四話
伊礼環。イレイ、タマキ。名前も苗字みたいな人。
それが、中庭から通じる狭い場所でバットを振っていた人の名前だった。しかも一人で。私にボールがぶつかりそうになったのを謝った後、ちゃんと自己紹介を始めるものだから、私もつられて名乗ってしまった。
学年までは伝えてないけれど。
「あんまり大っぴらに練習できないからね」
彼はそう言ってまた器用にボールを投げ、自分で打っていた。バッティング練習三割、ノックの練習七割ってとこだろう。
「どうして、あの……こんな場所で練習してるんですか?」
とりあえず誰でもつっこみたくなるようなことから尋ねてみる。すぐに立ち去ってしまっても良かったのだけど、なんとなく一人で練習を続ける彼を見ていた。
「……ふぅ」
ブンッとバットを振った後、用意していた真っ白いタオルで顔を拭いながらこちらを振り向く。それからバットを立てて私の目の前に座った。
「あれ。知らないのかな? 野球部のこと。まぁ、運動部に興味がなかったらそういう人もいるかもしれないね」
運動に興味……。あるわけない。それは私とは無縁の世界だ。
「去年の春にさ。俺が入学したころ。あ、俺は今二年生ね。そのころに野球部でちょっとした不祥事があったんだよ。そして今は野球部の不祥事には恒例の『一年間の活動停止』ってわけなんだ。よくある話だろ?」
「活動停止してないじゃん、あなた」
「君、結構厳しいこと言うね」
思わず年上に地で突っ込んでしまった。確かに野球部員の不祥事については去年に聞いたことがある。
「実は俺、入学してすぐに風邪で休んでてさ。入部届けを出してなかったんだ。つまり、俺は野球部の正式な部員じゃない。部員じゃないから活動停止も関係ないって話さ。運がいいな俺は」
「入学してすぐに風邪ひいたり、入る予定の部活が活動停止になったら運悪くないですかね?」
「そうかな?」
「そうですよ」
「それに、活動停止してないっていいわけも、ちょっと無理があるんじゃないですか?」
「ははは。俺もそう思うけど。まぁ今まで誰にも何も言われなかったからね。校舎の裏だしグランドも使ってないし」
「一年ずっとこんな場所で練習してたんですか?」
「そうだけど。でもまぁ驚いたよ。まさかここに人が来るなんてさ。危ないからいつもは素振りしかしないんだけど、今は春休みだし誰も来ないだろうってボールを打っていたら悲鳴が聞こえて。君は運がないよね」
「う……」
そうとう運がない人に、運がないといわれてしまった。でも私も一日に二回ボールに襲われてるし、相当ついてないのかもしれない。
「じゃあ四月からまた、野球部に戻るんですね」
「……そうだね。俺はそうするつもりだけど。部員が集まるかが問題だなあ。ここってさ、野球結構強かったんだよ。名監督がいるって有名だったんだ」
「へー」
へーといいつつ実は知っていた。ここが元々野球の名門校だってこと。
「でも、事件のあと目ぼしいメンバーはいなくなっちゃったんだ。部員も、監督もね。だから現在の野球部員はゼロ。俺もまだ入部してないってことになってるからね」
「それは……」
「他の部活の連中も、野球部がなくなった分、グラウンドを広く使えて嬉しそうだし。人が集まらなかったら本当に廃部になってしまうかもしれない」
確かに野球というスポーツは場所を取るスポーツだ。部活動におけるグラウンドの占有率はトップクラス。それに見合うだけの部員数を確保している学校が大半だから文句も出にくいだろうけど、部員が一人の野球部にグラウンドの使用許可が降りるとは考えにくい。
「もし部員が集まらなくて、グラウンドも使えなかったらどうするんですか? 練習だって全部無駄になるんじゃないですか」
無駄なことはしない。それが私の信念。彼はどうなんだろうか。
「それは、その時に考えるよ。俺、野球好きだから」
「はははははは……」
うわあ。この人今、光ってたよ。ピカッて。笑顔と夕焼けがダブルで眩しい!
「あ、悪いけど暇だったらちょっと手伝ってくれないかな」
「いいですけど、私で大丈夫ですか?」
「うん。俺が打つから、この辺にボールを投げて欲しいんだ」
あれ? 今私なんて返事をした? OK? えっと、私は……暇。なのだろうか。学校探検もそろそろ終わりだし、特に目的もない。学校の片隅でバットを振るう好青年の頼みを断る理由が見つからない。
だからと言って手伝い理由も見つからないはずなのに。
「まぁ簡単だから。ちょっとやってみて」
立ち上がりバットを構えたタマキは、自分の腰のちょっと方を指差している。
「こう……ですか」
ひょいっとボールを放ると、バットがとんでもない速さで振られた。前のほうに用意されていたネットにボールが突き刺さる。
「そうそう。どんどん頼む」
「……分かりました」
正直な話をすると、目の前を金属バットが行き来するのはかなりの迫力があり、怖いと思う部分もあった。
でもそれは彼がバットを十回も振ればなくなっていた。私が投げたボールを真剣な目で追って、確実にバットで捕らえる。そのスイングは安定していてブレがない。だから怖さもない。
ボール入れの中に山盛りになっていた白球をどんどん投げていく私。彼は一心不乱にバットを振り続けている。表情はとても真剣で引き締まっているけれど、私には楽しそうに遊ぶ子供に見えた。きゅっと結ばれた唇が今にも笑い出してしまうような錯覚を覚えた。
彼はずっと一人で練習していたのだろう。人も来ないようなこんな場所で。だから私みたいなもやしっ子の手だって借りたいんだ。
「はぁっ、はぁっ。ありがと。もういいよ」
どれくらいボールを投げただろうか。全力でバットを振っていた彼は息を切らしている。片手でボールを投げていた私も息が切れそうだ。なんという体力差。
「君、結構上手だね。何か球技やってたりする?」
「しません」
自慢じゃないけど、スポーツらしいスポーツは球技に限らず未経験です。
「じゃあ才能があるんだね」
「それは絶対にありません」
こいつの目は節穴か! 誰にあったとしても私にはそれはない。
「そうかな? じゃあ明日からも宜しくね。片倉マネージャー」
「はい。ってあれ?」
「ありがとう」
ん? マネージャー?
「いいいいい、今のなし! マネージャーって何ですか急に!」
「残念だけどそれは却下する」
「却下を却下させてもらいます」
何だこの男! 急に何を言い出す!
「男に二言はない」
「私は女の子です!」
「明日からも宜しくという言葉に、二言はないという意味だ」
「それは私に関係ないでしょう!」
「そう?」
「そうです!」
優しい笑顔に騙される所だった。
「う~ん……」
「私なんていても役に立たないですよ。もっと他の人を誘ったらどうですか」
それもまた本音。私が役に立つはずがない。
「そんなことないぞ。ちゃんと考えて言ったし。一緒に野球やろうぜ?」
うわあ、くすぐったい。その笑顔がくすぐったい。
「私はスポーツ全般が余り好きじゃないんですよ」
「ジー」
私の両目を、彼は深い目で覗き込んでくる。
「な、何ですか! 近いですよちょっと!」
ううう。あの目で直視されるのは何か恥ずかしい。何だか私の、見られたくない部分まで見通されてしまう気がする。
「……分かった」
分かってくれたらしい。
「とりあえず明日も来て欲しい」
「分かってないじゃないですか!」
「いや。明日まででいい。明日の練習まで付き合ってくれたら、きっと君は野球が好きになる。間違いない」
自信満々だった。
「……野球って一人でするものなんですか? 私入れても二人ですけど」
「うっ……」
自信が崩れたようだ。面白いように表情が変わる。
「しょうがないですね」
「え?」
なぜか私が折れてしまった。なんでだろ? なんだか可哀相だったから? 笑顔がちょっと可愛かったから? わからない。
「明日。明日までだったらいいですよ。私も予定ないですし。でも、本当に明日までですからね。マネージャーとか私できませんし」
それは気分的の問題でもあり、体の問題でもありなワケで。
「了解、片倉マネージャー!」
「だからマネージャーは出来ませんってば!」
人の話を聞かない人だった。大丈夫かなぁ。明日だけで終われるのだろうか。
私とタマキが漫才のようなかけあいをしていると、もっと冗談のような会話をしている人物の声が聞こえてきた。
「あー、かーちゃん? 俺だけど。……あぁ? 詐欺じゃねーっつーの。俺だって。息子のイタル。 そうそう。だから俺だって言ってるだろ。番号見ろよ」
馬鹿な会話をしている馬鹿そうな声は、聞き覚えのある声だった。




