* 迷 路 * 5
「もう大丈夫だよ」
森田先輩が静かな声で言った。
森田先輩のその声を聞くまで、私は言い知れない恐怖や不安や、何ともいえない感覚に襲われていた。
足の震えもおさまらず、ただ下を向いていた。
それ以上、外の景色を見ることを無意識に拒んでいたようだった。
〝あの場所”から、どのくらいの時間、どのくらの距離を走ったのかさえも感覚にはなかった。
車が止まった場所は、新緑に囲まれた山間の道路。
あの湖で見た濃い霧が嘘のように、そこには穏やかな陽射しが在り、新緑もその陽射しにキラキラと輝いているようにさえ見えていた。
最初にインターを降りた時に観た同じ光景がすぐ傍にあるといった感じだった。
少しの安堵。
それでも、しばらくの間は、誰も言葉を発しなかった。
それから、少しして、その沈黙を破るように、森田先輩が口を開いた。
「オカシクない?」
「……帰った方がいいかも……しれないね」
その言葉を受けてか、あの湖から初めて鈴木先輩が言葉を発した。
誰よりも、私たち3人の旅行を楽しみにしていた鈴木先輩。
そう口にした鈴木先輩の気持ちを思うと、森田先輩も私も、何も言うことは出来なかった。
その時、ふと気付いたことがあった。
思い出した……!?
あの湖からの夢中。
車を走らせている中、外を見ることが出来なかった私ではあったけれど、一瞬、目に入った旅館らしき建物だけ覚えていたのだった。
「……ここへ来る時、旅館みたいなのがあったんですけど、あそこが予約してあった旅館……ですか?」
すかさず聞いてみた。
「え?そんなのあった?」
先輩ふたりが口をそろえるように言った。
「はい……たぶん、すぐ……そこに」
「そうなの?だったら、ここまで来たんだから、取り敢えず行ってみる?」
「そうしてみようか」
「……ですよね」
多少、躊躇われたものの、怖いもの見たさとでもいうのか、先輩たちの言葉に従っていた私がいた。
そして、私が見たはずの旅館の方へ車で戻った。
本当に2,3分で、その建物はあった。
先輩が旅行会社からもらったパンフレットの写真にある同じ建物だった。
「あららららら。なんとも……」
森田先輩が、少し溜め息混じりに言った。
三角形をした屋根が幾つも重なっている、昔のお城のような造り。
かなり古い感じのする旅館だったけれど、きれいに整えられた玄関の周りの木々に風情さえ感じられる。
更には、その奥にある新館らしきたてものは最近の建築物のようなモダンなイメージのする建物だった。
それまで私たちが体験したような不思議な奇妙なほどの“ニオイ”は、みじんも感じられない。
「うん……大丈夫そうかな?」
森田先輩が言った。
「そう……?感じない?」
「特には」
「香里ちゃんは?」
「私もです」
この会話。
実は、森田先輩は霊感が強く、私も森田先輩ほどではないにしても人並み以上の霊感はある。
当時、私たちが勤めていた塾の本校ともうひとつの教室は、ちょっとした“訳あり物件”で、森田先輩と私は、いつも同じ場所で同じ時間に“何か”を見ては感じては、授業後、生徒や他の講師など誰もいなくなった教室を急いで出ていたものだった。
鈴木先輩は、まったくと言ってよいほど、“それ”はなく、私たちの話に興味深くは乗ってくるものの、超常現象も信じているのかいないのかというくらい。
しかし、さすがに、その日だけは信じざるを得なかったようだった。
見えない〝何か”を。