第七話 東宮と姫君
「東宮が消えた?」
「はい。」
頭を下げる女官に、琴吹は「そうか。」と答えた。
数日前。
琴吹は、茶宴に現れた妖龍のことが気に掛かっていた。
"「随分な言い方だな。少々厄介な事が起こったので戻って来たのだ。」"
現世で何かが起きているらしい。宮廷を離れて戻って来るのだから、よほどの事に違いなかった。あの場では深く追及しなかったが、琴吹は女官に事情を調べさせることにした。
「帝がこちらに戻っている事情を調べられるか。」
不意に出た琴吹の言葉に、女官は目を瞬かせた。
琴吹が何かを頼むことは珍しい。大抵のことは一人でこなし、こちらが申し出る前にすべて片付けてしまうからだ。
だからこそ、頼み事をされたことが嬉しかった。
「御意に。」
女官は弾む心を隠し、恭しく頭を下げた。
そして今、集めてきた限りの情報を持って報告をあげた。
琴吹は、調べさせた割にさして驚いた様子もない。手元の書物に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「そういうことか。」
ぽつりと呟いた琴吹に、女官は意味が分からず首を傾げた。
近くに妖龍がいながら、東宮が忽然と姿を消した。
それはつまり、それだけの実力を持つ者が与しているということだった。
同時に、帝の正体を知っている可能性も高い。
「(東宮が狙われるのは珍しい事ではない。だが、あの男が近くにいては、人間は手も足も出ない。帝もそれを承知で、思い当たる節を粗方潰したが、足掛かりが掴めない、といったところか。)」
琴吹は再び書物へ目を落とした。
「表向き、東宮は重い病で伏せっていることになっておりますわ。体裁のため陰陽師のいくつかの門派も処刑に。」
調べ上げた内容を一通り報告し終えた女官は頭を下げた。
「苦労を掛けたな。」
琴吹は礼を述べると、読む気もない書物をぼんやりと頁を眺めた。
「(さてこの機会、どうするか。)」
*
秀麗の妊娠は、予想よりもずっと長引いた。
鬼であれば三月で生まれるが、人間である秀麗は半年もの間、その身に子を抱えていた
秀麗は己のほっそりとした腹が徐々に膨らんでいく事が嫌だった。
それでも、耐えられた。
この子が男でさえあれば。
男児ならば、鬼灯の子として相応しい。
そうすれば、自分は__。
長い苦痛の末、ようやく産声が上がった。
秀麗は荒い息の中で、すぐに尋ねた。
「……男?」
女官からの返事がない。
秀麗はもう一度、強く尋ねた。
「男なの?」
傍にいた女官が、気まずそうに目を伏せる。
「……姫君にございます。」
その言葉を聞いて、秀麗の心は黒い渦に包まれたような感覚になる。
「……おん、な?」
「はい。」
*
姫君が生まれたという話はすぐに広まった。
琴吹の耳にも入ってきたが、生まれたのがどのような子であろうと、己には何の関わりもない。
正直どうでもよかった。
しかし、その後の処遇を耳にして、琴吹は呆れ果てた。
自らの懐妊を大勢の前で勝ち誇ったように語っていたのが幻にすら思える。琴吹は他人の子にかける情けも、世話をする義理もないが、そんな琴吹でも辟易するような母親だ。
そもそも、事の始まりは姫君が生まれた直後に遡る。生まれてすぐに姫君と分かって、秀麗は暴れ続けた。
「嫌ぁぁあ!……嫌よ!どうして……!!」
産後の身体を起こそうとして、女官に止められる。
「男だと言って!!男だと……!」
秀麗は己を思い返した。傷ついた身体、ボロボロの容姿。
「こんな……こんなもののために、私は……!」
視界の端に、小さな赤子が映った。
女官に抱かれて、一生懸命に泣いている。
それを見た瞬間、秀麗の怒りはさらに膨れ上がった。
「見せないで!」
女官がびくりと身体を強張らせる。
「それを、私の前からどこかへ連れて行って!」
「しかし、姫君は……。」
「いらないと言っているの!」
甲高い声が、部屋中に響いた。
秀麗は、自分でもどうしてここまで腹が立つのか分からなかった。
ただ、目の前の子供を見るたびに、己が望んだもの全てを奪われたような気がして堪らない。
この子には、私の懐妊には、一体何の意味がある。
「……主上に、申し上げますか。」
秀麗の女官が恐る恐る尋ねる。
その名を聞いた途端、秀麗は黙った。
しばらくして、抜け殻のようになった秀麗は吐き捨てるように言った。
「……好きにすればいいわ。こんな赤子、お前たちが喰ってしまえば良いんだわ。」
それが、母として最初に送った言葉だったなんて。
「(まだ、物が分からぬ赤子で良かったな。)」
琴吹はすやすやと眠る小さな身体を見た。
琴吹が毎日密かに赤子の様子を見に行ってしまうのは、幼少の己と境遇を重ねていたからに違い無かった。
それに、赤子を見捨ててしまえば、己を苦しめた人間と同じになってしまう。それだけは嫌だった。
つまりこれは、琴吹の自己満足だ。
琴吹は、物心ついた頃に浴びせられた暴言を、今でも一つ残らず覚えている。
幼い子供に向けられた言葉が、どれほど長く心に残るものなのか。誰よりもよく知っていた。
琴吹はそれが復讐の原動力になった。
この姫君に中途半端な関心を向けていれば、己の目が黒いうちは、この世に受けた生に苦しむことも、歪んだ人格になることも無いだろう。
これを無責任だと批判される筋合いもない。
それを言う資格のあるほどの大人が、この姫君にはいなかった。
琴吹は眠る姫君を見つめたまま、そっと息を吐いた。
結局、鬼灯は一度も娘に会いに来ていない。
姫君が生まれたと報告されても、特に何かを命じることもなかった。鬼灯にとっては、それすら考えるに足らない存在なのだろう。
鬼灯だけならまだしも、青藍すら秀麗の元へ見舞いに行かなかったという。
つまり、そういうことだ。
男児であれば、話は違ったのかもしれない。
それでも、鬼灯の子である以上、粗末ながらも寝床が与えられ、最低限の清潔と食事は保たれていた。
だが、父である主上も、母である秀麗も姫君をいないものとして扱っている。仕える者たちが、わざわざ気に掛ける理由もなかった。
「……また泣いているわ。」
「放っておけば、そのうち眠るでしょう。」
最低限の世話こそされていたものの、姫君が泣いても、誰かが駆けつけることはなかった。
そんな光景は、数ヶ月も経てば珍しいものでもなくなっていた。
誰からも求められない、不幸の子。
「(それでも生かされているのは、やはり鬼灯の子だからだ。)」
鬼灯の娘であること。それだけが、この子に与えられた唯一の価値だった。
ある日、琴吹がいつものように様子を見に行くと、珍しく姫君が静かだった。
ついに死んだか。
そんなことを考えながら覗き込むと、姫君は機嫌が良かったらしい。琴吹の顔を見るなり、声を上げて柔らかな笑みを浮かべた。
そして、小さな手を精一杯伸ばしてくる。
琴吹は、その手を取ることができず、ただ、じっと見つめた。
触れれば、潰して壊してしまいそうだった。
*
「最近、書庫にも清涼殿にもおらぬ。一体どこにいる?」
鬼灯は琴吹に尋ねた。
琴吹が後宮に入ってから、もう随分と経つ。
その間に、鬼灯はすっかり琴吹の行動を制御しようとはしなくなっていた。何をしようと、どこへ行こうと、琴吹の好きにさせている。
かつては、何かと目を光らせていたことを思えば、随分な変わりようだった。
「まだ何かおかしな事を考えているなら、やめた方が良い。」
忠告めいた口調でそう告げたものの、鬼灯は琴吹を脅威とも思っていなかった。琴吹もそれが分かっていてか、鬼灯の言葉を聞く気がない。そのまま本の頁を進めた。
陰陽師の中でもずば抜けた才を持つと謳われた琴吹だが、今となっては術の鍛錬をする機会もない。
本ばかり読んでいて、身体つきも柔らかくなり、かつて当主として戦場に立っていた術師とは思えぬほどだった。
そんな琴吹を見て、天女のようだと褒め称える者はあれど、脅威だと思う者がどれほどいるだろうか。
だからといって、鬼灯は琴吹に興味が無くなったわけではない。
むしろ、最近はますます入り込んでいた。
それなのに、顔を見に行けば不在。
書庫にもいない。
女官に尋ねても、どこへ行ったのか分からぬと言うばかり。
最初のうちは、また気まぐれにどこかを出歩いているのだろうと気にも留めなかった。だが、それが何度も続けば、さすがに気になってくる。
どこへ行ったのか。
何をしているのか。
考えてみれば、琴吹はもともと、誰にも居場所を知らせるような女ではなかった。それなのに、今さら所在が分からぬことを不満に思うのも妙な話だ。
鬼灯はわずかに眉を寄せた。
別に、四六時中目の届くところに置いておきたいわけではない。ただ、いつ行っても姿が無いというのは、どうにも面白くなかった。
己にここまで執着のない女。
鬼灯はどうにかして琴吹の瞳に映ってみたかった。こんな気持ちは初めてだった。
「知りたいか?」
鬼灯が考え込んでいると、琴吹はそう言って本を閉じた。
鬼灯は続きを促すこともなく、琴吹を見た。すると、琴吹は不意に問いかけた。
「最近、姫はどうだ。」
「……なぜ、姫が出てくる。」
あまりにも脈絡のない問いに、鬼灯は本気で意味が分からぬといった顔をした。
秀麗が産んだ子、女でも男でも鬼灯にはどうでも良かった。
それを見て、琴吹はふっと微笑んだ。
「私の行方を知りたいのなら、まずは己の子を知ることだな。」
「何?」
「己の目に映るものを、よく見ておくことだ。案外、知りたいことの答えは、すぐ傍にあるものだぞ。」
鬼灯は一瞬、心の中を読まれたようで驚いた。
琴吹はそれ以上説明する気もないらしく、閉じた本を手の中で弄んだ。
問い返そうと口を開きかけたが、琴吹はもうこちらを見ていなかった。




