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夜陰

 気高く可愛らしい、僕の主、凪沙様は僕のすべてだ。


 彼女が僕のために空回りする様は見ていて痛々しく、けれど意地らしく思える。彼女はその間、僕のことで頭がいっぱいになる。僕なんかに神経を集中させてくれる。その理知的な両目が僕を映し、矮小なこの存在が刻み込まれる瞬間、僕は得も言われぬ喜びを感じるのだ。

 自身を一言で表すとするなら、それは『悪魔』だろう。僕は生まれたときから悪魔だった。人とは異なっていた。優しい凪沙様のお傍にいたことで、長らくその事実に気づけなかったのだけれど。


 凪沙様は幼い頃より慈愛に満ちたお方で、面倒見がよく、飾らない優しさで多くの人間から慕われていた。小さい頃の僕にはそれが嬉しい反面、もやもやと落ち着かない気持ちも覚えた。言いようのない不安、歯痒い思い。お慕いする方が笑顔でいられるのはとても喜ばしいことであるはずなのに。

 こんな感情は歪だ、間違っている。僕は清く正しくあらねばならない。そうでなければ凪沙様とは釣り合わない。間違ったものは直さなければ。それが正しいことだから。


 あの頃の僕は無邪気に信じていた。不当な感情は封じ込めて笑顔でいること。たとえ自身の希望に反しようとも、それが道徳的に正しいことである。そして僕にはそれができると信じていた。あの日までは。

 その日のことはよく覚えている。じりじりと焼けつくような暑さの中、悪戯っ子の顔をした凪沙様が空き地を駆け回る。まだ体格の良くなかった僕はついていくのに必死で、気まぐれに立ち止まる彼女の袖を掴むので精一杯だった。


『遥斗ってば遅いわね。次もあなたが鬼よ』


 困った弟を見るような目で凪沙様が笑う。僕の大切な時間。二人だけの時間。凪沙様は僕の息が整うのを待ってから、向こうの路地へと走り出した。

 ……そう、走り出した。僕は、気づいていた。振り向いて僕を見つめる凪沙様の後ろ。そこへ向かってきた車の存在に。

 ミンミンと蝉が鳴き立てる。凪沙様の意識は僕に向けられたまま。車が近づいてくる。あんなに遠くにあった車が。僕は声を上げない。微笑む凪沙様をぼんやりと眺める。


――あの車が凪沙様を轢いて、その美しいお姿を醜く変えてしまったら、もう誰にも見向きされなくなるのかな。

――哀れで、かわいそうな凪沙様。お優しい方だから薄情な彼らを恨めず、一人涙に暮れるのだろう。

――でも、大丈夫だ。僕だけはどんな凪沙様も愛してあげられる。嘆く貴女を目一杯慰めて差し上げよう。『みんなの凪沙様』は僕だけのものになる。それってすごく、


 魅力的だな。


 車のエンジン音が間近に聞こえ、はっとした。空想から現実へと意識が戻り、血の気が引いていく。僕は何を考えていたのだろう。こんな感情は許されない。

 そうだ、許されない。凪沙様の身を危険に晒すことになる。……だめだ。凪沙様を失うことになる。嫌だ。これは、だめだ。凪沙様は誰にも奪わせない。この考えはだめだ。

 すんでのところで誘惑を振り切り、不思議そうな顔をした凪沙様を全力で突き飛ばす。華奢なお身体は僕でも簡単に飛ばすことができた。だけど、もう、何もかもが遅い。


 スピードを緩めない鉄の塊が凪沙様を襲う。白く柔らかな御御足から鮮やかな赤が吹き出る。凪沙様の命の鼓動。凪沙様の一部。眩しい太陽の下で、それは残酷なほど綺麗に見えた。すべてがスローモーションになる世界で、宙に浮いた心地のまま凪沙様を介抱する。

 か細いお身体をこの手に抱いて、ようやく目の前の出来事が現実なのだと認識できた。と、同時に強い悔恨が押し寄せる。回らない頭でどうにか容体を確認し、降りてきた運転手に救急を要請する。要領の悪そうな男がたどたどしく携帯を操作するのを横目に、舌打ちしたい気持ちを堪えて僕は想い人の両手をぐっと握りしめた。


『守りきれなくてごめんなさい、凪沙様。痛いですよね……苦しい、ですよね。もうすぐ助けが来ますから……それまでの辛抱ですよ』


 意識を失った凪沙様が浅く呼吸する。出血は酷くなく、命にも別状はなさそうだが、外傷の痛々しさに涙が零れそうだ。一方で、自分の口から吐かれる言葉が気味悪く思えた。『ごめんなさい』だの、『それまでの辛抱』だの、今さら善人ぶって何がしたいのだろう。これは僕が招いた結果だ。ぎゅっと目を閉じて気を落ち着ける。僕に泣く資格なんてない。この罪を受け入れなくてはならない。


 それから凪沙様は近くの大学病院へと運ばれ、すぐさま手術が行われることとなった。手術を待つ間、一応の加害者である運転手と旦那様がどのような会話を行っていたかは知らない。だが奥様を早くに亡くし、一人娘を溺愛する旦那様が激情を露にしないとは思えなかった。そしてそれは当然、凪沙様を守りきれなかった僕にも及んだ。

 事情説明を求められ、事の顛末を簡潔に語った。意図的に詳細は省き、すべて僕のせいであると、あのとき感じた仄暗い思いを秘めたままそう告げた。


 そう、全部僕のせい。凪沙様の外出をいつも見逃していたのは、そうすることで二人の時間を得られるから。凪沙様を怪我させてしまったのは僕の判断が遅れたせいだ。あの瞬間、僕はお嬢様の身の安全と自身の身勝手な願望を天秤にかけた。そしてその天秤は確かに、一度だけ、僕の欲へと傾いた。


 言葉少なに、間違っても凪沙様に非があると思われないよう、そして僕の汚れた感情を悟られないよう情報を選別する。結果、僕は凪沙様が目覚めるまで屋敷の物置に軟禁されることとなった。食事は最低限、勝手な行動は許されず、できることといえば蹲って『反省』するだけ。旦那様は僕に罰を与えたつもりなのだろうが、僕としてはさほどつらくもなかった。生死にかかわることはないし、そもそも凪沙様以外のことなんて皆等しく些末なことだ。


 そんなことより凪沙様にお会いしたい。凪沙様に会えない方がつらい。


 とんでもない思考であると思う。こんな事態に至らせたのは僕であるのに。反省しなくてはならないのに。でも、だからこそ気づいてしまった。

 僕は凪沙様とはまったく違う人間で、つまりは『正常』からかけ離れた存在であり、この身には制御しきれない狂気が宿されている。そんな僕が正しい愛情なんて抱けるはずもなく、むしろ正しくあろうとした今までが間違いだったのだ。

 悪魔は悪魔らしく彼女を愛すべきだ。自覚してしまった以上、もうこれまでのようには振る舞えない。下手な演技は凪沙様を不審がらせるだけ。僕はもう彼女の良き友人ではいられない。彼女を欲することをやめられない。お腹が空けば食事をするように、夜が来れば人が眠るように、命ある限り、僕はこの欲から逃げられない。


 だからせめて、この狂気だけは隠し通すことにしよう。

 ちょっとやそっとのことでは剥がれない仮面を作り上げ、忠実な(しもべ)として彼女と接する。傷ついた様子のお嬢様には申し訳ないが、今の僕には時間が必要だ。焦れた彼女がらしからぬ言動をし始めたのは想定外だったものの、期待するような視線にすぐさま意図を察した。叱ってほしいのだろう。お嬢様は大変素直で可愛らしい。

 だが僕はもう友ではない、お嬢様の下僕だ。下僕は主に逆らわない。仮面は完璧でなくてはぼろが出る。


 ……だけど、ああ、お嬢様の周りにいる人間は目障りだな。

 僕の凪沙様であるのにその馴れ馴れしさはなんなのだろう。気に食わない、いや、不敬である。

 こんな人たちはお嬢様に不要なので、一人ひとり丁寧にお話をしてご退場いただく。中にはなかなか屈しない者もいたが、ちょっと背中を押して、ちょっと家族の話をすれば結局は逃げてくれた。最後まで粘ったあの女は入院して転校する直前、僕を『悪魔』だと吐き捨てたが、そんなのは今さらだ。落ち込むお嬢様を見守るのは心苦しかったけれど、あの程度で引き下がる人間なんぞそもそもお嬢様にふさわしくない。これで僕たちのもとに騒音のない平穏な日常が訪れる。


 これはその場しのぎの行動でしかない。どれだけ周りを排除しようとも、僕が従者でいる限り彼女の唯一にはなれない。友人とて同じだ。いずれ誰かのもとへ行く凪沙様を見つめることしかできない。そして、それはきっとそう遠くない。

 だから今はお嬢様の命じるままに動き、その優しさゆえの罪悪感を利用しよう。まだ見ぬ『誰か』のもとへなんて行かせない。僕が仮面を被らずとも狂気を包み隠せるまで、お嬢様にはこの不出来な下僕の手綱を握っていただく。

 いずれは僕が凪沙様を手に入れる。名実ともに彼女の唯一となる。きっと不自由はさせない。不都合な真実は葬り、頑丈に囲う檻も見えないようにしてみせるから。


――だから、それまではあなたの『下僕』でいさせてくださいね、お嬢様。

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