遠慮します
中華料理店を出ると、再び未央の家に向かって歩き始める。
途中、ドラッグストアに寄ってカフェイン飲料を買った未央は、実のところまだ締切ラッシュが終わっていなかった。
真っ暗な道を、二人はほんの少しだけ距離を縮めて歩いていく。肘が当たるか当たらないかの距離に妙な緊張感が走るが、互いに意識していることを気づかれてはいけない気がした。
(手を繋いでもいいんだろうか……?)
指先に意識を集中するあまり、二人は無言でただ歩いていく。
しかし先に断念したのは未央だった。
(ダメだ、手に中華の油がついてたら困る。もっとおしぼりで拭けばよかった……)
コートのポケットに手を入れて、冷えた指先を丸めてしまう。
小鳥遊もそれに気づき、時間差で自分も手をポケットに突っ込んだ。ひんやりとした風が吹き抜け、何の特徴もない田舎の薄暗い道をゆく。
未央がふいに口を開いたのは、視界に古民家を捉えてからだった。
「来てくれてありがとう」
小鳥遊は驚いて、未央を見る。
「連絡できなかったし、まさか今日小鳥遊さんに会えると思わなかった」
「いや、急にごめん。でもなかなか平日は時間がなくて、今日なら会えるかなって」
「うん。最近ずっと篭ってたから、このままじゃ今週いっぱい会えないままだったかも」
実は毎日のように一階の畳や床で寝ていたなんて言えない、未央は自嘲気味に笑ってごまかす。
「あ、それに白狐さんのおかげで膝にくっついていた猫っぽいあやかしを取ってもらえて助かったんだ」
「膝に猫!?」
目を丸くする未央に、小鳥遊は苦笑する。事情を説明すると理解してもらえたが、いつどこであやかしに憑かれたのかまるで記憶にない。
「気を付けてねって言っても、気を付けようがないよね」
二人の脳裏に、絡新婦の記憶がちらりと浮かぶ。
「うん……。それに前もそうだったけれど、白狐さんがいないと視えてもいなかったからどうしようもない。まぁ、無害らしいからよかったけれど」
すでに十分被害を被っているのでは、と未央の頭に疑問符が浮かぶ。
「あの、用事がなくても体に異変が起きたらすぐに来てね?」
白狐がいれば、すぐに祓ってもらえるのだ。遠慮はしないでと未央は伝える。
「そっか。じゃあ、また来る」
「うん。仕事してるかもしれないけれど、来てくれたら……その、私もうれしいし」
虫の音が響く中、二人はゆっくりと歩く。今夜は心地よい寒さだった。
しばらく歩いていると、ふと未央が小鳥遊の上着の肘あたりを持って呟くように言った。
「あ、明日真さん、明日真くん? ……って呼んでもいい?」
白い息が舞い、頬はほんのり染まっているように見える。小鳥遊は驚きつつも、大きく頷いた。
未央はマフラーに顔を埋め、ホッと息をつく。ずぼらで連絡もあまりしない未央だったが、小鳥遊がわざわざここまで会いに来てくれたことに応えたい、そう思う。
(大事なのは積極性! 長万部先生の『明治浪漫ラブストーリー』参照!!)
長万部はるかの描く『明治浪漫ラブストーリー』は、明治中期の女学生が突然現れた許嫁と恋に落ちる純愛少女漫画である。
(あれ、でも令和に明治の恋愛を参考にしていいのか……?)
参考文献が明治時代の恋になってしまったのは今後の不安要素だが、作中の硬派なヒーローが小鳥遊っぽいなと感じた。それに昨今の少女漫画の関係性の深まり方は、十八禁かと思うほどに展開が早い作品も多く、とても自分たちの参考にならない。
ひかりがいれば「少女漫画なんて参考にならないよ」とあっさり否定されそうだが、未央にとっては明治の恋くらいの進行速度がちょうどいい。
まずは名前を呼ぶことから。
「そういえば、私のことはいつまで未央先生って呼ぶの?」
「あ」
指摘され、小鳥遊は気まずそうに目を伏せる。
「私も名前で呼んでほしい。って、名前だけれど……先生はナシで」
小鳥遊の顔を覗き込むと、彼はちょっと詰まったが未央の要望に応えた。
「未央さん……未央?」
呼び捨てにされて、未央は驚く。
「は、はい」
「未央」
急に恥ずかしくなり、今度は未央が目を逸らした。
「なんか付き合ってるみたい……!」
両手で顔を覆い、天を仰ぐ。未央は恋人同士らしい甘い空気に耐性がなかった。
小鳥遊は苦笑いで「付き合ってるから」と指摘する。
(すごい進歩だ)
予想外のハグもして、今日は恋人同士っぽい一日だと思う二人だった。
ところが、そんな達成感は出迎えた白狐の一言で脆くも崩れ去る。
『おまえたち、まだ手も繋いでおらんのか』
「「…………」」
呆れを通り越し、白狐が口元を引き攣らせている。
亀のように進みの遅い二人の様子に、あやかしですらもう何も言うまいと目を眇めるのだった。
古民家に戻ってきた二人は、小鳥遊が買ってきたケーキを食べることに。
「ねぇ、白狐さん。ぬらさんは?」
『あやつは気まぐれじゃ』
最近はどこかフラフラしているらしく、姿を見せていない。
「そういえば、ぬらさんはここに住んでるわけじゃないんだな。俺はてっきり……」
住人のように思っていたが、ぬらりひょんはたまに遊びに来るだけのあやかしである。小鳥遊は勘違いに気づき、苦笑いになった。
ホールのチーズケーキは、四~六人分。未央は小鳥遊の勘違いにクスクスと笑い、カットした残りの半分をまた冷蔵庫にしまう。
「仕方ないですよ。なじみすぎて、住人っぽくなっていますもん」
切り分けたケーキを載せた皿をテーブルに置くと、ことりと高い音がする。
だがそのとき、居間の襖がさっと開いた。
『呼んだ~?』
「「ぬらさん!」」
タイミングよく現れたぬらりひょんは、着物の青年姿だ。
しかも今日は、新たなあやかしを連れている。
『白狐様、お久しゅうございます』
甘えるような色気のある声。ぬらりひょんの後ろには、赤い派手な着物を纏った花魁風の美女がいた。
美しく結い上げた黒髪に派手な簪、露わになった白い肩、そして前結びの豪奢な帯。浮世離れした姿は、時代劇の中から飛び出してきたかのよう。
『ほう、これは懐かしい』
白狐の知人でもあるようだ。
未央と小鳥遊が花魁風のあやかしを凝視していると、彼女は妖艶な仕草で小鳥遊のそばに近づいた。
『かわいらしい子がおりますなぁ。人の子にしては霊力が強くておいしそう』
「おい、しそう……!?」
女のあやかしは、小鳥遊の手を取り、うっとりとした顔つきで見上げる。
『わらわは火の閻魔じゃ。人間の男の精魂を好物としておるのでな、仲良うしてくれるかえ?』
「は!?」
怯えを見せる小鳥遊を見て、白狐はにやりと笑う。
『我の縁である限り、手出しは許さんぞ。戯れはよせ』
『まぁ、残念。でもわらわとて、もっと熟した男を食したいのう』
くすくすと笑う火の閻魔を見て、小鳥遊はからかわれたと悟る。
未央は、盃を傾ける白狐に戸惑いながら尋ねた。
『えーっと、火の閻魔さんは白狐さんの恋人ですか?』
あやかし同士の恋には興味がある。しかし未央の期待は裏切られた。
『そんなわけがあるまい』
ぴしゃりと否定した白狐は、冷めた目で火の閻魔を見る。
『ふふっ、わらわは誰のものでもないわ小娘。そもそも、白狐様はわらわに傅いてはくれぬ』
火の閻魔は、いわば女王様タイプ。
同じく帝王タイプの白狐とは恋仲になれるわけがないと笑った。
『今日はぬらりひょん様に偶然会うて、白狐様にもご挨拶をと思うただけじゃ。何でもびぃえるなるものを描く小娘の家におられるとか……』
「あ、はい。それ、私です」
未央はおそるおそる手を挙げた。
火の閻魔は、未央のことを上から下までじろじろと観察する。
『かような小娘のもとに、白狐様が? 何の色気もないではないか』
「そんなこと言われても」
花魁のように着飾ったあやかしと、普段着で化粧っ気もない自分。
(美女あやかしからのマウンティングを感じる……!)
火の閻魔はふんと鼻を鳴らすと、蔑みを含んだ口調で言った。
『まぁ顔は悪ぅない小娘じゃが、わらわの美しさの足元にも及ばぬな。それに愚かにも男同士の愛を描くとは、よほどこの世を儚んでいると見える。哀れじゃ』
その言葉にカチンときた未央は、相手があやかしであることを忘れて反論する。
「はぁぁぁ!? 愛に貴賤はないんです~! 男同士の、男同士でしか築けない深い愛っていうのがBLにはあるんです!!」
しかし火の閻魔も譲らない。ずいっと未央に顔を近づけ、高飛車に言った。
『男は皆わらわのものじゃ。男が男と愛を紡いでは、わらわのものになる男が減るではないか。そうなれば、そちのような小娘を相手にしてくれる男はますます減るぞ?』
「現実と二次元は違うんです! そこを一緒にするのは作品に対する冒涜ですよ」
『ふんっ、小娘が。BLなんぞ滅べばいいわ、気色悪い』
「ご自分の価値観を押し付けないでくれますか!? 嫌いなら嫌いで読まなきゃいいだけですよ!」
睨み合う二人。
小鳥遊は未央の肩に手を置いて、「落ち着いて」と宥める。
「未央、挑発に乗ったらだめだ。趣味や意見の合わない人はどこにでもいるんだし」
「明日真くん」
二人のやりとりを見ていたぬらりひょんは、驚きの声を上げた。
『小鳥遊、ちょっと見ない間に成長したねぇ。未央のことを未央って呼ぶようになったんだ?』
褒め言葉を口にしつつ、小鳥遊の身体に手を回すのも忘れない。
『お祝いに色々と教えてあげようか?』
背後からのしかかられ、小鳥遊は慌てて逃げようとする。力で敵うわけもないが、なされるがままというわけにもいかない。
ぬらりひょんがシャツのボタンを外しにかかると、小鳥遊は必死で抵抗した。
――カシャシャシャシャ!
テーブルの上にあったスマホを一瞬で起動した未央は、もはや癖になっている連写する。
「きゃあっ! ぬらさん攻めがすごい!!」
人は、恋人ができたところで根本は変われない。彼氏が襲われていても、未央は未央だった。
『人にしては力があるじゃないか、小鳥遊。ま、僕らには蟻の抵抗に等しいけれど』
するするとシャツの中に手を入れるぬらりひょんは、小鳥遊の抵抗を面白がっていた。
「離れてください!」
叫ぶ小鳥遊は、いつも通り全力で抵抗しているがまるで敵わない。
「う~ん、もうちょっと大胆な構図が欲しいような」
未央はすっかり漫画家モードに入っている。
『同感だ。我もそれは気になっていた』
白狐はぬらりひょんと代わって小鳥遊の耳元に顔を近づけ、囁くように言った。
『どれ、未央と寝る前に我とどうだ?』
「なっ……!」
慌てて体をよじるが、ときすでに遅し。首筋を噛まれた小鳥遊はザザッと勢いよく襖の方へと飛んだ。
「あぁっ! 白狐さん! 過剰なセクハラは禁止ですよ!?」
スマホを手にした未央が、白狐を叱る。
「未央先生、過剰でなくてもセクハラは禁止されています」
「あ! 今、先生って言いました!」
「……未央」
二人のやりとりを見て、片膝を立てて座った白狐はニヤリと笑った。
『このペースでは閨に持ち込むまでに何年かかるやら……。幼子の戯れを見ているようだぞ。我の手ほどきが必要とは手のかかる男だ』
「「それは遠慮します!」」
『それとも何か、火の閻魔に指南を受けるか』
思わぬ提案に、小鳥遊は全力で首を横に振る。
『うふふ、若い男はそれだけでかわいく見えるのう。あいわかった、小娘相手では物足りぬときにはわらわが直々の相手をしてやろう。ただし生きて帰れるかはわからんがのう』
「だから遠慮しますって! 俺には未央がいるので十分です!」
『なんとまぁ、面白みのない男じゃ。それはそれ、これはこれと行かぬのか』
なぜか期待外れだと罵られる小鳥遊。
ぬらりひょんは彼らを横目に、テーブルの上にあったチーズケーキを指でつまんでおいしそうに頬張る。白狐と違い、彼は甘いものが好きらしい。
『ケーキっておいしいよね~。千年生きてきた甲斐があるな~』
「ぬらさん、マイペースすぎます」
『そう? この世は自分のペースで生きなきゃだめだと思うよ?』
あっという間に消えていくケーキ。
ぬらりひょんは三人分を平らげて、満足げに笑っていた。




