29 グラスフォリオンは新しい一面を知った
自分が婚約を申し込んだ相手の家に行くというのは、ちょっとドキドキするものだ。
俺の名前は、ネトシル・ファミアレ・グラスフォリオン。少尉ではあるが、現在、国立サルートス上等学校で用務員を装いながら王子エインレイドの警護を行っている。
そしてウェスギニー子爵邸で、アレンルード君とアレナフィルちゃんのお誕生日会が行われた日。
前子爵夫妻とも顔合わせしておくということでその夕食会に招かれたのだが、スパークリングワイン一杯で酔ってしまったアレナフィルちゃんは凄かった。
次から次へと思いがけない姿を見せてくるアレナフィルちゃんに、俺ももうドキドキが止まらない。
子供達が寝てしまってから、フォリ中尉の客室でオーバリ中尉と三人、話し合う時間をもったが、オーバリ中尉は当て馬役として求婚する予定だとかで、気楽なものだ。
「ボスのお嬢さんに本気で手ぇ出したら、俺、誰にも知られず海の藻屑ですからねぇ。そんでもボス、聞いたとこによると恋愛結婚らしいじゃないすか。おかげで俺が虎の種だからって結婚させられて、それで子供に虎の種の印が出なかったら子供ともども役立たず呼ばわりされる人生なんてごめんですって泣きついたら、そんならって言ってくれたんすよ。いやあ、お二人と結婚したいお嬢さん方のご実家が、俺の上司と俺の間に入りこんで俺を解放してくれること、期待してますから」
「あのウェスギニー大佐、あまりにも俺達を利用しまくっていないか?」
「諦めましょう、フォリ中尉。あの悪夢です」
いくら虎の種の印を持っているからと言って、その女上司とやらもここまで下品な男に目をつけるのはどうかと思ったが、オーバリ中尉の顔立ちは悪くない。
そして潜入捜査で貴族の子弟にもなりすましていたことがあるという話だった。
「それならもう少し上品に振るまったらどうなんだ? ウェスギニー大佐もせっかく部下を連れてきて、ご家族に立つ瀬がないだろう」
「ネトシル少尉って真面目っすね。けど、あれでボス、自分の仕事に家族とか巻き込みたくないんすよ。あまり親しくなってほしくない気持ちもあるんじゃないすか。それよか俺、お二人を前にしてる時点で逃げ出したい気持ち一直線なんすけど。どうせ一番弱いとか言われちまいましたしぃ? ひどすぎますぜ、あのお嬢さん」
「だがな、種の印に強弱なんてあるものなのか? 大きさが関係しているわけじゃないよな? その意味が分からん。何より実戦部隊となれば俺達よりも場数を踏んでいる筈だ」
フォリ中尉は、そのところが分かるようで分からないといった気分らしい。俺達三人、自分の印を見せ合ったが、特に大きさに差はないレベルだ。
だが、オーバリ中尉は軽く肩をすくめた。
「虎の種は、つまり撃銃みたいなもんってことじゃないっすか? 要は、フォリ中尉はロングでビッグな撃銃、そして俺はショートでミニな撃銃呼ばわりされたってこってしょ。ま、フォリ中尉もネトシル少尉も安全装置がガチガチだそうですけど?」
どんなに威力のある武器も使いこなせないなら、使いこなせるアナログな武器に負けるということか。
実際、実戦部隊の虎の種とやり合って勝てるかと問われれば、俺とて無理だと判断する。実戦部隊は暗殺をもこなすからだ。
「そうなると蝶の種は、その虎の種の資質まで判別できるのか? だが、そんなことが可能なら、軍の人事に蝶を採用すればどれだけ便利か分からんな」
「だけどそれ、素面でできるもんなんすかね。あのお嬢さん、酔っぱらってる時は遠慮なくジャッジしてきましたけど、酔いが醒めたら、何それって感じだったっしょ? 自分の意思で使えない力って価値あります? そんぐらいなら計測値見た方が余程早いっすよ。何より戦争なんざ威力だけで決まるもんじゃない」
「それもそうだ」
どうせ俺達も上下をつけたいわけではない。
アレナフィルちゃんは可愛い顔立ちだし、父親と叔父にべったりなところはともかく、正直で素直だ。
「あの生意気さはともかく、ぬいぐるみと思えば可愛いんじゃないっすか。可愛くないお口だが、そんでも会う度に抱きしめさせてくれるんなら我慢できますよ。ぎゅーなんてされて、どうでした? ホント、ボスの子供があれってひでえ冗談だ。くっそ可愛いのに」
彼が我慢できても、アレナフィルちゃんが我慢しないと思う。
「たしかにあれは心が凪ぐものだった。だがな、俺は色々な蝶の種の印を持つ令嬢と踊ったことやエスコートしたこともある。別に、綺麗だったり魅力的だったりするかなといったところだった。それにアレナフィルちゃんの顔でにっこり笑いかけられたら、誰だって心が温まるもんなんだよ。フォリ中尉はどうでした?」
「俺も蝶の種の印を持つ貴婦人、令嬢と踊ったことはあるが、普通に綺麗だったり可愛かったりする程度だったな。あんな心を包み込むような気配を感じたことがない。だが、まだ印は出ていないんだろう?」
「今日で14才ですからねえ、アレナフィルちゃん」
「そうそう見えない場所に印が出てんなら本人だって気づきませんって。18才で出る印が4年やそこら前倒しになったりすることもあるんじゃないすか」
やはりアレナフィルちゃんはもう蝶の種の印が出ているのではないかと、そんな結論に俺達は達した。
そして大騒ぎの一夜が過ぎれば、いい朝だ。
「おはようございます。食堂にご案内いたします」
メイドに案内されて食堂に向かえば、アレンルード君は赤いコンドルのワンポイントが刺繍された黒いシャツに焦げ茶色のズボン、そしてアレナフィルちゃんは淡い黄色のシャツに若草色のベストとズボンといった姿で、家族へごろごろと甘えていた。
昨日のドレス姿も可愛かったけれど、ズボン姿で元気に飛び跳ねているのも可愛い。
だが、ウェスギニー大佐は薄手の黒いタートルネックのシャツに、水色の上着を羽織っていた。そしてレミジェス殿も、スタンドカラーのくすんだグリーンのシャツとキャメル色のベストを着ている。
やはり歯型を見せて歩く気はないのだろう。
「あ、先生とお兄さん達だ。おはようございます」
「おはよう。機嫌は直ったか? ・・・ああ、顔色もいいな」
「機嫌・・・?」
ひょいっとフォリ中尉がアレナフィルちゃんの腰をつかんで持ち上げる。床に下ろしてから頭を撫でて左頬にキスしたところを見ると、服の上から触った場合、頭を撫でた場合、キスした場合との感覚を比べていたのかもしれない。
高い高いされたと思ったら頬にキスまでされてしまって、針葉樹林の深い緑色の瞳を真ん丸にしてフォリ中尉を見上げるアレナフィルちゃんが可愛すぎる。
俺も頭を撫でて、右頬にキスしてみた。
「おはよう、アレナフィルちゃん。よく眠れたかい?」
「は、・・・はい」
お客様との朝の挨拶はそういうものなのかなと思い始めているところが可愛すぎる。もうこんな素直な子、他にいないだろ。持って帰れないかな、今すぐほしい。
するとオーバリ中尉は、がしっとアレナフィルちゃんを抱きしめて、その頭に頬ずりした。
どう見てもペット扱いだ。
「おはよう、お嬢さん。うーん、やっぱり違うわ。さすがボスの娘だ。大きくなったら覚えてろ」
「・・・ふぇ? お父様。みんながおかしい」
「気にしなくていい。どうせ繊細な奴などいない。鬱陶しければ噛みついとけ」
娘を可愛がっている割に、ウェスギニー大佐は鷹揚だ。自分の管理下なら問題ないと思っているのか。
朝食をとりながら、とても自然豊かなキャンプ地に行かないかと誘えば、アレンルード君だけが乗り気になった。訓練に使うキャンプ場だとアレナフィルちゃんは察してしまったのか、何やら探るような表情を浮かべている。
あそこならば虎の種の印を持つ者が他にもいるからいいかと思ったのだが、アレナフィルちゃんは警戒心が強い子だった。
「あ、そうだ。アレナフィルちゃん。昨日は渡せなかったからお誕生日のプレゼント。ルード君にはもう渡したんだけど」
「うわぁ、ありがとうございます」
フォリ中尉は風景画が浮き彫りになった大きなチョコレートだったが、俺は沢山の味のキャンディが入った大きなガラス瓶だ。空になったら保存容器として使えるだろう。
アレナフィルちゃんもそれは思ったようで、舐め終わったら氷砂糖を入れようか、乾物を入れようかと悩み始めた。
オーバリ中尉はペンギンのぬいぐるみだった。
「うわぁ。お祖母様、見て見て、みんな可愛くて大きいっ」
「よかったわね、フィル。お菓子は少しずつ食べるのよ」
「はぁい」
学校でクラブメンバーと食べていいかと尋ねられたので、勿論だよと答えれば、嬉しそうに笑う。
「チョコレートはね、端っこから少しずつ割ってね、お菓子の上に埋めて焼くの。きっと美味しい。ホットチョコレートとコーヒーをブレンドした上に削って載せてもきっと甘い」
「フィル、僕、成人病予防研究クラブって聞いた覚えがあるんだけど」
「大丈夫、ルードにもチョコレート入りのお菓子、持ってってあげる。ね?」
「・・・うん」
せっかくだからと飴をみんなに一つずつ配ってくれたアレナフィルちゃん。
ちょうどアレンルード君と手の大きさを比べあっているから食べさせてくれないかと冗談で言ってみたら、本気で可愛い手で俺の口に入れてくれたものだから、ウェスギニー大佐からの蔑むような冷たい視線に心がブルブル震えた。
いいや、負けるな俺。
「じゃあリオンお兄さんはクールだから緑色の飴ね。はい、あーんして? ルードはね、ピンクがベリーっぽくて甘そう。はい、あーん」
「・・・うーん。フィル、これ、ベリーじゃないと思う。チェリーじゃないかなぁ。ちょっと酸味がある感じ」
「え? そうなんだ? じゃあ、ピンクはチェリーと」
「緑はメロンだろうね。ジューシーで甘かったよ」
「そっかぁ。ふんふん」
だけどね、アレナフィルちゃん。まるで一人一人に色を選んでいるかのようなそぶりだったけど、君、単にどの色がどの味なのか知りたくて、みんなに違う色を渡してただけだろ?
それ、もうみんなにばれてるから。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
朝食後は遊戯室でテーブルビーリヤルをやることになった。アレンルード君とアレナフィルちゃんにはハンディをあげることにしたが、どうも上手そうな雰囲気がある。
レミジェス殿と一緒に双子がキュー・スティックのバランスを見ていると、どこかに行っていたウェスギニー大佐がクラセン講師と連れ立ってやってきた。
「お誕生日おめでとう、ルード君。フィルちゃんも悪かったね。俺の酒のつまみを作るついでに、舐めさせていた酒の味覚えちゃってて、つまみ談義を披露しちゃったんだって? 子爵と子爵夫人には平謝りしてきたよ」
「へ? 何それ」
「おいおい。一晩寝たらすっぱり忘れる酒かぁ。ま、今度から盗み飲みはやめような、フィルちゃん」
「・・・あ。思い出した。そーだった。前菜がこれまた酒のつまみによさそうなものばかりで・・・。ごめんなさい、レン兄様」
思い出したら素直に謝るアレナフィルちゃんの、すまなさそうな顔が憐れみを誘う。クラセン講師もぽんぽんと頭を撫でて終わらせた。
「いいさ。あ、そうそう。これがお誕生日プレゼント。ルード君には修得専門学校のドリンク付き軽食チケット。こっちは夜までやってるからね」
「ありがとうございます、バーレンさん」
アレンルード君は三十枚綴りのチケットをもらって、ちょっとはにかんでいるが、アレナフィルちゃんは不思議そうな顔だ。
「だけどレン兄様。わざわざスナックとコーヒーの為にそっちの食堂に行くものなの?」
「かえって上等学校の食堂と違って気楽だろう。学校に通っていると、友達と悩み相談したり、ちょっと話し合いしたりしたくなる時があってもなかなか場所がないものさ。寮に入ったとは聞いたけど、プライバシーはあまりないからね。制服を着ていたら、身分証の提示も求められない」
「上等学校の制服でも入れたんですね。知りませんでした」
双子でも、アレンルード君はクラセン講師に対して丁寧な対応と言葉遣いだ。
「うんうん。そしてこっちがフィルちゃんへだ。俺の研究室への通行身分証カードと年間予定表。何でも学校でキッチンを手に入れたんだって? 試験前とか行事前後、いくらでも差し入れてくれていいからね。あ、これが財布。材料費はこれから頼む」
「レン兄様。これは私へのお誕生日プレゼントじゃない気がする」
ああ、うん。そりゃアレナフィルちゃん、こんな奴に敬語を使う気にはなれないよな。よく分かるよ。
駄目な大人がいた。
「大丈夫。君へのプレゼントはうちの研究室に置いてある。君の好きそうなラブストーリーとか冒険ものだから、少しずつ持って帰るといい」
「くっ。この足元を見るやり方があくどすぎるっ」
濃い黄緑色の髪、水色の瞳のクラセン講師は、二十代と言われても誰もが信じる童顔だが、性格も大人げない。そしてマイペースだった。
「おはようございます。いつも子供達にすみません」
「おはようございます、レミジェス殿。こちらのお友達を招いての誕生日会だったとか? やっぱり可愛い姪を守れそうな婿候補ってところですか? へえ、誰もが二十代。フィルちゃんの好み、突いてますね」
すみません、その所をもっと詳しくお願いしたいのですが?
「人聞きの悪い・・・。そんなのじゃありませんよ。ちょっと会う時間が取れなかったものですから、せっかくだからとルード達の誕生日会を理由に招いたのです。よかったらご一緒にいかがですか? テーブルビーリヤルならお得意でしょう?」
「ありがとうございます。ですがちょっとフィルちゃんに相談がありましてね。代わりにフェリルを置いていきます。姪御さんをお借りしますよ。おいで、フィルちゃん」
「勝手に人の予定を決めるな。私は案内してきただけだ。また父の所に戻らなきゃならん。フィル、バーレンは任せた。レミジェスとルードも中尉達に失礼のないようにな」
「はぁい。えーっと、すみません。私もバーレン兄様に相談したいことがあったのでちょっと失礼します」
ウェスギニー大佐ばかりか、アレナフィルちゃんもクラセン講師と共に廊下へ消えていった。
歩きながらの会話が聞こえてくる。
『部屋で二人きりってのはまずいか。ドア開けて一階のテラスなら平気かねぇ』
『それならお庭の四阿でいいんじゃないかなぁ。あそこなら窓から見えるから、変なことしてないって分かるし、問題ないと思う』
『ああ。あそこなら周囲に近づいてきたらすぐ分かるか』
『うん』
フォリ中尉が、レミジェス殿にちらっと眼をやった。
「集音装置、ありますよね?」
「まさかと思いますが盗聴でもする気ですか? 叔父の私に向かって姪の個人的な会話を盗み聞きしようとは、フォリ中尉、あまりにも感心できない話です」
「ですがレミジェス殿。気になりませんか? あなただってお気づきの筈だ。あんな謝罪をした時点で、アレナフィル嬢に酒の味を覚えさせたのはクラセン殿ではない。
家族である祖父母を騙してでも、どうしてクラセン殿は、そんな嘘をついたのでしょう。・・・レミジェス殿は知っておいてもいいのでは?」
アレナフィルちゃんにはどうしようもない欠点が一つある。それは嘘がばればれなところだ。
あの時、嘘に気づいたのは俺だけではなかったらしい。
「知っておくとは何を?」
「そこまでしてクラセン殿がアレナフィル嬢のことに対して割りこんでくる理由です。それは男としての劣情があるからなのか。それとも何らかの利害関係や脅迫関係があるのか。
ウェスギニー大佐のご友人ならば信頼もされておられるでしょう。だが、家族に見えない所でどんなやり取りをしているか、把握しておいた方がいい筈だ。アレナフィル嬢は、まだ世間知らずで騙されやすい子供です」
「・・・仕方ありませんね。ちょっと集音装置を取ってきましょう」
変節が早いな、レミジェス殿。
アレンルード君はそんな叔父を冷ややかに見上げた。
「叔父上。フィルに嫌われても知りませんよ」
「そうだね。ルードはお部屋に行っておくかい?」
「僕はフィルのことは把握しておかなきゃいけないから」
アレンルード君? それ、共犯って分かってる?
こういう広い屋敷で集音装置は欠かせない。たとえば何か騒ぎがあった時など、離れた所からでも状況を把握する必要があるからだ。
庭園の四阿ならここがいいでしょうと、レミジェス殿が集音装置を持って案内した部屋に入ってセットすれば、アレナフィルちゃん達も四阿に落ち着いたようだ。そこはのんびり歩いていった二人と、決めたら行動の速いレミジェス殿との違いだろう。
― ◇ – ★ – ◇ ―
集音装置はかなり高性能だった。そしてクラセン講師とアレナフィルちゃんはどこまでも遠慮がなかった。
『たかがスパークリングワインで酔うって何だよ、おい。人に迷惑かける酒飲みは最低だとか喚いてたのは誰だ、おら。てめえこそが迷惑かけてんじゃねえ。この酒乱が』
遠慮なく罵倒から始まったそれに、まず遠い目になったのはレミジェス殿である。
自分一人で聞くべきだったと、彼は後悔しているのだろう。
『そんなにもお酒に弱いなんて思わなかったんだもん。だってスパークリングワインだよ? ジュースだよ? なんで弱いのぉっ』
『知らんわ。どんな安酒しか飲んでないんだという目で見られたこっちの身にもなりやがれ。どうしてそこで見栄を張らないっ。せめて二十年貯蔵の蒸留酒とか、高級ワインにしとくもんだろうが。俺んちの名誉はどうなる、このクソガキが』
普通の貴族令嬢がクソガキ呼ばわりされた日には泣いてしまうものだが、どうなんだろうな。
そして未成年に酒を飲ませた時点で名誉は消滅する。
『見栄張るも何も、酒にそこまで予算割けるわけないでしょっ。女はねっ、美味しい紅茶だってハーブティーだってコーヒーだってホットチョコレートだって、フレッシュジュースだってスムージーだってミルクシェイクだって飲みたいもんなのっ。お酒だってカクテルがどれだけあると思ってるのっ。たかが晩酌程度にそこまでのお金を使ってたらあっという間に破産だよっ』
アレナフィルちゃんは大人が相手でも負けてはいない。誰もが納得する、とても欲望に満ちた主張を繰り広げた。
あっけにとられた顔でオーバリ中尉が呟く。
「つまり、お嬢さんは予算を考えながら安酒を飲んでいたと。経済観念は立派だ」
「だからフィル、食べ過ぎでお腹ぷっくりなんだね」
アレンルード君、悪気はないんだろうが、さりげなくひどいぞ。
服を着ていたらそっくりだが、やはり抱きしめたら分かるというのか、アレンルード君の体の方が引き締まっている。
『どこまで食い意地張ってんだ。まあ、いい。そんなことより、結局王子様とお友達になったんだと?』
『あ、そうそう。王子様、背も高くて美少年って感じ。うちのルードが見てて和む可愛い系なら、王子様ってば正統派な美少年。性格も素直で真面目だよ』
『あのなあ、なんで一般の部でそんなことになってる。友達になってしまったなら仕方ないがな。そうなると恥かかん程度の礼儀作法を覚えとかなきゃならんだろ。今度から休日はうちの実家に来い。特訓だ』
王子の顔について語るアレナフィルちゃんと、王子が近くにいるのであればまずは礼儀作法が先だと考えるクラセン講師の温度差が凄まじかった。
『へ? 礼儀作法? そっちはパピーやジェス兄様が手配するんじゃないかなぁ』
『ああいうマナー講師は貴族令息令嬢の情報を流して見合いを仕組んで金稼ぎするからな。フェリル、お前さんには政略的な見合い結婚じゃなく恋愛結婚させてやりたいって、うちに頼んできてたぞ』
『いやん、パピーってばやっぱり素敵すぎる。だけど王子様相手に、もうマナーとかって必要なのかな』
フォリ中尉と俺は視線を絡ませる。
やはりウェスギニー大佐は、娘に政略結婚をさせる気がないのだ。何故、そこまで避けるのだろう。
だけどアレナフィルちゃんはその意味を全く分かっていないようだった。
『ど阿呆。ダンスパーティがあるだろうが。王子と一緒に踊る可能性があるなら、そのお付きの奴らや縁戚関係、あと王子狙いの貴族令嬢とその保護者達にも値踏みされるってことだ。毎年、上等学校のダンスパーティは六学年、全校舎の生徒が参加するから、フェリティリティホールを貸し切りで行われる』
『へー』
『あのな、分かってないようだから説明してやろう。全くこの引きこもり物臭オンナが』
今まで俺は、クラセン講師はあまりにもアレナフィルちゃんをいいように利用しているのではないかと思っていた。
これらの会話にそんな気持ちがどんどんと消え失せていく。恐らくはウェスギニー大佐に頼まれ、彼はアレナフィルちゃんを支援し、相談に乗る立場にいるのだ。
『いつもありがとうございます、レン先生。さすがはトップ講師。何をさせても完璧。もう感謝しておりますともっ』
『遠慮なく崇めろ。フェリティリティホールってのは、大型の半球型施設だ。要は壮行会、記念式典、祭事といった行事で使われる。幾つかある大広間は、どれもかなりの広さで、舞踏会で使われることも多い。駐車場は千台程度しか駐車できないから、なるべく生徒達は乗り合わせてやってくるか、送り届けたら移動車を戻すようにと、伝えられるだろう。
尚、貴族枠として部屋は用意されるだろうが、平民までは用意されない。そして使用人が必要ならばそれぞれの家で用意しなくてはならない。部屋は当日の朝から翌日の夕方まで使用できる。つまり貴族であれば現地で着替えて一泊できるってわけだ。
とはいえ、全ての部屋にバスルームがついているわけじゃない。まさにベッドしかない部屋なら休憩室と割りきって当日帰宅した方がよほど楽だ』
『おお、分かりやすい。その場合、ルードと私、部屋は一緒?』
『いや。男子フロアと女子フロアは別だから、部屋も別だ』
宿泊できる以上、生徒の男女間で何かよからぬことが起きないよう、そのフロアごとに見張りの兵士が置かれるのだ。家族であろうと、異性を連れこむことはできない。
『そっか。私、ランチ一緒にしてる同級生の女の子達いるんだよね。あの子達に休憩室として提供してあげればいいか。ところで、それって授業の一環?』
『いや、どうしても財力の差は出るから休んでも問題ない。だが、大抵は喜んで出席する。恋人作りにはぴったりだからな。あと、クラスの男女毎で休憩室は提供される。わざわざ貴族エリアに連れこむ方がトラブルの元だ。そのお友達とやら、たとえば同じフロアの貴族令嬢とばったり出会っても、うまく挨拶してやりとりできるのか?』
『ああ、そういう・・・。なんてこった。考えてみれば私も子爵家のお嬢様。やっぱり当日は腹痛を起こして休もう』
こらこら、アレナフィルちゃん。何を今から仮病の予定を立てているんだ。
『ドレスが嫌いなわけじゃないんだろ。いい男を見繕う絶好のチャンスだぞ? 生徒の父兄枠で独身男でも見つけてこい』
『そっか。保護者枠で・・・。いや、まずい。私は未成年に手を出す変態ではないが、相手にも未成年に手を出すような変態はお断りする。だが、私は誰がどう見てもぴちぴちの未成年』
やはりアレナフィルちゃんは年上趣味なのか。
だけどね、アレナフィルちゃん。未成年同士は、同世代の小さな恋人達ってくくりに入るから、変態とは呼ばないと思うぞ。
『そんじゃ着飾ってご馳走食べてこい。ドレス好きだろうが』
『周囲に気兼ねしたおしゃれなんて、おしゃれの意味ないもん。この可愛らしい顔を引き立てるドレスを着て注目を集めるのがいいの。それができないなら面倒。・・・あ、そうだ。パーティには出たってことにして抜け出そうよ。ちょうど今、成人病予防研究クラブ作ったんだよね。レンさん、どうせ家庭サービスしてないでしょ。女性の美容法に役立つような物、探しに行こ? 何なら三人で。少なくとも二日間、いなくてもばれない』
『どこまで行く気だ』
うん、自分が可愛いって自覚はあったんだね。そしてクラセン講師を巻き込む気満々だね。
『それがさあ、塩水湖の近くで温泉が出たんだって。その近くに貿易港があって、しかもその貿易港の近くには貿易会社の倉庫が多い。でもって、見本を安く見切り販売してるんだよね』
『まさか全部俺の自腹かよ』
『だーいじょーぶ。なんかさぁ、パピー、ここ数年は送り迎え付きお仕事っぽいんだ。だから移動車を使っててもばれない。そーしーて、安心したまえ。この私、これでも移動車は中型まで。そして水陸両用タイプも中型までなら運転できるのだよ。更に言うならっ、二輪飛翔タイプも小型なら大丈夫っ』
『できても無免許だろうが』
テンションの高いアレナフィルちゃんに比べ、クラセン講師のテンションは低い。
だけどね、アレナフィルちゃん。君の叔父さん、まさか君が酒ばかりじゃなく、無免許運転しているとは思わなかったみたいで、ちょっと表情が引き攣っているよ? 私有地ならそりゃ問題ないけどね。
『だから前部座席に乗っておいてくれればいいよ。停められたら、レンさんが運転してたことにすればいいでしょ。どうせ運転しないだけで免許ぐらい持ってるんじゃないの。私も化粧で成人に見える程度には背も育ったってもんさ』
『なるほどな。なら大丈夫だろ。それならいいか』
あそこに駄目な大人がいた。
前部座席は左右どちらでも運転がスイッチ一つで切り替えられるから、どちらが運転していたかなんて、車内のそのスイッチを見てみないと分からないのだ。
『本の倉庫もあるらしいよ。傷んだ本は安く売ってくれるみたい。そこで仕分けバイトするなら、数ヵ国語話せる価値もあるってもんだと思うんだよね。パッと見て判断できる分、余計に雇ってもらえるんじゃない? 移動費用、単発バイトで賄えるかも?』
『一週間ぐらい、ちょっと行ってみるか。いや、長期休みに行けばいいのか。俺の免許は中型の小までだ。なるべく荷台の大きな移動車がいい。レンタルでもするか』
賭けてもいい。きっとクラセン講師は、気に入った本の表紙とかをわざと汚して安くゲットするだろうと。
『大丈夫だよ。後部座席倒せば、かなり入るって』
フォリ中尉がレミジェス殿に話しかけた。
「父親の目を盗んで、妻帯者と旅行に行く予定だそうですよ? やはり聞いていてよかったでしょう?」
「・・・そのようですね。本当にあの子はおとなしく過ごしている割に、たまに変な行動力があって困ります」
「そうですね。あそこの会話に色気は全くないが、行動力は立派です」
「叔父上。僕も運転を覚えたいです。いつの間にフィルにだけ教えたんですか? たしか私有地なら運転していいんですよね?」
「待ちなさい、ルード。私は教えていない。それに無免許運転はいけないことだ」
「じゃあフィルは何なんですか」
アレンルード君がとても不満そうな顔になっている。
『そーいや、あの部屋にいたの、どれも二十代だろ。レミジェス殿が選んだ上、お前さんが卒業する頃には30前後だ。それなら好みにヒットすんじゃないのか?』
『へ? ああ、三人共、私じゃなくてルード狙いだよ? なんかさあ、みんな軍の人らしくって今からツバつけてた』
アレナフィルちゃん、君、14才だよね? それで好みは30才前後なわけ?
いや、その前に俺達がアレンルード君の為にやってきたと思ってるって、どういう誤解が・・・。
『子供に性的な興味がないから、お前さん口説いてこなかっただけだろ。大人になった頃には食指も動きそうだがな。フェリルも、お前が気に入る奴を王子様の近くに配置するよう口添えする程度の小細工はできそうだ。気に入った奴がいたならそう言った方がいいぞ?』
『んー。そーだね。別にみんな性格はひねてるかもしれないけど、いい人だと思うよ。子供を保護する意識も強いしね。そういう意味ではジェス兄様の人選能力が凄すぎるけど、生憎と私の体は14才。心の恋はできても、体の恋はできない。そして心の恋なら小説だけで十分に素敵な王子様達が目白押し。しかもパピーまで同居で、十分に堪能できてるんだよねぇ』
えっと、アレナフィルちゃん。実は君、とても大きな猫をかぶっていたのかな? 君の本当の姿が分からなくなってくるんだが。
『ああ。あの頃のもっさりしたフェリルが嘘のようだよな。あいつ、学生時代は全くもって地味だったぞ』
『そう見せかけてただけじゃないの? 私が病院で初めて会った時も地味で朴訥って感じだったよ。目が覚めたら、いきなりいい男と可愛い男の子が知らない言葉で話しかけてくるというおとぎ話だったのに、いい男の野暮ったさはいただけなかった』
アレンルード君がちょっと顔を赤くしているが、それが記憶を失った後のことなのか。君の記憶は本当にそこからなんだな。
『それよかお前さん、ワイン如きでペラペラと蝶の種だの、竜や虎の種についても喋ったんだと? 出てもない印について語るたぁ勇者だな』
『・・・あれは夢ではないかと思っていた』
やはりクラセン講師はウェスギニー大佐の親友なのだと実感する。フォローの為に呼び出したのか。
だけどね、アレナフィルちゃん。君達の仲が分からないよ。声は大人と子供なのに、会話は悪友って感じじゃないか?
『どこまでが現実でどこまでが夢か知らんが、てめえは何を考えてやがる。この考え無しアホ女が』
『ひどいっ。童顔キチク男ぉっ』
『るせえ。マヌケ酒乱の分際で生意気にも人間の言葉を話すんじゃねえよ』
遠目には可愛い少女の頬に男が両手を当てているように見えなくもないが、その会話と、小さな「んみゃぎゃーっ」という悲鳴を聞けば、両頬をひねるように広げられていると分かる。
容赦ねえな、あの男。
レミジェス殿の溜め息が深い。オーバリ中尉なんてさっきから声を出さずに腹を抱えて笑ってやがる。
『ついでだから話せ。種の印について知ってることをな』
『ちょっと待ってよ。それこそレンさんは自分が数十年かけて調べ上げたことを、ひょいっと誰かに言えと言われてペラペラ喋らないでしょっ』
『たかがスパークリングワインで垂れ流した奴が何をけちるか』
『どうせ大事なことは喋ってないよっ。ああ、もう、後でパピーかジェス兄様、いや、あの二人は笑ってごまかす気がする。ここはルードだ。私が何を喋ったのか聞き出さないと』
『愚かな奴』
興味がないことだったのか、クラセン講師はそこで追及を停止した。いや、もっと粘ってくれ。
だけどねえ、アレナフィルちゃん。君、おうちの外にもなかなか出ない引きこもり生活だったんだよね? それでいてどうして家族の知らない交友関係を持って、そんな情報を手に入れているわけ?
(いや、クラセン講師は大佐の親友。大佐は把握しているということじゃないのか?)
アレナフィルちゃんはクラセン講師に相談しても彼が何も喋っていないと信じている。だが、クラセン講師はもっと長い付き合いをウェスギニー大佐と構築しているのだ。
『言わないで。もう二度と、人前でお酒は飲まない。あ、いや、アルコールを分解する薬を買ってくればいいのか。それも売ってるかな』
『買ったら飲むのかよ。酔っぱらってペラペラ喋った後で飲む薬に何の意味があるのか、参考までに聞いといてやる。ほら言ってみろよ、バカ女』
『そ、・・・そこは、ほら、自宅で一人飲むお酒ってことで』
どうしよう。レミジェス殿の表情が虚ろになっていくのだが。
『寂しい奴。その前に子供には薬も酒も売ってもらえないことを思い出せ』
『おおう、そうだった。いや、レンさんがいれば買える』
『やめんか。それこそ冤罪が犯罪に変わるっつーの。ま、大きくなったらいい男でも見つけて一緒に飲めや』
もしかしたらクラセン講師はアレナフィルちゃんを止める指導者としてウェスギニー大佐が手配したのかもしれない。程々に自由にさせ、程々に手綱を引き締める為に。
『誰かと飲む酒なんて、それこそ私がつまみを絶え間なく作り続ける羽目になるだけでしょ。コレもっと作ってとか、他にもっとないのとか言われて、落ち着いて飲めない時間のどこが楽しいのさ。
今だってルードは寮、パピーは仕事だからこそ、私、怠惰な夜を満喫できるんだよ? 一人が寂しいと思うのは、一人の楽しみ方を分かっていないお子様ってことだね』
『偉そうに言う前に、家族にも見せられん自分の姿を恥じろ。怠けたいからという理由で防水シーツまで買ってアホなことやらかしているのはお前ぐらいだ。どこまで菓子くずを散らかしてんだ』
『いつか・・・、私のその努力が実を結ぶ日が来る』
うん、言葉だけは立派だけど実は怠け者なアレナフィルちゃん。頑張れ、どんな実を結ぶのかは分からないが。
「叔父上。フィルも女子寮に入れるべきだと思います。あまりにも僕と差がつきすぎです」
「既に女子寮の寮監がフィルとエインレイド様のことに気づいているそうだ。女子寮になんて行ったらとんでもないことになる」
「むぅっ」
アレンルード君がどんどん不機嫌になってきている。双子の仲は大丈夫だろうか。
『実を結ぶ前にフェリルに知られて、思いっきり蔑まれてこい』
『それは嫌。だってフィルちゃん、パピーの最愛の娘なんですものぉ。こーれーでーも、パピーの出勤状況や荷物の減りを観察してぇ、しばらく戻ってこないか、その日は帰宅するかを判断するそれは命中率74%ぉ』
74%か。もう少し高い確率に持っていかないと厳しいな。
『けっ、化け猫かぶりが』
『童顔結婚詐欺が。その内捨てられろ』
思いっきり同じ土俵で言い合っているが、二人にとってはコミュニケーションにすぎないらしい。
「めっちゃたくましいですね、お嬢さん。これ、俺、本気で口説いてもいいかなぁ。卒業後に」
オーバリ中尉が寝言を言い出した。
二人はそれでも喧嘩にはならず、そこで何を買ってくるか、予算はどれぐらいか、どんな名物料理があるかを話し始める。
『ルードも男の子だもん。お土産に水着の可愛い女の子のフォトブックとか欲しいかなぁ。自分じゃ買いに行けないよね?』
『だからって双子の妹に渡されたくないだろ。友達同士で買いに行くんじゃないか?』
『そこはレンさんが渡してあげればいいじゃない。傷みのある本のまとめ買いに紛れてたからあげるとか言って』
『お前はどこまで俺を冤罪被害者にする気だ』
アレナフィルちゃん、アレンルード君が真っ赤になってるんだけど君は一体何を考えているのだね。
もらったらそりゃ嬉しいだろうが、双子の妹からは渡されたくないと思うし、手配もされたくないだろう。男の子の繊細な感性を理解してあげてくれ。
『私、できれば外国のレシピ本も欲しいんだよね』
『調味料や材料が違うだろ』
『だからそれも買おうよ。外国人がやってる食堂とかも回ってさ』
フォリ中尉が、レミジェス殿に話しかけた。
「無免許運転もダンスパーティを抜け出しての旅行も問題があるでしょう。長期休暇の際に行くというのはどうでしょうか。行きたいものを引き留めるより、先に連れて行って自由にさせた方が守りやすいというものです」
「・・・ちょっと兄に相談してきます」
「ええ。貿易都市は気性の荒い奴が多いですからね。アレンだってそう思うだろう? お前が一緒ならアレナフィル嬢だって無茶はしないさ。あんなノリでふらふら出歩かれて何かあっては遅いんだ。そうじゃないか?」
「はい」
「ああ。私有地での運転なら俺が教えてやる。中型と言わず、大型まで教えてやれるぞ?」
「ホントですかっ。やったっ」
アレナフィルちゃん、君の行動は双子の兄を燃え上がらせているだけだ。
― ☆ ― ★ ― ◇ ― ★ ― ☆ ―
二人の譲れない「行きたい場所」とやらを、クロスボウの的当て点数で採用を決めるとか言い出して移動したものだから、これ以上は盗聴も無理だなと、俺達も諦めた。
クロスボウの的がある場所は周囲を壁で覆われているので集音装置では聞き取れないそうだ。
「それならアレン、ちょっと運転を教えてやろう。お前ならすぐ免許の実技は取れると思うぞ」
「えっ、ホントですかっ」
運転免許取得可能年齢になったらすぐ取れるようにと、まずは子爵邸の買い出し用移動車を借りてフォリ中尉が運転を教えてあげていたら、アレンルード君は目を輝かせてご機嫌になっていた。
「すげえ。こんなマニアックな移動車があるとは、さすがボス。空中浮遊機能付き水陸両用タイプの二人乗りだなんて、これ、三つの免許が必要なんすよね」
「それはレミジェス殿らしいですよ。いずれルード君が免許を取ったら譲るという話でしたか」
「へえ、羨ましい。このバタフライドアがレトロでいいっすよねぇ。俺も欲しい」
針葉樹林の深い緑色の二人乗りの移動車はやはり年代物だったらしいが、エンジンルームを覗いたオーバリ中尉は、中身の最新機能に驚いていた。
小型移動車を動かしてみたアレンルード君はすっかり夢中だ。
「そっか。運転だけならこんなに簡単なんだ」
「交通法規もあるからな。動かせるというのと動かしていいのとは違う。次は車幅感覚の覚え方をいくか」
「はい」
どうやらアレナフィルちゃんへの不満もすっかり消えたようだ。
私有地で周囲を人払いして運転するのと、公道を走るのとではかなり違うと思うのだが、まあ、いいか。
「皆様、そろそろ昼食のお時間です。どうぞおいでくださいませ」
メイドが呼びに来たので食堂へと向かえば、廊下の向こう側から使用人達の会話が漏れ聞こえてくる。
それこそ、
「お嬢様が矢じゃなくてナイフ投げを・・・」
とか、
「クラセン様のせいにされていたので、騙されてあげてください」
とか、
「早く抜きに行ってくださらないと、怪我をしたら・・・」
とか。
「フィルってば本当にウソがヘタなんだから」
「言ってやるな、アレン」
「あはは。楽しいじゃないですか。やっぱりボスのお嬢さんはやんちゃですねぇ」
きっとウェスギニー子爵邸では、「お嬢様のウソはもう指摘せずに受け入れてあげる」というルールがあるのだろう。
先に食堂へ来ていたマリアンローゼ殿はそれらの報告を聞いたらしく額に指を当てていたが、何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。クラセン殿とアレナフィルちゃんが着席した時には、何も知りませんといった表情で、飲み物を勧め始める。
なるほど。こうしてアレナフィルちゃんはみんなを騙せていると信じこんできたんだな。
「クラセン様とフィルはずっと四阿でお喋りしていたのですって?」
「はい。何でもフィルちゃんは学校で王子様とお喋りする機会があったそうですね。自分のマナーに不安を覚えたそうで、その相談に乗っておりました。昔のことではありますが、うちの母なら暇を持て余しておりますし、よければ・・・と。こういうことは家族だとどうしても甘くなってしまいます。他人の方がいいでしょう」
「バーレンのお母上は、かつて王宮で女官を務めていた方ですからね。私がバーレンに頼んだのですよ。そこらのマナー講師など、教える内容は将来性のある貴公子の見分け方ときたものです」
いや、ウェスギニー大佐。それ、貴族令嬢として身につけておくべきことですから。
はっきり言って、それこそが貴族令嬢の茶会における大きな目的というものですから。
貴族に生まれた男女は、結婚でより大きな利益を双方にもたらす事が求められますから。
(駄目だ。この親子、知れば知る程俺が常識人にならざるを得ねえ)
そんなウェスギニー大佐を家族の誰もが止めないのは、アレナフィルちゃんの性格ゆえだろう。アレナフィルちゃんを守ろうと思ったら、貴族との結婚は切り捨てるしかなかった。
きっと婚約や結婚をさせたら相手の家に毎回呼び出されたり平謝りしたりという苦難の連続だと、誰もが分かっていたに違いない。
俺だっていくらアレナフィルちゃんの可愛さにくらくらしていても理性を失ったわけじゃない。ウェスギニー子爵家内では許されていても、よその家でアレナフィルちゃんの言動が許されないのは火を見るよりも明らかだ。
「あら、そうでしたの?」
「ええ。たしかフィルもバーレンの実家に行ったことがあったね?」
「はい、お父様。クラセン夫人には、気難しい方にどう対応するかを教えていただきました。ですがクラセン夫人がご存じの方々はかなり年上になるので、仮に私が社交界に出てもまず会うことはないだろうと。その上で、私の立場で公爵家・侯爵家・伯爵家より目立つようなことはすべきでないとも教わりました。妬まれ、いつの間にか姿を消していった令嬢は多いそうです」
しずしずとお嬢様っぽく答えているアレナフィルちゃん。
そういえば怖がりだっていう触れ込みだったか。そこはただの猫かぶりだったんだなと俺も察しているが、そういうことにして厄介な人種との接点をなくしておいた方がいいというウェスギニー家のトラブル防止策が働いていたのかもしれない。
酔っていた時のことをほとんど覚えていないらしいアレナフィルちゃんは、無駄に小さな貴婦人を演じていた。
「まあ、女官をしていればそういう話はかなり身近だっただろうね。具体的な話も聞いたのかい?」
「いいえ。せいぜい男の集団の中に置き去りにするとか、変態ジジイに目をつけられるようにするとか、狙い目の貴公子と出会わせないようにするとか、その程度です。大丈夫です、お父様。私、ちゃんとジェス兄様から相手の急所を潰してでも逃げる手段を教わっています。レン兄様にも、自己防衛の本を取り寄せてもらいました」
ちょっと待てと、俺は思った。
改めて俺達はアレンルード君とアレナフィルちゃんの成績を調べ直した。アレナフィルちゃん、実はかなり体育の成績もいい。
ぞっとせずにはいられない。素人は限度を考えずにやらかす。
アレナフィルちゃんの脚力を考えると、・・・うん、マジで潰れる。その後の半生終わりだなんて、さすがにまずいだろ。
俺はサルートス貴族社会を構成する男達を守る為、立ち上がった。
「アレナフィルちゃん。もし、何か不安なことがあったらすぐに教えてくれないか? 思い過ごしでもいいんだ。小さな油断がとんでもないことになることはある。安心してほしい。ちゃんと君を守るよ」
「ありがとうございます、リオンお兄さん」
微笑むアレナフィルちゃんは本当に可愛い。まるでウサギが人間になったらこんな感じかと思える愛らしさだ。
レミジェス殿も護身術を教えるより、エスコートする男性がいればそれで守られるのだと、そっちを教えておいてほしかった。
それなのにオーバリ中尉がにやにやと笑いながら割りこんでくる。
「どうでしょうね。ネトシル少尉こそが狙われている貴公子だ。アレナフィルお嬢さん、ここは自分の幸せを重視して、平民にも目を向けてみませんか?
俺なら、少なくともお嬢さんが貴族令嬢らしからぬ性格でも気にしませんよ。それに俺が留守の間、お嬢さんが実家でボスと過ごしていても文句言いません。
これでも国内外をあちこち飛ばされてるんです。行きたい所があればどこにでもお連れしますよ」
「え? ヴェインお兄さん、ほんとっ?」
「勿論です。国外旅行は敷居が高いでしょうが、俺と一緒なら色々なルートをこれでも持ってますよ。
俺は子供を恋愛相手としては考えられないが、数年後なら考えます。お互いにフリーなら、お嬢さんもその頃、俺を考えてみませんか?
別にそうじゃなくてもボスのお嬢さんだ。何かあれば一肌脱ぎますよ」
なんて奴だ。俺と同じやり方をアレナフィルちゃんに向かってやらかすとは。
フォリ中尉が、はっと軽く鼻を鳴らした。
「アレナフィル嬢。旅行を餌にされた程度で何を釣られているんだ。家族のいたたまれない顔を見るがいい。別に誰かを頼らなくても、普通にどこにでも旅行ぐらい行ける資産があるってことを忘れているだろう」
「いえ、釣られてはおりません。先生ったら決めつけないでください」
きっぱりと否定しても説得力ゼロだ。
フォリ中尉に運転を教わっていたアレンルード君の眼差しもまた冷ややかだった。
「フィル、警戒心を持てって僕によく言うくせに、自分はないんだね」
「そ、そんなことないよっ。だって、いずれ考えてみませんかっていうの、ただの社交辞令っ。
レン兄様もそうだったっ。大人になってお互いにフリーなら結婚しようかとか言いながら、お嫁さんとの仲を取り持たせたんだよっ。
どうせヴェインお兄さんもそのタイプだよっ。それなら遠慮なく利用してもいい筈だもんっ」
あ、クラセン講師が窓の外に目を向けて現実逃避し始めた。
否定しないってことは誇張じゃなく本気でアレナフィルちゃん使って妻をゲットしたのかよ。本当に持ちつ持たれつなんだな、この二人。
「頬を赤く染めておきながら、しれっとそんなことを考えていたお嬢さんがひどすぎますよっ、ボスッ」
「その程度で傷つく神経は持ち合わせていないだろう?」
「ボスもひどいっ」
大人も子供もどうしようもない状況に、フォリ中尉は呆れた顔を隠さなかった。
「旅行はともかくとして、校内の警備員は君を見かける度に何かないかとチェックしている。陥れようとした令嬢の方が破滅する現実を直視しろ。勿論、目立つような真似をするのは勧めないが、どうせ誰もが男子生徒だと思っているんだ。別に貴族令嬢としての不安などないだろう」
「そんなことありません、先生。これでも私はか弱い女子生徒なのです」
アレナフィルちゃん、そのか弱い設定、もう無理だろ?
現在、エインレイド王子の学友として一番に名前が記載されているアレナフィルちゃんのデータは既にファイル化されていて、健康状態も優良だと花丸マークだ。
「そうよね。ああ、そうだと言ってほしいわ」
「既に破綻していることをまだ言うか」
マリアンローゼ殿とクラセン講師の呟きが空虚に響く。
外に出せない子という意味が、まさか平民の母を持つからではなく、貴族令嬢としてのマナーを身につけられる程の賢さもないからというわけでもなく、まさかやりたい放題生きているからだとは。
「アレナフィル嬢、長期休暇が始まったら、アレンと一緒に出掛けないか? ウェスギニー大佐、ネトシル少尉、オーバリ中尉も一緒だ。ああ、そちらのクラセン講師も一緒で構わない」
「へ? いえ、そんな・・・。私、そんな男の方々と一緒だなんて、とても・・・」
「別荘と違ってアパートメントは普通の住宅街にあるからな。滞在中は、気楽な生活だ。まさに暮らしているように滞在する。毎日ぶらりと気が向いた店で食事したり、人気な店に行ったりもするんだ。好きな場所を選んでいいぞ」
無駄な努力で恥じらってみせるアレナフィルちゃんに、フォリ中尉がネトシル家やその親戚が所有するアパートメントの所在地をあげていった。
この場合、俺が融通できるアパートメントの方がいい。何かと軍に所属する者が多い一族なので、うちはアパートメントが主なのだ。
フォリ中尉の場合はほとんどが別宅で、使用人付きだったりする。至れり尽くせりの世話をしてもらいたい時はそちらの方がいいが、アレナフィルちゃんの猫かぶりを考えるとアパートメントがいいだろうと判断した。
「どんだけのお金持ちですか、先生」
「アパートメントは、使い方が違う。ウェスギニー家も重要行事が行われる都市には持っておられるだろう。様々な家と縁組すればする程、必然、使えるアパートメントは増えていく。どうしても付き合いが出てくるからな。これだって父方、母方の持ち物を含めてお互いに親戚同士、融通し合っているんだ」
「え? そうなの、お祖父様?」
「うちはあまり持っていないが、その通りだ。だが、うちの持っているアパートメントはどれもフェリルドが数部屋ずつ使っているだろう」
そうなのかと、アレナフィルちゃんが頷く。
別宅で暮らしている双子なので、長期休みの時にはウェスギニー子爵邸に泊まりにくるだけで旅行気分だったそうだ。
「アパートメントって別宅みたいなものですか?」
「似たようなものか。だが、それぞれ個別の居住空間になるから、プライバシー的に気楽なんだ。たとえ親戚同士、友人同士でも見せたくない姿はあるだろう。大抵のアパートメントは一戸の中に、寝室が二つ、バスルーム一つ、キッチンルーム一つ、リビングルーム一つだから、アレナフィル嬢はアレンと同じ一戸を提供することになるな。使用人はつかない。クラセン講師にはウェスギニー大佐と同じ一戸を提供することになるが、別に組み合わせは好きに変更すればいい。滞在中は気が向けば一緒に出掛けてもいいし、それぞれ好きなことをしてもいいし、自由だ。ドレスとかは不要だな。普段着だけでいい」
おお、アレナフィルちゃんがうずうずとし始めた。考えていることが、全く隠せていない。
酒にも予算があるのだと言いきったアレナフィルちゃん、宿泊料金が無料なのはとても魅力的だったらしい。
「先生。そこは現地集合ですか?」
「別々に行ってもいいが、一緒に行った方が便利だぞ? 8ベッド付きの移動車で行くからな。シャワー、トイレ、ミニキッチン付き。移動だけならそこまでの必要はないが、あれだと気が向いた場所で寄り道もしやすい」
「レ、レン兄様。なんか素敵な話が・・・」
アレナフィルちゃんがくるりとクラセン講師を振り返った。
「フェリル。大事な珍種の餌が、もうばれているようだが? あとは釣り上げるだけか」
「奥方も一緒に連れていったらどうだ、バーレン? 私にしてみれば、うっかりウサギがどこまでもうっかりすぎて泣くに泣けない」
泣くに泣けないとか言いながら、その父親は平然と食事を続けている。
「ウサギ・・・? お父様、ウサギの飼育もしてるの? そんなお仕事もあるの?」
「仕事でならブタも飼ってるよ、フィル」
「ひでえっす、ボス」
娘に邪気のない笑顔を向けたウェスギニー大佐、ブタ呼ばわりされた部下からの恨みがましいセリフを爽やかに無視した。
男との旅行など許さんと言うんじゃないかと思ったが、ウェスギニー大佐はアレナフィルちゃんがしたいようにすればいいというスタンスである。
これが別荘に招待されるのであれば子爵家としても礼儀正しく応じなくてはならないところだが、あまりにもカジュアルすぎたのだろう。前子爵夫妻が悩み中だ。
恋人との婚前旅行といったものではなく、まさにみんなで合宿に行こう的なノリだからだろう。
(保護者同伴、部屋も別。反対する理由もないから困ってそうだな。縁談としては悪くない。問題は理解していない孫娘そのものってとこか)
食後の茶を飲んだ後、基地が遠いからそろそろ帰るとオーバリ中尉が言い出した。
ウェスギニー子爵邸から移動車を出すらしい。来る時はウェスギニー大佐が運転していたが、さすがに帰りはウェスギニー家の運転手が送り届けるそうだ。
「それでは私はこれで失礼いたします。楽しい時間をありがとうございました。アレンルード君、アレナフィルちゃん、また会おうね」
「ヴェインお兄さん、証拠フォト足りなくなったらまたルードに会いに来てね」
「ヴェインさん、頑張ってください」
挨拶して席を立つ彼を、双子達が優しく励ます。
「見送りぐらいはしよう、ヴェイン」
「またまたぁ。本当は俺のこと好きでしょ、ボスったらぁ」
「リボンつけてお前の上司の所に送りつけてやろうか?」
「冗談です、ボス」
実はかなり気さくなのかよ、実戦部隊。
最前線の斥候を兼ねた戦闘行為ばかりか、あちこちに潜り込み、暗殺すらこなす工作部隊なんざ使えない奴は全て見殺しにする殺伐としたイメージがあった。
なのに部下の結婚話を助けてやろうとする大佐なんざ面倒見よすぎだし、のこのこついてきた中尉も絶対的な信頼関係があるようにしか見えねえって何なんだよ。
通常、上官に向かってあそこまでくだけた喋り方や軽口を叩いた時点で処分モノ。大佐をボスと呼ぶのも非常識だ。
それを放置しておくウェスギニー大佐が分からない。
食堂を出ていった二人の声は、しばらく室内にも響いていた。
『そう言えばお前の恋人とやらが探し回ってたそうだぞ。グレイが慌てて連絡してきた。お前が友人連中と10人ぐらいでつるんでいた際にバッタリ会って紹介してたんだと? 休日のティールームで愛の言葉と共に贈られた白い薔薇は自分へのプロポーズだったと信じているんだそうだ。このまま放置するなら訴えるとやらかしたらしい。訴えても負けるとグレイは止めたそうだが』
しばらくしてオーバリ中尉が答える。
『それなら会いに行っておきます。ご機嫌取りに赤い薔薇でも持っていけばいいですかね。ところで花ぐらいならプロポーズにはならないっすよね? でもってこじれたら助けてくれますよね、ボス?』
『お前にその気がない以上プロポーズにはならんが、これ以上の色恋沙汰はどうかと思うがな。まずはグレイの話を聞いとけ。お前が刺されてからなら葬儀には出てやる』
『そこは俺を守って刺されてくれるところですよ、ボス。何なら彼女の前で愛を誓ってくれれば、あっちもビンタ一つで許してくれそうじゃないっすか?』
『一人で行ってこい』
やっぱりよく分からない部隊だ。
現在、オーバリ中尉はリーセン基地に出向中という。
(ウェスギニー大佐が率いるチームは赤が出動、白が待機だと聞いたが、花の種類にも意味がある筈だ。でもってグレイが何を表すかだな。なんつールーズすぎる打ち合わせだよ、おい)
どうせ俺達なら解読されたところで構わないと思ったのだろうが、分かるわけがない。本来の任務を放棄してあちこち出向いている上司だ。
仕方ないので俺はアレナフィルちゃんに声をかけた。
「アレナフィルちゃん。午後からはよかったらフォリ中尉と俺とで礼儀作法を見てあげようか? これでも得意だよ」
「そうだね。お二人は様々な賓客も見慣れている分、礼をとる角度やタイミング、その際の腕の位置まで、そこらのマナー講師よりも詳しい。よかったね、フィル」
「え? 叔父様、それって・・・」
――― 厳しいってことだよね? それ、イヤ。
そんな言葉、言われなくても分かる。
そりゃエインレイド王子だって毎日見ているだけで楽しいだろう。
アレナフィルちゃんは何かと嘘つきだが、その理由は全て自分の欲望に正直だからだ。その嘘もヘタクソすぎて騙される人が存在しない。
「こんな子供達のことで申し訳ないことですが、ありがたいことではありますな。フィル、よく教わっておきなさい」
「え? お祖父様。そんな・・・。私、お忙しい先生やリオンお兄さんにそこまで迷惑をかけることなど、とても心苦しくてなりません。私、まだ子供ですのに。せめて自主的に学んだ後でなくては・・・」
「お前が礼儀知らずの方が迷惑に決まっておるであろう」
「・・・ふぇ」
まさに心を痛めているかのような憂いの表情と仕草で、自分で頑張りますアピールをしたアレナフィルちゃんだったが、その祖父もまた演技を見抜いているのか全く取り合わなかった。
自主的に学んだ後ね。うん、一生来ない日のことだな。
フォリ中尉も俺も、アレナフィルちゃんを十分に理解し始めている。
「遠慮しなくていい、アレナフィル嬢。エリー王子がいる上等学校には、それこそ王族の誰かが様子を見にくることもあり得る。そんな時、横にいる女子生徒が変な対応をする方が困るだろう。
何なら王宮の礼儀作法担当者を手配するよう頼んでやろうか?」
「先生、リオンお兄さん。私、頑張ります。どうかよろしくお願いします」
王宮の礼儀作法担当者なんぞ、非の打ちどころのない令嬢ですら泣いて逃げ出す地獄の使者だ。以前、新聞にコラムを執筆した際には、あまりの厳しさにそれまで自分のマナーは完璧だと信じていた貴族のほとんどが引きこもってマナーを学び直し、平民の読者に至っては貴族社会の恐ろしさに戦慄したという。
いきなり前向きになったアレナフィルちゃんは、フォリ中尉からころころ掌の上で転がされ中だ。俺は食堂の出入り口でアレンルード君を振り返る。
「ルード君もおいで。女官が知っているのはどうしても女性王族や貴族との対応がメインだ。だけど世界の半分は男性だからね。儀礼的な場での挨拶を知っておいて困らない」
「はい、リオンさん。いつも思うけど、フィルってバカだよね。どうせクラセン夫人に教わるなら、フォリ先生やリオンさんに教わっても一緒じゃないか」
「そんなことないもん。大体、クラセン夫人の話だって言ってみただけで、そんなのが必要な場面が来る予定はないからするつもりなかったもん」
「こらこら、フィルちゃん。俺のフォローをどこまで台無しにするかな」
人前では父親の友人として穏やかに見守っているクラセン講師が苦笑いした。
それでも連行されるのを止めはしない。
「レン兄様ぁ、ヘルプミー」
「ここで何を助けろと?」
背後で交わされる二人の会話を聞きながら、フォリ中尉と俺はアレンルード君がどれだけのパターンのダンスを習得しているのか、そして礼儀作法でもどのパターンを習っているかを尋ねれば、一通りは学んでいるようだ。
この年齢なら十分だろう。
「茶会に招かれた時のことは全く教わってないのか。珍しいな」
「フィルが恐らく茶会をすることはないだろうから学んでも仕方ないってことになっていたんです」
「それもそうだな」
「言われてみれば茶会は女性の家族が女友達を招く時に参加することが多いものですね」
広間に到着すれば、椅子を人間に見立てて挨拶する練習だ。
エインレイド王子の様子を見に来るであろう王族とばったり出会った時のことを考えてか、フォリ中尉がアレナフィルちゃんを指導し始めた。
さすがはフォリ中尉、容赦ねえ。
アレナフィルちゃん、君は知らなかっただろう。そこのフォリ中尉と王宮の礼儀作法担当者のどちらに礼儀を教わりたいかと問われたら、近衛は礼儀作法担当者を選ぶ。何故ならそこのフォリ中尉、女性王族への非礼を絶対に許さないからだ。
礼儀作法担当者は非礼になっていなければ良しとしてくれるが、フォリ中尉は最上級の礼儀を要求する鬼だ。
「あと少し中腰に。顔をあげるのが早い。違う、首筋をまっすぐ。その上で、横にいる貴婦人には微笑を浮かべて目礼っ」
「なんですかっ、その八方美人っ」
「ど阿呆っ。誰にでも笑顔を浮かべて挨拶するのは基本中の基本だっ」
恐らく王妃と王女が同席する時のことを考えて指導しているのだろう。
頑張れ、アレナフィルちゃん。
「挨拶する貴人が一人でいる筈ないだろ。三人いる場合、さっと見極めなくてどうするっ。やり直しっ」
「そんなあっ」
俺はアレンルード君の指導に当たっていた。
運動神経がいいせいか、間合いの取り方も悪くない。相手を不快にさせなければ、多少礼儀が崩れていようが愛想よく対応できる人間が好まれるのはどこでも一緒だ。
背筋もまっすぐ伸びていて、たしかにこれはいつでも社交界に出せる子だ。
「そうだ。泥汚れがつかないように、できれば膝を浮かせるぐらいに腰がしっかりしているといい」
「はい。こんな感じですか?」
「そうだ。それで背中を伸ばせるかい?」
クラセン講師もどんなものかと思って見学に来ただけらしい。
これなら問題ないと判断したようだ。
「んじゃ、俺、帰るわ。うちの母は必要なさそうだな。ルード君、フィルちゃんが逃げ出さないように見張っておいてあげてくれ」
「あ、はい。気をつけて帰ってください、バーレンさん」
「ああ。またな」
アレンルード君に声をかけても、アレナフィルちゃんにはひらひらと手を振る程度で済ませている。
かなりぞんざいだな。
「まあ。これなら安心ね」
「そうだな。これで安心して眠れる。ここまで恥をかいた以上、あれらの話は頓挫するだろう」
様子を見に来たセブリカミオ殿とマリアンローゼ殿も安心していたが、どうやら俺達の求婚とか婚約とかの話は流れるだろうと、そういう思いがあるようだ。
令嬢教育していない孫娘に縁談などとんでもないと、実はかなり心を痛めていたのか。
たしかにうちの母があのアレナフィルちゃんの酒乱状態を見たら、全身全霊でもって全勢力を注ぎこみ、その縁談を潰しただろう。
問題は俺達ならば気にしない、それに尽きた。個性をなくした綺麗なお人形など何の魅力がある?
それでもまだ上等学校一年生。今はアレンルード君を刺激するべきではないし、焦りは禁物だ。
「頑張れ、アレナフィルちゃん。ルード君、さて、俺達みたいな制服がこういう感じで腕による礼を表していたら、相手は王族だ。そしてこの腕の角度だと貴族。外国の人だとまた違ってくるが、ちょっとやってごらん」
いずれ登城した際に覚えておいた方がいいからと、俺は周囲の対応を見て判断するやり方を教える。
「こうですか?」
「そうだ。ここで服に皺ができないよう、あまり体につけすぎない。見栄えも考えるんだ」
「はい」
アレンルード君はやる気だが、アレナフィルちゃんをちらりと見ると、もうある程度のところでやめたいという気持ちがその顔に透けて見える。
フォリ中尉はアレナフィルちゃんの表情を見逃さなかった。
「アレナフィル嬢。今、ウェスギニー大佐は王宮勤務だ。君がもし恥をかいたら、誰がいたたまれない思いをするか、分かっているな?」
「は、はいーっ」
いや、その脅しの内容よりも微笑みながら笑っていないそれに怯えられてますって。
びくびくし始めたアレナフィルちゃんだが、ウェスギニー家の誰も助ける気配を見せない。
「大抵は挨拶したらそれで終わりだが、たまに庭園などに誘われることもある。夜の庭園なら断るのが常識だが、日中ならば受けることがほとんどだ。その際は、近くにいる近衛隊の誰かがエスコートを務めることもある。その時には軽く微笑んでから、すっと腰をかがめて手をこんな風に」
「あ、はい」
フォリ中尉がアレナフィルちゃんをリードする様子はとても優雅だった。
アレンルード君も礼儀としての形ではなく技量の差というものの違いにハッと気づいたらしい。俺を見上げてきたので頷いてやれば、何が違うのかを考え始めた。
「そして相手が腕を差し出してから、まずワン、ツーと、二つ数えてからまず一歩踏み出す」
「そんなものにもタイミングがあるんですか?」
「当たり前だ。お約束の呼吸というものだな。覚えろ」
「・・・はい」
しょんぼりとした顔で教わるアレナフィルちゃんの頭を、フォリ中尉がぽんぽんと撫でている。
俺も彼も、そしてオーバリ中尉も気づいているのだ。恐らく彼女に蝶の種の印が浮かんでからでは遅いのだと。
きっとこの子は数年後、皆が欲しいと望む蝶になる。




