完全な真球
EP.1 The Creator
僕は黒板に人差し指の爪を立てた。そして、僕はそのままその指を黒板に滑らした。ギィッ、と不快な音があたりに響き渡った。指に爪が食い込んで血が流れていた。僕はその液体に映し出された私の顔を見ていた。その顔は黒板を見ていた。僕はその瞳線の先を追って、そこに描かれていた完璧な円を見ていた。そうだ、この円だ。僕はこの円を描きたかったんだ。次の瞬間、その血が落ちて、僕の指から離れていった。落ちゆくその血は、その雫は、その艶やかな球状の雫は、その円をその球面に貼り付けて、全体を覆いつくしていった。僕にとってその雫が落ちていく様はまるでスローモーションのように見えた。そのスローモーションの中で雫は赤くて、それでいて透き通っているように見えた。その透き通るような液体の中にうつしだされているその円に、その円の重なり合いに、その液面に映し出された私自身の瞳に、その雫が、その円の集合が重なり合った。次の瞬間、僕の瞳に現れたのは完全な真球だった。
EP.2 Positive
それはなんて美しいのだろうッ!その球体は、完璧な存在だった。それは俺の想像上の神と、同じイメージを称えてそこにいた。この確かな物が、存在が、この方法的懐疑が導いた何もない世界で...そうか、俺はこれに出会うがために生まれてきたんだ。そうか、これが解放かッ!俺は持っていたナイフで俺自身をめった刺しにした。俺は持っていた拳銃をこめかみにあてて、引き金を引いた。俺の体が消えていく。そうだ、この世界に俺という存在は意味をもう持つことなんて出来ないんだ。そんなこともう許されないんだ。この私的理論値を象徴すべきイデアを見てしまったのなら、その存在を認めてしまったのなら、オレというべき精神は、尊ぶべき神は遥か彼方の地の底へと墜落し、俺自身の精神ですら相対的な物へと成り果ててしまうんだ。だけど、この美しい姿を見てしまったのなら、俺はどうしてそれを拒絶することができようか?そうだ、それは自然なことなんだ。ただ、俺が少し速かっただけなんだろうな。俺はこの美しさを肯定するために死ぬんだろう。そしてその死によってはじめて俺はこの真球を完全なるイデアとして称えることができるのだろうよッ!なぜなら、俺自身がその真球を知覚してしまっていることによって、俺はその真球を不完全な物へと貶めてしまっているのだから...
EP.3 Negative
それはなんて醜悪なのだろう。その球体は完璧な存在だった。そうあまりにも完璧すぎた。俺の見ているこの世界にそれはあまりにも異質だった。もし、これを例えるならば神だろうか?それとも、荒唐無稽な夢だろうか?どうしてこんな馬鹿げたものが現実にあるのだろうか?この僕しか絶対的に確かだと言い切ることができない世界で...そうか、俺はこれを壊すために生きてきたんだッ!そうか、これが試練なんだッ!俺は持っていたナイフでそれをめった刺しにした。俺は持っていた拳銃でそれに何度も銃弾を撃ち込んだ。しかし、その球体には傷一つ、つかなかった。どうして?俺が振り下ろしたはずのナイフには確かな手ごたえがあった。俺の引き金には確かな感触と反動があった。その反動の答えはどこに行ってしまったのだろう?そんな問いがうつしだした答えは、その球体にうつしだされた俺自身の姿だった。俺は体中にナイフを何度も何度も突き刺して、銃をこめかみに何度も撃ちこんでいた。畜生ッ!そうか、もう俺の存在はその球体が告げた諦めによって薄まってしまっていたんだ。だから、俺は俺を俺の存在を信じることができなかったから...だから壊すことも叶わないで死んでいくんだ。もう、俺は壊せないというこの事実でもって、俺の存在を認めることのできないで死んでいくんだッ!嫌だ、死にたくない。こんな理想に、叶うはずのない理想なんかに今を貶められて死ぬだなんて、そんなの嫌だッ!お前は未来でただ笑っていればいいんだ。どうしてお前はここにきて笑っているんだッ!俺の死に顔は、その真球に反射した顔は笑っていた。その真球の中にいた俺の瞳には真球がうつしだされていた。その真球にうつしだされた顔は...(ドロステ効果)
EP.4 Serial World
私には後悔があった。その後悔は言った。もしもあの時をやり直せたのなら、今はもっと素晴らしかっただろうと。その後悔はもう取り返しのつかないものだった。だから私はこの後悔を繰り返さないように生き続けていた。だけど、ある時、そんなことの繰り返しにどこか疲れてしまった。そんな疲れた思考が見せた夢は荒唐無稽な都合のいい世界だった。パラレルワールド。もしも、あの時のあんなことをしていなければ、あんな後悔も抱えないで今の私は、今よりもっとよかったのだろうという想像だった。私はそんな思考を見てやれやれと肩をすくんで見せた。しかし、予想に反してその自分勝手な想像は簡単だった。後悔に根付いたトラウマが現れた時、この想像は私を癒してくれた。「あの時、あいつの顔面を思いっ切り殴ってしまえばよかったんだよッ!そうすれば私は今よりももっと自由だっただろうな。今の思考をあの時、兼ね備えていたなら、あいつを出し抜いて、あいつにこの私が抱えた後悔をそっくりそのまま返せただろうなッ!」そうやって、しばらくはこの妄想によって私は救われていた。だけど、そんなのは時間稼ぎに過ぎなかった。私は気づいてしまった。そんな妄想は言い訳に過ぎないということに。そのことに気づいてしまって、私は虚しくなってしまった。言い訳は人を癒せない。かえって、言い訳をしてしまったという事実は私の首を自分自身の手によって絞めていく行為に他ならなかった。私は平行世界の想像の私をロールプレイし続けていると、今の私自身に対して、殺意のようなものが湧き上がってきた。どうしてこんな簡単なことができないのだろう?こんな簡単なことだったのに。そう、あなたはそうやって惨めったらしく生きるべきなんだよ。こんな簡単なこともできないで、言い訳ばかりを紡いで、ただのうのうと生きている。そんな恥知らずがあなたなんだッ!あなたは今から逃げているんだ。後悔に苛まれて、後悔を打ち払ったIFを考えて、そのIFと現実との違いに苦しんで、そしてあなたはそのうちこの苦しみ自体も一つのトラウマに昇華して、いつかこの作り物の世界に巻き込んでしまうのでしょうねッ!フフフ。そんなあなたはまさに卑怯者だよッ!それとも、現実世界を生きていないから死人とでも呼ぶべきかな?
私は持っていた包丁を私の体に突き立てた。首筋から血が流れ落ちる。私はもうこの世界を生きていくことなんて出来ない。だから、大いなる賭けに出た。これは私の想像の儀式、または始まりの儀式、最初の希望で最期の絶望、今の自分を殺し、理想の世界に旅立つ。そんな馬鹿げた逃避行。私は台所に置いてあった包丁を持った。包丁からは魚の臭いがした。フフフ。私は私が生きた痕跡によって死んでいくのか...私の手は震えていた。どうしてだろう?私の思考には迷いなんてないのに...迷いなんてないはずなのに...私はその包丁を私の首筋に突き立てた。首から血が溢れ出した。この時の私には痛みなんてなかった。この時の私はかえって落ち着いていた。魚の臭いを嗅いだからだろうか?私の気持ちはまるで捌かれる魚の様だった。
お前は逃げたんだ。すべてが真実の平行世界という概念から逃げたんだ。そうさ、平行世界は想像を現実にするためには現実を現実だって受け入れなければならないのだから。そう、お前にはこの世界がお似合いだよ。
この直行世界、シリアルワールド。真実を取捨選択できる世界さ。お前は過去という名の未来に旅だったんだ。タイムマシンを使ってさ。お前は後悔を殺したかったんじゃない、お前は後悔を抱えていたお前自身を殺したかっただけなんだ。だから、お前はこの世界に来たんだよ。この真実も虚構も等価値なこの世界に...
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