恋は進む?
二人が付き合い始めて、約三週間。冬にしては暖かい日だった。
日曜の夕方、小鳥遊は古民家へと続くあぜ道を一人で歩く。
まさかこんな風に、彼女の家に行くことになるとは。四か月前には想像もしていなかった事態だ。
『突然ですが、そっちに行ってもいいですか?』
そんなLIMEを送ったのは午前中のこと。未央からは、まったく返信がない。
前任の夏目から、担当になった直後に「未央先生、締切前は死んでるから……」と事前に言われたことを思い出す。
少し様子を見て、すぐに帰ろう。
そう思って古民家に向かう小鳥遊は、なぜだか両足が重だるいことに気づく。
デニムの上から違和感のある膝や腿をなぞって確かめるが、特に異変があるようには思えなかった。
きっと気のせいだ。そう思い込んで、見慣れた轍を踏みながら進んでいく。
――リィン……。
古民家に到着して呼び鈴を鳴らすが、案の定返事はない。鍵はすでに修繕が完了し、しっかりと戸締りされている。
しんと静まり返った古民家は、ここだけが世間から切り離されているかのよう。
未央が出てくる様子はなく、庭先に回ってみようかと思っていたとき、白いふわふわした狐耳が扉からするっと透けて現れた。
『小鳥遊か。すぐに開ける』
「あ、ありがとうございます」
白狐に招き入れられ、小鳥遊は玄関から中へと入った。
しかし襖を開けて顔をのぞかせるとそこに人の姿はなく、不思議に思ってさらに台所を覗けば、冷たい床で寝ている未央の姿があった。
「未央先生!?」
慌てて駆け寄る小鳥遊。白狐は慣れた様子で端的に言った。
『さっき寝たばかりだ』
「寝た!? 寝たっていうか倒れてますよね!?」
風呂上がりだったことがうかがえる生乾きの髪、床に落ちているきなりのタオル。まだ食べていない味噌汁の入った鍋は、すでに冷え切っていた。
仕事部屋の畳の上には、印刷した原稿が散らばっているのが見え、今の今まで未央がそこに座っていたのが想像できる。
「これが修羅場っていうやつか……」
しゃがみこんだ小鳥遊が口元を引き攣らせていると、白狐がポンと彼の肩を叩いた。
『起こすか?』
「いえ、さすがにそれは可哀想だと。でもこのままじゃ、殺人事件の現場みたいですよね」
『売れない漫画家殺人事件か』
「あの、未央先生はそんなに売れていないわけでは……」
人気漫画家とも言えないが、売れない漫画家とも言い難い。真面目に考え込む小鳥遊に向かって、白狐は突然指をさして尋ねた。
『して、おまえそれはどうした?』
「どうした、とは?」
質問の意味が解らない。きょとと目を瞠る小鳥遊に、白狐は視線を落とす。
『また憑かれているぞ』
「え? 憑かれているって一体」
白狐の視線を辿り、小鳥遊もゆっくりと自分の足元を見る。すると自分の両膝に、さきほどまではまったく視えなかったあるものがいた。
「え、猫!?」
『どこでこんな雑魚を憑けてきたのだ。もうとっくに途絶えたと思うておったが、すねこすりがここまで懐くとはめずらしいものよ』
「すねこすり?」
青みがかった手のひらサイズの小動物が、小鳥遊の膝に巻き付くように張り付いている。懐いていると白狐が表現したように、その猫のような不思議なあやかしは、膝に巻き付いているのが心地いいとばかりに目を細めてあくびをしていた。
『害はない。ただ邪魔なだけだ』
白狐はふんと笑うと、長い爪先でひょいとすねこすりを引き剥がす。
『ここまで憑かれやすいのも笑い種だ』
まったく笑えません、とがっくりと肩を落とす小鳥遊だったが、白狐はにゃあにゃあと鳴くすねこすりを狩衣の袂に入れるとくるりと背を向けた。
その袂の中は一体どうなっているんだ、小鳥遊は漠然と疑問を抱く。
『では、後は任せたぞ。今日は早めに戻る』
「え! あの」
気まぐれなあやかしは、人の言うことなど聞いてはくれない。白狐はふわりと宙に浮き、くるりと背を向けるとその姿を消した。
「えええ……」
床で眠る未央の傍ら、ぽつんと残された小鳥遊はしばらく呆然としていた。
(ここからどうする!? とりあえず二階に運ぶか!?)
未央は小鳥遊たちの声にもまったく反応せず、床にうつ伏せで眠っている。
とりあえず仰向きにしてそっと首の下に手を差し込めば、柔らかい髪や肩の感触が妙に生々しい。パーカーにジャージというラフな姿だが、あまりに無防備な姿に心臓が跳ねる。
彼がいかに緊張しながら未央を抱き上げ、なんとか二階に運んだことを彼女は知る由もない。
(生きてる……?)
あまりに熟睡している未央を見て不安に駆られた小鳥遊は、ベッドに寝かせた未央の頬にそっと指先で触れた。
生存を疑うほどに白い顔。そういえば雪女っぽいな、と初めて思った。
「んん……」
触れると少しだけ身じろぎしたことに、ホッとして笑みが漏れる。
ベッドに腰かけた小鳥遊は、これからどうしようかと悩んだ。じっと未央の寝顔を観察するが、不躾なことをしているのではと思ってソファーへ移動する。
(しばらく起きそうにないな)
部屋をあまり見るわけにもいかず、スマホをいじって時間を潰すことにする小鳥遊だった。
◆◆◆
三時間後、目を覚ました未央はしばらく天井を見上げぼんやりとしていた。
(あれ、私寝てた……?)
温かい毛布。いつの間にか自分の部屋にいるという状況に混乱することもなく、目を擦りながらその身を起こす。
ひんやりとした空気が肌に触れ、思わず身震いをした。
そしてベッドを出ると、そこにいた人物に気づき息を呑む。
「小鳥遊さん!?」
ソファーに座るその人は、目を閉じて眠っていた。手から滑り落ちたのであろうスマホが座面にある。
(なんで!? いつからここにいるの!?)
混乱する未央は、そっと彼に近づいた。じっとその寝顔を見つめるが、紛れもなく小鳥遊であり、自分の恋人である。
思わず触れそうになるが、パッと手を引っ込めて自制する。
(好きな人の寝込みを襲っていいのは、少年の受けのみ! あぶないあぶない)
小鳥遊の目の前にしゃがんだ未央は、寝息も立てずに熟睡している彼を見てつい頬が緩む。
(かわいい)
そして気づいた。自分がパーカーにジャージという、付き合いたての恋人に見せられるような恰好ではないということに……。
一瞬、「ジャージが黒だからいいか?」という考えがよぎるが、さすがに最初からこれはいけないと思い慌てて着替えようとする。
しかし立ち上がろうとしたそのとき、目を覚ました小鳥遊と目が合った。
「未央先生……?」
ジャージ姿を見られた。未央は後悔の念でいっぱいになる。
小鳥遊はそんな未央の気持ちなど知らず、ぼんやりとした頭でその手を伸ばした。
「よかった、生きてた……」
「え?」
腕を捕まれぐっと引き寄せられた未央は、小鳥遊に向かって倒れ込む。
(小鳥遊さぁぁぁん!!)
ぎゅっと抱き締められてパニックになった未央は、その生温かさに思わず叫んだ。
(初めてのハグがジャージってぇぇぇ!)
心臓が激しく鳴り、全身が緊張に包まれて硬直する。
しばらくその状態は続き、眠気が去った小鳥遊は自分の状態に気づき動揺した。
「未央先生」
「な、なんでしょう」
少しだけ顔を上げた未央だったが、腕が弱まることはない。中腰で、膝がガクガクしているがとてもそんなことは言えない。
小鳥遊は、とにかく謝ろうと思い口を開く。
だが気持ちは正直だった。
「すみません、もうちょっとだけ離したくないです」
「えええ……マジですか」
未央の肩に顔を埋めた小鳥遊は、本当にこの状態から動きそうになく、互いの心音が早く鳴るのを感じていた。
(ジャージだけれどいいのかな。でも私もがんばらないと……)
未央は意を決して、彼の背中に手を回す。自分とは違い、がっしりした体つきに今さらながら気がつく。
「「……」」
ここからどうしていいかわからない二人は、随分と長い間抱き合ったままで過ごしていた。
(こんなとき白狐さんがいてくれたら)
心の中で助けを乞うも、完全に二人きり。
未央は必死で少女漫画やBLの名シーンを思い出すが、役に立ちそうな情報がまるで出てこなかった。
こうなるともう、正直に現状を申告するしかない。
「小鳥遊さん」
「はい」
「お腹空きませんか?」
「そうですね」
手を繋ぐことを飛び越えて、初めてのハグをした二人だったが、未央がもう十二時間ほど食事を摂っていなかったためにそれは終了した。
小鳥遊は、着替えが必要な未央を二階に残し、先に一階の居間に下りて彼女を待つ。ケーキを持ってきていたことを思い出し、台所の床に置きっぱなしだった箱を冷蔵庫に入れた。
未央を待つことわずか数分。慌てて着替えた彼女が降りてくると、さきほどの出来事を思い出して二人して赤面する。
「……行きましょうか」
「はい、ごめんなさい待たせてしまって」
苦笑した小鳥遊は、ケーキを持ってきたことを告げた。
未央はパァッと表情が変わり、うれしそうに笑う。
「ありがとうございます!」
ここ数日、ほとんど家から出ずに仕事をしていた未央は久しぶりの甘いものに目を輝かせる。
外に出るとすでに陽は傾き始めていて、二人は駅前の方角へ向かい並んで歩いた。
しっかりとした食事をと思った小鳥遊は、コンビニの隣にある中華料理屋を選ぶ。
まだ早い時間のため、客はカウンターに三人だけ。小鳥遊と未央はテーブル席に座り、麺やギョーザ、エビチリなどを注文した。
すぐに料理は運ばれてきて、二人はどちらからともなく箸をつける。
「あの、小鳥遊さんが二階まで運んでくれたんですよね!? すみません。お風呂に入ったら気が緩んで、床板の冷たさが気持ちよくて寝ちゃいました」
「いえ、勝手にすみません」
「いえいえいえ、こちらがすみません」
謝り合う二人。会話が途切れた二人はもくもくと食事をする。
「あの」
先に口を開いたのは未央だった。
「敬語、やめません? って、私だって今敬語なんですが……」
仕事上の関係から恋人同士になった二人は、付き合い始めても互いに敬語のままだった。未央にとっては思い切った提案だったのだが、小鳥遊はさらりと返事をする。
「あ、はい! あ……えっと、うん。これからはそうする」
「うん、そうしてほしい」
ゆっくりと、でも着実に。二人の関係は前進していた。




