レモネードの泡
ご心配をおかけしました。執筆におけるパートナが無事に⸺いえ、多少姿は変わりましたが帰ってきてくれました。ゆっくりと物語を紡いでいきます。
「…ったく…またかよ…」
葵たちの住む上階。301号室の住人、加茂大悟は憤っていた。
3ヶ月ほど前からするようになった階下からの夜泣き。
加茂の職業は記者⸺不規則な生活を強いられる者にとって睡眠妨害は許しがたい蛮行のように思えた。
⸺自分がかつて通ってきた道だとしても。
朝を待ち、201号室へ。
チャイムをやや乱暴に鳴らす。
申し訳なさげに出てくる気弱そうな女。
加茂は、一気にまくし立てる。
「奥さん⸺先日も申し上げましたがね…その夜泣き、なんとかならないもんですかね…」
葵はただただ頭を下げ「すみません…」と謝るばかり。
「次は⸺管理組合に話を持っていきますからね。ったく…自分の髪の手入れするくらいなら寝かせる方法でも調べろよ…」
そう言って去ってゆく加茂の言葉が葵の胸に刺さる。
(育児してたら…身だしなみひとつ整えるのも駄目だと言うの…?)
そんな葵を見るとシーゴはそっと近寄ると、こう言った。
「葵、気にしなくていい。子供責めるな来た道だ、ってね…昨夜は僕の子守唄でも琢磨はぐずってしまったからね…。至らなくて申し訳ない。」
葵は顔を上げるとシーゴを見つめる。
少し困ったような優しい笑顔。シーゴは葵の手を引くとキッチンへと誘う。
「気分転換だ、葵。冷蔵庫にいいものを見つけた。」
総司が出かけたあとの静かなリビング。今は安らかな顔で眠る琢磨の横に小さな椅子を持ってきて、葵は腰掛ける。
シーゴは野菜室からレモン、棚から砂糖を取り出すと、レモンを手際よく輪切りに。そしてそれを耐熱ボウルに入れて、砂糖を多めにかけると電子レンジへ。
軽快な電子音が鳴り、ホカホカのレモンシロップが出来上がる。
「旦那様の晩酌用だろうけど…ほんの少しいただくよ。」
そう言うとシーゴは炭酸水を手に取り、まずレモンシロップをグラスに。そこに氷を目一杯入れると炭酸水を注いでいく。
そして輪切りにしたレモンを添えて、そっと葵に差し出した。
「本当ははちみつがいいのだけど…琢磨には良くないから。ごく簡単なものだけど、さあどうぞ?」
葵は差し出されたレモネードを受け取ると一口。
たちまちに爽やかな香りと濃い甘みが口内を蕩かしてゆく。
「美味しい…!」
気づけばごくごくと喉を鳴らして飲んでいた。
「お気に召したかな…?」
シーゴが顔を覗き込む。
葵はパッと目を輝かせて一言。
「ええ、とても…。こんな簡単にレモネードができるのね…。」
シーゴはその葵の表情を見て穏やかに微笑むと琢磨を見やる。琢磨はすやすやと眠っている。
「琢磨も大丈夫そうだね…少し外へ出てくる。用事があればスマートフォンのアプリ、Capricornusに入力すればすぐ駆けつけるから、ね。」
そう言ってシーゴは銀髪をかきあげながら音もなく外へと出かけて行った。
301号室の前にシーゴは立つと、ふうっと息を吹きかける。すると⸺
備え付けの簡易な郵便受けがミシリ、と音を立ててひしゃげる。
中にいた加茂が何事かと玄関まで出ていくと、アルミ製の郵便受けがまるで巨人に握りつぶされたかのようにひしゃげ、中の郵便物が散乱していた。
「な…!?」
まるで事態が把握できぬまま声にならない声を出すと次は、ドアスコープがくるくると回り⸺ついには外れて加茂の顔面めがけて飛んできた。
「ぎゃっ…!なんだよ、何なんだよこれぇ!!バケモンでもいるのか!?」
慌てふためく加茂を外れたドアスコープ越しに確認するとシーゴは満足そうに201号室へと戻って行った。
「どこ…行ってたの…?」
不思議そうに尋ねる葵にシーゴはウインクすると、一言。「野暮用。それよりもレモネードのおかわりは?」
葵はしばらく不思議そうにそれを見ていたが、先程の酸味と甘み、そして爽やかさを思い出すとおずおずとコップをシーゴに差し出す。
シーゴは微笑むとまた手際よくレモネードを作り、葵へ渡す。
そしてこう呟いた。
「ねえ葵…嫌なことは全てこの泡に溶かしてしまえばいいよ。シュワシュワと弾けて消えてしまうから、ね?」
その言葉に葵は一瞬躊躇いを見せたが⸺にっこり笑ってこう答えた。
「そうよね…うん。ねえシーゴ、レシピ教えてちょうだいね。私一人でも作れるように。」
グラスの中で炭酸の泡が揺れる。
水面まで達したそれがパチン、と小さな音を立てて弾けるたびに⸺心を覆っていた分厚い雲が晴れてゆくようなそんな気分になる。
外は晴天。雲一つないそのブルーが、葵の心模様と同様になりますように、とシーゴは静かに祈っていた。




