第二章 12
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利沙が戻らなかった日の小立ホームは、小立先生と香先生がなにやら真剣に話し合っていた。
子ども達は、その事が利沙に関係する事なのだとすぐに気づいた。
出先から戻った小立先生は一人だったから。
本来なら、病院でリハビリをしていた利沙も、一緒に帰ってくるはずだったからだ。
帰ってくるはずの利沙がいなくて、真剣に話している先生達からは、
その話が利沙に関する事だとは、容易に想像できた。
その日の夜、自習室では高校生達が話し合っていた。
もう夜も九時半を過ぎていて、自習室には、宏と夕実と啓太の三人だけだった。
本当ならここに中学三年の二人がいてもいいのだが、行事で疲れたらしく、
九時になって早々にベッドに入って行った。
まず、口火を切ったのは啓太だった。
部屋に帰ろうとした夕実を呼びとめて、
「夕実、ちょっと待ってくれ。聞いて欲しい話がある。……宏もたのむ」
「何、急に? それも、ずいぶん真剣そうね。啓太」
夕実は呼び止められて、啓太の側の椅子に座った。
啓太は元々入り口から一番遠い椅子に座っていたので、その周りに夕実と宏が集まった。
「何だよ、啓太。そう言えば、今日は何か言いたそうにしてたよな?」
宏は勘ぐるように話し、夕実は、
「そういえば、夕ご飯一回しかお替りしなかったわよね?」
夕実の言葉に、少しがっかりしながら、
「そんな事はどうでもいいんだよ。そんな事より、とんでもない事が分かったんだ」
啓太の差し迫った言い方に、夕実も宏も引き込まれていった。
「利沙の事、俺なりに調べてみたんだ。
あいつ西城高行ってたって聞いて、西城高の友達に聞いてみたんだよ。そしたら、……」
「利沙の事か?」
「利沙の事なんて、調べなくても、たいした事ないでしょ。悪い噂を確認したかったの?」
宏も夕実も、一気に興味を削がれた。
立ち上がろうとする二人を、
「だから、悪い事が聞けるのかと思ったら、全然違ってた。ヒーローだって言ってたんだよ」
強めに言うと、宏と夕実がほとんど同時に、
「ヒーロー?」
言った二人が顔を見合わせた。
声が大きめで、啓太はびっくりした。
「ヒーローって、どういう事だよ?」
宏が、声のトーンを下げて言うと。
啓太も二人に聞こえる程度の声量でこう続けた。
「今から言うのは、西城高に通ってる友達に聞いたんだ。
文句を言わずに最後まで聞いてくれよ。なかなかの内容だぞ」
「分かった。で、どんな話だよ?」
二人の興味津々の顔を見て、話し始めた。
「小学校の時の友達なんだけど、俺、中学からここに来ただろ?
受験の時に会って、あいつだけ合格したんだけど、そのおかげで話が聞けたんだ」
啓太は、一息ついた。
電話の内容はこんな風だった。
「……一年の時、退学した奴っている?」
「いるよ。何、そんな事聞くんだよ?」
「いるんだ。俺のとこいないけど、学校によって辞めていくやついるだろう。
大体がついていけなくなって。西城高って難しそうだから、多いのかなって思って?」
「辞めるやつあまり聞かないけど、でも、去年いたぞ。一人だけ」
「一人。やっぱり成績悪いやつか?」
「違うよ。全然違う。その正反対。しかも学校中のヒーローだぞ」
「ヒーローって。なんだよ、それ。ヒーローがなんで辞めるんだよ?」
「出来が違うんだよ。良すぎるのも問題があったって事だろう?」
「そいつ男? 女?」
「女。
しかも天才。元ハッカー様だよ。
警察からも一目置かれるほどの腕前で。
うちの先輩達の中に、とんでもない事しようとした人がいて、
もう少しで警察に逮捕されるところを助けたんだぞ」
「逮捕。って、何したんだ?」
「ハッキング、どこかの企業のコンピューターに入ろうとして、見つかったらしいんだ。
被害届が出されて、警察が学校に乗り込んできて。
最初は辞めた子が疑われたんだけど、自分の汚名を晴らした上に、真犯人を突き止めて。
しかも、被害届が取り下げられるように、後の処理までさっさとすませたらしい。
だから捕まらずに済んだんだよ。すげえだろ? 俺、びっくりしたもんな」
「へえ、そんな事あったんだ。それで辞めたのか?」
「違う。それで退学になるのはちょっと早い。その後がある」
「その後。何があったんだ?」
「それがあったのが、四月の事で、それからっていうもの、その子の人気はたいしたもんだった。
しかも、何聞いてもすぐに答えが返ってくるんだぜ。
パソコンに関する事は、知識も技術も段違い。
その辺の先生に聞くより、簡単に分かりやすく教えてくれるんだよ。
それに、夏休みに同級生だけにパソコン教室してたみたいで、
そいつら、今じゃ三年生より何でも知ってるし、出来るようになってるんだ。
だから、みんなが言ってたのは、なんで学校に来る必要があるんだろうって、良く話してたよ。
……悔しいよ。何で同級じゃなかったんだろう。そしたら俺だって……」
「グチるなよ。それより、辞めた理由は何だよ?」
「ああ、ごめん。ええと、……そうだ、確か事件に巻き込まれたって事になってる。
それがすげえ事件だったんだ。
先生達ははっきりと言わなかったけど。時期がぴったり合う事件があって。
それがなんとあの、宝石店強盗なんだよ。
間違いないよ、先生はあれには全く触れない。
インターネットに関係がある事なのに、聞いたって無視されるんだから。
その後、退学して行ったんだ。時期がそこしかないなんだよ。
その発端は、うちのほかの生徒が、ハッカーを探してた犯人のグループに、
その子の情報を売ったらしい」
「お前が怒るのも分からなくはないが、そいつ、やめた後どうしたか知ってる?」
「さあ、良く分からない、情報が入って来ないからな。
噂じゃ少年院に入ったらしい。被害者なのに、変だろ?」
「そうなんだ。でも、やっぱり悪い事だろ?」
「何にも知らないやつは、そう言うよな?
でも、誰がなんと言おうとあいつは凄いやつなんだよ。今でもヒーローのままだ」
そう言って、電話を切った。
啓太は一通り電話の内容を話してから、
「俺なりに、宝石店強盗について調べたんだ。
そうしたら、三億円以上の物を、あっさり誰にも気づかれる事なく盗ませた。
天才ハッカー再び。って新聞に記事を見つけた。
あいつ、昔からハッカーの中でも一番有名だったんだ」
そこまで言って、
「それでさ、提案なんだけど」
「提案? 何?」
と、宏が反応すると、啓太はニヤニヤしながら、
「ここで、パソコン教室してもらわないか? 利沙に」
「? ……な、何? 何をいきなり言い出すかと思えば、パソコン教室だって?」
「そうだよ。いけないか? 電話してて思ったんだ。
学校でも評判になってたくらいだし。
そんなに凄いやつなら、パソコンにほとんど素人の俺達に、パソコン教えてもらえないかなって。
だって、なかなかないだろ? こんなチャンス」
「……そうかもしれないけど、でも」
それには、夕実は反対の姿勢だった。
「いろんな意見はある。でも、俺にはチャンスなんだよ。
これからはパソコンが使える事が、進学にも就職にも役に立つ。
俺だけじゃない。ここにいる、みんなのためになると思うんだ」
「でも、……」
言いかけた夕実を遮って、
「それは、いい考えだ。確かに有利には、なるよな」
宏も啓太の意見に乗ってきた。
「だろ? だから明日の朝、先生に聞いてみようと思うんだ。すぐってわけにもいかないだろうけど」
「そうだな。俺も付き合う」
「二人とも、何言ってんの? そんな事。犯罪者だよ。利沙は」
夕実は、あくまでも反対だった。
しかし、二人は聞く耳など持っていなかった。
二人はさっさと部屋に帰って行った。
夕実は呆れて何も言うまいと、思った。
翌朝、啓太と宏が昨夜の提案について小立先生に報告に行った。
二人の顔を見ると良い返事がもらえたらしい。
「夕実。やった。利沙さえよければ、オッケイだって」
啓太は、勝ち誇った顔で言ってきた。
夕実は、あっさりと、
「良かったね。」
と、返しただけだった。
利沙の目が覚めたのは、お昼ご飯が配られた時だった。
「友延さん。良く眠れた? お昼ご飯、食べられる?」
「はい。ありがとうございます」
「二時ごろお迎えに来てくれるそうよ」
「そうですか。分かりました」
看護師とそんなやり取りをして、昼食と着替えを済ませて、ベッドに座って外を眺めていた。
特に何かを見ていたと言うわけではなかった。
ただ、何の音も話し声も聞いてはいなかった。
だから、迎えが来た事を知らせに来られても、はじめは気づかなかった。
「友延さん? そろそろ下へ行きましょうか」
何度目かに掛けられた声で、初めて気づいた。
心療内科の診察室に行くと、小立先生が江元先生と話をしていた。
しばらくの間話し込んでいたようだった。
利沙が入っていくと、
「友延さん、もう帰っていいですよ。来週また会いましょう」
「……はい。ありがとうございました」
「それでは、失礼します」
「さようなら」
挨拶を済ませて、廊下を歩いていると。小立先生が、
「利沙。昨日は頑張ったらしいね。
一晩泊まらせたいと言われた時は、驚いたけどね。良く眠れた? それともあまり寝てない?」
「眠れました。知ってるんでしょ? 何があったか」
すると、小立先生は平然と言った。
「知ってるよ。でも、それは専門家に任せよう。私達は今を生きてるんだよ」
「今?」
「そう、今。これからを生きて行こう。一緒に。
……そうだ、そういえば、啓太達が面白い事を言ってきた。
利沙がパソコンが得意だって聞いてきて、ホームでパソコン教室を開いて欲しいと言うんだ。
どうかな? 利沙さえよければ、うちにあるパソコンを使っていいから、教えてやって貰えないかな?」
「聞いてきたって、どこから?」
利沙が、不思議そうに聞くと、小立先生は、微笑みながら言った。
「啓太の友達が西城高に行ってるとかで、その友達から聞いたらしい。利沙が、どんな生徒だったかを」
「……啓太が? そうか受験したって言ってた」
「そこは落ちたけど、友達は受かったんだ。
その友達が、利沙をヒーローだって言ってたそうだよ」
「ヒーロー? 何、聞いた事ない」
「それはそうだろう。本人を目の前にしては、言いにくかったんじゃないか。
それより、どうかな、パソコン教室の件、受けてくれるかい?
私としては、利沙が他の子ども達に受け入れられるなら、良いと思っているんだが」
利沙は、少し考えてから、
「良いですよ。ただ、電気代を持ってくれるなら、きちんとした事をしたいです。
例えば、一人に一台のパソコンを準備したいと思います。
もちろん、パソコンは、私が準備する手段があります」
笑顔で利沙は答えると、小立先生は意外な事を聞いた、という風に、驚いた。
「いや、そこまで本格的にする事はないよ。ただ、子ども達に教えてもらえれば、それで良いんだが。」
「それって、手を抜けって事ですか?
たぶん、西城高での事を聞いたのなら、啓太は不満を言うでしょう?
そこはきっちり最初だけでもさせて下さい。様子を見て変えていきますから」
利沙が真剣に言うので、小立先生も利沙の意見に賛成した。
すると、
「膳は急げと言いますし、準備をしたいので、電話してきていいですか?」
利沙は、小立先生から許可をもらうと、公衆電話に向かって行った。
器用に杖を使って。
電話が終わると、
「すみません。終わりました。
多分、夜には持って来てくれると思います。ありがとうございました。先生」
利沙がこういう顔、すなわち嬉しそうな顔をするのを、久しぶりに感じた。
あの、車の中で見た顔が、利沙に帰ってきたのが、小立先生も嬉しかった。
だから、今回の啓太の提案を受け入れて良かった。
同時に利沙をこのまま引き受けて良かったと、この時はそう信じていた。




