終章 脈動を聴く者達
寒風吹き荒ぶ曇天。昼間だというのに空には薄い布地がかけられ、今にも雪が降り出しそうな赴き。今日が特別なのではなく、その地域一帯は一年のほとんどがそんな天候だ。吹雪いていないだけ天気が良いとさえ言える。
そんな気候であっても、植物は力強く生きている。濃緑の葉を寒風に揺らす針葉樹が広大な森となって広がっていた。
ラドカルミア王国が存在する大陸の遥か北。その大地は人間にとって決して踏み入ることのできない恐ろしい場所として知られている。
人間の敵、魔族が支配する領域。人間の入り込む余地のない場所として、そこは魔族領と呼ばれている。
針葉樹の森のただ中にぽつねんと城があった。
いや、それは城というにはあまりにも小さい。石造りの城壁に囲まれた多少背の高い屋敷といった方が正確かもしれない。ラドカルミア王国の王宮と比べればそれはあまりにも小さな城だった。
そんな場所に、魔族階級の最上位にあり、全ての魔族の頂点に立つ者が住んでいると言われて、いったい何人の人間が信じるだろう?
取り立てて警備が厳重なわけでもない。そもそもこんな場所では必要がない。魔族軍が壊滅でもしない限り、人間がここまで辿り着くことはありえないし、同じ魔族であるならば彼に剣を向けようなどと考える者は皆無であるからだ。
絶対的な強さによる絶対的な支配。それが彼であり、魔王という存在だった。
その魔王が、配下の魔族から献上された蒸留酒を舐める。そしてその手に持った青銅の杯を見てほぅと感嘆の溜息を漏らした。
「――これはいい。これを作った人間は殺さずに飼おう。小巨人族共ではこの繊細な味は作り出せん」
どこか艶のある妖艶な声色。容姿もまたその声に相応しい妖艶さを纏っていた。
目鼻立ちのはっきりとした輪郭、切れ長の双眸に生える長い睫毛と腰まで届く絹糸のように滑らかな銀糸の髪が合わさって、どこか中性的な印象を見る者に与える。見た者が男女問わず、はっと息を飲むような美しさ。
こうやって玉座に腰掛けているだけで、一枚の絵画を見ているような、計算されつくした芸術品のような美貌。しかしその姿を見た人間はほぼ存在しない。
なぜなら彼は魔王。魔族階級の最上位に位置する魔神族だからだ。その日焼けや雪焼けしたわけでもない生来の浅黒い肌と人間のそれより細長い耳、紅玉のように紅い瞳、そして何より銀の髪の合間から顔を見せる左右の角がそれを示している。
「お前もどうだ?」
そういって魔王はまだ中身の入った杯を前に差し出した。
「――お戯れを」
答えたのは魔王と向かい合うように佇んでいた女だった。
その女を一言で言い表すのなら、痩せぎすだった。すらりと伸びた両の手足は棒のように細く、胸や臀部といった女性的な部分も丸みが乏しい。そしてその両手の指は人間と比べて関節一つ分長かった。実際に関節も一つ多い。その指の長さも相まって、全体的なシルエットはどことなく昆虫を思い起こさせる。その上、額にはまるで目のように見える赤い宝石のような器官が象嵌されていた。
長指族。彼女らが一族で継承している魔法の知識は人間を遥かに凌駕するとされている。人間にとっては魔神族に次いで恐ろしいとされている種族だ。
どういう答えが返ってくるか予想していたのか、さして残念そうでもなく魔王は差し出した手を戻し、そのまま一息に煽る。
空になった杯をくるくると指で弄びながら魔王が口を開いた。
「それで、何の用だ?酒を届けにきただけじゃないだろう」
「はい。また観測されましたので、そのご報告を」
ぴたり、と。杯を弄ぶ指が止まる。
「ほう……また、か……」
魔王は杯を脇のテーブルに置いた。空いた腕を肘掛けに立てて頬杖をつく。
「勇者召喚で一度、それから半月ほどでもう一度、そしてさらに、か。これほど短期間に連続で“界脈”が観測されるとはな……人間共め、一体なにをしている……?」
人間共め、というわりにはその表情に嫌悪はなかった。寧ろ現状を愉しんでいるようですらある。
一方で女は目を険しく細めた。事態は笑っていられるような状況ではないのだ。
「――“界脈”が観測されたということは、界律魔法が行使されたということ。世界の運命が変えられたということです。こうまで頻繁にそれが起きるのは異常です……」
「そうだな。そうだとも。だからこそ面白いのではないか」
心底愉しんでいるような声色。女にはそれが理解できない。
この男は事の重大さを理解しているのだろうか、と。
長指族の魔法知識を持ってしても世界の運命を変える界律魔法というものはよく分かっていない。そもそも運命などという曖昧なものに作用するという不確かさに加えて、行使するために必要な準備の長さだ。目先の力こそ全てである魔族にとって、それほど悠長に準備して何かを為そうなどと考える者はいない。それゆえ界律魔法の知識ならば人間に後れをとっているというのが現状だった。
魔法というものに絶対の自信のある長指族であるからこそ、その事実は屈辱的であり、理解が及ばない大魔法への恐れは他の魔族よりも大きかった。
「この分だと、やはり勇者とやらの召喚は成功したようだな」
「未だ確認はできていませんが、おそらく」
界律魔法を行使するにはそれなりの準備が必要だ。準備が必要ということはそれだけ情報が漏れやすいということ。勇者召喚という界律魔法をラドカルミア王国が行使しようとしていたことは魔族も把握していたのだった。
知っていて、放置していた。
「遥か昔には、それで召喚された勇者が我ら魔族をこの北方まで追いやったそうではないか。嘘か真か、当時の魔王を討ち取ったとも。もっとも、魔族を絶滅させることはできなかったようだがな」
魔王がクックッと笑う。魔王を打倒しうる可能性のある勇者が召喚されたかもしれないというのに、当の魔王はそれを面白がっている。
女は側近の中でもっとも長く魔王と行動を共にしているが、いまだにこの魔神族の男が何を考えているかよく分からない。
「……もし界律魔法を自由に行使できる存在が勇者だとすれば、どれほどの脅威となるか計り知れません」
もちろん何かしらの制約はあるだろう。だが、それでもこの頻度で世界を改変されれば脅威どころの話ではない。
それはもはや、世界の革命だ。
「しかし、一度目の“界脈”は勇者が召喚されたものだとして、それ以降のものは何のために行使されたのか分かっていないのだろう?」
「はい。我らの記憶が改竄されていないとは断言できませんが……」
「ならば、それが分かるまでは動きようもない。何か変わったことはないのか?」
女はしばし考え込み、ふと思い出す。
「……まだ詳細な情報は不明ですが、ラドカルミアが捕獲した小鬼族を強制的に労働させている、という話があります」
「ほう」
魔王は興味深げに、さらに笑みを深める。
「小鬼族は強い者に従う習性がある。だが生来の獲物である人間に従うなど考えづらい……いったいどんな手を使ったのか……」
そこまで口にして、ハッとして目を見開く。紅玉の瞳が爛々と怪しい光を放った。
「そうか、それが勇者の力か……フフ、面白い……」
仲間であるはずの小鬼族が人間に捉えられたとの話を聞いても、その男に心を痛める様子は一切ない。いや、例え小鬼族でなくともそうだったろう。彼にとっては配下の魔族のことなどどうでもいいことなのだ。
魔王にとって関心のあることはただ一つ。自分が面白いか否か、だ。
「本当に勇者であるのなら、いつか必ず俺の前に現れる。ああ、楽しみだ……いっそこちらから出向こうか、フフフ」
妖艶に、そして狂気的に魔王は笑う。
魔神族族長、エディマ・ロマ・フラタナス。人間は彼のことを畏怖の念を込めて魔王と呼ぶ。
全ての魔族の頂点に立つ彼を斃さねば平和は訪れぬと人々は口を揃える。
この者を斃すことこそが勇者の使命だと人々は言う。
彼と彼女が、魔王と勇者が、運命によって相見える日は、そう遠くない未来だ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
次話からは小説で言う第二巻にあたる『天に吠える狼少女』が始まります。
よければユウの旅路にこれからもお付き合いいただければ嬉しいです。




