を陰から追い出す。頭巾もかぶっていない露わになった真紅の髪が鮮やかに光を反射した。
まだ少女と言っていい年齢だった。短く刈られた赤毛と野性的な双眸が相まってともすれば少年にも見える。そうならないのは修道女のような衣装故であるが、ハスキーな声であることもあって衣装を変えれば性別を偽るのは容易だろう。
少女の呟きに教皇が答えた。彼女の態度を気を害した様子はない。
「我らローティス教も人の営みである以上、ああいった俗世的な者も必要だ。こと金銭にまつわる事柄なら彼奴ほど厳格なものはローティス教にはおるまい。それに、彼奴とて正式な手順でもって枢機卿の座についた信徒だ、多少ずれていたとしてもその信仰心は本物だ」
「金にがめついって言えよ」
と、にべもなく少女は肩を竦める。
「でもよ、あいつ、多分勝手に動くぜ」
「うむ……」
教皇は思案するように黙した。その表情には少しばかりの呆れが浮かんでいる。
そんな様子の教皇につかつかと歩み寄った少女は、まったく臆した様子もなく、手の平を上に向けて何かを要求するような仕草。
「そんなことより、だ」
少女が何を要求しているのか悟った教皇は、懐からあの魔族が所持していたという組紐を取り出してその手の平の上に載せた。先ほどの枢機卿とは対照的、無駄な肉が一切なく女性的な丸みすら乏しい骨ばった手。
組紐を受け取った少女は食い入るようにそれを検分すると、やがて沈痛な面持ちで呟いた。
「……間違いない」
「そうか……」
組紐を手の中に、そのまま手を組んで少女は祈る。その右腕には、今しがた受け取った組紐と同じ物が結ばれていた。
教皇も黙したまま瞳を閉じ、祈る。
二人の人間が、魔族の死に、祈りを捧げていた。それも片や大陸中の人々の尊敬と畏敬を一身に受ける教皇が、だ。このことが知れ渡れば、いったいどれほどの騒ぎになるか。極彩色の光に満たされた聖堂内に静謐な時間が訪れた。
どれほどそうしていたか、祈りを終えた教皇が重々しく口を開いた。
「――限界やも知れぬ。あの森は彼らには狭すぎる。公になるのも時間の問題だ」
「……ああ」
少女は組紐を握りしめた。
「そうなる前に、なんとかしねぇと……」
少女の言葉に教皇が頷く。
「“勇者特区”……今、この時期に勇者が召喚されたのはローティスの思し召しに他ならぬ。彼の者と話をせねばならん」
教皇は身体ごと少女に向き直った。
「その役目、お前を除いて適任はおるまい」
その言葉を聞いて少女は不適に笑った。悪戯っぽい笑顔が男勝りな顔立ちに実によく似合う。
「任せろ。あいつらはあたしの家族だ。あたしがなんとかするさ」
力強いその言葉を聞いて、教皇は一つ頷くと今一度極彩の窓を見上げた。
信者達もいない静かな日に、その目を覆わんばかりに鮮やかで巨大な睡蓮の花から注ぐ光を身に受けることが彼は好きだった。
いくつもの花弁が並び、重なり、一つの花となる。彼の花が表すモノは世界。数多の生命が折り重なりつつも一体となり、それを形成する様。絶妙なバランスで調和し、一つとなっているからこそ、その花は美しい。
そしてそれこそが、ローティス教が真に目指すべき世界の在り方である