第十一章 独孤皇后と二人の乞食女 十二
ほどなくして、楊堅の感情もようやく収まり、夜中になって後宮に戻ってきた。
伽羅は病身を押して、ずっと眠らずに夫の帰りを待っていた。
楊堅が無事戻ると、伽羅は涙を流して喜んだ。
単騎で山中に駆け入れば、どんな猛獣に襲われるか知れたものではない。
若き頃、父とともに狩猟にいそしんだ伽羅は、山の闇の恐ろしさも十分に知っていたのである。
憎みもしたが、それでもずっと愛し、助け合いながら添うてきた夫であった。
その無事を一心に祈っていたのだ。
その後、伽羅は揚堅に対して謝罪した。
落ち着いてみると、流石にあれはやりすぎたと感じたのである。
この辺は彼女も、古代の観念の中に生きる女性であった。
楊堅も『一妻の誓い』を破ったことを詫び、一応は収まる形となったのである。
だが伽羅は『尉遅熾繁は実は生きている』ということを楊堅に知らせることはなかった。
完全には夫を信頼できなくなっていたのだ。
そもそも教える義理もない。
夫が嬉しそうな顔をしたら、それはそれで癪なのである。
この騒ぎの間に、尉遅熾繁はすでに後宮を脱出していた。
それは伽羅の導きによるもので、熾繁は今、髪を落した尼の姿である。
床に散らばっていた髪だけは、彼女自身のものであった。
楊堅を騙しきるために、そして弱い自分を捨て去る決意を込めて、彼女自らが提供したのだ。
その髪の一部は、先ほど揚堅によって葬られた。
揚堅が知らず葬ったのは『熾繁の弱き心』の化身であったとも言えよう。
宦官の用意した粗末な馬車に乗り、熾繁の向かう先は麗華の隠れ住む別荘である。
その表情は落ち着いており、穏やかであった。
もう運命に流されるまま、震えて過ごすばかりの少女の表情ではない。
今後試練があったとしても、彼女は彼女なりのやり方で乗り越えていくことだろう。
熾繁は、死を強く望んでいたが、
「そなたが弔わねば、誰が亡き一族や亡き夫――西陽公(宇文温)の供養をしようか」
伽羅はそう諭し、熾繁もその言葉を聞いて生きることを決意した。
熾繁には伽羅直筆の麗華への文、および偽名での護身批文(身分証明書)を持たせた。以後、熾繁は麗華の領地の寺に預かりの身となる。
名を取り上げて死んだこととするので、一生『尉遅熾繁』の名を使うことは出来ないが、それでも心中で近親の者たちを弔うことは出来るだろう。
熾繁は『皇后伽羅の遠縁の娘』として、新たなる法名を授けられて尼寺に送り込まれることになる。
さすれば皇后一族の権勢を恐れて悪人も近よれまい。
麗華の目も光ることだろう。
こちらのことも、一応は片付いたのである。
これで第十一章は終わりです。
お読みくださってありがとうございます!
感想、励みになりました(^^♪
今回のおまけ話は通鑑記事本末に記載されている揚堅&『楊尚希』(*十一章の五でもちょこっと出てきた人)のエピソードです。
楊堅がまだ宰相であった頃のお話です。
『楊尚希』という男がいました。彼は恒農郡出身で、楊堅と同姓ですが、血族ではありません。
幼くして父を失いましたが、十一歳で母とも別れて単身長安で学問を収め、卓越した成績を残しました。
性格は温厚で、宇文泰にも目をかけられ、明帝(皇帝毓)、武帝(皇帝邕)の頃にも更なる出世を果たします。
悪帝・幼帝の時代には実質楊堅が政治を動かしており、楊堅は彼を山東と河北の治安工作にあたらせていました。
悪皇帝が崩御したとき楊尚希は相州におり、相州総管である尉遅迥と共に館で喪を発しました。
ところが尉遅迥の動きがおかしかったのでしょう。
彼が異心を抱いていることを察知して、夜中に遁走して、国都長安に急ぎ戻りました。
そのことにより楊堅は楊尚希に益々信頼を置き、厚遇したようです。
尉遅迥が武陟に駐屯すると、楊尚希は兵三千人を率いて潼関を守りきりました。
潼関は地形的に守りやすくはありますが、ここを突破されると大変困る場所です。
その功により司会中大夫の位を授けられます。
そんな優秀で忠実な彼が見た楊堅は、まさにワーカーホリック上司。
皇帝となっても益々働き、毎日明け方から、日が暮れるまでせっせと政務に勤しんでいました。
あまりに熱心に働く皇帝を心配して、彼は、
「周の文王(西伯昌)(実質的には周朝の創始者。開いたのは息子)は働きすぎて過労死致しました。
息子の武王は安楽に政務を行ったから長生き出来たのでございます。
どうか陛下は、大枠だけを宰相と相談して定め、仔細は下の者に任せてくださいませ。
煩雑な政務は、皇帝自らが行うものではありませぬ」
と、言ったそうです。
どんだけ細々と働いていたのでしょうね、楊堅さん……。
いや、孔明様もこんなのでしたっけ。
さて、楊尚希の言葉を聞いた皇帝堅はどうしたか?
ええ、体調を気遣ってくれた楊尚希に対して感謝はしたけれど、
『従うことができなかった』
と、書かれています。
このことからも、楊堅が強烈なワーカーホリックをわずらっていたことがわかります。(伽羅が尻を叩いていたせいもある?)
ただし、文中に出てきた『周の文王(西伯の姫昌)』ですが、生年が紀元前1152年で没年が紀元前1056年とされています。
十分長生きしたと思うのですが……。
息子の武王は生年は不明で没年の紀元前1021年のみがわかっています。
父以上ということは……どれだけ長生きしたのでしょうね(^_^;)
まあ、どちらも紀元前の人物なので、伝えられていくうちに事実ではなく、誇張された部分が混じっているかもしれません。
そういうところを想像するのも楽しいですね(^^♪
なお、楊尚希には足の持病があったので、楊堅は、
「蒲州に足の病に効く酒があるそうだ」
と勧め、楊尚希は蒲州刺史に任ぜられて出向しました。
そこでも善政を行って五九〇年、在官のまま没しました。享年は五十七才ということです。
没年は楊堅より若く、楊尚希も働きすぎるぐらい、働いていたのかもしれません。
次章は『高熲』です。
お楽しみいただければ幸いです(^^♪




